カテゴリー「芥川賞」の30件の記事

2017年1月29日 (日)

発表に気づかなかった「芥川賞」「直木賞」。山岸先生『レベレーション』第2巻の感想はまだ書きかけ。

19日、第156回「芥川賞」に山下澄人氏『しんせかい』 、「直木賞」に恩田陸氏『蜜蜂と遠雷』が選出されていた。トランプ旋風に気をとられていたためか、気づかず、今頃になって知った。

完全に興味がなくなっているのだろう。カテゴリー「芥川賞」を設置しているというのに、これではいけない。次の芥川賞が選出されるまでには、『しんせかい』を読んでおきたいと思っている。

そういえば、前回の受賞作の感想もちゃんと書くつもりで、書いていない。

山岸先生のコミック『レベレーション』第2巻は、面白かったのでちゃんと感想を書くつもりだが、ジャンヌ・ダルク関係の本を数冊借りたり、ブラヴァツキーがジャンヌ・ダルクについてどう書いているか調べたりしていたら(現象の一つとして言及されている箇所が見つかった程度)、トランプ、となったのだ。

完成までに12年を費やし、新人の登竜門と呼ばれる芳ヶ江国際ピアノコンクールに挑む4人の演奏家を描いたという恩田陸『蜜蜂と遠雷』を読んでみたいと書店員の娘にいうと、「うーん、ママの好みではないと思うよ~」と返ってきた。

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2016年10月18日 (火)

2016年に、実質的終焉を告げたノーベル文学賞

10月14日付記事「ボブ・デイランがノーベル文学賞を受賞。快さを伴ったイデオロギーにすぎないあの歌詞群に?」を閉じ、代わりにそれに加筆した拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」の記事をこちらに再掲しておきます。

○o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*

純文学なんてない、という奇怪な純文学排斥運動がわが国で行われるようになった時期と、村上春樹がもてはやされるようになった時期はだいたい重なっていたように思う。

私事になるが、わたしは1998年度の織田作之助賞第15回で「救われなかった男の物語」(結果発表誌『文學界』1999年2月号)、2005年度の第22回で「台風」(結果発表誌『文學界』2006年5月号)が最終候補になった。

第22回の授賞式で、選考委員のお一人だった三枝和子先生の講演があり、その講演の中で先生が「純文学はわたしはあると思っています」とおっしゃって、その理由を述べられたのを鮮明に覚えている。

わたしはその講演を聴きながら、激しく泣いていた。

何者らかの陰謀――としかわたしには思えなかった――によって純文学の存在そのものが攻撃され、それがわが国における純文学の終わりの始まりだと思われたということと、もうこの国では自分はプロの作家にはなれないという予感とが交じり合い、頭の中で渦巻いていたのだった。

それを遡ること、7年前の1998年、第15回受賞式のときにはまだわたしは文学界を信じていた。

受賞式後のパーティーで三枝先生から、ようやく見つけたという表情で、強く光る美しい目で見据えられながら「あなたの頭はわたしと同じく、男ね」といわれたことを覚えている。

三枝先生のあの目は男性的というより、性を超越した哲学者の目だった。ギリシア在住の経験があった先生にはプラトンを諧謔的に描いた作品がおありになる。

三枝先生は2003年にお亡くなりになった。わたしはお亡くなりになったことをあとになって知ったが、先生の臨終を察知していた。印象的な夢を見たのである。余談になるので、この話は別の機会に書きたい。

その後、2006年に村上春樹がチェコのフランツ・カフカ賞(2001年創設)を受賞したのをきっかけとして、彼がノーベル文学賞にノミネートされたというデマがしきりに流されるようになった(ノーベル賞の候補者や選考過程は50年間の守秘義務がある*1)。それに伴い、文学には無関係なイベントや乱痴気騒ぎなども起きるようになった。

そして、芥川賞受賞作品からは、人間性の追求という学究的側面と豊かな情操を持つ純文学の特徴が失われ、さりとて読者を楽しませることに徹した大衆文学の特徴もない、もはや文学作品といってよいのかどうかもわからないものとなり果てて、異様な臭気が放たれるようになった。

こうした純文学の凋落に至る一連の出来事は、敗戦後の複雑な事情を抱えるわが国だから発生した、いわばわが国固有の不幸な出来事だと思っていた。拙作『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』を参照されたい。*2

日本で起きたようなことが、ノーベル文学賞という国際的な舞台で起きるとは予想しなかった。翻訳文学から推測する限りでは、世界では純文学に分類されるような文学作品は依然として一定の水準を保っているように思われていたからである。

ノーベル文学賞が、国際的に通用する意味合いにおいてのリベラルな傾向を持つ作家に授与されてきたことは過去の受賞者一覧を一瞥すれば、わかることである。

作品の内容から窺われる観察力、認識力、分析力、洞察力、教養の度合い、情操に訴える力、普遍的意義という点で、わたしが首を傾げてしまう大江健三郎のような作家に授与されることがあったにせよ、ノーベル文学賞が優れた文学作品に授与されるという国際的な共通認識は2015年までは不動のものであった。

しかし、2016年、ノーベル文学賞という純文学形式の文学作品に与えられていた賞は、突然別物になった。シンガーソングライターのボブ・ディランに授与されることになったのだ。作家を志す人間には怖ろしい出来事である。ノーベル文学賞の裏事情を知りたいと切に願う。(※現時点まで、ボブはノーベル文学賞の受賞に関して沈黙している)

「風に吹かれて(Blowin' In The Wind)」を久しぶりに聴きかけて、いつもそうであるように、単調なボブ・ディランの声に飽き、途中でピーター・ポール&マリーで聴き直した。ボブにノーベル文学賞が授与されるのであれば、デヴィッド・ボウイにそうされたって、おかしくはない。いや、ボウイが生きていればだが。ボブ・デイランも年とった。皺がいっぱいだ。締めはジャニス・ジョプリンといこう。

ボブ・ディランの歌詞は説教臭くて、如何にもポピュラーソングの歌詞という感じがする。ボブがディラン・トマスに傾倒してディランと名乗るようになったのだとは、知らなかった。

歌詞を曲から切り離して評価することには戸惑いを覚えるが、あえてそうするなら、ボブ・ディランの歌詞はある快さを伴ったイデオロギーにすぎず、ディラン・トマスの詩にあるような――名詩が特徴とする――発見がボブの歌詞にはなく、詩作の過程にはあるはずの結晶化を経ていないように思われる。

Alfrednobel2_s

Alfred Nobel(1833 - 1896),c. 1883
From Wikimedia Commons, the free media repository

ディラン・トマスにノーベル文学賞というのなら、わかる。『世界文学全集――103 世界詩集』*3 所収ディラン・トマスの詩から断片的に引用してみる。

ぼくはばかの唖で吊り下がっている男に言えない
どのように絞首刑執行人の生石灰がぼくの肉体で出来ているかを。
(「緑の信管を通って花をひらかせる力」)

邦訳版でも充分に伝わってくるだけの思索の深みを感じさせる。このような作品はディラン・トマスにしか書けない。

ぼくが千切るこのパンは かつて燕麦[からすむぎ]だった。
異国の樹になる この葡萄酒は
その実
[み]の中に飛びんだ。
日中は人間が、また夜は嵐が
作物を倒した、葡萄の歓びを砕いた。
(「千切るパン」)

この詩を読んでいると、本当にパンや葡萄の香りがしてくる。ノーベル文学賞を受賞したガブリエラ・ミストラルの詩を連想した。

ほかのいくつかの渓谷でいっしょに
パンを食べていた亡き友人たちは味わっている
刈り入れのすんだカスティリャ地方の八月の
そして挽き砕かれた九月のパンの呼気を。
(「パン」)*4

彼らの味わっているパンが特別な清らかなパンに思えてくる。パンの呼気をわたしも感じる。   

最初の死者と地下深く ロンドンの娘は横たわる、
永劫の友だち、
年齢をこえた時間、母の暗い静脈に包まれて、
海へ注ぐテムズ河の
悲しむことのない水のほとりに秘
[ひめ]やかに、
最初の死のあと、もうほかの死はない。
(「ロンドンの空襲により焼死した子供を悼むことを拒む詩」)

空襲で焼死した子供を、流れる時間のただ中へと釘づけるようなトマスの詩作……

ボブ・ディランの歌詞は単純だから単調で、それゆえに曲を必要とする。彼の歌詞は曲と一体となってこそ真価を発揮するものであって、独立した詩とみなすには無理があるのではないかと思う。

作品の優劣以前の問題として、文学作品とはいえないのではないだろうか。文学作品であるような詩は、音楽的な調べを言葉のうちに含んでいるものなのだ。

次のリルケの詩「LES ROSES 薔薇」からの引用は、山崎栄治の秀逸な邦訳によって、その詩に内在する音楽性が現代日本語として可能な限り高められている。

薔薇よ、おお、おまえ、この上もなく完全なものよ、
無限にみずからをつつみ、
無限ににおいあふれるものよ、おお、やさしさのあまり
あるとしもそこにみえぬからだから咲き出た面輪
[おもわ] よ、

おまえにあたいするものはない、おお、おまえ、さゆらぐ
そのすみかの至高の精よ、
ひとのゆきなやむあの愛の空間を
おまえの香気はめぐる。
(Ⅲ)*5

一輪の薔薇、それはすべての薔薇、
そしてまたこの薔薇、――物たちの本文に挿入
[そうにゅう]された、
おきかえようのない、完璧
[かんぺき]な、それでいて
自在なことば。
  この花なしにどうして語りえよう、
わたしたちの希望のかずかずがどんなものだったか、
そしてまたうちつづく船出のあいまあいまの
ねんごろな休止のひとときがどんなものだったか。
(Ⅵ)*6

「薔薇」には24編が収められている。この詩に値する曲など存在しないと思わせられるほど、音楽的な詩である。下手に曲がつけられたリしたら、幻滅を招くだろう。

賞は文化の振興に役立つものだが、使い方を間違えれば、それは直ちに文化破壊の道具となる。

文学作品とはどんなものをいうのかさえわからない人々が選んだのではないか――という危惧さえ抱かせる今回のノーベル文学賞。一度でも、こういうことがあったら、御仕舞だ。

もうノーベル賞は理系に限定すべきである。

賞ではないが、賞に似た文化振興の役割を果たしてきたユネスコも今や完全におかしい。

2014年11月に、岩間浩『ユネスコ創設の源流を訪ねて―新教育連盟と神智学協会』(学苑社、2008)を読んで、神智学協会の理念がユネスコの精神的母胎となったことを知った。今のユネスコの動向から、その精神を感じることはできない。


*1:ウィキペディアの執筆者. “ノーベル文学賞”. ウィキペディア日本語版. 2016-10-15. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%B3%9E&oldid=61533301, (参照 2016-10-15).

*2:直塚万季『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays, Volume 1)』(Kindle版、2013年、ASIN: B00BV46D64)

*3:安藤一郎・木村彰一、生野幸吉、高畠正明編、講談社、1981

*4:『ガブリエラ・ミストラル詩集 双書・20世紀の詩人 8』田村さと子編・訳、小沢書店、1993

*5:『新潮世界文学32 リルケ』新潮社、1971年、山崎栄治訳「LES ROSES 薔薇」よりⅢp.745

*6:『新潮世界文学32 リルケ』新潮社、1971年、山崎栄治訳「LES ROSES 薔薇」よりⅥp.746

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2016年9月 2日 (金)

芥川賞受賞作品「コンビニ人間」を読んでいる途中。古書復刻版メーテルリンクの本。

萬子媛の御遺物メモが中断しているが、芥川賞受賞作品「コンビニ人間」を読んでいる途中。

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950円。それだけ電子書籍で稼ぐには何か月もかかる。それに、ほしい本はいくらでもあるので、迷いに迷ったが、芥川賞というカテゴリまで作っておきながらこのところちゃんと読んで感想を書いていないし、もしかしたらコンビニを舞台にした本格的な純文学作品が登場した可能性もあると思い、購入。

いや、これまでの傾向と何ら変わりなさそうだ。残念。それに、島田選考委員がまた選評内容から浮くような政権批判をしている。

感想は記事を改めよう。少し書くと、たまたま午前中にコンビニ店長の自殺をめぐる訴訟関係のネットニュースを見た。コンビニのバイトのきつさや、フランチャイズの問題点はよく指摘されるところである。

フランチャイズを考案したのは、1850年代にアメリカでシンガー企業(ミシン製造会社)を創業したアイザック・メリット・シンガー(ドイツ系ユダヤ人)だといわれる(ウィキペディア「シンガー(企業)」)。

日本のフランチャイズは1963年のダスキン、不二家の開業に始まるという。

1969年に第二次資本自由化が行われ、1970年代初頭に外資系フランチャイズのミスタードーナッツ、マクドナルド、ケンタッキーフライドチキン、ダンキン・ドーナッツなどが相次いで登場した。

わたしは佐野眞一『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』(日経PB社、1998)で、日本マクドナルドを設立した藤田田がユダヤ商法を本格的に日本に持ち込んだと知った。

藤田は、東大時代にGHQの通訳のアルバイトを通じて知り合ったウイルキンソンという軍曹からユダヤ商法を体で覚えたそうだ。

「日本人がこの先千年、ハンバーガーを食べつづければ、色白の金髪人間になる。私はハンバーガーで日本人を金髪に改造するのだ。そのときこそ、日本人が世界に通用する人間になる」(佐野,1998,277)という藤田の言葉にゾッとしたが、千年といわず、既に巷には金髪日本人が溢れている。その金髪は脱色して染めたものだが。

『カリスマ』を読んだのは都市のドーナツ化現象により商店街が潰れるという問題が出てきたころだった。この現象にはユダヤ商法が深く関係している。格差問題も出てきていたので、わたしはこうした世相を背景に2000年、『地味な人』という小説を書いた。織田作之助賞で三次まで行き、落ちた。

今では逆ドーナツ化現象が問題となり始めたようだ。

わたしはスーパーの衣料品売り場、デパートの食品部、デパートの出張所でアルバイトした経験があり、夫と娘も流通業との関係が深いため、コンビニがどんな職場であるのか、興味が湧く。

コンビニを舞台とした小説にゾラばりの社会派小説か、カフカばりの社会問題を内包する幻想小説を期待してしまった。

受賞者インタビューを先に読んでしまい、失敗した。

バイトは週3回だそうだ。コンビニは非正規社員を沢山雇うことで知られているから、そのような働き方になるのだろう。仕事の掛け持ちも結婚もしていないとすれば、実家からの援助がなければ、暮らしていけないのではないだろうか。

宮原昭夫の文学教室で小説の書き方を学んだという。宮原昭夫という名前、聴き覚えがあるような。文学仲間が同じ教室に通っていなかっただろうか。

「リアルな世界だけれど、ヘンテコなものを書いてみたいと思ったんです。ただ書いても書いても上手くいかなくて、ふと『コンビニ』を舞台にしよう」と思ったとか。

そう、ヘンテコな作品でないと商業誌の文学賞には通らない。芥川賞はその延長線上にある。そうした村の掟に従った作品かと思うと、読む気が失せたが、950円がもったいないので、読むことにした。

候補作の中に在日朝鮮人の少女を主人公とした作品があったようだ。高木のぶ子選考委員の選評によると、日本語で育った少女が日本語でアイデンティティを持つことができない切なさなどが描かれているようだ。

作者の経験が下地になっているのかどうかはわからないが、村の人であるのか、芥川賞の候補にまでなれたのだから、少なくとも作者は村の文学的環境には恵まれているといえる。

メーテルリンク全集の第2巻を図書館から借りた。『マーテルリンク全集――第二巻』(冬夏社、大正10年)の復刻版『メーテルリンク全集 第2巻』(鷲尾浩訳、本の友社、1989)である。貴重な本だ。

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誰も借りていないみたいに綺麗。

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『死後の世界』では、ウィリアム・ジェームズ、ブラヴァツキーを貶めたホジソンにも言及があるようだ。でも、大正時代の本をそのまま復刻したものであるため、何だか読むのが大変そう。

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2016年5月14日 (土)

芥川賞選考委員・島田雅彦氏が中国で行った不思議な政治的発言

前の記事に関連した記事である。

歴代のノーベル文学賞受賞作家の政治を題材とした緊迫感漲る純文学諸作品と、島田雅彦氏のいう今の日本の「悪政下」で日本の最も著名な文学賞である芥川賞の選考委員を2010年下半期から今に至るまで平穏無事に務めおおせることができ、また、多くの優秀な研究者がポスドクで苦労している中で大学教授にまでなりおおせている彼の諸作品とを比較してみてほしい。

今の日本文学を代表しているのがどのような人々で、彼らが日本文学をどうしてしまったか、日本をどうしようとしているかがが鮮明になるだろう。

ウィキペディアより引用する。

中国・北京で2015年6月12日に開幕した日中韓作家の第3回東アジア文学フォーラムに日本側団長として出席した島田氏は「日本は現在、歴史上最もよくない首相(安倍晋三)が執権している」と批判、「日本の多くの作家の考えであり、愚かな政治家がばらまいた対立の種を和解に変えるために寄与する考え」と文学フォーラムの意味を語ったと中央日報にて報道される。
ウィキペディアの執筆者. “島田雅彦”. ウィキペディア日本語版. 2016-03-26. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%9B%85%E5%BD%A6&oldid=59110356, (参照 2016-05-14).

検索すれば、簡単にソースの確認ができるので、目を疑うこの記述は嘘ではない。

それほどの悪政下で亡命もせずに恵まれた地位を享受しているこうした人々にとって、今の日本ほど暮らしやすい国が他にあるとは想像もできないが、どうか島田氏には「日本の抵抗左派作家」として自身の信念を貫いてほしいものである。

島田氏には、日本よりずっと理想的な国家らしい中国に移住して、そこからご自身の意見と作品とを世界に向けて発信していただきたいと切に願う。

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2016年5月13日 (金)

芥川賞受賞作品「死んでいない者」(滝口悠生)、「異類婚姻譚」(本谷有希子)を読んで

カテゴリー「芥川賞」を設置しているのだから、なるべく読んでいかなければと思い、過日芥川賞発表と受賞作が全文掲載された『文藝春秋』三月特別号を購入し、読んだ。

だが、まとまった感想を書くだけのものがわたしの中で湧き上がってこなかった。だから評論はおろか、ちゃんとした感想を書く資格もなく、印象を綴ってみるにすぎない。

わが国には言論の自由も信教の自由もあるはずなのに、いつのころからか、多様な物書きが形成する文学界ではない、左派によって形成された文学村が日本の文学界ということになっている。

中にいる人々にはわからないかもしれない村臭がますます強くなっている気がする。それは選評から一例を挙げるだけでも窺い知れよう。

たとえば、「悪政下の文学」というタイトルの島田雅彦選考委員による次のような文章だ。

しかし、このような気に入らない相手をたおやかで人畜無害なものに変えてしまえる魔法が使えたら、真っ先に悪政を敷く奴らを蒲公英にしてやるのにな、といった具合に読者の妄想のスイッチを入れる効果はあった。

芥川賞が如何に村の中での行事になり果てているかがわかる言葉ではないだろうか。村の中ではそれで通じても、何を指して悪政といっているのかが村人ではないわたしにはわからない。タイトルがなければ、一般論として片づけることも可能だろう。

こんな腹いせのような幼稚な感想をお漏らしして、NHKニュースでも必ず採り上げられる「国民的行事」であるはずの「芥川賞」の選評の場を私物化したところで、わたしのような辺境、泡沫ブログの主が疑問に思うくらいで、どこからもお咎めも批判もないのだろう。

「異類婚姻譚」(本谷有希子)の1行目「ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっっていることに気づいた」という文章には興味が湧いた。

私的な出来事になるが、よりによってそれまでで最も――何が原因だったのかはもう忘れてしまった――夫に対して嫌悪感を覚えていたときに、当時幼稚園に通っていた子供と同じクラスのお母さんから「あなた、ご主人とそっくりねえ……本当に似ているわよ……」といわれて衝撃を受けたことがあった。

だから、小説がどう展開していくのか興味津々で読み始めた。純文学的な鋭い分析がなされながら小説が進行していくことを期待していたところ、あまり必然性の感じられないところで、趣味の悪い怪異譚となってしまった。オカルト小説、ファンタジー小説、神秘主義小説としての完成度も期待できず、稚拙な技巧だけが浮いてしまった印象である。

「死んでいない者」(滝口悠生)は丹念に描かれた小説という好感は持て、「ああ、こんなこと、あるわね」とか「ここは上手い」とか感心した箇所も結構あった。

しかしながら、それだけという印象で、全体を通しての印象は平板、退屈に感じられた。わたしがこれまでに出席した葬儀では、もっと意外なことや面白い――というと語弊があろうが――ことがあった。

当ブログにおける関連記事

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2015年7月22日 (水)

拙ライブドアブログの人気記事。芥川賞に関する懸念。

ライブドアブログで複数のブログを作っています。

放置気味になることもあり、アクセス数も当ブログに比べると少ないのですが、当ブログから特定のカテゴリを取り出したブログということもあって、アクセスしたい記事以外のよけいな(?)記事が出て来ないこともあるからか、利用してくださるかたもあるようです。

サイドバーに設置できる「人気記事」のブログパーツを利用してみました。当ブログのサイドバーにも拙ブログ内の人気記事ランキングを設置しているのですが、比較してみると、閲覧者の好みの違いがわかるようで、面白いと思いました。

「文学界にかんする考察」の1位は最近書いたばかりの記事です。どうせ検索しても出て来ないだろうと思ったのですが、「又吉直樹 冒頭」でググったら、8番目に出てきました。20:00ごろの話です。

ついでに少し調べてみると、又吉直樹『火花』が今夏の読書感想文の題材として中高生に選ばれているという記事を閲覧しました。

わたしはサイト「文藝春秋 BOOKS」での立ち読みしかしていないのですが、作品のあちこちから引用したり、あらすじを紹介したりしている記事を閲覧する限りでは、中学生には早いように感じました。

中高校生には、良心的な文学者が注意深く、その時期に読むにふさわしい作品を選んであげる必要があるのではないでしょうか。

読書量の多い生徒が読むぶんには、あれこれ読むうちに自然にバランスがとれていくこともあると思うので、それほど心配しないのですが、めったに読まないのに読むとなると、よくも悪くもそれが長く記憶に残りやすいでしょうから、文章のしっかりした、明るさのある、自然に教養を身につけさせてくれるような作品のほうがいいように個人的には思いますが、如何でしょうか。

はっきりいって、『火花』は冒頭の文章だけからも、国語教育の一環としての読書感想文ということであれば、失格ですよ。

読書慣れした大人が趣味として読む場合とは、状況が異なるのです。

今回の芥川賞受賞作品に限りません。なぜか、おかしな日本語を使った作品が選ばれる傾向にあります。わたしが「芥川賞」のカテゴリーを設置したときは既にそうでした。

文学的潮流とは別のところで、作為的に仕組まれているかのようです。わたしの杞憂にすぎないのであればいいのですが。

話が逸れていまいました。拙ライブドアブログの現時点での人気記事を以下に紹介します。

☆「文学界にかんする考察」人気記事

  1. 2015年07月20日
    立ち読みで窺えた又吉直樹の才能、しかし『火花』の冒頭は文章としておかしい
    http://blog.livedoor.jp/du105miel-vivre/archives/65781709.html
  2. 2013年04月25日
    賞ゼロ次止まりの拙児童文学作品を、受賞作品と環境比較してみる
    http://blog.livedoor.jp/du105miel-vivre/archives/65713668.html
  3. 2015年05月22日
    【拡散希望】「**王女を慰安婦にしよう」という韓国ネット新聞の記事と、歴史認識(21日に追記1、22日に追記2、6月9に追記3、7月21日に追記4あり)
    http://blog.livedoor.jp/du105miel-vivre/archives/65776514.html
  4. 2013年07月29日
    高校生の読書感想文に「短い」よい本……うーん。
    http://blog.livedoor.jp/du105miel-vivre/archives/65723492.html
  5. 2015年06月10日
    (南京事件の)松井石根陸軍大将の魅力的なお写真と、中国で出回っているという偽物らしき写真
    http://blog.livedoor.jp/du105miel-vivre/archives/65777687.html

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  1. 2012年11月06日
    SF作品としても読ませる「2062年から来た未来人の予言」
    http://blog.livedoor.jp/du105miel-essay/archives/9070283.html
  2. 2012年06月09日
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  4. 2010年06月13日
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  5. 2010年08月15日
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☆「マダムNの神秘主義的備忘録」人気記事

  1. 2008年10月04日
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2015年7月19日 (日)

立ち読みで窺えた又吉直樹の才能、しかし『火花』の冒頭は文章としておかしい

又吉直樹『火花』を図書館から借りようとしたら、予約者が60人以上いた。順番が回ってくるころには、次の芥川賞が決定していそうだ。

仕方なく、「文藝春秋 BOOKS」で立ち読みした。

冒頭は文章がおかしいと思ったが、そのあとは、内容が充実していくと共に、文章はまともになっていく(のではないかと思う。老眼には字が小さすぎてつらい)。

老眼のせいもあるかもしれないが、立ち読みを終えるころには、漫才界の裏話が読めそうな期待感も薄れ、小説自体がどうでもよくなってしまった。

その中に深刻な文学的テーマも美醜も、あるいはユーモアもあるのだろうが、荒れた環境、荒れた場面、荒れた言葉遣い、荒れた変な登場人物。

こうした荒れた世界を舞台にした、しかし、その世界をもう一つ包括的には捉えきれていない、それほど知的とはいえない作品ばかり、読まされてきて、日本中が今や荒れた世界になってしまったかのようで、何のための文学か、わからなくなってくる。

というと、立ち読みで作者を否定しているかのように誤解されてしまいそうだが、立ち読みしただけの直観では、西村賢太と同じくらい才能を秘めた人物だろうとは思う。

西村賢太と同じように、美しいものを内面に湛えている人物であることが窺える。作家の資格として、それ以上に大事なものはない。

『火花』の冒頭の文章がおかしいと書いたが、それについて少し。

以下『火花』より、冒頭部分の抜粋。

 大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残を夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。

文章がくどい。野暮ったい。頭の中にすっと入ってこない。そうした場合、表現が不適切、不正確であるとか、文法的に間違っているといったことが原因となっている場合が多い。

最初の行で疑問に思ったのは、笛の音が単数か複数かということだ。単数の笛の音が(和太鼓の律動に)働きかけているのか、複数の笛の音が重なり合って(和太鼓の律動に)働きかけているのか?

「大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。」
の読点の位置を変えて、「大地を震わす和太鼓の律動に甲高く鋭い笛の音が重なり、響いていた。」とすると、単数の笛の音が思い浮かぶ。

複数の笛の音であることを強調したければ、
「大地を震わす和太鼓の律動に、重なり合う甲高く鋭い笛の音が響いていた。」

ただ、音と律動(リズム)は同じ意味ではないから、律動に音が重なるという無造作な表現にも違和感がある。

和太鼓の律動、笛の律動。和太鼓の音、笛の音。作者にとって、和太鼓の場合は律動が、笛の場合は音の甲高さが印象的だったのだろう。

「甲高い」は、調子が高く、鋭いことを意味するから、「鋭い」は不要。「鋭い」と重ねることで、むしろ印象を弱める。

2行目は、文章に構造的欠陥がある。

「熱海湾に面した沿道~草履に踏ませながら」までは擬人法が使われている。そのあと、そうではなくなっている。

ここは「草履に踏ませながら賑わしている」とでもなるのかな。

あくまで擬人法にこだわりたいのであれば、わたしなら、こう書く。
「熱海湾に面した沿道は、白昼のほてりを夜気で鎮めて、浴衣姿のカップルや家族連れの草履に踏まれるまま、喧騒に身を任せている。」

「浴衣姿の男女や家族連れ」の「男女」を「カップル」に換えたのは、家族連れも男女(混合)であることが多いから。

作家の卵40年のわたしも未だ日本語に詳しいほうではないが、芥川賞を受賞した作品は教材に使われてもおかしくないだけの文学的名声を授かる。

教科書に載るかもしれないと考えると、『火花』は内容以前の文章的問題を抱えている気がする。

芥川賞は日本語を壊すために存在しているのだろうか、と疑いたくなるほどだ。ひじょうに不注意な書き方である。

当ブログにおける関連記事:

2015年7月22日 (水)
拙ライブドアブログの人気記事。芥川賞に関する懸念。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/07/post-ee93.html

編集者は何のためにいるのだろう? 

編集者がしっかりしていなければ、作家が恥をかく。作家に恥をかかせる編集者は、編集者として失格といえる。

アンドレ・バーナード編集『まことに残念ですが・・・ 不朽の名作への「不採用通知」160選』(木原武一監修、中原裕子訳、徳間文庫、2004年)に、ミステリー作家ジョゼフ・ハンセンの次のような言葉がある。

もしきみが確固たる信念を持っていれば、そのうち確固たる信念を持った編集者とめぐりあうだろう。何年もかかるかもしれないが、決してあきらめるな。

ハンセンのこの言葉をわたしは幾度となく読み返してきた。作家にとって、理想的な編集者にめぐりあう歓びほど、大きなものがあるだろうか?

どんなに優秀な作家でも、完璧な日本語を常に駆使することは難しいに違いない。おかしな文章はあとで編集者が指摘してくれる――という安心感があれば、作家の筆遣いは格段に伸びやかになるだろう。

それとも、これは編集者の指導や助言の結果なのか?

よく文学賞では最初の1行で決まるといわれるが、壊れた日本語で冒頭を飾らないと受賞できないということなのか。文学賞は何のためにあるのか……深く考えると、日本人として何とはなしにある疑いが首をもたげ、空怖ろしくなる。いや、これはわたしの妄想だろう。そう願いたい。

読了したら感想を書こうと思っているが、その時間はとれないかもしれない。

何しろ、初の歴史小説が待っているというのに、図書館からゾラの『ルーゴン家の誕生』『夢想』『パスカル博士』(総論社)、レオ・ペルッツ『世界幻想文学大系 第37巻 第三の魔弾』(国書刊行会)を借りてきたのだ!

ゾラの『夢想』には『黄金伝説』が出てくるようだ。

『黄金伝説』とマグダラのマリア伝説とは切り離せないが、『黄金伝説』にはいろいろな伝説が集められている。その中のどの伝説が作品にどう絡むのか、楽しみだ。

わたしの児童小説『不思議な接着剤』のために、黄金伝説とマグダラのマリア伝説にかんするノートがあるので、紹介しておく。

以下、#44、50、51、55、62、80。

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2014年8月21日 (木)

ただいま46枚。映画『華氏451度』。

本日5枚追加で、46枚。できたら、あと5枚進めたかったのですが、今日も校正のほうに時間をかけたという感じです。

一応、賞に応募するつもりで書いていますが、応募を迷っています。

でも電子書籍にしてしまうと、本当にどこにも出せなくなるので、どこかへ出してみたい気がしてしまいます。60枚から100枚に増やして(それが可能な構想)、別のところを考えたりもしているのですが……どうしましょう。

ところで、レイ・ブラッドベリのSF小説『華氏451度』の映画(1966年、フランソワ・トリュフォー監督)を録画しておいてのを夫が観ていたので、わたしも少し観ました。なつかしい映画でした。

レイ・ブラッドベリは中学から高校にかけて結構読みましたが(高1のときのバレー部の合宿に1冊持っていったら、別の人が同じ本を持ってきていました。その人はスポーツ万能なクール美人で、慶應に行きましたが、今どうしているでしょう?)、ある日突然飽きました。

『華氏451度』は読んでいませんが、夫は読んだとか。

華氏451度というのは、本が燃え出す温度だそうです。思想管理が徹底している未来社会では本の存在自体が悪いこととされ、そこでは家は燃えない素材で作られているため、ファイアマンは消防活動をせず、書物の根絶を任務としています。

密告を受けたら直ちに出動し、隠された本を見つけ出しては焼却するのです。サマランダーがシンボルとなっていました。

そのファイアマンの一人が本に魅せられるようになり、追われる身となって、そして1人が1冊の本の内容を全て頭に記憶することで本が伝える思想や文化を継承しようとする人々がひっそりと暮らす村へ赴くという結末を迎えます。

昔観たとき、1人で1冊の本をまるごと、そのまま記憶するなんて、いくら未来人とはいえ、無理のある設定ではないかと思いました。コンピュータが活躍しない時代に制作された映画なので、現代から見ると、つい笑ってしまう未来設定もあるのですが、映像が綺麗で、トリュフォーらしいこだわりが感じられ、丁寧に作られている印象です。

映画に出てくるのは実際に存在する本ばかりで、SF、雑誌、美術書なども出てきましたが、プラトンなどの哲学書やチャールズ・ディケンズ、ジェーン・オースティンの純文学書など出てきて、わたしは今の日本の状況をふと重ねてしまいました。

燃やされこそしませんでしたが、日本では哲学書も純文学書も当時は考えられなかったような凋落ぶりです。昔は、哲学書も純文学書も、もっと読まれていましたよね。

大手出版社がエンター系ばかり派手に宣伝するようになり、村上春樹がよく売れ出した頃から「純文学なんてない」などと盛んにいわれていた時期がありましたが、あれは何だったのか。

書店員の娘に訊くと、芥川賞受賞作品は純文学に分類されるというので、日本でいう純文学のジャンルは依然生きているようですよ。

ただ、そこに分類されるらしい最近の芥川賞受賞作品の多くが、わたしには純文学とも思えません。

今わたしが応募を迷っている賞はジャンルを限っているわけではなく、「未発表小説一編」となっています。作品集を読むと、受賞作品の多くがエンター系(この場合は、大衆系といったほうが感じが出る気がしますが)か純文系といったところでしょう。

わたしは思うのですが、大衆系と純文系を同じ土俵で闘わせるのは無理があるのではないかと。ポピュラー音楽とクラシック音楽では形式が異なるように、大衆文学と純文学も形式が違うのですから。

その賞が芥川賞に一番近いとされる文芸雑誌を発表舞台としていることで、内容は大衆系といってよいのに純文学扱いされ、そのことで純粋な純文系(というと変ですが)作品のイメージと定義が崩れ、結果として純文学の衰退を招く一因になったではないかと思えるのです。

最近の芥川賞受賞作品の多くは、エンター系的面白さを追求しているわけでもなく、だからといって、人間や社会を分析し、洞察し、人間のすばらしいところを謳い上げるといった純文学ともいえず、日本語の壊れたような変な作品がどんどん生まれてしまっているように思います。

夏休みの課題図書に挙がっているのか、最近の芥川賞受賞作品のタイトルで当ブログにお見えになりますねえ。憂慮される事態です。最近の芥川賞受賞作品は日本語がおかしい作品が多いのですから、正しい日本語を身につけるべき生徒にはあまり読んでほしくない気がします。大人が趣味で読むにはいいのかもしれませんが。

読書感想文には、芥川龍之介の作品を読むほうがまだいいのではないかと思ってしまいます。

※関連記事

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2014年3月29日 (土)

キンドル本『気まぐれに芥川賞受賞作品を読む』『幻想短篇集(1)』を販売中です。もう1冊、近日販売予定の本を準備中。

 以下のキンドル本をアマゾンで販売中です。サンプルをダウンロードできます。

           ↓

『直塚万季 幻想短篇集(1)』はKDPセレクトに登録しました。

 最低価格が上がっていました。Amazon.comに、「ロイヤリティ70%は$2.99から$9.99の間に設定してください」とあり、$2.99と記入し、日本の欄で、「US価格に基づいて自動的に価格を設定」にチェックを入れたら、¥306と出ました。 以前は250円でしたよね?

 為替レートを考えると、ああそうかと思いますが、ちょっと高いですね。もう無料キャンペーンをするつもりはありませんでしたが、借りていただくことはできるし、他で売る予定もないので登録しましたが……。

 でも数ヶ月、心血注いだ作品の値段が306円で高いと思わなければならない――何千冊、何万冊も売れるならともかく、悲しい商売ですわ。

 ぼやいていると、夫が「ジャンプと哲学書とどちらが売れると思う?」と訊きました。こんなことをいってくれるから、わたしはこの人から離れられないんでしょうね。

 若い頃、まだ本気でプロ作家を目指していた頃は、よい作品を書き、しかも儲けて家族やお世話になった人々にお返しがしたいと思っていました。

 でも、プロになれていたら、少なくとも、『気まぐれに芥川賞受賞作品を読む 2007 - 2012(Collected Essays 2)』は書けないでしょう。これよりずっと無難な小説を書いたときでさえ、落選して受賞者を祝福するパーティーで「こがんた、書かんがよかー」って、『文学界』のH編集長からいわれましたからね。

 それに、賞狙いをしていたとき、どんどん本当に書きたいものから自分が遠ざかるような焦燥を覚えていたことを思えば、今は物書きとしては純粋に幸福な時間を過ごしているといえるでしょう。

 ただ生活者としての心細さ、夫の細い足にすがっている申し訳なさといったら、ありません。だから茨の道っていうんでしょうね。

『気まぐれに……』を書くのがつらかったせいか(日本の文学界を直視するつらさです)、リラックスして続けて3冊目を準備中です。だいたい仕上がっているので、最終確認ができ次第、KDPに提出します。

 以下が表紙ですが〔追記:出版準備のため、削除します。30日〕、これも306円で販売することになると思います。この表紙はKDPに本を提出する前に削除します。短篇にしては高いですが、むしろ売れなくてもいいくらいなので……。

 ところで、ストーカー規制法の改正法が平成26年6月26日に成立し、7月3日公布されました。

 ストーカー規制法でいう「つきまとい等の行為」とは、以下のような行為をいいます。

  1. 住居、勤務先、学校その他通常所在場所でのつきまとい・待ち伏せ・進路立ちふさがり・見張り・押しかけ
  2. 監視している旨の告知行為
  3. 面会・交際・その他義務のないことを行うことの要求
  4. 著しく粗野な言動・著しく乱暴な言動
  5. 無言電話、連続した電話・FAX(ファックス)・メール
  6. 汚物・動物の死体等の送付等
  7. 名誉を害する事項の告知等⑧8.性的羞恥心を侵害する事項の告知等。

「つきまとい等」とは、目的を「特定の者に対する恋愛感情その他の好意の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する」ことにおく行為であり、その行為の相手方は、「当該特定の者又はその配偶者、直系若しくは同居の親族その他当該特定の者と社会生活において密接な関係を有する者」であることも要するとあります。
 詳しくは、ウィキペディア

 ストーカーの怖さを『侵入者』を書いたときはまだ自覚できていませんでしたが、暗示となっているところはあるでしょう。

たえずこちらの生活を窺い、わたしを貶め(幸い証拠となる手紙、メールはおびただしいくらいにあります。このことからして、変ではあります)、生活に侵入しようとするストーカーは黴のように生活に蔓延り、身心を害します。

 ただの不倫にしてはおかしいと思っていましたが、これまでのしつこさ(2度目の示談後にも、うちの駐車場で仕事に出かける夫を待ち伏せして脅迫しました)を思えば、あれから2年になりますが、まだまだ油断はできません。相手には、自分がストーカーであるという自覚が全くないのです。

 自由のない暮らしとなってしまいました。また何かあれば通報して、警察にお願いするしかありません。

 こんな異常な暮らしと文学生活の報われなさから、何だか人間が変わってしまいました。娘が昔のわたしの写真を見て、「何だか純真そうな、か弱そうな、可愛いらしいママだねー」

 今のわたしは……絶句。文学がなければ、どうなったでしょう。そんな、助けとなるような文学を日本人は書かなくなったし、読まなくなりました。これでは、いけません。

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2014年2月12日 (水)

追記:書評 - 鹿島田真希『冥土めぐり』(第147回芥川賞受賞作)

 以下の過去記事に追記したいことが出てきた。小説では全くそうはならなかったが、新聞記事には心を打たれたのだった。

[追記]
 キンドル本を出すためのレビューを整理する段階で、改めて作者についてインターネット検索したところ、夫を介護しながら執筆を続けているという記事が出てきた。その記事からすると、小説は実際の出来事に基づいたものなのかもしれない。描写が粗いためか、とてもそうとは思えなかった。体験を小説に生かすための技法や思想の洗練といったものが作者には欠けているように思われた。

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より以前の記事一覧

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