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2011年9月 8日 (木)

急性の書きたくない病に罹った昨日とバルザックの悲鳴。スタインベック『白いウズラ』を読んで。

 昨日は、2ヶ月で完成させ、120枚となる予定の児童文学作品のメモの整理とプロット設定に入るはずだった。ところが、急性の書きたくない病に罹り、サボった一日……そのとき、バルザックを連想したのは僭越な話だが、過激な執筆の合間に書かれた悲痛な手紙を思い出して、あのバルザックも人間だった、と自らを慰めたのだった。

 現在のわたしにとって、書いていられる時間というのは、かけがえのないものであることを実感していながら、書きたくないときは書きたくないのだ。いくら赤ん坊が可愛くても、ときには育児から解放されたいと思う母親の気持ちと似たようなものだろう。まだ、疲れがとれていないせいかもしれない。

 そういえば、女性革命家として有名だったローザ・ルクセンブルクは、疲れたら、一層働くことで疲れを癒したそうだ。ローザは革命の闘士とは思えない繊細な感受性を持ち合わせた人で、獄中で、自然や人生の機微に触れた数々の美しい手紙を書いた。

 バルザックの話題に戻り、悲痛な手紙の文面をクルティウス『バルザック論』(大矢タカヤス監修,小竹澄栄訳、みすず書房、1990年)から抜書きしておきたい。

  • 私には生活する暇がありません。
  • 彼は日夜働いているのだと、ご自分にいい聞かせてください。そうしたら、ひとつのことにだけ驚かれるでしょう。私の死亡通知がまだ届かないこと。
  • 私はペンとインクに繋がれた、ガレー船の奴隷なのです。
  • 私は、人間と事物と私との間に繰り広げられるこの果てしない闘いに疲れきってしまいました。
  • 私はペンとインクに対する恐怖症です。それが昂じて肉体的苦痛を感ずるまでになりました。
  • (坐ったきりの生活のおかげで、彼は太った。すると、新聞がこれをからかった。)
    これがフランスです。美しいフランスです。そこでは仕事が原因で振りかかった不幸が嘲笑されるのです。私の腹が笑い物になっています! 勝手にするがいい、彼らにはそれしか能がないのですから。
  • 私は知性の戦闘のさなかに斃れるでしょう。
  • 私はまるで鉛球に鎖で縛りつけられた囚人のようです。
  • 私の望みは柩に入れられてゆっくり休息することだけです。でも仕事は美しい経帷子です。
  • 私の生活は、ただ単調な仕事一色に塗り潰されています……時折私は立ち上がり、私の窓を士官学校から……エトワール広場まで埋め尽くしている家々の海原を眺めます。そうして一息つくと、また仕事にかかるのです。
  • 仕事がきっと私の生命を奪ってしまうだろうと、私は確信しています。
  • 今や私は、全く実りなき仕事に十年間をつぶしてしまったのです。もっとも確実な収穫は、中傷、侮辱、訴訟等々。
  • 絶え間なく、そして次第に烈しさを増す我が伴侶、窮乏夫人の抱擁。
  • 神よ、私のための人生はいつ始まるのでしょう! 私は今日まで誰よりも苦しんできたのです。
  • 私は自分に暗澹たる運命を予見しています。私は私の望みの一切が実現する日の前日に、死ぬことになるでしょう。
  • そうです、自分の体全体を頭に引きずり込んでおいて、罰を受けずにいる者はいません。私はただただそう痛感するばかりです。
  • 私はもう自分の状態を、疲労とはいえません。私は文章作成機になってしまいました。私は自分が鋼鉄製のような気がします。
  • 私はもう一行も頭から引き出せません。私には勇気も力も意欲もありません。

 いつも陽気だったといわれるバルザックが人知れず上げ続けた悲鳴。悲鳴を上げてやめるのではなく、悲鳴を上げながら書き続けたところがあっぱれだ。彼が天才であったことは間違いのないところだが、手紙の悲鳴からは、あの超人的な仕事が凄まじい自己犠牲によって成し遂げられたものであったのだとわかる。

 バルザックの崇高な仕事に比べたら、わたしの書くものは「へのへのもへじ」の段階にすぎないが、それでも書くことが遊びとしか認められていないことには異議があり、世に出られない不満からゴミ箱のために書いているのではないと誰かにいいたくなることがあるが、ゴミ箱行き程度でしかないのだろうかとふと思うこともある。

 でも、バルザックを想えば、諸々のことがただ恥ずかしくなり、さあ書こうと思うだけだ。

 昨日気晴らしに、ポプラ社から出ている「百年文庫 15 庭」に収録されたスタインベックの『白いウズラ』を読んだ。同じものが他の人の訳で岩崎書店「ジュニア版 世界の文学4 赤い小馬」に収録されていて、昔読んだ記憶がぼんやりとあった。

 中学生にはわからなかったのではないだろうか。『赤い小馬』のほうがわかりやすかったせいか、印象に強い。ただ『白いウズラ』が深みのある作品だということはわかり、大学に入ってから、スタインベックに熱中した一時期があった。

 ネタバレになるが、粗筋をいうと、メアリーは家を持つ前から自分の庭についてあれこれ考え、細かなところまでイメージを作り上げてしまっていた。それは楽しみの域を超え、彼女の内なる生命の象徴となるほどだった。結婚相手の選択についても、庭がその男性を気に入るかどうか、庭にとって男性がふさわしいかどうかが重要だった。

 結婚して実際に庭を持ったメアリーは寛大な夫ハリーに見守られて、庭作りを完璧に行う。メアリーの空想の中では、芝生の端に一列に植えられたフクシアは、外敵から庭を守る役割を果たすことになっていた。無数の妖精が庭の空気を変えていると想い、小鳥たちのために作った池に白ウズラが混じってやって来たことに過度の意味づけをなす。

「あれは私のエキス、完全な純粋さまで煮詰められたエキスよ。ウズラの女王にちがいないわ。あのウズラは、これまで私の身に起きたすべてのすてきなことをひとつにしてくれたのよ」
「これはすべてが美しかったころの私なの。これは私の中心、私の心なの」
と思うのだ。

 ハリーには白ウズラがアルビーノ(白子)の普通のウズラにしか見えない。そんなとき、庭に猫が侵入した。彼女はヒステリーの発作を起こす。ハリーに猫の毒殺を頼む。夫は空気銃で脅すだけにしたいという。

 だが、メアリーはあくまで殺してほしいのだ。というのも、白ウズラは彼女だったのだから。猫はメアリーを狙い、殺そうとしていたのだから、毒をしかけてほしいのだという。ハリーは早朝に空気銃で猫に痛い目をあわせてやると約束して、何とかなだめる。

 翌朝、ハリーは庭に出た。庭に降り立った小さな茶色い一団の中に白いウズラが混じっていた。ハリーは銃を持ち上げ、何と白ウズラを狙い――殺すつもりではなかったが、結果的に殺してしまい、死んだウズラを埋めた。

 メアリーは白いウズラが殺されたことには気づいていない。ハリーが自責の念に駆られるところで物語は終わっている。

 1935年に書かれたとは思えない、現代的なセンスの短編ではないだろうか。結婚以前から病的な何かがメアリーには潜んでいる。結婚生活がそれを助長した。伏線がさりげなく張られているところにスタインベックの確かな手腕を感じさせる。例えば、贈り物というものは見かけほどではないものだと考えてしまう癖があるとか、ハリーの仕事をメアリーが気に入ってなさそうといったようなことだ。

 短編小説として完璧だと思う。しかし、バルザックを読み馴れたわたしには物足りなさがある。バルザックであれば、現象を描写することでは終わらず、不幸な人々の原因を何とか探ろうとしたに違いない。

 そして、メアリーとハリーの個人的な特徴の分析を生い立ちから始めて、2人が属する地域全体の歴史、当時のアメリカ社会の病巣に至るまで、様々な角度から分析してみせただろう。また、悲劇性の中にも、人間的な温もりのある滑稽味を見つけ出して微笑ませてくれただろう。

 わが国の現代小説は、よく書けていてもスタインベック的なアメリカ文学風なものが多い。袋小路で終わるのだ。尤も、スタインベックほど完璧には書けないからか、あるいは袋小路が息苦しいからか、壊せばよくなると思っているかのように、壊したり寄せ集めたりすることに夢中なお子さまな文学となっている。

 スタインベックのような小説のよさは勿論あるけれど、今こそもう一度バルザックのような小説の書き方に注目すべきときが来ているのではないかとわたしは思う。バルザックの書き方を学ぶのは苦労、というより不可能に近い大変さがあるに違いない。それでも、突破口はバルザックのような書き方にしかない気がする。

 これから来年の9月までは児童文学作品に熱中することになるが、それが終わったら、一度小説を書こうと思う。

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2011年6月18日 (土)

レビュー 013/響/百年文庫(ポプラ社)

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  • ポプラ社「百年文庫」が素晴らしいので、読書ノートを作り、気ままにメモしていこうと思います。
  • まだ読んでいない作品については、未読と表示しています。
  • 一々「ネタバレあり」とは書きませんので、ご注意ください。


ヴァーグナー『ベートーヴェンまいり』

 ヴァーグナーというのは、19世紀ドイツの作曲家、指揮者であるあのリヒャルト・ワーグナーのことだ。ワーグナーが小説や評論まで書いていたとは、つゆ知らなかった!

 『ベートーヴェンまいり』は、パリでの苦難時代に書かれた3部作のうちの1編。
 ワーグナーが書いた小説はこの3部作だけだそうだが、『ベートーヴェンまいり』は小品ながら骨格のしっかりした(長編も書けた人だろう)、描写も生き生きとした、実にレベルの高い作品なのだから、2度驚かされた。作家としても大成しただろうに……と想うと、作曲家ワーグナーを失うことは考えられないにしても、ちょっと惜しい気がする。

  まあ、総合芸術のオペラで有名なワーグナーが文才を兼ね備えていたとて、そう驚くべきことではないかもしれないが、このワーグナーにしても、次に登場するホフマンにしても(ホフマンは司法官が本業で、画家、音楽家、詩人、作家だった)、何て絢爛豪華な才能だろう!

 「中部ドイツの中くらいの町」で生まれた貧乏音楽家である主人公が、ウィーンに暮す憧れのべートーヴェンに徒歩で会いに行く顛末を描いた、ハラハラ、ドキドキさせられる面白い作品だったので、わたしは一気に読み終えた。読後は、心身が浄化されたようなすばらしい余韻に浸った。

 文学作品も芸術作品の一つであるのだから、このような効果をもたらしてこそ、文学の名に値するのだと改めて考えさせられた。小学5・6年以上であれば読めると思うので、おすすめしたい。

 実は、小説といっても、随筆に近いような私小説なのだろうと想像して読み始めたのだが、それは嬉しいはずれだった。工夫を凝らしたフィクションだったのだ。

 実際には会ったこともなかったベートーベェンが、まるでそこにいるみたいな臨場感でもって描かれているのには驚かされる。ベートーヴェンに会いたかったというワーグナーのせつない想いが空想に血肉を与え、生きている人として読者の前に現れたとき、読者ははっとさせられ、主人公と感動を共有せざるをえない。

 ただ、長いベートーヴェンの会話になるとにわかに架空めき、これはベートーヴェンに語らせたワーグナーの音楽論だろうと想わされるが、これはこれでべつの興味を惹く。

 主人公にまとわりつく俗なイギリス人との駆け引きがコミカルで、どこかイソップ物語の「うさぎとかめ」を連想させた。

 それにしてもポプラ社の「百年文庫」は、驚異的なシリーズだ。これほど多彩なシリーズが編めるとは、匠の技だ! 昨日「百年文庫80 冥」を買ったが、これには詩人トラークルの小説が収録されていて、息を呑んだ。トラークルの小説? 生前に出たのは詩集1冊だったはずだ。解説「人と作品」をみると、ここに収められた『夢の国』は青土社『トラークル全集』を底本としたもので、元は1906年「ザルツブルク国民新聞」に発表されたものらしい。

 トラークルの主な発表舞台は同人誌だった。こうした事実は、アマチュア作家にとっては、何となく光の差し込んでくるようなエピソードではあるまいか。日の目を見られないからといって、悲観するのはよそう。いつ、どんなかたちで拾い上げられるかわからないのだから。

 同じ「百年文庫80 冥」に、『白鯨』で有名なメルヴィルの『バイオリン弾き』という小説が入っている。鯨とバイオリンが結びつかず、メルヴィルにはそのような作品もあったのかと驚かされる。「人と作品」には、「現代では英米文学の三代悲劇と称される『白鯨』も、真価を認められるには出版後半世紀以上を待たねばならなかったのである」とあり、これまたアマチュア作家にとっては励まされるエピソード。おっと、レビューが横道に逸れてしまった。


ホフマン『クレスペル顧問官』

 ドイツ・ロマン派を代表する作家ホフマンの短編。ロマン派ホフマンの本領が遺憾なく発揮された1編。奇怪味があり、華麗な空想力が迸っている。しかし、作品の出来具合としては今一つか。

 そういえば、岩波少年文庫版『クルミわりとネズミの王さま』、岩波文庫版『黄金の壷』『スキュデリー嬢』の感想をきちんと書くつもりで、書いていなかった。

 チャイコフスキーのバレエ作品『くるみ割り人形』の原作『クルミわりとネズミの王さま』は、勿論大人が読んでもいけるが、おすすめの児童書。
 空想とはかくも豪奢なものとなりうるのかと唖然させられる幻想冒険譚『黄金の壷』。
 ルイ14世統治下のパリが舞台で、火刑裁判所が出てくるミステリー風の引き締まった作品『スキュデリー嬢』。

 ホフマンの長編『悪魔の霊酒』はちくま文庫から出ている。


ダウスン『エゴイスト』の回想

 ヴァイオリンだけを信じている流離いの男の子が大人になり、成功してから回想するニネットという少女との暮らし。両親も家もない子供2人が空き家に入り込んでねぐらとし、手回しオルガンとヴァイオリンで生計を立てる様の描出には生々しい感触がある。孤独臭を濃厚に漂わせたクールで不満気な独白調は、一度読んだら忘れられない。

 ダウスンは、ねっとりとした感傷的な恋愛の回想詩『シナラ』の作者。この詩も、好き嫌いは別として、一度読んだら忘れられない味わいを持っている。マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』のタイトルはこの詩から採られている。



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2011年6月 6日 (月)

レビュー 037/駅/百年文庫(ポプラ社)

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  • まだ読んでいない作品については、未読と表示しています。
  • 一々「ネタバレあり」とは書きませんので、ご注意ください。
  • 収録作品の順序が入れ替わることがあります。


プーシキン『駅長』

 この作品には矛盾……というか、引っかかるものがある。

 娘は、彼女の父親である駅長が考えていたほど、純真なタイプではなかったのではないか?

 どんな客も如才なくあしらったという点、海千山千といえばいいすぎになるが、むしろすれた感じがするし、同意の上とはいえ、誘拐に近い連れ去られかたをしてから日も浅いというのに、甘い巣での高級娼婦のようなムード。

 3人の子を成し、正妻としての立場が確固たるものとなってからようやく父親を訪ねる辺りも、なかなかしたたかな気がする。

 この作品に、作者プーシキンの失恋が投影されているのだとすれば、話は別で、時遅し……既に亡骸となって瞑る父親の墓で泣き濡れる女性の姿は、プーシキンの切ない願望だろう。

 バルザックは、プーシキンのような嘘は書かなかった。それが、写実に徹した『ゴリオ爺さん』との違いだ。

 ところで、わたしの本棚には開かずの間ならぬ、開かずの作品が2編ある。1編は、プーシキンの『スペードの女王』、もう1編はエウリピデスの『バッコスの信女』だ。どちらも凄みのある傑作なのだが、言霊とはよくいったもので、この2編を読むと何かしら忌まわしいことが起きるのだった。特にエウリピデスの描写は絵画的で、忘れられず、芸術的な関心から読み返したいくらいなのだが……。
 正直いうと、エウリピデスの作品は全作品が怖い。一番怖いのが『バッコスの信女』というわけだ。プーシキンの作品中、怖いのは『スペードの女王』だけだ。忌まわしいことが起きるといっても、それがこれまでわたし自身に起きたわけではなかった。作品の不吉なムードに神経が刺激され、普段は記憶にとめない周辺の事柄にまで敏感になるのかもしれない。

ヨーゼフ・ロート『駅長ファルメライアー』

 プーシキンの『駅長』と同工異曲の作品といえるが、戦争という偶発的な状況が媒体となって可能となった身分違いの恋愛、成熟した女性との間に起きた情事の長期化という成り行きから、こちらのほうが説得力がある。
 帰還した女性の夫ヴァレフスキー伯爵に、主人公ファルメライアーは身分の差から、闘わずして決定的な敗北を喫する。作者は伯爵の描写だけで、それを読者に印象づける。伯爵の妻である女性は、元の飼い主に尻尾を振るが如くだ。

 何ともいえない苦い後味を残す逸品といってよい。

戸板泰二『グリーン車の子供』

 ミステリー仕立ての作品だが、禍々しさとは無縁の作品で、歌舞伎界の人々を登場人物とする粋な作品。老優にもう一花咲かせるために、その関係者が工夫を凝らす。老優に気に入られなかった子役の真価をわかって貰うには、どうすればいいのか? 

 古典芸能を上手に採り入れた作品は快い。下記のような描写も、何気ないが素敵だ。

“ 京都で、私の隣の空席が埋まった。すわったのは、四十ぐらいの和服の女性である。
 身のこなしが、おどりでも習っているようにスッキリした人で、「御免下さい」といって私の前を通って、十のDに腰かけた。”

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

……このような大家の作品とは勿論比べものになりませんが、以下の作品は、能楽に魅了された三十代のわたしが書いた習作です。

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2011年5月19日 (木)

レビュー 056/祈/百年文庫(ポプラ社)

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久生十蘭『春雪』
チャペック『城の人々』

 夢野久作、久生十蘭、小栗虫太郎は夫がワンセットにして好んでいた。
 夢野久作からは極上の嗜好品のような感じを持たされるが、久生十蘭のこの作品からもそのような感じを受けた。

 若くして死んでいった姪にも秘められたロマンスがあったことを知る男の物語だが、姪とフランス系カナダ人の俘虜は見つめ合うだけで恋に落ち、結婚さえ決意する……いくら戦時中の出来事であったとしても、その性急で絵に描いた餅のような結末にはいささか鼻白むものを覚えた。
 日本の男性作家の書く恋愛物語の多くに、わたしはひとりよがり、いい気なものだと感じさせられるのだが(化粧品のポスターを連想させられる女性像)、次に読んだチャペックの作品との違いを改めて考えさせられた。

 城で家庭教師を勤める若い女性の様々な葛藤と生きることの困難さは、環境のまるで異なるわたしにも迫ってくるものがあったのだ。
 セクハラめいたミスター・ケネディーに対するヒロイン、オルガの心の動きには恋愛の要素があるような、ないような微妙さがある。駆け引きが執拗に繰り返される中で、あっと声を上げたくなる暗転する結末は救いがない。

 救いがないものを、救いのないままに取り出して描ける強靭さがヨーロッパの作家にはあるように思う。
 身分と性に拘束されたオルガの生き様は、時代が如何に変わろうと多かれ少なかれ、この世に生きるおおかたの男女が味わうものだろう。
 城を会社組織、オルガをサラリーマンの男性に置き換えても成り立つような普遍性が『城の人々』にはある。

 日本の小説の多くが風土をよく伝えてくれるが、チャペックの小説のような普遍的意義からくる迫力に乏しい。特に男女の関係を描いたものでは。
 男にとって女は他人事であり、女にとって男は他人事であるかのようだ。
 物事を読み解く知性と洞察力に欠け、苦悩を透視する力量に欠けるから、といってしまえばそれまでであるが、これを求めるものの違いと解釈すれば、なおのこと考えさせられてしまう。

 チェコの多才な文豪チャペックの『郵便屋さんの話』は、好きな児童文学作品の一つ。
 相思相愛ながら、ラブレターに宛名を書き忘れたばかりに壊れかけたロマンスが、妖精の透視力と郵便屋さんの辛抱強い努力を受けて成就する、希望に満ちた洒脱な物語。
 こうした理想世界が心の中に確固としてあったからこそ、チャペックは現実世界の病因をより鋭く見抜くことができたのに違いない。そして、それだけの洞察力を備えた作家であったから、優れた児童文学作品も書けたのだろう。

アルツィバーシェフ『死』

 お高くとまった医学士ソロドフニコフは、安定感のある暮らしをしている。退屈しのぎで、ちょっかいを出した男が観念論をふっかけてくる自殺志望者であったからたまらない。
 自殺志望者は念願を果たし、厭世的観念論に巻き込まれた恰好でこの世にとり残されたソロドフニコフは、精神の危機に直面する。

 宗教――ロシア正教だろう――が「軟らかい、軽い、優しい」効果をもたらしてくれるが、作用は長続きしなかった……

 結果的に朝日のすばらしさに救われるという汎神論的一件落着までが、重厚でありながらもユーモラスに描かれた、如何にもロシア物らしい一編だった。

 ちなみにわたしにも、朝日の描写で終わった一編があるので、親近感を覚えた。
〔『台風』。サイドバーからも行けます。〕

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2011年2月28日 (月)

レビュー 041/女/百年文庫(ポプラ社)

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パラダイス

 1941年に発表した『青果の市』で第14回芥川賞受賞するが、その後長い停滞に苦しんだ彼女は1954年に発表した『洲崎パラダイス』でスランプを脱したという。
 『州崎パラダイス』に出てくる蔦枝という女性は鳩の町と呼ばれる赤線地帯にいた娼婦で、それ以前には州崎の特飲街にいたという。特飲街とは特殊飲食店街の略称で、赤線地帯とほぼ同義とのこと。
 そうした女と若い男が切れそうで切れない縁を持て余しながら落ちぶれていく姿を哀感こめて描いた小説……ということになるのだろうが、なるほどねとわたしは思った。

 視点がころころ変わる洗練とはほど遠い技法といい、優等生が真面目に取材をして書いた作文さながらにぎこちなさのある文体にステレオタイプの人物像といい、習作みたいな作品で、彼女がスランプに陥ったというのもわかる気がした。   
 このような素質のなさは、どうしようもないところがあるような気がしてしまうのだが、それがこの作品でスランプを脱したというのなら、それは単に商業的――特に殿方――に受けてヒットしたというだけの話ではなかったかと想像せざるを得ない。

 よく取材はされているのだろう。丹念に描かれているのはわかる。しかし、例えば、彼女がわたしNを描いたとしたら、あくまで主婦という括りの中で描くに違いない。その他大勢の主婦の中の一人である主婦Nとして。主婦Nという描きかたはわたしNの一面を捉えてはいて、それが間違っているとはいえないにせよ、そのような描きかたは文学的ではない。

 林芙美子の小説にも春をひさぐ風の女達が登場するが、その女達との違いを思う。その女性達は美空ひばりの演歌のように格好良すぎて、そのまま現実の姿とも思えない、夢の味わいがある。林芙美子に女達は大切なものを与えられて、豊かに息づいているのだ。人物造形という点で、『州崎パラダイス』はお粗末ということになろう。
 それにおそらく、イデオロギーという意味の思想ではないが、林にはそれがあり、芝木にはない。芝木は女達を観察してネタになると思い、ただ書いただけに違いない。それが小説の底の浅さから知れる。

 林の小説では、どの登場人物にもよく注意が行き届き、肉づきができていて、時間の自然な流れが感じられ、大局的な観点から、事件が挟まれている。物語に少しもぎくしゃくしたところがないのだ。芝木のこの小説を読んで改めて、わたしはそれに気づいた。

 坂口安吾のマドンナ矢田津世子の評伝、近藤富枝『花陰の人――矢田津世子の生涯』(講談社、昭和53年)に、興味深いエピソードが語られている。以下に引用する。

 別に「二十日会」というグループがあり、岡田禎子、小寺菊子、今井邦子、吉屋信子、高橋鈴子、矢田津世子、別格として野上弥生子が参加し、吉屋、今井、小寺の家を会場として文学研究をするはずだったが、結局遊びの集まりになった。
 あるとき、一同で吉原に登楼したことがある。一人一人にあいかたをつけてもらい、身の上話をきいた。勘定は吉屋信子が持ったというが、津世子がどんな表情で登楼したかと思うとおもしろい。娼婦を書いて『女人芸術』にデビューした彼女も、実は娼婦に知人があるわけでもなく、頭の中でこうもあろうと想像の羽をはばたかせたのにすぎないからだ。しかしこののちに津世子に娼婦のものはないから、吉原の女に歯が立たなかったのかもしれない。

 書けないと悟ったものには手を出さないだけの潔さが矢田津世子の小説からは感じられ、芝木からは逆のものを感じる。

 日本社会が貧乏になってきて、『州崎パラダイス』の社会との隔たりはあまり感じられない。その社会の底辺といってよい場所で、一組の男女が苦境をどう生きたかを知りたいという期待を持って読み始めただけに、失望は大きかった。当時の週刊誌を読んだような気がした。そこから読みとれるのは世相だけで、なまの人間のリアリティは読みとれない。

 以下は、赤線について。ウィキペディアより引用。

赤線(あかせん)

日本で1958年以前に公認で売春が行われていた地域の俗称。(非公認で売春が行われていた地域の俗称は「青線」である。)

 ちなみに、わたしは1958年生まれ。田舎では、夜這いの風習の名残があった。


西條八十『黒縮緬の女』

 大女掏摸(すり)という正体も知らず、濃艶な黒縮緬の女と寝てしまう青年の毒のないお話。真昼の夢、という感じだ。こうも爽やかに終わって、いいものかしらん。


平林たい子『行く雲』

 夫が別の女性との間につくった同種の子供の話では、『鬼子母神』のほうが面白いが、読めばほろりとなり、元気が出る。下記の関連記事を参照されたい。


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2011年2月25日 (金)

昨日買ったポプラ社「百年文庫」の中の「41 女」

20110225010216

昨日買ったのは「41 女」。
女、には、芝木好子『州崎パラダイス』、西條八十『黒縮緬の女』、平林たい子『行く雲』が収録されています。

平林たい子は大好きで、鯛焼きを見ると、プロレタリア作家と呼ぶにはスケールの大きすぎた、たい子を連想してしまうくらいです(たい子と親友だった円地文子も好きです)。

うちにあるのは文庫本3冊ですが、昔図書館から借りて、ピーナッツを食べ出したら止まらない勢いに似たのめり込みかたで次々と読みました。

たい子のダイナミック、ユーモアにはバルザックを想わせるところがあります。彼女を含め、同じ時期に活躍した作家たちはフランス文学の影響を強く受けているようです。尤も、ロシアなど、他の国々の作品も驚くほど広く訳されていて、影響はフランス文学に限らないようですけれど、バルザックはよく出てきます。

坂口安吾のマドンナだった、矢田津世子の全集中の書簡などにも、バルザックのことが書かれていたりします。

「16 妖」に坂口安吾『夜長姫と耳男』、矢田津世子の作品『茶粥の記』が「49 膳」に入っているのは、嬉しいことです。

津世子は繊細かつ鋭い仕事をした人で、人が世間体から隠しておきたいこと(例えば、不倫による妊娠沙汰など)に、無色透明な光を隅々まで怜悧に当て得た作家だと思います。

メロドラマ風に流れてしまっている作品もあるのですが、それらにも品性が備わっていて、「百年文庫」に採られた『茶粥の記』は萩焼を連想させるような品格のある純文学作品に仕上がっています。

昔は、津世子のような理智的な女性作家が女性の内面を丹念に調べあげ、女の生態について深く研究していたのだ、と感慨深いものがあります。

現代の女性作家が描きがちな、男性の目を意識してそれに調子を合わせたように奥行きのない、鼻持ちならない女性像、小便臭いような女性観との隔たりを思わずにはいられません。

平林たい子のおおらかさ、猛々しさは、矢田津世子とも共通する基盤から立ち上がったものです。たい子の作品を読めば、彼女の人間味が魂に刻印され、忘れがたい作家となるでしょう。

西條八十の詩には、中学から高校にかけて、北原白秋、サトウハチローといった人々の作品と一緒に読み、魅了されました。大学になってから、《ふるさと》にかんする詞が九州芸術祭のコンクールで選ばれ、曲をつけていただき、演奏会まで開かれたことがありましたが、このとき書いた詞は自分も書いてみたくなって試みたものでした。

その西條八十が小説を書いていたとは、恥ずかしながら知りませんでした。どんな小説でしょうか、楽しみです。

ところで、「41 女」の帯に書かれた文章を娘に読んで聞かせると、娘は「小説でまで読むの?」とさらりといいました。えっ?

帯には《ああ駄目な男! でも……「女ごころ」は果てしなく》とありますが……

そういえば、拙作『侵入者』の続編を書こうと思いながら書いていませんでした。面白い発見があったので、それを生かしてぜひ書いておきたいのですが。あまりわたしのような視点で書いた作品は見かけません。大抵の人は、それ以前に観察をやめてしまうのでしょうね。

昨日、「31 灯」のラフカディオ・ハーン『きみ子』を読みかけていました。豆腐のように柔らかで、優しみのある、しかし幾何学的な西欧的知性を感じさせる文体。

ハーンがギリシャ生まれだったとは。父親はアイルランド系イギリス軍医だったそう。ハーンは19歳でアメリカ、その後松江へ。そして、日本に帰化。

この深夜に読み終えてしまうのがもったいない気がします。今から読みます。

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2011年2月22日 (火)

半年ぶりの作句。誕生日に買って貰った「百年文庫」の数冊。

誕生日迎へし窓の春の色

窓枠を額縁とせり春の丘

鳩夫婦吾を見てゐる二月かな


 恥ずかしながら、半年ぶりに作句した次第。以下のブログには黴が生えかけていました。


 俳句に対する想いには熱いものがあるのですが、俳句は頭の中では作れないため、事物に、特に自然に触れて感動する必要があって、そのための時間を意識的に作るか、よほどの感動が起きるかしなければ、わたしの場合、俳句ができません。

 誕生日や母の日に、子供たちがよく花を贈ってくれるのですが、花の香りを嗅ぐと、さすがに俳句心が刺激されて作りたくなります。一応季語と文法を確認してブログにアップ……となりますが、気まぐれに気分を出して作ってみたところで、あんまり俳句になってませんわね。

 これまでに作ったものの中では、日田文学に載せていただいたこれらは、まあまあ俳句になっていると思っています。







 昨日は家族で中心街に出かけ、モロゾフの桜のケーキを買いました。美味でした。モロゾフのケーキって大好き。モロゾフで一番好きなのはプリンですけれど。

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 娘のケーキはリサのお皿に。娘さんおいくつですか、とは訊かないでください。

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 わたしと娘、特にわたしが家計をいくらか犠牲にして必死で買い集めているポプラ社の「百年文庫」を夫が誕生日のプレゼントとして何冊か買ってやろうかというので、大きく頷いたわたしでした。

 以下は、ポプラ社「百年文庫」の購入済みナンバー。

2*3*6*8*
13*18*
21*23*26*
31*32*33*37*
40*44*45*50*
51*55*56*57
62*64


 買って貰ったうちの「31 灯」から、昨夜、夏目漱石『琴のそら音』を読みました。

 わたしは漱石の漢文調と学識のひけらかしを感じさせる、ごつごつ、ごろごろした石混じりみたいな文体がそれほど好きではないのですが、場の作りかた、盛り上げかたなど、さすが文豪だけのことはあって、お上手ですわ。これ、以前に読んだ気がしたけれど。

 昔の人は古典と漢籍の教養があって、文章が上手ですね。何か心に染み通ってくるようなものがあります。好きな吉屋信子を読んでいても、さりげなさのうちにそれが感じられ、泉鏡花なんかになると、これはもう錦を文体に織り込んだ名人芸でしょう。

 漱石の作品をある観点から読むと、神秘主義者のわたしは物足りないのです。ですが、この作品で優れているのは、不安の描写でしょうね。不安が不安を呼び、とめどもなく膨れ上がっていくさまが克明に描写されています。※以下、ネタバレあり。




 他から弱みを刺激されてとめどもなく膨れ上がる、このような不安というものの魔性といってよいような作用に絡め捕られた経験はわたしも何度か記憶にあります。こんな独り相撲の場合は大抵、現実面はそれとは無関係な湖面の静けさを湛えているもので、事もなく終わることが多いですね。

 自分の創作もあるため、このシリーズに浸ってばかりもいられません……今後も、読んだときにはノートしていきたいと思っています。

 「百年文庫」に収録された作品を読んで思うのは、文学作品が本来持っている力です。そして、対象年齢の広さです。
 現代の日本では、作家とも呼べないような贋作家の作品群が蔓延っていて、寄生虫かバンパイアのように人間の力を吸いとっています。少年少女には与えられないようなものも多く、それらを読むと、頭が悪くなって情操は麻痺、品性の低下を招き、日本語はおかしなものとなるばかり。これが日本文化の危機でなくて、何でしょうか?




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2011年2月18日 (金)

レビュー 026/窓/百年文庫(ポプラ社)

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  • ポプラ社「百年文庫」が素晴らしいので、読書ノートを作り、気ままにメモしていこうと思います。
  • まだ読んでいない作品については、未読と表示しています。
  • 一々「ネタバレあり」とは書きませんので、ご注意ください。



遠藤周作『シラノ・ド・ベルジュラック』

「そんなものは宗教がやってくれる」とウイ先生がいうのは、告解のことだろう。

 確かにウイ先生の言葉は、的を射ている。下手をすれば、私小説はただの告解になってしまう。ウイ先生は文学は修辞学というが、前掲の言葉からすれば、心理学でいうところの昇華作用が文学には不可欠だと先生は考えていたのではないだろうか?

 そんな先生に比べ、「私」はゴシップを欲しているような嫌らしさがある。
 そして、シラノの手記か贋作かわからない古文書まで出しているわりには、この小説はつまらないところで終わっている。

 ウイ先生はいわゆるコキュで、古文書に描かれたような醜い感情を克服すべく、規則正しい生活と修辞学で身を処していたのだろう。
 そのウイ先生が妻の自殺で初めて、彼が家庭教師を勤める生徒である「私」に弱みを見せた。

 ウイ先生と「私」との人間的なふれあい――すなわち文学――がここから始まろうとしていると考えてもおかしくないと思うが、ゴシップ好みの「私」は、ウイ先生の弱みを嗅ぎつけて満足し、厭世的な言葉で小説の最後を飾っているのだ。
 そんな終わりかたが、作者と語り手「私」との距離のなさをあかし立てている。ウイ先生に秀逸な私小説批判をさせているわりには、遠藤周作のつまらなさがはっきりと出た作品になっているとわたしは思う。


ピランデルロ『よその家のあかり』

 戦慄が全身を走った。文学作品からこれほどの衝撃を受けるとは。何という作品だろう、ありがたいことに同じ作者の作品がもう一編入っている。

 底本を見ると、ハヤカワ文庫に入っていた作品ではないか。ここには宝石のような作品が紛れ込んでいることがあるので、時々チェックしてきたものだが(ジョージ・マクドナルド『北風のうしろの国』がここに紛れ込んでいたりした)、ピランデルロ……全く知らなかった!

 ルイージ・ピランデルロ。1867年にイタリアのシチリアに生まれ、1936年に亡くなっている。

 ずいぶんと大変な生涯だったようだが、詩で出発し、短編、戯曲……と精力的な執筆活動を行い、1934年には演劇における功績でノーベル文学賞を授与されている。

 ノーベル文学賞作家だったのか、全く知らなかった!

 何て、何て、すばらしい一編なのだろう! 結末に至るまで目を離せない人間模様。しかし主人公はあかりだ。いや、闇かもしれない。クライマックスを以下にご紹介。

 かれはテーブルのうしろの小さなソファーに腰をおろしていた。大きくない部屋に次第に色こくひろがって行く暗がりにむけて、かれはぱっちりとひらいた眼を、なにを見るともなく、ただまんぜんとただよわせていた。夕闇になる一歩てまえのさいごのうすあかりが、これ以上の悲しみはないといった様子で、ガラス窓から消え果てようとしていた。
 ぱっちりと眼をひらき、ものも考えず、かれをすでにつつんでいた黒々としたあたりの色にも気がつかずに、どれほどの時間かれはそのようにしていただろうか。
 とつぜんかれは見た。
 呆然として、かれは周囲に眼をやった。大きくない部屋が、急にあかるくなった。なにか不思議な風がそっと一吹きするように、静かで、やわらかなあかりが部屋をてらしたのだ。
 なんだろう。なにがおこったのだろう。
 ああ、なるほど……。よその家のあかりだったのだ。正面の家に、たったいまともされたあかりだったのだ。暗闇を、空白を、砂漠のようなかれの存在をほのぼのとした光でてらすために、しのびこんできたどこか別世界の生命のいぶきだったのだ。

 暗闇、窓、あかり……というイメージは今後、ピランデルロのこの短い作品と切り離せないものとなりそうだ。


ピランデルロ『訪問者』

 この作品はあまりに神秘的、抽象的にすぎて、わたしの好みには合わなかった。わたしは自称神秘主義者であるに拘わらず(だからこそ、というべきか)、神秘的な表現にはこの上なく気難しいのだ。

 正確さ、適切さを何より重視する傾向にある。それからすると、この作品では神秘的な表現が過剰で、放恣に流れているとさえ感じさせる。

 よく考えると、先に読んだ『よその家のあかり』にわたしがあれほど夢中になったのは、作品のうちに湛えられた神秘主義的傾向ゆえだったろう。表現は抑制が利いていた。

 それが『訪問者』では剥き出しにされ、下からは欲情の火で炙られているとあって、ここへ来て、まるで、先に読んだ絶品『よその家のあかり』が豚みたいに丸焼きにされたみたいな気さえした。

 とはいえ、『よその家のあかり』は完璧ともいえるほどのまさに珠玉の作品で、それと同じ完成度を求めるほうが無理なことかもしれない。

 それに、この『訪問者』でピランデルロの神秘主義的側面が確認できたので、ワタクシ的には別の満足感を覚えることができた……いや、つい、自分の好みに惹き寄せて《神秘主義》を連発してしまったのだが、この作品に関してはシュールレアリスム的という見方もできよう。


神西清『恢復期』

 海の見える家で、療養中の少女が薬包紙に綴った日記、というスタイルをとる作品。

 日記から感じとれる明晰さは、少女のものらしくない。思考の緻密さ、計算されたようなデリカシーも。「百年文庫」の「1 憧」に太宰治の『女生徒』が来ているが、それと共通するものがある気がする。だが、彼らの作為は大層心地よい別世界を創り出す。

 父からの手紙で、少女の境遇がわかる仕掛けとなっている。画家の父は、妻の死と娘の発病(原因不明の熱病)から逃れて、旅に出たのだった。少女のいる家は熱海にある。付添婦の百合は少女の様子を、彼が泊まる宿々に書き送る。
 少女が恢復するにつれ、旅先の父も内的な恢復を意識し、自分が再生するように感じるのだった。

 少女の日記は恢復録であり、絵画的思索のノートでもある。父と共に暮らすようになった少女は、画家になりたいと打ち明ける。父はアングル随想録を贈る。

 ふと思い出したのだが、外国航路の船員だった父は、細い厳つい字で頻繁に手紙を書いてきた。わたしはかなり大きくなるまで、その字が読めなかった。母が読んでくれたが、子供心に父の独り善がりな感傷を手紙から感じとり、恥ずかしかった。返事は、宿題と思って書いた。

 太宰の『女生徒』からも、この作品からも、わたしは父の手紙と同類の男の感傷(ロマンというべきか?)をいくらか感じとって、やはり気恥ずかしさを覚える。彼らの作品に盛られた観照の高さからすれば、それは作品を飾るリボンのようなものだろうけれど。

 わたしの父は陸の人になったかに思えたが、今も荒れ狂う海の彼方を彷徨っているようだ。奥さんと二人、自分たち専用の船に乗って。ある日、訳のわからない手紙が届き、わたしと妹は宿題にとり組むように裁判官宛ての準備書面を書かなくてはならなかった。

 父は船員だったとき、船のクリーム色の個室で動物を飼い、慰めとしていた。栗鼠は懐かず、猿は悪戯ばかりして父を困らせた。今の父はパートナーから困らされてもいるようだから、総じて、わたしたちの関係は昔と変化ないという気もする。

 わたし自身も父の子らしく、陸になかなか辿り着けない。うまく港に入れたときも、上陸は許されなかった。それで、ネットの大海原に、小瓶に入れた創作物を投じ続ける。お父さん、わたしたちは海で死ぬ運命にあるのでしょうね……わたしは父の結末を見たくない。それはたぶん、わたし自身の結末を物語るものだと思うから。

 感想がいつのまにか、独り善がりなエッセーとなってしまった。『恢復期』は、そんな自省と感傷に浸らせてくれる作品。

 ネタバレを歓迎する方々のために、軽井沢に移ってからの少女について、触れておこう。少女は、画家の卵としての観察を深めていく。そして、少女は以下のように描写するものをこの世に見出す。

私は明るく光るものの姿を見た。愛? それは外光によるものではなく、それは色彩をもたなかった。私にはそれが全くわからなかった。同時に私にはそれがよくわかった。

 少女が《明るく光るものの姿》を見る前に目撃したものは身を寄せ合う男女で、男は父、女は付添婦の百合だった。少女の父は、男やもめになって日が浅いはずだ。

 二人の間にあるものが少女の描写するほどのものとは俗なわたしには信じ難く、作者のロマンチシズムと思ってしまうのだが、中学から高校の生徒にはぜひ読んでほしい作品だという気がする。

 作者神西清は、わたしには何よりチェーホフ『桜の園』の訳者だった。小説もお書きになっていたとは。もともとは建築家志望でいらしたそうだ。

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2011年2月15日 (火)

レビュー 050/都/百年文庫(ポプラ社)

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  • ポプラ社「百年文庫」が素晴らしいので、読書ノートを作り、気ままにメモしていこうと思います。
  • まだ読んでいない作品については、未読と表示しています。
  • 一々「ネタバレあり」とは書きませんので、ご注意ください。


ジョージ・ギッシング『くすり指』

 ローマのホテルで知り合った男女。
 男性の目を通して「彼女の年齢は三十くらいらしく、彼女の習性(顔つき、口調、考え方の、であるが)が、そろそろ地方の狭い閉鎖的社会の独身女性のそれになりかかっているような気配が感じられた。だが、それと同時に、長い旅をしたことで若さを取り戻したという好影響が出ていることも見るからに明らかだ」と描写された女性は、ローマ滞在中に、誰もが彼女を美人と思うほどの女性となり、その後元通りの女性となって、男性がろくに気づかないでいる間に同行者の伯父と共にローマを去る。
 と、こう書けば、ローマで女性に何が起きたのか、想像がつくだろうと思う。ローマのコロセオが効果的に使われている。

 『ヘンリ・ライクロフトの私記』が有名なギッシング。ギッシングが大好きで、この作品が採られた岩波文庫の『ギッシング短篇集』は既に読んでいたが、「百年文庫」の洒落たムードで読むと、味わいも格別だ。ギッシングの作品からは、人生には幸福の種も不幸の種もいろいろとあるけれど(あるからこそ)、滋味のあるものなのだ……と教わる心地がする。


ヘンリー・セントクレア・ホワイトヘッド『お茶の葉

 前の作品を読んだ後でこれを読むと、まるで遊園地に来てジェットコースターにでも乗った気分になる。
 《都》では、どれも花盛りを過ぎた女性にスポットライトが当たっている。これは、もう盛りを過ぎたどころではなくなったわたしをも、元気にさせてくれた。
 ロンドン、紅茶占い、アンティークとアイテムが重なりすぎる嫌いがあり、そうした面も含めて如何にもアメリカ的。


イーデス・ウォートンローマ

 この作品は、前の二作品に登場した女性たちより、さらに年を重ねた――わたしの年くらい?――女性二人の物語。
 そんな年齢になって初めて明らかとなる友情の真相。
 そろそろ結婚を考えてやらなくてはならない年頃の娘がふたりにはいた。その娘たちにもかかわってくる、恐るべき結末。女同士の陰湿な応酬劇。女の決闘はこんなスタイルをとるのかもしれないが、話に不自然なところがあって、疑問がわく。
 これも如何にもアメリカ的な作品で、スリリングな楽しみをもたらしてくれる一編ではあるにせよ、全体に些か雑な感じを否めず、解説にヘンリー・ジェイムズの助言に従ったとあるわりには……と思ってしまった。

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 何とか「百年文庫」のための場所を確保しました!

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2011年2月13日 (日)

レビュー 044/汝/百年文庫(ポプラ社)

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  • 一々「ネタバレあり」とは書きませんので、ご注意ください。


吉屋信子『もう一人の私』



 生まれおちると同時に亡くなった双子の片割れの幽霊か、あるいはドッペルゲンガーか?
 少女から大人の女性になる過程でそれが出現し、クライマックスが初夜に置かれていたことを考えると、二次性徴に伴う葛藤の外的表われと見ることもできよう。
 初潮を迎える頃の若い女性たちにぜひ読んでほしい。不安を共有することで、問題点を意識化し、この頃に訪れる内面的な危機をうまく乗り越えていただきたい。
 流麗な文章が乙女の遭遇した怪異を引き立て、人生の機微に触れさせてくれる。

 そういえば、大学時代、文芸部の男子がわたしを大学前のバス停で見たといって譲らなかったことがあった。その時寮にいたはずのわたしは、バス停から天神行きのバスに乗ったそうだ。彼があまりにいい張り、嘘つきを見るような目でわたしを見るのが薄気味悪かった。また、のちに幼馴染みから聞いた話だが、彼女はわたしと瓜二つな若い女性と交遊した一時期を持ったという。いずれも同じ時期の話で、わたしはその頃に処女を喪失した。
 中年になってこの街に暮らし出してからも、デパートの椅子に座っていたときに、見知らぬ上品な老婦人から違う名で呼びかけられたので、否定すると、その老婦人は「ああ……○○さんに似ている」とわたしを凝視してつぶやきながら、恐怖に駆られたように後退りしたのだ。その頃、わたしは夫からある危機意識をもたされていて、更年期障害なども意識されてくる頃だった……


山本有三『チョコレート』

 就職難の世相が描かれる。
 友人のためにコネを潔く払いのけたつもりが空回り。お坊ちゃまの独り善がりを嘲笑うかのような結末の小道具が見事。


石川達三『自由詩人』

 文芸作家であれ、画家であれ、音楽家であれ、芸術家であろうとする者はムーサ(ミューズ)の信奉者だろうから、世俗とは相容れないところがあって当然で、この作品に描かれる語り手の友人である詩人は、吉屋信子の作品のタイトルを借りて、作者の「もう一人の私」といってよいかもしれない。
 また、文学作品は大なり小なり哲学作品としての一面をもっているものだが、作者は詩人の人生をなぞることで芸術論を展開したのかとも思う。でなければ、謹厳な河童のような容貌で、女のような話しかたをし、時折ふらりと現われて巧妙に金品を無心する友人を詩人に設定しはしないだろう。

 しかし、わたしにはここで描かれる詩人が偽詩人に思えた。ムーサの徒というよりはディオニュソス(バッコス)の徒に思えたのだ。挙げられた何編かの詩が作者の作品かどうかはわからないが、それらにムーサ由来を感じさせる聖らかさ、透明感はない。加えて、生活態度はあまりにだらしなさすぎるし、いたいけなわが子を殺めた挙げ句は変な理屈をこねて死んでいくところなど、そうとしか思えない。
 本の帯にも紹介されている「信仰と無知とは同じかもしれない。毒を飲ませた父にむかって、この子は救いを求めたのです」という詩人の言葉は信仰というものの一面を衝いているにしても、大仰にソクラテスまで匂わせて、社会派作家・石川達三がこの作品で結局は何がいいたかったのか、わたしにはよくわからなかった。

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