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2019年10月の8件の記事

2019年10月15日 (火)

軌道修正したらしいノーベル文学賞。2018年オルガ・トカルテュク(ポーランド)、2019年ペーター・ハントケ(オーストリア)。

2016年、ノーベル文学賞はシンガーソングライターのボブ・ディラン(アメリカ合衆国)が受賞した。翌2017年もノーベル文学賞は迷走を続けて、純粋な芸術性を目的として創作される純文学の作家ではなく、一般大衆を対象とした娯楽的要素の強い大衆文学の作家として人気の高いカズオ・イシグロ(イギリス)が受賞した。

何しろ、従来とは異なるジャンルへの授与が2年続いたのだから、個々の作品に対する評価は別として、これまでのノーベル文学賞とはいえなかった。

そして、昨年2018年はノーベル文学賞の選考機関スウェーデン・アカデミーに問題が起き、選考・発表が見送られた。もうノーベル文学賞は終わった……とわたしは思い、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で以下のエッセーを公開した。

64 2016年に実質的終焉を告げたノーベル文学賞
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/10/16/191359

75 ノーベル文学賞の変節、及び古代アレクサンドリアにおけるミューズ
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/10/08/150033

だから、今年のノーベル文学賞の発表のことはすっかり忘れていて、ツイッターでそのニュースが流れてきたとき、もうその時期なのかとびっくりした。

2018年 オルガ・トカルテュク(ポーランド)
2019年 ペーター・ハントケ(オーストリア)

以上のような結果だった。

ペーター・ハントケという名には記憶があった。

ペーター・ハントケ(Peter Handke, 1942年12月6日 - )はオーストリア出身の現代作家。小説、戯曲、詩から放送劇、フランス文学の翻訳まで幅広く活動。現在フランスのシャヴィーユ在住。(……)
孤児が言葉を知ることによって社会にとらわれていく様を幾つもの断章を用いて描いた戯曲『カスパー』(1967年)や、殺人者が次第に言葉や社会とのつながりを失っていく小説『ペナルティキックを受けるゴールキーパーの不安』(1970年)など、当初は社会に溶け込めない個人を主題とした実験的なものが多かったが、70年代から80年代から次第に肯定的、総合的な作風へ移行して行き、前年の母親の自殺を扱った『幸せではないが、もういい』(1972年)や、『ゆるやかな帰郷』(1979年)、母方の祖父の故郷スロヴェニアを旅する『反復』(1986年)といった自伝的な作品も手がけるようになった。またヴィム・ヴェンダースと組んでの映画製作が知られており、自作が原作の『ゴールキーパーの不安』(映画は1971年)『まわり道』(同1974年)や『ベルリン・天使の詩』で脚本を書いている。
「ペーター・ハントケ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年10月10日 14:53 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

映画『ベルリン・天使の詩』で脚本を手がけた人物だという。わたしは観ていないが、映画雑誌「スクリーン」だったか、「ロードショー」だったかで掲載されていたのを覚えている。

オルガ・トカルチュク(ポーランド語: Olga Nawoja Tokarczuk[ɔlga tɔˈkart͡ʂuk] , 1962年1月29日 - )はポーランドの小説家、エッセイスト。スレフフ出身。
ワルシャワ大学で心理学を専攻。1993年にデビュー。文学専門の出版社「ruta」を設立し、2003年以降は執筆に専念する。2008年にポーランド文学最高峰のニケ賞を受賞し、現代ポーランドを代表する作家として注目されるようになった。『逃亡派』で2018年ブッカー国際賞受賞。
「オルガ・トカルチュク」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年10月10日 14:48 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

オルガ・トカルチュクの作品も未読だった。行きつけの図書館にあったのは、オルガ・トカルチュクは次の2冊。

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)
オルガ トカルチュク (著), 小椋 彩 (翻訳)
出版社: 白水社 (2010/10/19)

逃亡派 (EXLIBRIS)
オルガ トカルチュク (著), 小椋 彩 (翻訳)
出版社: 白水社 (2014/2/25)

ペーター・ハントケは次の4冊。

左ききの女 (新しいドイツの文学シリーズ)
ペーター ハントケ (著), 池田 香代子 (翻訳)
出版社: 同学社 (1989/11/1)

反復
ペーター・ハントケ (著), 阿部 卓也 (翻訳)
出版社: 同学社 (1995/1/1)

空爆下のユーゴスラビアで―涙の下から問いかける (『新しいドイツの文学』シリーズ)
ペーター ハントケ (著), Peter Handke (原著), 元吉 瑞枝 (翻訳)
出版社: 同学社 (2001/07)

ドン・フアン(本人が語る)
ペーター ハントケ (著), 阿部 卓也 (翻訳), 宗宮 朋子 (翻訳)
出版社: 三修社 (2011/10/21)

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+

オルガ・トカルチュクの『昼の家、夜の家』について、訳者あとがきには「本書を構成する111の挿話は、主人公の日常生活、日記、伝説、聖人伝、料理のレシピ、隣人のうわさ話など、それぞれが独立したものでありながら、互いがゆるやかに連関している」(小椋彩、P.378)と解説されている。

独立したものをなぜバラバラの断章にして、連載形式にするのかわからない。例えば、パトハリス修道士の物語はまとまって読むほうがわかりやすいだろうに、キノコのレシピや日記などの間に挟む。わたしには必然性が感じられず、思わせぶりなだけに思えた。

出典も、わざとわからなくしているのだとしか思えない。

引用箇所や参考文献がどことわかるように明記してあれば、作者の改変や潤色がどの程度加わっているのか、いないのか、その引用や参考の仕方が適切なのかどうかを調べることができるのだが、それができず、わが国で流行っているパクリと見分けのつかない、フランス語で誤魔化した「オマージュ」という怪しい手法を連想して苛立ってしまう。

というのも、カリール・ジブラーンの詩は、トカルチュクの小説の扉に置かれているときと、ジブラーンの詩の中に置かれているときとでは「家」が別物としか思えないからだ。異なる観点から「家」というモチーフが使われ、「家」は異なる意味合いを持っているということである。

また、例えば、『逃亡派』に出てくる「ショパンの心臓」の話は実話だが、作者の内臓趣味とショパンの心臓の話は全く意味合いの異なるもので、この作品の中に目玉商品のように置かれるのは、わたしの感覚からすれば、ショパンに対する冒涜でしかない。

トカルチュクは自然科学的というよりは即物的で、宗教的、神秘主義的というよりはごたまぜのスピリチュアル的な作家なのだ。

わたしがトカルチュクの作品に神経質になってしまうのは、ジェイムズ・ジョイスの恣意的な手法を連想してしまうからで、その手法に対する不審感を拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で書いた。

96 ジェイムズ・ジョイス (1)『ユリシーズ』に描かれた、ブラヴァツキー夫人を含む神智学関係者5名
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/06/02/004130

97 ジェイムズ・ジョイス (2)評伝にみるジョイスのキリスト教色、また作品の問題点 
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/06/18/200850

オルガ・トカルチュクの作品を読み込んでいる時間的ゆとりがないので、ジョイスの手法に似て見えるという点だけ、指摘しておきたい。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+

ぺーター・ハントケの作品は、池田香代子訳で、『左ききの女』(同学社、1989)のみ読んだ。読み始めると先が気になって、一気読みした。

絶対音感という音楽用語があるけれど、これは絶対情感の世界とでもいうべきか、よくも悪くも夾雑物が一切ないクリアな世界である。邦訳文はそれを的確に感じとらせてくれ、読みやすい。孤独がテーマなのだろう。

※以下、ネタバレあり。これからハントケの小説をお読みになるかたは、ここまでになさってくださいますように。

女主人公マリアンネには子供が一人いて、彼女は夫ブルーノに別居したい旨を告げる。

小説だが、映像的で、ほぼ会話と描写から成立しており、ハントケが脚本家でもあるという肩書きはなるほどと思わせられる。

女主人公の孤独だけでなく、登場人物全員の孤独が捉えられている。

別居した夫が、腹立ちまぎれにマリアンネにいう。

君はどんどん年をとっていく。たいしたことじゃないわ、とかなんとかいいながら。そしてある日首を吊るんだ。墓に入っても、君の生きざまにお似合いの下品な臭いをぷんぷんさせる。その日まで、君はどうやって過ごすんだ? おおかた、ぼけっと坐りこんで爪でも噛んでるのが落ちだ。そうだろ?(ハントケ,池田訳,1989,pp.82-83)

ハントケの母親は1971年に自殺しており、このことを題材としたという『幸せではないが、もういい』が出たのは、翌1972年のことだった。『左ききの女』が出たのは1976年である。

女性の孤独を濃密に扱ったこの作品にも、母親のことが投影されているのではないだろうか。図書館にペーター・ハントケ(元吉瑞枝訳)『幸せではないが、もういい』(同学社、2002)がなくて残念だ。

作者の視点は小説に登場する子供の視点と重なりながらマリアンネを観察し分析し、彼女の輪郭を顕微鏡にかけるかのように外側から克明に描写する。

マリアンネがおかしくなりそうなクライマックスで、彼女の父親が登場し、よい味を出す。父親は往年の流行作家で、今は雑文書きとなっている。この父親に娘のマリアンネは似ており、彼は娘の指標となりうる人物なのだ。

父親の登場で、マリアンネは救われたといっていいだろう。

作者ハントケは無力な子供シュテファンとしてマリアンネを見つめる一方では、滋味に溢れた物書きの父親となって、マリアンネを見つめる。

息詰まるようなストーリー展開であるにも拘わらず、途中で読むのが嫌にならないのは、作者の真摯さ、誠実さ、人間的な温かさが読者にも伝わってくるからだろう。

マリアンネが父親に再会して再生のきっかけを掴むように、読者も作者から言葉にできない何か確かなものを受けとる。

それは孤独を課題として引き受けて身じろぎもしない、作者の誠実な創作姿勢及び、不撓不屈の精神性であるかもしれない。

父親と別れたマリアンネは、息子と山登りをする。風景描写が美しい。

下の方では煤に点々と汚れていた積雪もこのあたりでは純白だった。犬の足跡に代わって鹿の足跡があった。
 二人は下生えをかきわけて登って行った。いたるところ鳥の声に満ちていた。雪解け水が小さな流れを作って音たてていた。樫の幹からか細い枝が生え、干涸らびた葉が数枚そよいでいた。白樺の幹には白い樹皮が縞模様をなして垂れ下がり、震えていた。
 二人は木立が疎らになったところを行き過ぎた。空き地の縁には鹿が群れていた。それほど深くもない雪からは枯れ草の先がのぞき、草になびいていた。(ハントケ,池田訳,1989,pp.119-120)  

頂上で、焼いたじゃがいもを食べ、魔法瓶の熱いコーヒーを飲みながら母子は思い出を語り、ふとマリアンネはイエス・キリストの十字架への道行きのいろんな留[りゅう]のシーンを描いた絵の話をする。その話が印象的だ。

『イエス、十字架より下ろさる』はほとんど真っ黒で、その次の最後の留、イエスがお墓に葬られるシーンはまた真っ白なの。そこからがおかしな話なんだけど、お母さんはゆっくりと絵の前を歩いていたのね。その最後の真っ白の絵の前に立ったとき、突然、白い絵と重なってほとんど真っ黒のさっきの絵が、数秒間残像になって見えた。それから真っ白な絵が見えた。(ハントケ,池田訳,1989,pp.123)

その後、父親を除く大人の登場人物がマリアンネに誘われて集合し、ホームパーティーとなる。夫ブルーノ、マリアンネの友達で教師をしているフランツィスカ、マリアンネがブルーノのセーターを買ったブティックの女性店員、マリアンネを翻訳者として雇っている社長とその運転手、マリアンネに言い寄る俳優――といった人々である。

各人が自分の孤独を身の内に宿したまま大団円を迎え、パーティーは御開きとなる。

これは未だ初期の作品で、後半部は幾分緊張感が緩み、結末を急ぎすぎた感もあるが、純文学作品らしい手応えのある作品である。

ひとまず、ノーベル文学賞が軌道修正したことに万歳といいたい。おめでとうございます、ペーター・ハントケ。疑問点はあるけれど、おめでとうございます、オルガ・トカルチュク。

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2019年10月13日 (日)

東京を水没から救った二大守護神、首都圏外郭放水路と八ッ場ダム

台風19号の記録的な豪雨により、各地で、甚大な被害が起きました。わたしは息子の住む東京都の安全がどうしても心配でしたが、危惧したよりは首都圏の被害が少なく済んだようで、ホッとしながらも不思議でした。

前掲のツイートを閲覧して、疑問が解けました。

10月1日に試験湛水が開始された八ッ場ダムが台風19号の大雨による利根川の氾濫を食い止め、首都圏外郭放水路(公式愛称「彩龍の川」、「地下神殿」とも呼ばれる)が首都圏の洪水被害を大幅に軽減。鎮座まします二大守護神が東京を水没から救ってくれたというわけですね。

「彩龍の川」も「地下神殿」も、何て素敵な呼び名なんでしょう!

八ッ場ダムは、耳にした覚えがありました。民主党政権時代に国会で叩かれていましたっけね。

八ッ場(やんば)ダムは1967年に事業着手された、群馬県長野原町、利根川水系吾妻川に建設中の多目的重力式コンクリートダムで、2020年完成予定となっているようです。

2009年8月30日に投開票が行われた第45回衆議院議員総選挙では、マニフェストで「川辺川ダム、八ツ場ダムは中止。時代に合わない国の大型直轄事業は全面的に見直す。」と掲げた民主党が308議席を得て衆議院第一党となったことを受け、国土交通省の事務次官谷口博昭は、9月3日午前に入札を延期するよう発注者である関東地方整備局長に対して指示、ダム本体工事の入札は新政権の大臣の判断・指示を待つ意向を明らかにした。9月16日、鳩山由紀夫内閣が正式に発足、国土交通大臣に就任した前原誠司は、認証式後の就任会見において八ッ場ダムの事業中止を明言し、鳩山由紀夫も翌17日の記者会見でこれを支持した。(……)
「八ッ場ダム」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年10月13日 07:20 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

このように、民主党政権下で、一時工事が中断されました。

八ッ場ダムにとってはぶっつけ本番となったわけですが、見事に大役を果たしてくれましたね。

2019年10月1日、試験湛水が開始された。
令和元年(2019年)10月7月(月)午前10時時点の試験湛水状況(速報値)
貯水位(標高):503.5m
貯水率:0.0%
試験湛水により2~3か月かけて満水にする予定だったが、2019年10月12日に上陸した令和元年台風第19号の大雨により水位が急上昇した。国土交通省関東地方整備局の速報によると、13日午前5時時点の水位は標高573.2メートルとなり、満水時の水位(標高583メートル)まで約10メートルに迫った。
利根川下流の栗橋観測所では、13日未明に決壊の恐れがあるとして久喜市、加須市などに避難勧告が発令されるなど緊迫した状況が続いたが、決壊には至らなかった。
「八ッ場ダム」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年10月13日 07:20 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

危ないところではあったようです。八ッ場ダムがなかったらと思うと、ゾッとします。

民主党政権下で要らないもの扱いされていた、スーパー堤防のことも思い出しました。

1987年(昭和62年) - 建設省(現国土交通省)が事業開始。
2010年(平成22年)10月28日 - 民主党政権の事業仕分け第3弾でスーパー堤防事業は廃止と評価判定された。
2011年(平成23年)8月11日 - 「高規格堤防の見直しに関する検討会」において東北地方太平洋沖地震をふまえ、施設の整備水準を上回る外力は発生しうるとしても人命を守ることを第一に対応することの重要性を改めて認識した。
2012年(平成24年)1月19日 - 国土交通省は区間873kmのうち50.6kmの5.8%が整備完了としたが、会計検査院は不完全区間があり完成区間は1.1%と指摘。また、2010年10月の事業仕分けで廃止と判定されたが、2011年東北地方太平洋沖地震をふまえ、「人命にかかわる」として約120kmは整備継続の方針。
「高規格堤防」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年5月26日 13:09 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

規模は120kmに縮小されながらも、建設は行われているようです。

何か起きるたびに、わたしは民主党政権時代の悪夢のような「事業仕分け」を思い出す癖がついてしまいました。わたしには彼らが日本沈没を企んでいたとしか思えません。単に無知だった可能性もありますが……

まだ救出を待っている方々がおられるようです。一刻も早く、救出されますように。

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2019年10月12日 (土)

暴風に備えて、窓に養生テープを

台風19号、「13日にかけて予想される最大瞬間風速は、東海地方、関東甲信地方60メートル」とか。

息子、親戚、友人が東京方面にいるので、心配です。

大分県日田市で台風被害に遭ったとき、最大瞬間風速50・2メートルでした。それより大きい……

50メートルでさえ、外へ出るなどできないレベルです。まず、ドアが開きません。電信柱が倒れ、何が飛んでくるかわかりません。

九州では、暴風雨のときにドアに指を挟まれて大怪我をしたという話をよく聞きますので、どうしてもドアを開けなければならないようなときはくれぐれもご注意を。

窓が割れたという話もよく聞くところです。養生テープ、カーテンをして、窓から遠ざかるのがいいようです。持っていれば、ヘルメットをかぶったほうがいいと思います。

窓が飛ぶレベルだと、養生テープも無意味かもしれませんが、割れたときにガラスが飛び散ることを防ぐことはできるそうです。

何とか軌道修正したらしいノーベル文学賞のこと、あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」に「被曝最高!」と若者らが叫ぶ原発事故を嘲った映像作品があったそうで炎上しており、この二つに関する記事を書いているところでしたが、台風の事が気になり、当記事となりました。

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2019年10月 8日 (火)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その15。10月8日午後再開。河村市長の座り込み抗議、赤に白一点のフォーラム。田中保善『泣き虫軍医物語』。

物議を醸し続けている「あいちトリエンナーレ 2019」の企画展「表現の不自由展・その後」ですが、本日――10月8日午後、再開の予定だそうです。

これに異を唱えてきた名古屋市の河村たかし市長が、その再開に合わせて、抗議の座り込みをなさるそうです。また、河村市長は7日、18日が支払い期限の市が負担する開催費用の一部約3380万円について、支払い留保の考えを記者団に明らかにしました。

入場者には教育プログラムを受けさせるのだそうです。このやりかたは石平氏がおっしゃる通り、共産党の洗脳を連想させます。

 

「ひろしまトリエンナーレ2020」のプレイベントにあたる企画展が10月5日、広島県尾道市の離島、百島で始まったそうで、これも大同小異のひどいものであるようです。わたしも、西村氏のご意見に同感です。

あいちトリエンナーレのあり方検討委員会とあいちトリエンナーレ実行委員会が主催する国際フォーラム「『情の時代』における表現の自由と芸術」の第1日「表現の自由と芸術、社会」が2019年10月5日(土)13時から17時まで、愛知芸術文化センターで開かれました。

それを記録した動画の中で、「国家や一部の人々を傷つけたり驚かせたり混乱させるものも表現の自由として保証される」などという、司会者のとんでもない発言がありました。日本国憲法第12条に真っ向から挑戦する発言であり、これはもはや芸術とは無関係なテロリストの発想です。 

第一二条[自由・権利の保持義務、濫用の禁止、利用の責任]この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

フォーラムの最後で良識的な発言がありました。それを司会者が潰した格好でフォーラムは終了し、芸術監督・津田大介氏がオマケの大あくびをしました。

日本人が大東亜戦争と呼び、終戦後、GHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、太平洋戦争などと呼ばれるようになった先の戦争を、左翼がプロパガンダに絶賛活用中です。

彼らの脳内では、その戦争において、大日本帝国軍人は天皇陛下の命により、植民地戦争を繰り広げて残虐行為を行ったということになっています。そして、これら軍人の性の相手を朝鮮人の従軍慰安婦がさせられ、ひどい扱いを受けたということにもなっています。

「表現の不自由展・その後」の展示作品も、この二点に依拠したものです。この二点が覆ってもなお芸術作品として何か優れたものが残る作品が一点でもあるのでしょうか。

そもそも、どなたの御写真であろうが、それを焼いたり踏みつけたりする行為、また死者を冒涜する行為は、日本人の感性には到底馴染まないものです。日本人は古来、礼節を尊ぶ国民性です。

祐徳稲荷神社の創健社、花山院萬子媛に祈って何度となく命を救われたとお書きになっている田中保善氏の御著書『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、昭和55年)が届きました。

戦争末期の昭和19年7月、町の開業医だった著者が軍医として応召、戦地ボルネオを中心とした体験記録です。

愛媛の古書店からの発送で、310円。経年劣化で中身は黄ばんでいるものの、美品といってよい商品でした。中表紙に付された青年軍医のきりっとした童顔の御写真を見たとき、思い出しました。

小学校だったか中学校だったかは忘れましたが、集団予防接種のとき、見かけたお顔です。上品な、優しそうなお顔。昔のことで、記憶は確かではありませんが……

プロフィールから引用します。

明治42年鹿島市に生まれる。鹿島中学旧制佐賀高を経て昭和10年九州帝大医学部卒、同12年鹿島市で開業。同19年7月応招。同21年4月復員…

まだ読んでいる途中なので、記事を改めてレビューを書きたいと思っています。

ちょっとだけ書いておくと、従軍慰安婦は出てきませんが、慰安婦(公娼)は結構出てきます。日本の娘だけでなく、「朝鮮や台湾の娘もおり、時にはジャワ島から来たジャワ娘もいた」(73頁)とあります。連れてこられたではなく、「来た」とありますよ。

信憑性の薄い河野談話が発表されたのは平成5年(1993)、田中氏の御著書が上梓されたのはそれを遡ること13年、昭和55年(1980)です。率直でユーモラスな筆致が特徴的なこの体験記には、様々なことが赤裸々に書かれています。

慰安婦達との恋愛遊戯のようなこともよくあったようで、田中氏は千代龍という美女に一目惚れ。こんなことを書いて、奥様に叱られなかったでしょうか。千代龍というのは源氏名でしょう。

日本軍がクダット地区を撤退するとき、酋長は部下幹部と共に涙を流して悲しみ、次のように言ったと書かれています。

クダットを撤退するのは思いとどまって下さい。他の新鋭部隊でなく今のあなた達でよい。日本軍がいなくなって、またもし白人が来たら、我々はまた人間扱いはされない。日本軍は私達を同等に扱ってくれた。我々と同じ物を食べ、一緒に同席してくれた。また赤十字をつけた兵隊さんからは我々の仲間が病気を治療してもらって沢山助けられている。どうか日本軍の皆さん、クダットに残っては下さらないでしょうか。日本軍の代わりに白人が来たら、我々はまた奴隷にされてしまいます。(131~132頁)

田中氏のこの御著書だけでも、左翼がしがみついている前掲二点を覆すことができます。「勝てば官軍、負ければ賊軍」といいますけれど、勝った側って、本当に嘘つきですね。

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2019年10月 5日 (土)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その14。再開の動きのある中で浮上した、補助金詐欺疑惑。

愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で中止となった企画展「表現の不自由展・その後」ですが、以下の愛知県議会議議員のツイートが示す、不透明な状況下で、再開の動きが出ています。

再開する時期は10月6~8日の方向だということですが、ここへきて、補助金詐欺疑惑が出てきました。

明日は6日ですが、本当に再開されるのでしょうか。メディアはおそらく補助金詐欺疑惑に関してはおおむねスルーでしょう。出版界の現状を伝える以下の貴重なツイート。

あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」では、慰安婦像はじめ、昭和天皇、特攻隊を貶める作品が展示されていました。それを再び日本人の目に晒すつもりなのでしょうか。

ここまでするのであれば、日本人が大東亜戦争と呼び、戦後、GHQによって戦時用語として使用が禁止され、太平洋戦争などと呼ぶようになった戦争について、公平に検証すべきです。

否、既に検証は充分なされたといっていい段階にきているのですから、メディアがそれを海外にまで拡散してくれればいいだけの話なのです。反日に染まりきっていて、彼らはそれをしようとはしません。

「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まった大東亜戦争が、アジアの植民地の宗主国を中心に構成された連合国側にとっては都合が悪かったため、終戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。
「大東亜戦争」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年8月16日 04:16 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

戦争をするに当たっての日本のこうした理念と構想は、開戦の詔勅に簡潔に書かれています。開戦の詔勅、終戦の詔勅の内容を日本人は学校で教わることがありません。

前の記事で書いたように、萬子媛のイメージ像をモデルとした新作能を書いている途中ですが、戦時中、萬子媛に度重なる危機を助けられたとお書きになっている田中保善氏が軍医として行かれたというボルネオについて調べていました。

コタブルトのアバラ屋と書かれている箇所を読むと、ジャングルの中なのだろうかと思い、これは凄惨なボルネオの戦いというイメージにぴったりくるものでした。ですが、クダット県知事公舎、大きな医務室などと書かれていると、整備された地域もあるのだろうと思いました。それは、植民政策を行っていたオランダかイギリスが整備したものを日本軍が占領したのだろうかと思い……当時の状況が全くわからなくなりました。

連合軍の攻撃で悲惨になる前のボルネオの状況を知りたいと思いました。今でもジャングルで有名なボルネオは、ボルネオの戦いで悲惨になる前から悲惨なところだったのでしょうか。

今のボルネオは親日だそうで、特にブルネイがそうだと知り、ウィキペディアを閲覧しました。

第二次世界大戦が始まり、この地を支配していたイギリスを日本軍が排除した結果、1942年より日本の戦時統治が始まり、ブルネイ県が設置される。
木村強がブルネイ県知事として着任した。
木村強は約1年間ブルネイ県知事を勤めて最初に軍部の反対を抑えて、多くのインフラ設備と公共設備投資をして、後のブルネイの経済発展をさせた。後に首狩り族とブルネイで恐れられ、日本軍に抵抗し戦い、その日本軍の兵士も捕まえて首を切ったとされているイバン族を必死に説得して協力させ、ブルネイの発展に作業させた。ブルネイ国王のアマド・タジュディンはイバン族を全滅させようとしたが、木村強は何とかしてイバン族の命を救った。そして1年のブルネイ県知事を終えた。
「ブルネイの歴史」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年8月29日 01:28 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

石油がほしいというだけでは、首狩り族を保護するようなことまではしないでしょう。以下のブログには、詳しいことが書かれています。植民地として利用されるだけで貧しかったボルネイを日本は人道的なやりかたで、豊かなところに変えていきました。日本人がブルネイの人々と一緒に平和な、豊かな場所に変えていったところへ、連合軍が攻撃をしかけてそれを滅茶苦茶にしたというわけです。

「【親日感動秘話】ブルネイを救った伝説の日本人」『にゃんころりんのらくがき』。2016年06月06日 13:47 UTC、URL: https://ameblo.jp/ba7-777/entry-12167914277.html

そういえば最近、ペリリューの戦いで知られるパラオについても調べて、感動したばかりでした。

2019年9月16日 (月)
あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その13。「開戦の詔勅」から「表現の不自由展・その後」まで、ツイートを時系列に。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/09/post-dcf82f.html

太平洋戦争について調べるとき、こうした「発見」は沢山出てきます。そうした国々が今も親日であることが、何よりの証拠です。日本人にとって、太平洋戦争はまぎれもなく大東亜戦争だったのです。

戦時中の日本人の美しい行為は、江戸初期生まれの萬子媛が神社という神域から今なお続けておられる行為に重なるものがあります。日本人にはこうした一筋の美しい流れがあり、それを絶やしてはいけないと思います。これほどのものを作り上げた文化は尊重され、継承されるべきものであって、貶められるべきものではありません。

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2019年10月 4日 (金)

ストウブで野菜ゴロゴロのスープ(のはずが、ほぼ野菜の煮物に)

ストウブで、野菜を大きく切って、野菜ゴロゴロのスープを作ろうと思いました。

野菜から水分が出るだろうけれど、大きく切った野菜がスープに漬かりきれないと美味しくないだろうと思い、水カップ3、4.5gの顆粒野菜スープの素2本。

水カップ3では、野菜が全部は漬かりきれないことが判明。ストウブはココットラウンド22㎝です。

サツマイモを一番上にすると、下半分が漬かるので、途中で上下返せばいいと思いました。火にかけて沸騰したら、弱火で20分。

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その結果、ほぼ野菜の煮物になりました。野菜はほくほくの仕上がりです。かぼちゃ、大根、サツマイモ、人参。

柔らかいのに煮崩れないのは、ストウブならでは。煮崩れないので、よけいに煮物みたいに見えます。

スープの色が薄くてわかりにくいかもしれませんが、この野菜のエッセンスのようなスープがまた美味しいのです。味付けは、スープの素の塩味だけで充分でした。

この日は他に、合い挽き肉と玉葱を入れたオムレツにブロッコリーを添えたものでした。ブロッコリーもスープに入れるはずでしたが、ストウブに入りきれず、オムレツに添えたというわけです。

我が家にはストウブが2台、前述したココットラウンド22㎝とラ ・ココット de GOHAN M(16㎝)があります。我が家には絶妙のコンビで、わたしはこの2台で満足しています。

2019年6月19日 (水)
ストウブ二台目、美味しい炊き込みごはんができました
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/06/post-4ba991.html

炊き込みごはんをよく作るので、ごはん炊きに適したGOHANを購入しましたが、多めに作りたいので、今では容量が大きいラウンドで作ることがほとんどです。炊き込みごはんをラウンドで炊く間、GOHANも大抵活躍しています。GOHANで作った炒り豆腐はふっくらと味わい深く、とても美味しいですよ。

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2019年10月 3日 (木)

萬媛の三番目物ノート ①大まかなあらすじ

わたしは田中保善氏のご著書『鹿島市史 真実の記録』(1990)の中の萬子媛に関する伝記的記述を読み、子供のころから何となく心惹かれていた萬子媛に一層興味を持つようになりました。

わたしなりの萬子媛のイメージ像をシテ(主人公)として新作能を書いてみたいという大それた望みは先月の25日に生まれたばかりです。アマチュア物書きのわたしがそれを書いたところで何になる、などとは不思議にも全く思いません。書けるかどうかは別として、書いてみたいという強い思いが湧き起こっています。

ワキ(シテの相手役)は、前掲の田中氏がモデルです。

『鹿島市史 真実の記録』には、先の大戦中、軍医として出征した出来事が綴られています。田中氏は出征前、祐徳稲荷神社に参詣したそうです。

倉稲魂大神(田中氏の研究ではインドの夜叉・荼枳尼天だそうです)にお願いすると同時に、「荼枳尼天と同等に神通力を有しておられる萬子姫の霊たる祐徳院殿瑞顔大師に御助け下さいと御願いした。母親に甘えるだだっ子のように罪深き卑怯者の私をどうか御助け下さい。私には母も妻も子供もおります。今度の戦争は敗戦[まけいくさ]で戦死するのが当たり前ですが、何卒御助け下さいと御願いした」(157頁)そうです。

危機一髪で奇跡的に助かったエピソードが五つ紹介されていますが、そのようなことがまだ何回もあったそうです。インディージョーンズより凄い! 例えば次のエピソード。

敵地巡回診察中、敵戦斗機三機に狙われ機銃掃射を受け終に私の腰部に命中したが、私の軍刀の鞘にあたり、鞘はえぐり取られたけれど私の腰は無事で助かった。(158頁)

戦争を知らないわたしが戦争を書くことになるとは想像もしませんでした。

ですが、一応平和とされている現代においても、また田中氏が体験された戦争においても、おそらくは萬子媛はお亡くなりになった江戸時代からずっと今日まで、日本に生きる人間たちを毎日欠かさず見守ってこられたのだと思うと胸が熱くなり、田中氏の劇的な体験を参考にさせていただいて萬子媛を描いてみたいと思うに至りました。

田中氏の他のご著書『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)は未読でした。幸いアマゾンに中古で出ていたので、注文したところです。このご著書も参考にさせていただくことになるだろうと思います。

新作能の曲名は未定です。2007年10月に上梓された絵本『萬媛[まんひめ]』(文:梶田聡実、絵:寺田亜衣・杉本国子・中島健一・古賀沙織、監修:荒木博申、企画:吉岡満雄・佐藤三郎、編集・印刷:サガプリンティング)とかぶるとよくないでしょうから、かぶることにはならないようにしたいと考えています。

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おおまかなあらすじ

開戦の詔勅から時間が経過し、日本軍の敗色が濃くなったころ、○○(ワキ ※ワキの名は未定)に招集礼状が来る。○○は軍医として出征するに際して、神社に参詣し、稲荷大神と萬媛(註1)に加護を祈念する。

○○はかねてより神社の研究をしており、信心は篤かった。○○には守るべき母、妻、子があった。

マニラ丸でボルネオへ向かう途中、船は敵の砲弾を受ける。海中に放り出された○○の目に、天より舞ひ降りて来し白銀の一団(シテ、シテツレ、トモ)が映った。中心のひときわ輝かしい姿が目に入る。

従者のように見える天人の一人(シテツレ)がいう。

自分達は仏果を得た者であるが、(神社に伝えられる)天明8年に京都御所が火災となり、その火が花山院邸に燃え移ったとき、鎮火に現れた白衣の一団とは実は自分達であったのだ――と。

中心の輝かしい御姿(シテ)が、萬媛は自分だと告げる。

後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の娘として生まれた萬媛のこの世に在りし日々が語られる。

※在りし日々で採り上げるエピソードに関しては未定

萬媛の入寂と昇天の舞が重なる中、神々しい萬媛の舞に見とれているうちに○○は意識を回復する。そこは、ボルネオのコタブルト(註2)のアバラ屋に日本軍が設けた医務室だった。その後もいくつかの危機を奇跡的に脱し、終戦の詔勅からほどなく復員を果たした○○は、神社に参詣する。

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註1 鹿島市民図書館学芸員T氏によると、剃髪前の萬子媛は「萬媛」と呼ばれていた可能性が高い。

歴史短編1のために #47 落胆と取材の成果 (2)早逝した長男の病名、萬子媛の結婚後の呼び名
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/10/post-55cb.html
日本では、身分の高い人の実名を生存中は呼ぶことをはばかる風習があり、複名(一人物が本姓名以外に複数の呼称を併せもつこと)が多い。滝沢馬琴は没後の法名まで含めると、35の名を持った。ただし、本人は滝沢馬琴という筆名は用いていず、これは明治以降に流布した表記だという。
萬子媛の名が史料に出てきにくいのも、このような日本特有の事情によるものだということが、学芸員のお話を拝聴する中でわかった。結論からいえば、萬子という名はおそらく明治以降に流布した呼び名で、子のつかない「萬」が結婚するときにつけた名であっただろうとのことだった。
萬子媛に関する興味から江戸時代を調べるようになってからというもの、わたしは、男性の複名の多さに閉口させられてきたのだったが、学芸員のお話によると、女性のほうがむしろ名が変わったという。
生まれたとき、髪を上げるとき(成人するとき)、結婚するとき、破談となったとき、病気したときなども、縁起のよい名に変えたそうである。また、女性の名に「子」とつくのは、明治以降のことらしい。
そこから、萬子媛は結婚するときに「萬」と名を変え、結婚後は「御萬」あるいは「萬媛」と呼ばれていたのではないか――というお話だった。

註2 コタブルトはコタッ・ブルッのこと。コタ・ブルッ(Kota Belud)は東マレーシア・ボルネオ島北端のサバ州にある町。「コタ・ブルッ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年10月16日 11:04 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

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参考資料メモ1

  • 開戦の詔勅、終戦の詔勅
  • 田中保善『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)、『鹿島市史 真実の記録』(1990)
  • 郷土史家・迎昭典氏から送っていただいた貴重な史料のコピー及び迎氏のご考察
  • 祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館学芸員T氏、黄檗宗の大本山である萬福寺宝物館の和尚様から伺ったお話
  • 三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)
  • 新古今和歌集
  • 大和物語
  • 拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」(カテゴリー「祐徳稲荷神社参詣記」)

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拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」より

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)

神社という聖域には、実際に萬子媛のような高級霊が地上界を見守っていらっしゃるケースがあるということを、わたしは神秘主義的見地から確認してきた。

萬子媛のようなタイプの修行者をもたなければ、このようなタイプの守護者を日本は持つことがなかったわけである。

わたしはたまたま児童小説『不思議な接着剤』を書くためにマグダラのマリアについて調べていた。すると、時も場所も異なるが、萬子媛と同じように後半生を修行に明け暮れて亡くなり、守護聖人として祀られているマグダラのマリア伝説があるのを知った。

宗教的装いは違っても、古今東西、人間はどこでも似たようなことをやっているわけである。生前に徳のあった人物を慕い、加護を祈念する。そして、驚いたことに、現にそれに応えている萬子媛のようなかたが存在することをわたしは知ったのだった。

この純正ボランティア精神が生じた背景を知りたい。このかたはどんな人生を送られたのか。その環境はどんなものであったのか。思想的影響は? 萬子媛を繙くことは、これまでわたしが知らなかった日本について知ることでもあるのだ……

萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られているが、祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院である。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は日本の三禅宗の一つである黄檗宗の禅寺で、義理の息子・断橋に譲られて萬子媛が主宰した尼十数輩を率いる尼寺であった。

ざっと、萬子媛について復習しておこう。

萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となる。

1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。父の花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。

1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。

1673年、文丸(文麿)、10歳で没。1687年、式部朝清、21歳で没。

朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。

萬子媛の兄弟姉妹は、花山院家を継いだ定誠以外は、円利は禅寺へ、堯円は浄土真宗へ入って大僧正に。姉は英彦山座主に嫁ぎ、妹は臨済宗単立の比丘尼御所(尼門跡寺院)で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入った。定誠、武家に嫁いだ萬子媛も結局は出家している……

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78 祐徳稲荷神社参詣記 (5)扇面和歌から明らかになる宗教観

神社外苑にある祐徳博物館には、萬子媛遺愛の品々を展示したコーナーがある。初めてそこを訪れたとき、わたしにとって最も印象深かったものは、萬子媛の遺墨、扇面和歌だった。

金箔を張った扇面の馥郁と紅梅が描かれた扇面に、新古今和歌集からとった皇太后宮大夫俊成女(藤原俊成女)の歌が揮毫されている。

萬子媛は花山院家の出で、花山院家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道だから、萬子媛が達筆なのも当然といえば当然というべきか。

元禄9年(1696)――出家後の71歳のころ――に揮毫されたものだ。揮毫されたのは、藤原俊成女の次の歌である。

梅の花あかぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月

藤原俊成女は鎌倉時代前期の歌人で、皇太后宮太夫俊成女、俊成卿女の名で歌壇で活躍した。藤原俊成女は藤原定家の姪だった。

田渕句美子『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今和歌集(角川選書536)』(KADOKAWA、2014)によると、平安末期から鴨倉初期に歌壇を先導した歌人が藤原俊成(1114 - 1204)で、定家はその子、藤原俊成女は孫娘に当たる。

藤原俊成女は父の政治的不運により、祖父母に引きとられ、俊成夫妻の膝下[しっか]で定家らと共に育てられたという。しかし、定家と藤原俊成女の間には確執が生じたようだ。

平安末期から鎌倉初期にかけて在位(1183 - 1198)した第82代後鳥羽天皇(1180生 - 1239崩御)は、院政時代に後鳥羽院歌壇を形成した。
その後鳥羽院の招きに応じ、活躍した女性歌人が、式子内親王[しきしないしんのう]、宮内卿[くないきょう]、藤原俊成女だった。

それぞれに際立った個性があり、わたしは三人共好きだ。(略)

幽玄美を提唱して『新古今和歌集』の歌人を育てた藤原俊成、『新古今和歌集』の撰者の一人であった定家、藤原俊成女らは藤原北家の人々で、花山院家は藤原北家だから、萬子媛にとっては『新古今和歌集』という存在そのものが望郷の念を誘うものだったのかもしれない。

そういえば、『源氏物語』を著した紫式部も藤原北家の人だった。藤原北家は右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系で藤原四家の一つである。

萬子媛の扇面和歌が出家後に揮毫されたものであることから考えると、僧侶としての生活の一端も見えてくる気がする。

修行生活は、芸術(文芸)などを通して培われる類の情緒的豊かさを犠牲にする性質のものではなかったということだ。

一方では、『祐徳開山瑞顔大師行業記』の中の記述からすると、萬子媛の修行には男性を凌駕するほどの厳しい一面があったと考えられる。
その二つがどのように共存していたのだろうか。いえることは、だからこそ、わたしの神秘主義的感性が捉える萬子媛は今なお魅力的なかただということである。

萬子媛遺愛の品々の中には、二十一代巻頭和歌の色紙もあった。萬子媛が愛読愛蔵されたものだと解説されていた。

二十一代集(勅撰和歌集)とは、平安時代に勅撰和歌集として最初に編纂された古今和歌集(905)から室町時代に編纂された新続古今和歌集(1439)までの534年間に編纂された21の勅撰和歌集のことで、合わせて23万44首といわれる。

二十一代集は、平安時代から室町時代までの文化史が歌という形式で表現されたものということもできる。そこからは日本人の精神構造が読みとれるばすで、宗教観の変遷などもわかるはずである。

二十一代集の巻頭和歌を愛読された萬子媛は、和歌そのものを愛されたといってよいのではないかと思う。

昔の日本人の宗教観は凛としている。洗練された美しさがあり、知的である。

平安時代末期に後白河法皇によって編まれた歌謡集『梁塵秘抄』を読んだときに思ったことだが、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が貴族から庶民層にまで浸透しているかのようだ(エッセー 74 を参照されたい)。

こうした宗教観は鎌倉時代初期の勅撰和歌集『新古今和歌集』にも通底しており、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が読みとれる。

こうした複合的、統一感のある宗教観こそが歌謡集から勅撰和歌集まで、そこに集められた歌に凛とした気品と陰翳と知的洗練をもたらしたのだと考えられる。

江戸初期から中期にかかるころに生きた萬子媛が二十一代巻頭和歌を愛読されていたということは、二十一代集に通底する宗教観を萬子媛も共有していたということではないかと思う。

ちょっと注目したいのは、次の歌である。作者は前述した皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)。

   皇太后宮大夫俊成『新古今和歌集』巻第十九神祇歌
春日野のおどろの道の埋[うも]れ水すゑだに神のしるしあらはせ
(この春日野の、公卿の家筋を暗示するおどろの路の、埋もれ水のごとく世に沈んでいる自分である。今はとにかく、せめて子孫なりとも、わが祈りの験[しるし]をもって、世に現わし栄達させ給え。「春日野」は春日神社を示し、自身も藤原氏でその神の末であることとを余情とした詞。「おどろ」は、草むらの甚だしいもので、「路」の状態とするとともに、公卿の位地を示す語。)*10

子孫の出世を願う、切実ながらいささか世俗臭のする歌だと考えられるが、俊成は藤原北家の人で、萬子媛も藤原北家の花山院家の出であるから、神のしるしどころか、文字通り祐徳稲荷神社の神々の中の一柱となられた萬子媛は、子孫の栄達を祈った俊成の願いを最高に叶えた子孫といえるのではあるまいか。

*10:窪田訳,1990,p.443

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あらすじ、できました。新作能を読んだ感想。

昨日、萬子媛のイメージ像をシテ(主人公)とした新作能(三番目物)のおおまかなあらすじができた。そのノートは、次の記事にアップする。

何しろ、能を観たのは3回だけで、あとはテレビでの鑑賞、謡曲集の読書くらい。それで、新作能を書こうというのだから、無知とは怖ろしいものだ。あらすじができたあとで、せっせと勉強することなる。その勉強によって、あらすじ自体が変わる可能性はある。

母がお謡を習っていたのに、無関心で、からかっていただけだったことが悔やまれる。母が生きていたら、教わることも多かっただろうにと思う。

当市には能楽堂があり、3回観た舞台のうち1回はこの能楽堂で観たものだ。

舞台を観なくてはと思う。ホームページを観たが、今年中にはそれらしいものがない。何にせよ、ここの能楽堂と福岡の大濠公園能楽堂の催事情報はこまめにチェックする必要がある。能鑑賞貯金もしなくては。その貯金箱の一つを、一昨日夫がうっかり割ってしまったわ (T^T) 

石牟礼道子『石牟礼道子全集 不知火 第16巻』(藤原書店、2013)の中のエッセイで、石牟礼氏の「台本を書くまでにお能といえば二度しか見たことがありませんでした」(75頁)という記述に救われる思いがした。

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  • 瀬戸内寂聴の新作能 虵 夢浮橋
  • 石牟礼道子全集・不知火 第16巻 〔新作 能・狂言・歌謡ほか〕 (石牟礼道子全集・不知火(全17巻・別巻一))
  • 多田富雄新作能全集

以上の本のうち、読んだ作品の感想を書いておこう。

瀬戸内寂聴「虵」

鎌倉時代前期の仏教説話集、鴨長明編『発心集』の中の説話「母、女[むすめ]を妬[ねた]み、手の指虵[くちなは]に成る事」を基にした新作能である。

「発心集」の説話を紹介すると、娘のある女が年下の男と結婚し、老いの不安から娘と男を強いて夫婦にしたまではよかったが、女は一室でのどかに隠居するどころか、嫉妬のあまり両手の親指がくちなわになってしまうという話。

惑乱した娘は尼に、男は法師に、女も尼になる。それでようやく女の指は元の指になり、後には京で乞食になったという。

両手の親指がくちなわになるというグロテスクさ。娘も男も女のいいなりで、狂言回しに使われているだけだ。

女が後に乞食になったとあるのは、どういうことだろう? 

女が尼になったのは怪奇現象を起こした指を元に戻すことだけが目的で、純粋な信仰心などはなく、目的達成後に尼をやめたということなのか。

尼であれば托鉢であって、乞食とはいうまい。それとも、この「乞食」とは仏教用語「こつじき」、すなわち托鉢のことなのだろうか。こつじきが転じて物乞いする行為「乞食」となった。

尼としての矜持を感じさせる暮らしであれば、いずれにせよ、その部分だけが強調されることはないだろう。

俗人が俗欲に終始した、実も花もないお話。

瀬戸内氏は、男を仏師にすることで、作品の俗っぽさを一層強めている。能の形式上、男と女は成仏した格好だが、成仏はしていまい。

それが小説「虵」になると、表現がリアルであるだけにいよいよ救いがたい結末となっている。尼となった女が老い、見世物小屋でくちなわの指を見世物にしていたというエピソードが語られるのだ。

能舞台となれば美しいのかもしれないが、作品として読むと、あまりにも救いがなさすぎる。登場人物の魅力が微塵も感じられない。

石牟礼道子「不知火」

石牟礼道子氏の新作能「不知火」は流麗な文章で、情緒に満ちて美しいというだけでなく、偏頗な文明に対する作者の危機意識が伝わってくる。入魂の作品という印象を受けた。この曲が水俣で演じられることは意義深いことだろう。

たが、わたしにはこのストーリーがうまく理解できない。

竜神の娘・不知火[しらぬひ]には、海霊[うみだま]の宮の斎女として久遠の命が与えられているにも拘わらず、生類の定命衰滅に向かえば、不知火の命もこれに殉ずるという。

竜神の息子・常若は父に命じられて生類の世を遍歴し終えた。

姉と弟は海と陸からこの世の水脈を豊かにすることに携わってきたが、この世の初めからあった真水が霊性を徐々に喪い、生類を養う力が衰えて、姉弟共に身毒が極まり、余命わずかとなった。

慕い逢う二人は、息絶え絶えとなりながら、恋路が浜に辿り着く。そして姉のほうは死んだ(弟も?)。

こうした一切を見ているのは、隠亡[おんぼう]の尉[じょう](じつは末世に顕れる菩薩)。

わたしには二人の勤めの内容がよくわからない。人間の罪業が重なったために毒変した海を浚えて浄化するとあるから、いわば濾過装置のような役割を果たしてきたということだろうか? 竜神の子たちの勤めかたにしては、人間の労働臭い。苦役そのものである。

そして、亡き妻を含む竜神一家は、末世の菩薩の秘命の下に働いてきたというのである。

その菩薩の助力もあって不知火は生き返り、二人の結婚を祝うために中国から楽祖(じつは木石の怪にして魍魎の祖)が招かれる。

楽祖が磯の石を手にとって打ち鳴らせば、浜で惨死した猫たち、百獣が神猫となり、胡蝶となり、舞う、橘香る夜となる……海も陸も再生したのだろう。

水俣病問題は産業における人為的ミスに社会的要因が絡んで被害が拡大し、社会問題となった。

その問題を石牟礼氏は現世と来世が重なり合う宇宙空間、悠久の時間の流れの中に直に置こうとしたため、一つの作品として見るとき、整合性のとれない部分が出てきたように思う。

多田富雄新作能全集

脳死(「無明の弁」)、朝鮮人の強制連行(「望恨歌」※最近の検証により、朝鮮人の強制連行はなかったことが判明した―ブログ管理人N)、原爆投下(「原爆忌」「長崎の聖母」)、相対性原理を題材とした能(「一石仙人」)、沖縄戦(「沖縄残月記」)、横浜に因んだ能(「横浜三時空」)、白州正子さんを題材とした能(「花供養」)、(「生死の川――高瀬舟考」)、子供能チャレンジのための能(「蜘蛛族の逆襲――子供能の試み」)。

時事的な題材が多い。構成も文章も端正だが、これらの能は地上界から一歩も出ていないような感じがする。異世界に触れることによる浄化現象は期待できない。

まだざっと読んだだけなので、読み込めばまた違った感想が生まれるのかもしれない。そのときは別の記事にしたい。

ただ、能に関して右も左もわからないわたしのような人間には、参考になる。能舞台を観たあとで購入したのかどうかは覚えていないが、多田富雄 監修『あらすじで読む 名作能50』(世界文化社、2005)を再読している。わかりやすい。

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