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2019年8月の19件の記事

2019年8月23日 (金)

神秘主義エッセーブログ「49 絵画に見る様々なマグダラのマリア」に加筆しました

マダムNの神秘主義的エッセー
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/

49 絵画に見る様々なマグダラのマリア
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/05/05/025512

別記事にしようかと迷いながら、加筆を重ねています。加筆部分を転載しておきます。

目次

  1. 絵画によるマグダラのマリアの競演
  2. 東方教会が伝える、誇り高く行動的なマグダラのマリア(主の復活の第一証人、方々へ伝道、ローマ第二代皇帝にイエスの冤罪を直訴)
  3. イエスが結婚していたとする説
  4. イエスの愛しておられた者とは誰か?(横になって食事するローマ式だった最後の晩餐)
  5. イエス一家の棺の発見
  6. 「フィリポ言行録」について

イエス一家の棺の発見
2019年8月22日における追記 1: イエス一家の棺の発見

前章「イエスの愛しておられた者とは誰か?(横になって食事するローマ式だった最後の晩餐)」で、わたしは最後の晩餐でイエスに寄り添っていた「イエスの愛しておられた者」が誰なのかを推測した。

その人物が、イエスの最も高位の愛弟子であり、妻でもあったマグダラのマリアであってはなぜいけないのか、と書いた。そのように書きながらも、疑問を拭いきれなかった。

最後の晩餐だからといって、妻が師でもある夫の胸に寄り添うのは行き過ぎのような気がしていたのだった。だが、それが成人男性であるとすれば、もっと異常な場面であると思われ、従ってマグダラのマリアと考えざるをえないと思っていたのだ。

疑問を払拭する著書に出合ったので、追記しておきたい。

7月のある日、図書館から借りた10冊の中に、シンハ・ヤコボビッチ&チャールズ・ペルグリーノ(沢田博訳)『キリストの棺 世界を震撼させた新発見の全貌』(イースト・プレス、2007)が混じっていた。何となく借りた、内容にはほとんど期待していなかった本だった。

ところが、わたしには面白いどころの本ではなかった。

1980年代に、エルサレムで2000年前の墓が発見されていたという。納骨洞にあった10個の骨棺は、イエス(ヨセフの息子イエス)、マグダラのマリア(師として知られたマリアムネ)、2人の子供であると思われる男の子ユダ(イエスの息子ユダ)他、新約聖書に登場するイエスの家族のものだというのである。

1世紀ごろのユダヤ社会では、イエスもマリアもユダも他の家族の名もありふれたものだったが、これだけの名が一つの家族に集まる可能性は600に一つにすぎないらしい。

このドキュメンタリーから、ジェームズ・キャメロン監督によるテレビ用のドキュメンタリー番組が制作された。

わたしは『ダ・ヴィンチ・コード』の元ネタとなったマイケル・ベイジェント &ヘンリー・リンカーン&リチャード・リー『レンヌ=ル=シャトーの謎―イエスの血脈と聖杯伝説』(柏書房、1997)を面白く読み、『マリアによる福音書』に登場するマグダラのマリアをモデルとした児童小説の参考にもしていた。

それなのに、どういうわけか、『キリストの棺』も、日本でも放送されたというドキュメンタリー番組も(ググったらフランスの動画サイトで出てきた)、全く知らなかったのである。

当時の新聞記事が出てきた。

「『キリストに妻子』、ジェームズ・キャメロンのドキュメンタリーが波紋 - 米国」『AFPBB News』。2007年2月27日 11:45 発信地:米国、URL: https://www.afpbb.com/articles/-/2187431

わたしは興奮した。何と、著書の内容が欠けていたピースの役割を果たし、イエスの物語を辻褄の合う物語にしてくれたのである!

最初、あまり『キリストの棺』を読む気がしなかったのは、マグダラのマリアが南フランスで亡くなったと思っていたからだった。

ところが、『キリストの棺』によると、わたしが未読の新約聖書外典『フィリポ言行録』に、ローマ帝国の迫害を逃れて一旦フランスへ渡ったマグダラのマリアが兄フィリポと共に小アジアへ伝道の旅に出、後にエルサレムへ戻ったという記述があるというのである。

マリアには、マルタという姉とラザロという弟がいたのではなかったか? 兄もいたのだろうか。

もし、『フィリポ言行録』の記述が本当であれば、彼女の骨棺がエルサレムで発見されても不思議ではないことになる。

『キリストの棺』によると、「マリアムネ」と「イエス」の骨片はそれぞれの骨棺の底に残っていた。

細胞核から抽出したDNAは、損傷がひどくて、分析に適さなかった。母方の家系を探るのに使える、細胞質に存在するミトコンドリアDNAの抽出に成功し、それによると、マリアムネすなわちマグダラのマリアとイエスは母と子ではなく、兄弟でもないと判明した。つまり、他人である。

他人でありながら同じ墓から出てくるケースは、夫婦以外に考えられないという。

イエスにユダという名の息子がいたという推定については、著者達はその根拠を新約聖書に求め、『マルコによる福音書』に出てくる次の若者がそうではないかという。

ある若者が素はだに亜麻布だけをまとって、イエズスの後についていたが、人々が逮捕しようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げ去った。*10

異様な記述だと思っていた。裸で逃げる? 著書によると、大人が素肌に薄い亜麻布のシャツだけを身につけているなど考えられないが、子供ならありえたそうだ。

また、『ヨハネによる福音書』で、イエスの十字架の傍らに女性達に混じって立っている「愛する弟子」も、イエスの息子ユダだと著者達は考えた。

ところで、イエズスの十字架の傍らには、その母と母の姉妹、クロバの妻マリアとマグダラのマリアがたたずんでいた。イエズスは、母とそのそばに立っている愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、これはあなたの子です」と仰せになった。それから弟子には、「この方は、あなたのお母さんです」と仰せになった。そのときから、この弟子はイエズスの母を自分の家に引き取った。*11

著者達は、聖書ではマグダラのマリアと聖母マリアが意図的に混同されている、とする説を紹介している。意図的な混同は、マグダラのマリアとイエスの本当の関係を隠すためだという。

この場合、ヨハネの福音書に言う「母」は実のところ「妻」マグダラであり、死にゆくイエスは愛する妻に「息子を頼む」というメッセージを残したとも解釈できる。*12

『ヨハネによる福音書』のこの箇所にも、わたしはずっと違和感を覚えていた。女性達の中に男性の弟子が一人だけ混じっている不自然さ。その弟子に、イエスはなぜ自分の母親を押し付けることができたのだろう。弟子の正体が皆目わからなかった。

だが、女性達の家族的な雰囲気の中に混じっているのが子供だったとすれば、納得がいく。この子は父親であるイエスが心配でたまらなかったのだろうし、子供であれば、祖母と母がいるところに一緒にいてもおかしくない。

いずれにしても、最後の晩餐でイエスの胸に寄り添っていたのが幼い息子であったとすれば、何と納得がいくことだろう! 自身の死とエルサレムの崩壊を予感していたイエスは、後継ぎである息子を抱き寄せて、最後の食事をしたのではないだろうか。

ところで、中世に著わされた聖人伝説集、ヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』にはマグダラのマリア伝説がある。舵のない船で海に流されたマリア一行が南フランスに漂着したという伝説なのだが、その中に領主夫妻の子として出てくる、愛くるしい男の子がわたしは忘れられなかった。

ヤコブス・デ・ウォラギネ(前田敬作&山口裕訳)『平凡社ライブラリー 578 黄金伝説 2』(平凡社、2006)では、マリアの出自について、次のように書かれている。

マグダラのマリアは、〈マグダラ城〉とあだ名されていた。門地は、たいへんよかった。王族の出だったのである。父の名はシュロス、母はエウカリアといった。弟のラザロ、姉のマルタとともに、ゲネサレト湖から2マイルのところにあるマグダラ城とイェルサレム近郊のベタニア村と、さらにイェルサレム市に大きな地所を所有していた。しかし、全財産を3人で分けたので、マリアはマグダラを所有して、地名が名前ともなり、ラザロはイェルサレムを、マルタはベタニアを所有することになった。

マグダラのマリアは王族の出で、マグダラの領主だったという。マグダラは古代におけるガリラヤの都市の一つである。

彼女はイエスの死後14年目に、南フランスに船で漂着した。

そして、奇妙なことに、マグダラのマリア一行の漂着後、すぐに子宝物語が始まるのである。『黄金伝説』から、ざっと紹介しておこう。

偽神に子宝をさずかる願をかけようとしたマルセイユの領主は、マリアにとめられ、キリスト教の信仰を説かれた。領主は、マリアの信仰が真実であるか確かめたいといい出し、マリアはそれに対して、聖ペテロに会うようにと促す。領主は、マリアに男の子をさずけてくれたならそうするという。夫人はみごもる。

ペテロに会いに行くという領主に、身重の夫人は無理について行く。マリアはお守りの十字架をふたりの肩に縫いつける。一昼夜航海したとき、嵐に遭い、夫人は船の中で男児を産み落とした後で死ぬ。困った領主は、母の乳房を求めて泣く赤ん坊と亡骸を岩礁に置き去りにする。

ローマのペテロに会いにいった領主は、2年間をペテロと共に過ごす。帰途、赤ん坊と亡骸を置いた岩の島に寄ると、赤ん坊は愛くるしく育っていて、領主が妻のことをマグダラのマリアに祈るうちに、妻はまるで『眠れる森の美女』のように目を開ける……

これはどう考えても不自然な話だが、イエスとマグダラのマリアの間に子供がいたという秘密を潜ませようとしたための不自然さなのかもしれない。

イエス、聖母マリア、マグダラのマリアのものと考えられている骨棺について、『キリストの棺』から、もう少し詳しく紹介しておくと、イエスのものと考えられる骨棺は10個の骨棺のうち最も簡素であったという。

それには、「YESHUA BAR YOSEF(ヨセフの息子イエス)」というアラム文字の刻印があった。しかも、先頭の Y の字の前には、文字より大きな「X」マークが刻まれていた。

それが何であるか、著者達は旧約聖書のエゼキエル書(9・4)に根拠を求め、アラム語やヘブライ語のアルファベットで最後に来る文字「タウ」と推定する。

その「X」に似た文字は、ヤコボヴィッチ&ペルグリーノ*13によれば、「それ自体で何かの終わりを、また同時に新しい何かの始まりを意味していた」というのである。

 イエスのミトコンドリアDNAは、2000年前のヨルダン川流域に住んでいたセム族のそれに酷似していた。ギリシャやインドに由来する遺伝子も観察できたが、圧倒的にセム族の痕跡が強い。
 イエスやマグダラのマリアはどんな顔をしていたのだろう。確かなことは誰にもわからないが、マセソン博士によれば、髪と目は黒かった可能性が高い。イエスの髪にはウェーブがかかり、アフリカの人のように「縮れて」いただろう。*14

聖母マリアのものだとされる骨棺には、「マリア」の名がヘブライ文字で刻まれていた。「マリア(Maria)」は聖書に出てくる「ミリアム」のラテン語バージョン。ヤコボヴィッチ&ペルグリーノ*15によると、「ただしヘブライ語の綴りではなく、ラテン語での発音をそのままなぞっていた」そうだ。

マグダラのマリアのものだとされる棺には、「マラとして知られたマリアムネ」と刻まれていた。

Marat(マラ)はアラム語で「主」または「師」を意味し、男性形も女性形も同形。Mariamne(マリアムネ)は、ヘブライ語Miriam(ミリアム)のギリシア語バージョンだという。

マグダラのマリアはガリラヤ湖周辺の生まれで、ヤコボヴィッチ&ペルグリーノ*16によると、「イエスの教団を経済的に支える存在」であり、土地柄からも彼女はおそらくバイリンガルで、ヘブライ語とアラム語に加えてギリシア語にも通じていたと考えられるそうだ。

ギリシア語ができたからこそ、マグダラのマリアはギリシア語圏であった小アジア(アナトリア)で、師と呼ばれるほどの活躍ができたのだろう。

ちなみに、旧約聖書は概ねヘブライ語で記されている。イエス時代のパレスチナで使われていたのはアラム語であった。新約聖書にもイエスの言葉としていくらかアラム語が出てくる。新約聖書はギリシア語で記された。

「マラとして知られたマリアムネ」と刻まれた骨棺は、ヤコボヴィッチ&ペルグリー*17によると、「バラの花弁をあしらったロゼッタ文様で美しく飾られて」いた。

 

「フィリポ言行録」について
2019年8月22日における追記 2: 「フィリポ言行録」について

シンハ・ヤコボビッチ&チャールズ・ベルクリーノ(沢田博訳)『キリストの棺』(イースト・プレス、2007)には、初期キリスト教の文献にたびたび引用されているが、わずかな断片が残るのみだった「フィリポ言行録」がよみがえったという、次のような興味深い記述がある。

1976年、フランス人のフランソワ・ボボンとベルトラン・ブービエがアトス山のクセノフォントス修道院の車庫に眠る文献の中から、「フィリポ言行録」のほぼ完全な写本を発見したのである。4世紀ごろのテキストにもとづく、14世紀の写本とされている。
 2000年6月、ボボンらはアトス山版「フィリポ言行録」のフランス語訳を完成し、世に問うた。そしてマグダラのマリアが使徒フィリポの妹であり、「マリアムネ」と呼ばれていたことを明らかにした。マグダラのマリアに関する限り、「フィリポ言行録」は新約聖書をはるかにしのぐ情報の宝庫だった。*18

英語版ウィキペディアによると、フランソワ・ボボン(FrançoisBovon 1938年3月13日 - 2013年11月1日)はスイスのローザンヌ生まれ。聖書学者、初期キリスト教の歴史家。ハーバード神学校宗教史の名誉教授。
François Bovon - Wikipedia

フランス語版ウィキペディアによると、ベルトラン・ブービエ(Bertrand Hermann Bouvier  1929年11月6日 - )はスイスのチューリヒ生まれ。ジュネーブ大学文学部の名誉教授。
Bertrand Bouvier — Wikipédia

残念ながら、『フィリポ言行録』はまだ邦訳されていないようだ。

マービン・マイヤー&エスター・A・デ・ブール(藤井留美&村田綾子訳)『イエスが愛した聖女 マグダラのマリア』(日経ナショナル ジオグラフィック社、2006)には、マグダラのマリアが登場する文書として、新約聖書の福音書、ペトロの福音書の他に注目すべき文書群――マリアの福音書、トマスの福音書、フィリポの福音書、救い主との対話、ピスティス・ソフィア、マニ教詩篇集「ヘラクレイデスの詩篇」が紹介されている。

これらに「フィリポ言行録」が加わって、いよいよマグダラのマリアの存在感、文書類の内容の統一感が際立ってくる。それにつれて、新約聖書に登場する人々のよくわからなかった異様、異常と思われた行動も理解できるものとなっていく。

 

*10:マルコ14.51-52,フランシスコ会聖書研究所訳,1984,p.171

*11:ヨハネ19.25-27,フランシスコ会聖書研究所訳,1984,p.388

*12:ヤコボヴィッチ&ペルグリーノ,2007,p.305

*13:2007,pp.293-294

*14:ヤコボヴィッチ&ペルグリーノ,2007,p.262

*15:2007,p.38

*16:2007,p.168

*17:2007,p.50

*18:ヤコボビッチ&ベルクリーノ,沢田訳,2007,p.160

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2019年8月21日 (水)

過去記事「『キリストの棺 世界を震撼させた新発見の全貌』を読んでいるところです」に加筆しました

以下の過去記事に、追記として加筆しました。

2019年7月26日 (金)
『キリストの棺 世界を震撼させた新発見の全貌』を読んでいるところです(加筆あり、緑文字。8月21日に追記、青文字)
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/07/post-6d4f00.html

続きの記事です。これはそのままです。

2019年7月28日 (日)
(承前)「フィリポ言行録」について
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/07/post-7b7c17.html


マグダラのマリアについては、カテゴリー「Notes:不思議な接着剤」の132件の過去記事をご覧ください。

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2019年8月19日 (月)

原田マハ『楽園のカンヴァス』を読んで気になった、嘘。神秘家だったアンリ・ルソー。

「あいちトリエンナーレ」問題に続いて、古市憲寿「百の夜は跳ねて」のパクリ疑惑など出てきて、夏休みの宿題(?)ができなかった。

家族でショッピングモールへ、恒例となっているコーヒー豆の買い出しに出かけた。夫は映画、わたしと娘はショッピング。帰りに書店に寄った。

美術館勤務の経験があるという、原田マハ『楽園のカンヴァス』(新潮文庫: 新潮社、2014)が目に留まった。アンリ・ルソーの名画「夢」をめぐる美術ミステリーという。ベストセラーらしい。

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アンリ・ルソー(1844 – 1910)「夢」ニューヨーク近代美術館、1910

本物はなかなか観る機会がないけれど、アンリ・ルソーは学生の頃から好きで、40年以上のファンだ。「あいちトリエンナーレ」問題では美術界に疑問が湧いたが、その疑問をいくらか払拭できるかもしれないという期待感も高まった。

この種の売れていそうな本は図書館から借りると大抵汚されていることを思えば、買ってしまおうと思い、買った。手の出ない、ほしい本はいくらでもあるというのに、魔が差したというべきか。

美術畑、また音楽畑の人の文芸作品もそうだが、エッセイなど読むと、文章が洗練されていて、論旨も明快、さすがは芸術家の文章と感心させられることが多いものだ。

ところが、帰宅後、本を開いて、冒頭の一行目を目にしたとたん、早くも読む気が削がれてしまった。わたしとしたことが、冒頭も確認せず、購入してしまったとは。

ここに、しらじらと青い空気をまとった一枚の絵がある。(原田,2014,p.7)

「しらじら」というのは、「しらじらと夜が明ける」というように、夜が次第に明けていくさまを意味することが多いと思うが、如何にも白く見えるさまもいう。興ざめなさまもいう。

しかし、次に「青」とある。一体、白なのか、青なのか。二つを混ぜて水色というわけではあるまい。それとも、何か興ざめな感じがあるのだろうか。そして、その青と形容されたものは空気であって、その空気(雰囲気の意か)を一枚の絵が纏っているのだという。

ここに一枚の絵があることはわかるのだが、その絵がどう見えるのかがもう一つはっきりしない。

先を読めば、「それぞれの身体[からだ]はパウダーをはたいたように白く透明だ」とか「それほどまでに青く、白く、まぶしい画面だ」とあるので、どんな色調の絵であるのかが次第にわかってはくる。

アンリ・ルソーの絵の話なのかと思って読み進めると、そうではなく、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌが1866年に描いた絵なのだそうだ。シャヴァンヌがアンリ・ルソーにこの後、関わってくるのだろうと思ったが、これきりだった。

作者は、大原美術館を小説に出したかったのだろう。ストーリーからすれば、必ずしも必要のない設定に思える。いずれにせよ、冒頭に出てくる絵は、大原美術館所蔵のピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ作「幻想(Fantasy)」である。

なるほど、その絵は、青色と白色が優劣つけ難いあざやかさで、観る者を圧倒する。

実際に観れば、ペガサス、女性、子供のそれぞれの身体はパウダーをはたいたように見えるのだろう。だが、パウダーをはたけば、その部分は他の部分の色合いに比べて白さが際立つか、元の色が殺されて朧気に見えるだろうが、透明には見えない気がする。

作者は、絵の各部分から受けた異なる印象を一気に描写しようとする。それで、自家中毒を起こしたように意味不明な表現となっているのだ。子供が見たものを一気に伝えようとして、息せき切っておしゃべりするときのようだ。

美術畑で働いたことのある人にしては、全体に稚拙な文章である。読みながら、美内すずえの少女漫画を連想した。漫画の原作を想わせる小説なのだ。恩田陸の小説に似ている。

漫画の原作であれば、漫画家が人物に表情をつけて内面まで見せてくれるだろうが、単独で書くからには、作者が内面描写まで行わなければならない。その描写があまりに平板であるため、どの人物にも魅力がない。

あちこち引っかかりながら読み進めると、次の箇所がどうにも気になった。

 画家を知るには、その作品を見ること。何十時間も何百時間もかけて、その作品と向き合うこと。
 そういう意味では、コレクターほど絵に向き合い続ける人間はいないと思うよ。
 キュレーター、研究者、評論家。誰もコレクターの足もとにも及びないだろう。
 ああ、でも、ーー待てよ。コレクター以上に、もっと名画に向き合い続ける人もいるな。
 誰かって? ――美術館の監視員[セキュリティスタッフ]だよ。(原田,2014,pp.10-11)

コレクター、キュレーター、研究者、評論家、監視員では、役割――専門――の違いから、絵を見る姿勢が異なるはずである。それに、時間さえかければいいというものでもあるまい。

作者は、優劣つける必要のないものに、優劣つけようとする。それは、作品のテーマに関わる部分でもそうで、ピカソとルソーを比べ、競わせようとする。

そして、作者は明らかにピカソをルソーの上に位置付けている。美術市場ではそうだからだろう。ルソーをことさら、不遇で評価の定まらない画家であると強調するのは、作者自身が市場――世俗といい換えてもよい――の価値観――を、市場が作り出すヒエラルキーを、高く評価し、信じているからに他ならない。

参考文献の筆頭に、岡谷公二『アンリ・ルソー 楽園の謎』(平凡社ライブラリー、2006)が挙げられている。わたしは中公文庫(中央公論社)から1993年に出た版で当時読み、大変な感銘を受けた。

だから、原田マハ(2014,p.288)が「史実通りに物語が進めば、ルソーはほとんど誰にも顧みられぬまま、この世を去る」と書いた箇所を読むと、岡谷氏の評伝を読んでいながら、なぜこんな嘘をつくのだろうと思う。

その理由として、わたしは前述したように、ピカソをルソーの上に位置付けるためだと考えたのだった。

岡谷氏によると、ルソーは晩年、真の成功に近づいていたという。「夢」の批評は『ニューヨーク・ヘラルド』をはじめとする21紙に載り、その大半は好意的だった。1910年は、亡くなる前月の8月までに、3,590フランを絵の代金として得た。しかし金は、消えた。最後の恋人レオニーに貢いだためだった。

讃美者も増えていた。

ウーデ、ドローネ、ブリュメルに次いで、この年さらに三人の若い讃美者がルソーに近づく。未来派の画家で、著作家でもあったイタリア人のアンデンゴ・ソフィッチ、セルジュ・フェラの名で知られた、ロシア生まれの画家ヤストルブゾフ、その従妹で、のちにロック・グレーの名でルソーの画集を出版するエッチンゲン男爵夫人である。(岡谷,1993,p.276)

小説はフィクションだからいい加減に書いていい、というわけではない。フィクションであればなおさら、事実を踏まえるべきところはそうすべきである。この場合は、作者は参考文献を毀損している。

作品を彩るはずのニューヨーク近代美術館のキュレーター、ティム・ブラウンと日本人研究者・早川織絵のロマンスは安手な印象で、退屈だった。

ミステリーの部分は作りすぎで、説得力を欠く。

『楽園のカンヴァス』が子供の推薦図書だったとのレビューを読んだ。最近ではライト・ノベルを推薦図書に選ぶのだろうか。昔の大衆小説家のように文章がしっかりしていればいいのだが、この作品における原田マハの文章はチープで粗い。

ここで、『楽園のカンヴァス』を離れようと思う。

今回、岡谷公二『アンリ・ルソー 楽園の謎』(中公文庫: 中央公論社、1993)を再読し、神秘家としてのルソーが印象的だった。ルソーはインタビューの中で、次のようにいう。

私はいつも描く前から、絵をはっきり見るんです。とても複雑な絵の場合だってそうです。ただ描いている間に、自分でもびっくりするようなことが出てきて、それはとても楽しいですね。(岡谷,1993,p.275)

岡谷氏(1993,p.193)によれば、ルソーはフリーメーソンに加入していた。薔薇十字団員、降霊術術者たちとの交わりもあった。

近代神智学運動の母ブラヴァツキー夫人は1831年に生まれ、1891年に亡くなっている。ルソーは1844年の生まれで、1910年に亡くなった。世代的には案外近い。当時は降霊術が流行っていたのだ。ブラヴァツキー夫人はその降霊術を批判して、心霊主義者たちの攻撃の的となった。

ルソーのお化け話は有名だったそうで、『アンリ・ルソー 楽園の謎』にはわたしを不安にさせる記述がある。幸い、ルソーの芸術の力が勝ったのだろう。死は、ルソーを平和裡に訪れたようである。

ルソーは、臨終まぎわの譫言[うわごと]の中で、父なる神や天使たちの姿を見、「ヴィオラとハープとリュートから成る天上のオーケストラ」のしらべを聞いたと浮かされたようにして語り、また、これから星や青空を描くのだと言ったと伝えられている。(岡谷,1993,p.286)

YouTubeで公開されていた動画 Henri Rousseau "El Aduanero"

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2019年8月15日 (木)

ツイッターで問題となっている、芥川賞候補作「百の夜は跳ねて」(古市憲寿)。8月15日に追記あり、赤字。

芥川賞候補となった古市憲寿「百の夜は跳ねて」がツイッターで話題になっていました。

古市氏の小説の最後に「参考文献」として、『文學界』2012年10月号に掲載された木村友祐氏の短編小説「天空の絵描きたち」が挙げられているそうです。

誰かの小説を読んで、その中の素材に興味を持ち、自分で調べ直して独自の小説を書くということはあると思いますが、その場合、資料として挙げるのは小説ではなく、調べた文献なのではないでしょうか。

以下の、参考にされた小説の作者・木村友祐氏のツイートによると、木村氏が古市氏に窓拭きの達人を紹介したそうなので、その取材をもとに独自の書き方がなされていれば、問題ないはずです。

しかし、選考委員たちの書きぶりからすると、文章表現などのオリジナルな部分が参考に、というより盗られていることを疑います。以下の記事が参考になります。

【追記あり】古市憲寿さんが芥川賞選考委員にいろいろ言われちゃってる件」『はてな匿名ダイアリー』。2019年08月12日、URL: https://anond.hatelabo.jp

わたしは以前から、直木賞作家・恩田陸氏が得意としている「オマージュ」というフランス語でごまかしたパクリに似た手法に疑問を抱いてきました。純文学界にもその手法が「導入」されたのではないかと危惧します。

尤も、文学賞が文学性を競うものではなく、アイディア戦になり下がったのは随分前からのように記憶しています。

2011年8月 8日 (月)
文藝春秋「文學界 平成二十三年八月号」 ‐ 「新人小説月評」に対する私的不信感
http://elder.tea-nifty.com/blog/2011/08/post-723d.html

わたしが「新人小説月評」に関する前掲記事の感想を書いたのが2011年。古市氏に参考にされた木村氏の短編は、2012年の掲載です。同じ商業雑誌『文學界』。

今回の件から、左派に牛耳られた文学界では才能のある作家がなかなか世に出られないだけでなく、その作家たちは飼い殺されて、防衛本能すらなくしているのではないかという別の危惧も生じました。

追記: 木村氏のツイッターを閲覧させていただくと、集英社、新潮社、未来社などの有名出版社から5冊ほども出版しておられました。報われない才能ある普通の日本人作家が世に出られないまま飼殺されて、防衛本能を失くしているのかと勝手に妄想していました。そんな日本人作家を複数知っているものですから、つい。いずれにしても、作品も読まずに、申し訳ありませんでした。こういういい方は語弊があると思いますが、仲間内での出来事であった様子が窺えました。左派村では安倍総理は本当に人気がありませんね。

そういえば、2018年の第159回芥川賞(平成30年上半期)の候補作になった北条裕子『美しい顔』にも盗作疑惑があったような……

2018年、小説『美しい顔』で講談社の第61回群像新人文学賞を受賞。この作品は第159回芥川龍之介賞の候補にも選ばれたが、主要な参考文献を明記しておらず、他の作家の先行作品と類似している箇所が複数あることが指摘され、謝罪文と参考文献が『群像』2018年8月号に掲載されることとなった。
「北条裕子 (小説家)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年11月6日 18:09 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

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2019年8月14日 (水)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その9。ついに、国際問題に発展。

カテゴリー「あいちトリエンナーレ」

企画展とは別の展示に参加する米国の報道機関が出品の取り下げを要請し、スイス出身の作家達も展示中止を求める声明を出したとのことです。

これがまともな芸術感覚、国際感覚なのです。

 

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NHKの欺瞞、核保有国に向けてのメッセージを。

そうです、日本は二発も原爆を投下された被爆国です。そして、世界には核実験の被害にあっている多くの地域が存在します。NHKはぜひ、核保有国に呼びかける内容の放送を行ってください。

中でも、非人道的な核実験として知られるのは、中国が新疆ウイグル自治区で行った核実験です。1964年から1996年までに、ロプノール地域(シルクロードの要衝だった都市国家「桜蘭」遺跡のある辺り)で46回の核実験を実施。ずさんな核実験のために、被害者数は広島原爆被害の4倍を超えるとか。

ウィグル民族は、中国共産党の民族浄化政策による臓器狩りのターゲットとなっていることでも知られています。まさに踏んだり蹴ったりです。

そういえば、国政に進出した「NHKから国民を守る党」が話題になっています。

NHKの偏向したニュース、歴史番組。どこまで質が低下するのか興味が湧くくらいにひどいドラマの数々、日韓関係が最悪の今も嬉々として放送され続ける韓流ドラマ。

高い受信料を払って、これではね。

ただ、わたしはNHK-BSをよく視聴します。そういう事情からはNHKがなくなると困るのですが、よく考えると、NHK-BSを通して一番視聴するのはBBCの番組です。質の高い番組が多いからでしょうね。

別に、BBCの番組を観ようと思って観るわけではないのです。面白いので、どこのだろうと思って見ると、BBCの番組であることが多いというわけです。

BBCはイギリスの公共放送局ですよね。同じ公共放送でありながら、この違いはどこにあるのか、ググると、ネット上には既にこの違いを分析した記事が沢山ありました。

解体か、徹底的な改善か、どちらかが必要な時期に来ているようです。一般国民の我慢の限界から噴出したのが、N国党なのでしょう。

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2019年8月12日 (月)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その8。河村たかし名古屋市長が国会での公開議論希望。

河村たかし名古屋市長が「私と大村知事を国会に呼んでほしい」「公開の場で徹底的に説明・議論したい」「表現の自由は無制限ではない」とおっしゃっています。

大村愛知県知事は河村名古屋知事の呼びかけに応じるべきです。

国会での議論が実現しますように!

また、芸術の各分野が左派に乗っとられている現実があるのかもしれません。音楽界も上層部は乗っとられているとツイートなさっているかたがありました。芸術活動をなさっている方々は、理不尽な現実があれば、どうか声をあげてください。このままでは日本の芸術も文化も駄目になってしまいます。

以下のわたしのツイートですが、文豪の前に「優れた」は不要でした。文豪の中に含まれる要素ですので。あとで気がついて、削除して書き直そうと思いましたが、既に「いいね」してくださっている方々がいらしたので、そのままにしています。

「サイレント盆ダンス」というのも、わたしにはショックでした。盆踊りは死者を供養するための伝統行事です。単なるお楽しみイベントではないのですから、わたしもこれは文化破壊だと思います。ニュースでの共犯めいた採り上げ方が嫌らしい。

 

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2019年8月11日 (日)

このような文豪が、昭和のころはまだ日本にも存在していた

フォローさせていただいている「古典bot」から、谷崎潤一郎の名随筆『陰影礼賛』が流れてきました。その前に見たときには、ドストエフスキー「罪と罰」が流れてきました。

「古典bot」はよくまとめてあります。感動した作品が目についたときは自分も何か書きたいと思い、本棚から探して頁をめくりましたが、ラスコリーニコフ、ソーニャはじめ、主たる登場人物のことがそれは濃やかに描かれているではありませんか。

昔読んだときはドストエフスキーが饒舌すぎる気もしていました。ですが、ここまで描かなければ、生きている人としての厚みは出てこないということが改めてわかり、感嘆しました。安易な感想は書けなくなってしまいました。

登場人物が、本当に生きている人みたいなのです。優れた作家のものは、押しなべてこんな風ですね。

谷崎潤一郎の小説は、技巧に走りすぎる気がしていました。その感想は今も変わらないのですが、昭和の頃はまだ――谷崎は昭和40年に79歳で亡くなりました――このような文豪が日本にも存在していたのだと思うと、泣けてきました。

左派にのっとられてしまって、けがれ痩せてしまい、支離滅裂となった日本文学の今日のありさまを過去の日本の文豪たちはあの世でどう見ていられるのでしょう?

『陰影礼賛』は名随筆なので、おすすめです。世阿弥『風姿花伝』『花鏡』を合わせて読めば、えもいわれぬ日本美の極意を授かることができますよ、きっと。

ところで、今年は「高校生の読書感想文におすすめの本」を書く余裕がありませんでした。以下のカテゴリーへのリンクをクリックしていただければ、過去の高校生の読書感想文におすすめの本をご覧いただけます。

カテゴリー「◇高校生の読書感想文におすすめの本」の10件の記事

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2019年8月10日 (土)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その7。2016年には芸術の名の下に動物虐待。

『あいちトリエンナーレ2019』での芸術を騙った反日プロバガンダ「表現の不自由展」は、ガソリン脅迫男が逮捕された後も再開の動きはありません。メディアは、比較的無難と思うのか、慰安婦像のみ前面に出して報道しています。

いっそ再開され、「表現の不自由展」の実態が全国民にあらわになればいいのにと思いましたが、再開を悪用される危険もあるので(公共施設での反日プロパガンダを一旦禁止した後に許可する――結局許可した――という悪しき前例をつくってしまうことになります)、禁止のままが正解でしょうね。

夏休みの宿題(?)が四つもあります。で、トリエンナーレ問題の経過が気になって貼り付いていたツイッターから離れようと思い、その前の軽いチェックのつもりでツイッターを見ると、前掲のツイートが流れてきて、絶句。

2016年のあいちトリエンナーレの展示物の中に、ラウラ・リマ「4階建てのビル室内で小鳥を100羽放し飼い、来場者は鳥のための空間に入っていく体験」というコンセプトの作品があったとのことで、実態は芸術とはかけ離れた動物虐待だったようです。

通報を受けた鳥のレスキュー団体TSUBASAさんが行動してくださったそうです。

通報してくださったと思われるかたのブログ記事が出てきました。「作品」がどのような状態にあったのかがよくわかります。

あいちトリエンナーレ豊橋、ラウラ・リマ作品を見て小鳥たち①」『みかりんのすきなもの』。2016年10月09日 12:07:16、URL: https://ameblo.jp/mika-kikilala/entry-12207606115.html

あいちトリエンナーレ豊橋、ラウラ・リマ作品を見て小鳥たち②」『みかりんのすきなもの』。2016年10月09日 12:33:02、URL: https://ameblo.jp/mika-kikilala/entry-12207794768.html

通報を受けて、緊急対応をしてくださったTSUBASAさんのブログ記事です。

あいちトリエンナーレ2016」での緊急対応」『鳥の保護活動/TSUBASAみらくる日記』URL: https://www.tsubasa.ne.jp/2017/01/28/rescue-aichitriennale/

当時のニュース記事が出てきました。

希少動物の鳥、無許可で芸術作品に 愛知の国際芸術祭」『朝日新聞デジタル』。10月17日 21:08、URL: https://www.asahi.com/articles/ASJBK6DHFJBKOIPE02R.html
愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2016」の参加作品に、「種の保存法」で義務づけられた環境相許可を取らずに調達した鳥が3羽含まれていたことが分かった。この作品は素材として約100羽の小鳥を4階建てビルに放って展示し、約20羽が死んだり外に逃げたりしていた。(後略)

管理のずさんさに驚かされます。これが高額の公金を投じ、国際芸術祭という名で行われるイベントなのですから、呆れます。次のようなツイートもありました。

国会で問題とすべきレベルの不透明さですね。

昨日はメアリー・ポピンズの物語で有名なトラヴァースの誕生日だったとか。夏休みの四つの宿題のうちの一つが、メアリー・ポピンズ物語です。

ツイッターからべたべた貼り付けて、申し訳ありません。読みにくいでしょうね。引用に便利なので、つい。「宿題」に集中すれば、ツイッターを見る時間が減り、自ずからツイートの貼り付けもなくなりますので、ご安心を。

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2019年8月 9日 (金)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その6。いっそ展示を再開して、鑑賞会を開いては?

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」に怒り、脅迫ファクスを送った男性は逮捕されたようだし、再開したら? という意見が出始めたようです。わたしもしばらく考え、その意見に賛成の気持ちです。せっかくの祭典なのですから、このまま終わらせるのはもったいないではありませんか。

大村愛知県知事は、弁護士である吉村大阪府知事に対して、憲法論争をふっかけました。表現の自由を保障した憲法21条を理解していないと批判したのです。少なからず、わたしは驚きましたね。

わたしは素人ですが、ネット上で憲法を閲覧できますし、手元に古い小六法もあるので、21条を見てみましょう。

第二一条[集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密] 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
➁検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

大村愛知県知事には、この21条しか頭にないようですが、憲法は全部で103条あるのです。

今回の件では、現場を視察した河村名古屋市長が「表現の不自由展」の内容は公的空間にはふさわしくないと判断し、展示の中止を要請されたのであって、吉村大阪府知事も同意見。さらに、大村愛知県知事が展示内容を容認したとして、知事として不適格ではないかとの考えを表明されたのでした。

特に問題となった展示物は、曼荼羅や頭蓋骨などとコラージュした昭和天皇の御真影を燃やす映像作品、「平和の少女像」(慰安婦像)、「馬鹿な日本人の墓」と題された、星条旗を下敷きに、上に特攻隊のために寄せ書きされた日の丸を貼り付けた祠です。

専門的なことはわからないのですが、これらの展示物は、憲法第1条、第12条に反しているように思えます。

第一条[天皇の地位・国民主権 ]天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

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第一二条[自由・権利の保持義務、濫用の禁止、利用の責任]この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

これらの展示物が反日プロパガンダと見なされるのは、全て、歴史認識で摩擦のある韓国側の視点で作られているからです。芸術は自己主張ではありません。私利私欲を離れた客観的な視点が欠けていては、芸術作品とはいえません。

以下の過去記事で、わたしは次のように書きました。

2019年8月 2日 (金)
「平和の少女像」(慰安婦像)と「ライダイハンの母子像」を芸術的観点から比較してみる
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/08/post-fda191.html
「ライダンハンの母子像」は、嘆きと美が絶妙に織り成された、優れた芸術的表現となっていますね。女性であったがゆえの悲劇を感じさせます。
一方、「平和の少女像」は、説明がなければ、ただ不機嫌そうな少女としかわかりません。少女の不機嫌が伝わってはきますが、伝わってくる内容は極めて漠然としたものです。「平和の少女像」というタイトルがちぐはぐな印象を与えます。芸術作品といえるだけの条件を欠いているように思えます。

芸術作品とは、自らを含む全人類の良心と美意識に訴えかけようとするものです。そのような像を制作するには、人間として成熟していなければ、無理です。

「表現の不自由展」の展示物はどれもこれも子供っぽく、がらくたのように見えてしまいます。そのレベルの、およそ芸術とはいえない作品群ということであり、憲法を持ち出すまでもない話です。

実際には、検閲されたわけでも、表現の自由を禁止されたわけでもないのだから、芸術監督が自費で借りた場所で、好きなだけ展示すればいいのです。

それから、展示物の中には、日本とアメリカの国旗を軽率に使用しているものがありました。ツイッターでは、それに対して、刑法第92条を挙げておられるかたもありました。

(外国国章損壊等)
第九二条 外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。
2 前項の罪は、外国政府の請求がなければ公訴を提起することができない。

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2019年8月 7日 (水)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その5。津田氏のゲンロン仲間、東浩紀氏は「文學界」(文藝春秋)新人賞の選考委員。

カテゴリー「あいちトリエンナーレ」

これはツイッターにも書いたことですが、「あいちトリエンナーレ」津田大介氏(芸術監督)のゲンロン仲間である東浩紀氏は、何と「文學界新人賞」(文藝春秋)の選考委員です。ずっと購読していなかったので、これまで気づきませんでした。

言論をゲンロンとカタカナ書きにしたのは、揶揄しているわけではありません。

ウィキペディア「ゲンロン」によると、2010年東浩紀氏は、インテリアデザイナーで建築家の浅子佳英、空間デザイナーの李明喜らと共に東京都新宿区四谷に合同会社コンテクチュアズ(Contectures, LLC.)として設立しており、2011年に代表に就任、2012年に株式会社ゲンロンに社名変更、社外取締役として津田大介・福嶋麻衣子を迎えています。

「文學界新人賞」を受賞した作品の多くが芥川賞候補になります。文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われるからです。

一昔前、「文學界」には、およそ文学的でない左翼知識人である柄谷行人の論文がよく載っていて辟易させられました。東浩紀氏はその柄谷氏の出来の悪い弟子らしいですね。その頃「文學界」では、すさんだ作風の在日文学も大流行りで、これにも辟易させられ、わたしは定期購読をやめました。

細井秀雄氏が編集長だったころは、文芸評論家であり保守論客であった江藤淳氏の作品がよく掲載されていました。江藤淳『占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間』(文春文庫 - 文藝春秋、1994)は日本人必読の書です。

その細井氏から、「九州芸術祭文学賞」で地区優秀作をとったわたしの作品について、懇親会の席でですが、「ああいったことは書かんがいい」と忠告されました。大したことは書いていなかったんですけれどね。その後、「織田作之助賞」で最終候補になったときの懇親会だったか、その席で「今後は児童文学作品を書こうと思っています」というと、心底ホッとした表情をなさいました。

そのころは、文學界の舞台裏をろくに知りませんでした。文学仲間を通して情報を集めた今では、下手に賞なんかとらなくてよかったと思っています。尤も、才能に乏しいので、その心配はいらなかったのでしょうが。

現在、純文学界に在日外国人でも帰化人でもない日本人作家は何割くらいいるのでしょうか、疑問です。

最近では特に、日本文化を貶めているとしか思えない、文学作品の体すら成していない作品が芥川賞をとる傾向にあります。日本人であろうと、外国人であろうと、日本文化を愛する人間にはとても作りえないようなストーリー、無神経な表現が頻出しています。

前出の細井氏は現在、平山周吉という筆名で、作家活動をなさっているようです。アマゾンに読んでみたいと思う作品がありました。幸い図書館にあるようなので、借りて読んでみたいと思います、購入するには、専業主婦のわたしには高価ですから。3,996円。

江藤淳は甦える
平山 周吉 (著)
出版社: 新潮社 (2019/4/25)
ISBN-10: 4103524715
ISBN-13: 978-4103524717

今思えば、江藤淳氏が生きていらしたころは、文学界、日本の言論空間は、まだしもまともでした。

次のツイートで紹介されている動画内容は結構怖い、その次のツイートで出ている情報にはなるほどねと思わせられます。

こうした人々に好き放題されたら、日本は本当に日本ではなくなってしまいます。

芸術家でない大したキャリアもない津田氏がなぜ、こんな大役を任せられたのでしょうか? 反日ネットワークの存在を考えれば、別に不思議ではない気もしますが、武田邦彦氏の語る動画が出てきました。

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2019年8月 6日 (火)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その4。津田氏に発表の場を奪われていた作家たち。

カテゴリー「あいちトリエンナーレ」

あいちトリエンナーレが芸術祭の呈をなしていないことに呆れていましたが、以下のツイートによって真相がわかりました。

どうやら津田大介氏は学芸員が選んだ約80組の作家の展示をやめさせ、その代わりに反日プロパガンダ作品を展示したようです。

80人の作家が晴れがましい発表の機会を奪われたということでしょうか? 「表現の自由」を奪われたのは、学芸員と作家の方々ではありませんか!

学芸員の方々も、発表の機会を奪われた作家の方々も、どうか声を上げてください。

全体がおかしかったのではなく、本来展示されるはずの人々が津田大介氏に代表される反日ネットワークにその場を奪われていたということなのです。

発表の機会を奪われるということがどれほどのことか、分野は異なりますが、同じ創作者としてわたしには想像がつきます。このようなことがなければ、この展示を足掛かりにして世界に羽ばたけるような才能の持ち主だっていらしたかもしれません。

同じようなことが、日本の各分野で起きてきた可能性があります。メディア、法曹界、文学界のおかしさには気づいていましたが、美術界(アート界)もそうだったのですね。

今こそ、日本を愛する人々――日本人であれ外国人であれ、真に日本を愛する人々――は一丸となって、日本を正常化させようではありませんか! 

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2019年8月 5日 (月)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その3。良識的河村市長と偏向的大村知事、ダークな祭典の核心にあるもの。

 

以下は、高橋洋一氏の「検閲」に関する解説。

今回の左派が起こした事件は、まるで敵対国の思惑を代弁したかのようです。

公共施設で、反日プロパガンダでしかない醜悪なオブジェを展示し、その行為を芸術とのたまった。夏休みを狙ったのは、子供たちの洗脳を目的としていたからでしょうか。

このような、芸術離れしたオブジェを芸術だというような人物がよくもまあ芸術監督というポストに就けたものだと呆れ、ウィキペディアを見ると、大学教授なども勤めた輝かしい経歴ではありませんか。

津田 大介(つだ だいすけ、1973年11月15日 - )は、早稲田大学文学学術院教授(任期付)、有限会社ネオローグ代表取締役、一般社団法人インターネットユーザー協会代表理事。
大阪経済大学情報社会学部客員教授、朝日新聞社論壇委員、新潟日報特別編集委員も兼任している。関西大学総合情報学部特任教授、京都造形芸術大学芸術学部文芸表現学科客員教授、東京工業大学リベラルアーツセンター非常勤講師、ネットランナー編集部、上智大学文学部新聞学科非常勤講師等を歴任した。

東京都北区滝野川出身。父親公男は社会主義協会派の活動家で、日本社会党(現:社民党)の副委員長高沢寅男の議員秘書も務めた。しんぶん赤旗にて、中学生時代に「赤旗」を読んだことが「物書き」になるきっかけとなったと述べている。
「津田大介」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年8月5日 02:08 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

経歴と今回の事件が結びつかず、不審感を深めていたところ、別の一面を描写した記事に出合いました。

今回の事件の裏には、周到に計画した大きな組織が隠れているのではないでしょうか。彼は使い走り役を務めたわけですね。京アニ事件も変ですよね。

複雑な背景はあるでしょうが、核心にあるのは、マルクシズム的唯物論だと思います。これはもう古いのです。人間のうちに潜む高貴な面を全く説明できず、無視するか、否定することしかできないのですから。

ところが、マルクシズムによって否定され、貶められた近代神智学は、全然古びていません。伝統的でありながら新しいのです。

心理学でいう情操は、ブラヴァツキーの神智学でいえば、高級マナス(マナスは「心」の意)の影響を帯びた上へ向かう感情で、カーマ(欲望)へと下へ向かう低級マナスの影響を帯びた感情とは区別されるべきものです。

情操に訴えかけるものだけが芸術といえる性質のものであることは、神智学を知り、宇宙と人間の七本質への理解が深まれば、図式的にわかります。オーラや想念形体が見えれば、一層――実感的に――理解が深まります。

わたしは文学、美術、音楽などの芸術的な作品に触れることで、内的に成長し、オーラや想念形体が時々見えるようになりました。誰のうちにも潜む、胸の奥から迸る光はたとえようもない美しさで、めくるめく美の世界です。

霊媒能力とは違い、この能力は生まれ変わっても消えることはないそうです。生まれ変わるごとに、再獲得する必要はあるようですが。

芸術祭を騙る、ダークな祭典にだまされてはいけません。

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2019年8月 4日 (日)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その2。村の空は今日も能天気に…

日本ペンクラブの声明、全文読んだ。

こんなことしか言えないのか。

村の空は今日も能天気に晴れ渡っているようです。

頭痛がしてきた。寝よう。

以下は関連記事です。カテゴリー「あいちトリエンナーレ」を設置しました。

2019年8月 3日 (土)
「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展」中止のその後1。芸術なら真善美を意識した表現の自由でなければ…
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/08/post-94f66c.html

2019年8月 3日 (土)
「あいちトリエンナーレ2019」問題。芸術作品でなければ、展示にも語るにも値しない。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/08/post-980888.html

2019年8月 3日 (土)
国際芸術(?)祭「あいちトリエンナーレ」に投じられる莫大な公費は、どう使われているのか?
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/08/post-523247.html

2019年8月 2日 (金)
「平和の少女像」(慰安婦像)と「ライダイハンの母子像」を芸術的観点から比較してみる
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/08/post-fda191.html

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2019年8月 3日 (土)

「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展」中止のその後 その1。芸術なら真善美を意識した表現の自由でなければ…

「表現の不自由展」の実行委員会は、法的対抗手段を検討しているらしい。

勝てる見込みがあるからだろう。

文学界も美術界も、そして法曹界もおかしくなっている。おかしくなっているのは、他の分野もだ。今こそ、それを正すときだ。満身創痍の日本。がんばれ、ニッポン!

以下は、関連記事です。

2019年8月 3日 (土)
「あいちトリエンナーレ2019」問題。芸術作品でなければ、展示にも語るにも値しない
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/08/post-980888.html

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「あいちトリエンナーレ2019」問題。芸術作品でなければ、展示にも語るにも値しない。

この後、「表現の不自由展が中止に」というニュースに接しました。津田氏は往生際悪く、「表現の自由」の問題とすり替えようとしています。

以下は、「あいちトリエンナーレ2019」関連の過去記事です。

2019年8月 2日 (金)
「平和の少女像」(慰安婦像)と「ライダイハンの母子像」を芸術的観点から比較してみる
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/08/post-fda191.html

2019年8月 3日 (土)
国際芸術(?)祭「あいちトリエンナーレ」に投じられる莫大な公費は、どう使われているのか?
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/08/post-523247.html

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国際芸術(?)祭「あいちトリエンナーレ」に投じられる莫大な公費は、どう使われているのか?

拙関連記事です。

2019年8月 2日 (金)
「平和の少女像」(慰安婦像)と「ライダイハンの母子像」を芸術的観点から比較してみる
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/08/post-fda191.html

このようなイベントに、愛知県と名古屋市が11億円以上の予算(公費)を使っているとは、驚きです。莫大なお金がどこへどう使われているのか、ぜひ知りたいものです。

わが国では文学の分野がひどいことになっていますが、美術の分野も相当ひどいことになっているとしか思えません。ミューズ(日本風にいえば弁財天)は、このような騒ぎをどうご覧になっているのでしょうか。

ミューズの峻厳な、怖ろしい一面を知っていれば、とてもできない所業が、今の日本では平然と行われています。

「あいちトリエンナーレ」に関して、小坪慎也氏が詳細な記事を書いてくださっています。

 

 

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2019年8月 2日 (金)

「平和の少女像」(慰安婦像)と「ライダイハンの母子像」を芸術的観点から比較してみる

ところで、1日に開幕した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」が問題となっています。愛知県と名古屋市が11億円以上の予算(公費)を使っているそうです。芸術監督を務めるのは、ジャーナリストの津田大介氏。

企画展「表現の不自由展・その後」の会場には、慰安婦を表現したという韓国人彫刻家夫妻による「平和の少女像」(慰安婦像)、昭和天皇の御真影を焼く映像、安倍総理と官房長官を模した顔の口にハイヒールが突っ込まれたオブジェが展示されているそうで(これは展示されていなかったとのこと。なぜ拡散したのか?)、画像や動画が拡散しています。

以下のブログ記事から、「平和の少女像」(慰安婦像)の画像をお借りします。

あいちトリエンナーレが反日サヨクの私物に」『パチンコ屋の倒産を応援するブログ』。 2019年08月02日、URL: https://ttensan.exblog.jp/

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芸術作品とは、時間と場所の制約を超えるものです。

英国人彫刻家レベッカ・ホーキンス制作「ライダイハンの母子像」とキム・ウンソン&キム・ソギョン制作「平和の少女像」。

どちらも写真で見るだけなのですが、「ライダイハンの母子像」は、説明がなくても、女性の悲痛な心の叫びが伝わってきます。芸術的工夫によって、悲しみと同時に美が表現され、この母子像は、かけがえのない何かがこの女性から奪われたことを物語っています。

一方、「平和の少女像」は、説明がなければ、ただ不機嫌そうな少女としかわかりません。

少女の不機嫌が伝わってはきますが、伝わってくる内容は極めて漠然としたものです。「平和の少女像」というタイトルがちぐはぐな印象を与えます。芸術作品といえるだけの条件を欠いているように思えます。

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2019年8月 1日 (木)

ストウブで鰯を煮ました(匂いが外に漏れません)。無水肉じゃが。

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ストウブで鰯の煮付けを作ってみました。

過去記事で紹介した、みないきぬこ『はじめてのストウブ』(池田書店、2018)の中のレシピ「いわしの梅煮」を参考にしました。

鰯は昔ほど安いお魚ではなくなりましたが、栄養価が高く、尻尾を残して全部食べられる優れものですね。

といっても、わたしは骨を残しました。尻尾だけ残して完食したのは、夫。夫のお皿には2尾盛りつけました。中ぐらいのサイズの鰯でした。娘に買い物を頼んだのですが、もう一パック頼んでもよかったかも。

優れものと知りながら、これまであまり鰯を買いませんでした。部屋中に充満してなかなか消えない匂いが苦手だったのです。

が、ストウブで料理する限り、この心配が小さくなくなることがわかりました!

煮ている間、匂いが全く漏れませんでした。蓋を開ければ当然ながら漏れますが、臭害がごく小さくて済むのです。

ストウブに魚臭の移るのが嫌で、魚の煮付けは以前から使っていた鍋で作っていました。タラを洋風に料理するときぐらいしか、使いませんでした。これからはストウブを使った魚料理が増えそうです。

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数日前に撮った写真で、このとき何を作っていたのか、忘れてしまいました。二台並べて使うとき、彼らが喜んでいる気がするのです。向かって左は「ラ ・ココット de GOHAN M サックスブルー」、右は「ココット ラウンド ブラック 22cm」。

我が家では、この二台を揃えたのは正解でした。ラ ・ココット de GOHAN は16㎝と小ぶりです。

どちらが欠けても不自由です。

実は、わたしはまだ充分にストウブが使いこなせていません。同じように作ったつもりでも、失敗したり成功したりで、鍋の蓋をとるたびにドキドキします。それがわくわく感につながって、飽きないのかもしれません。

新築祝いに贈ったストウブを、妹は使ってくれているようです。鍋が届いた日はポトフを作ったといっていました。その後、肉じゃがをストウブで作ったら、とても美味しかった、といってきました。

そういえば、肉じゃがをストウブで作っていなかったと思い、さっそく、わたしも作りました。確かに、とても美味しくできました。特にじゃがいものほくほく感が何ともいえません。

水は入れていません。しらたきから水分が沢山出たのか、無水料理には見えませんね。隠れていますが、人参も沢山入っています。玉ねぎも人参も淡路島産だったので、立派だったのです。大きさが、県内産の倍はありました。

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レシピは、2カップの水を入れず、しょうゆ大さじ5を4に変えた以外は、以下の過去記事のものと同じです。

2009年7月 4日 (土)
肉じゃが
http://elder.tea-nifty.com/blog/2009/07/post-7caf.html

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