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2018年12月19日 (水)

歴史短編1のために #50 萬子媛の父の仕事と妹の生活を、松薗斉『日記に魅入られた人々』から想像する

公家は、官位(官職と位階)によってランク付けされた。五位以上の位階を与えられると――従五位下になると――貴族と呼ばれた。叙爵とは、貴族として下限の位階であった従五位下に叙位されることをいった。

参議以上および三位以上の者を公卿と呼んだ(位階は四位であっても参議に就任すると、公卿である)。

花山院家の家業は「四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道。一条家の家礼」とウィキペディア「花山院家」(「花山院家」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年8月6日 04:57 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org)とある。

萬子媛の父・花山院定好の仕事内容を想像できる記述が、松薗斉『日記で読む日本史 日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』(臨川書店、2017)にある。

前掲書では、院政期から戦国時代までの貴族・公家の日記が解説と共に紹介されているのだが、江戸時代になっても公家の勤務形態や日常の習慣は引き継がれていたようだから、参考になる。

除目[じもく]という政務は、公卿の筆頭である左大臣が担当したという。定好は寛文元年(1661)から寛文3年(1663)まで左大臣職にあった。

『日記で読む日本史 日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』から、除目について書かれた部分を引用する。

<ここから引用>
公卿になると、特にまだ見習い扱いの参議から昇進して権中納言以上になると、年中・臨時の行事や諸政務において指揮者ともいうべきこの上卿[しょうけい]という役がまわってくる。儀式・政務には規模の大小、また重要度でも軽重があるが、正月の節会や天皇一代に一度しか行われない即位などは規模が大きく(これらの上卿は内弁と呼ばれる)、またトラブルが生じるとその天皇の治世についてまでまことしやかに言われてしまうので責任が重い。そして個人的に負担が大きいのは、
(略)除目(特に春のそれ)・叙位の執筆[しゅひつ]という、朝廷の人事異動を決定する政務で、その新任者や位階の上がったものを大間書[おおまがき]や叙位簿[じょいぼ]とよばれる書類にリストに書き込んでいく役であろう。天皇・関白の前で行われなければならず、除目の場合、三日間にわたって行われ、作法も煩瑣、かつ書き誤りも許されず、旧の暦とはいえ正月の寒い夜、なかなか負担が重かった。ただし、これらの重要な役は公卿全員に課せられるということはなく、大臣、特にその筆頭である左大臣がまず担当する(そのため左大臣は一の上卿とか一上[いちのかみ]と呼ばれる)。当然、左大臣は公事の様々な次第・作法、そして先例に通暁した練達の人物でなければ務まらない。そのような人物が上卿や除目の執筆を務める際には、公事に熱心な貴族たち(当然ライバルもいる)がその儀式に参加しなくても見物に押しかけることになる。
<ここまで引用>(松薗,2017,pp.32-33)

同書第五章「やさしい宮様(中世の夫婦善哉日記 ――貞成親王『看聞日記』)」に、貞成親王の日記『看聞日記』からの抄訳がある。いや、『看聞日記』がウィキペディアの解説にあるようなものだとすると、これは他界した妻が夫の日記を紹介するというスタイルをとった貞成親王『看聞日記』の意訳というべきか。

<ここから引用>
『看聞日記』(かんもんにっき)は、伏見宮貞成親王(後崇光院、1372年 - 1456年)の日記。日記41巻と御幸記1巻、別記1巻、目録1巻から構成され、全44巻から成る。一部は散逸しているが、応永23年(1416年)より文安5年(1448年)まで33年間に渡る部分が現存する。『看聞日記』は宮内庁書陵部所蔵の貞成親王自筆の原本の題名で、一般には『看聞御記』(かんもんぎょき)とも呼ばれる。

貞成親王は伏見宮3代で、後花園天皇の実父にあたる人物である。将軍足利義教時代の幕政や世相、貞成親王の身辺などについて記されており、政治史だけでなく文化史においても注目される。
<ここまで引用>「看聞日記」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2018年7月13日 13:24 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

その中に、阿五々と呼んで育てていた姫宮のことが記されている。

この姫宮が入江殿三時知恩寺に尼として入ることになり、そのときの様子やこの姫宮が一人前の尼となって今御所と呼ばれるようになってからのことなど書かれていて、興味深い。

<ここから引用>
三時知恩寺(さんじちおんじ)は、京都市上京区上立売町にある浄土宗の寺院(尼寺)。門跡寺院。本尊は阿弥陀如来。
応永年間(1394年 - 1428年)北朝4代後光厳天皇の皇女見子内親王が北朝3代崇光天皇の御所で一条西洞院にあった入江殿を寺に改めたのに始まる。
(略)
後柏原天皇の代に三時知恩寺と称されるようになったが、これは宮中における六時勤行(1日6回の勤行)のうち昼間の3回をこの寺で行うようになったことによるとされる。正親町天皇の代に現在地へ移転した。

<ここまで引用>「三時知恩寺」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2018年4月5日 12:03 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

なぜ興味が湧くかというと、萬子媛の妹が臨済宗単立の尼門跡寺院で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入ったからで、小大名に嫁いだ萬子媛だったが、そのような人生を歩んだとしても不思議ではなかったからだ。

慈受院と総持院は室町幕府4代将軍・足利義持の正室であった日野栄子を開基として同時期に創建され、明治6年、総持院と慈受院は合併し(慈受院は江戸期に曇華院宮の管掌となっていた)、大正8年から寺名を慈受院としたそうだ。

慈受院の複雑な歴史について、サイト「黒駒 寺社参拝記」に詳しいので、引用させていただく。

<ここから引用>
慈受院寺史

現在の慈受院は元々、慈受院と総持院という別々の門跡寺院が明治になって
合併したお寺であり、両寺の開基は足利四代将軍義持の正室慈受院竹庭瑞賢尼(藤原栄子)である。義持の菩提を弔うために応永34年(1427)に創建された。
慈受院・総持院はともに内親王・宮家子女・将軍家子女・近衛家子女などが代々の住持を務めていたが、慈受院は江戸期に入り曇華院宮の管掌となる。
総持院は近衛家と花山家から交互して子女が住持となり、宝暦年間(18世紀中期)には比丘尼御所(尼門跡)に列せられて薄雲御所号を勅許される。
明治6年に慈受院と総持院は合併して、大正8年からは寺名を慈受院とした。
江戸期の石高は総持院が74石、慈受院は98石。臨済宗 本尊釈迦牟尼如来。

<ここまで引用>
薄雲御所 慈受院門跡「黒駒 寺社参拝記」<https://blog.goo.ne.jp/ebosi624/e/cdc7edeff9fcf78ddbf74ac01e5e3054>(2018年12月20日アクセス)

尼門跡寺院での生活を、花山院慈薫 (バーバラ・ルーシュ編)『あやめ艸日記―御寺御所大聖寺門跡花山院慈薫尼公』(淡交社、2009)から想像したりしていたのだが、『日記で読む日本史 日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』中の『看聞日記』には、幼い姫宮のホームシックの様子や若くして門跡の代わりを務める重圧のことなど書かれていて、生々しい。

<ここから引用>
入室の儀は門跡様の肝いりで、寺中の尼たちも総出でお迎えくださり、たいそう華やかに執り行われたのですが、何分まだ幼いので、家を恋しがってずっと泣いていたそうでございます。<ここまで引用>(松薗,2017,p.129)

一人前となった今御所は将軍様や上様にも可愛いがられるようになって、18歳のときには将軍様の姫君をお弟子として預かり、領地を寺に寄進していただいた。宮家の長女として尼となっていった妹たちの面倒もよく見ていた。

しかし、高齢となり、病気がちとなった門跡の代わりを務めるにはまだ若すぎたようで、その重圧からか一種の精神錯乱を起こしたようなことが書かれている。

<ここから引用>
永享10月の9月、門跡様がご体調を崩されるとその重責に押しつぶされてしまいそうになったのでしょうか、11月末に実家に帰ってくると、すぐに体調を崩してしまい、突然大声で泣き出したり、乗り移った門跡の他の尼の生霊でしょうか、「今御所を長らく憎んできた」などとおかしなことを口走るようになって、ひどく錯乱してしまいました。宮家の者たちもびっくりしてどうしてよいのやら、門跡の方々にも随分心配をおかけしましたが、お頼みいただいた験者たちの祈祷のおかげで何とか回復し、その年の暮れにはお寺に帰りました。
<ここまで引用>(松薗,2017,p.130)

三年後、今御所は京で流行った疱瘡に罹患し、亡くなる。26歳だった。

以下の記事は前掲書『あやめ艸日記―御寺御所大聖寺門跡花山院慈薫尼公』を読んだときにとったノートで、『『あやめ艸日記』は平成18年に96歳の天寿を全うされた大聖寺27代門跡・花山院慈薫の随筆集である。

2015年1月19日 (月)
歴史短編1のために #12 尼門跡寺院
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/01/12-293c.html

萬子媛は、花山院家の21代・花山院定好の娘だが、花山院慈薫は31代・花山院家正(1834年 - 1840年)の娘。
花山院家の37代・花山院弘匡(1962年 - )によると、尼門跡寺院大聖寺の門跡は24代まで内親王だったが、明治以降は華族出身の子女が尼門跡寺院の法統をお守りするようになり、伯母・花山院慈薫にもお話があったという。
お経、仏典、和漢の書、和歌、哲学などを学び、児童文学や少女雑誌なども読んで育ち、13歳で剃髪。
大聖寺の宗旨は臨済宗系の単立で、本尊は釈迦如来。
ちなみに、萬子媛は黄檗宗の尼僧となったが、開祖・隠元隆琦は中国臨済宗の僧で、黄檗宗は臨済宗系であり、明朝風様式を伝えているといわれている。
編者のバーバラ・ルーシュはコロンビア大学名誉教授で、13世紀に活躍した無外如大禅尼について研究するようになり、この禅尼が大聖寺門跡と関係あることがわかったことから、大聖寺にお参りしたいと思ったそうだ。
バーバラ・ルーシュ「思い出の花輪を捧ぐ」に書かれた以下の箇所は興味深い。

〈ここから引用〉
このような経験を積み重ねてゆくにつれ、尼門跡寺院という制度があることがわかってきました。この制度は、日本の真なる文化財の一つともいえますが、十九世紀の廃仏毀釈令によってほとんど破壊されてしまいました。尼門跡寺院というのは、何かを抑えつけるところではなく、逆に解き放つところといえる存在であり、もしこのような場が存在しなかったら、日本のきわめて高い文化的教養をもった女性たちが幾世紀にもわたって活躍できなかっただろうと思われます。皇室由来の寺院におられた尼僧様たちが、和歌の古典的な形態をみがき上げ、『源氏物語』に関する文化、さらに茶道、華道、香道、年中行事などの保存にお勤めになられたのでございます。

〈ここまで引用〉

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