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2018年10月の17件の記事

2018年10月31日 (水)

(再考、31日に加筆)萬子媛は再婚だったのか、初婚だったのか?

下方の31日加筆の部分は、その前に「ここから31日加筆」と記しています。

24日、第二稿、やっと、一行だけ書いた。

第一稿が2015年12月の脱稿だから、三年間のブランク。

第二稿が全く進まなかったのは、萬子媛についてわからないことが多く、伝承と史実が異なると思える部分もあって(一致している可能性もないではない)、調べ.るのに時間がかかり、調べてもわからなかったりもして、創作意欲が低下していたということがあった。

しかし、現地取材したり、取材に協力していただいた専門家の方々のお陰でわかったことも多い。藩日記を読んだ収穫も大きかった。

そのような中で、まだわからないことは、37歳で鍋島直朝に嫁いだ萬子媛は初婚だったのか、再婚だったのかということである。

専門家の方々も、第一稿を読んでくださった方々も、閲覧した複数のサイトでも、わたしの夫と息子も皆が、萬子媛の年齢から考えて再婚だった――という憶測をなさる。

小説というフィクションを書くのだから、どう書こうと自由なのだが、ここが決まらないために悶々としていたが、決めた。初婚だということに。娘だけが、わたしと同じ憶測をする。

わたしがなぜそう考えるかというと、大名職を引退した夫が存命であるにも拘わらず(恐らく仲も悪くなかった)、おなかを痛めた子のうちの次男までもが21歳で早逝したとき、萬子媛は剃髪なさった。

そのときに義理の息子・断橋和尚に吐露した率直な気持ちが、大名になった断橋の弟・直條の著と考えられる萬子媛の小伝に書かれている。

かくも自分の気持ちに正直で、思い切ったこともなさる萬子媛。情の深さ、細やかさと優れた教養で多くの人々を惹きつけた萬子媛。

いわば全力投球型の萬子媛が再婚だったとは、考えにくいのだ。

初婚で結婚した相手に不満があれば、積極的に打開策を考えて実行なさるだろうし(離婚という匙投げの手段ではなく)、夫と死別したのであれば、萬子媛の性格からして、その地で出家なさったのではないだろうか。

花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。

もし再婚であったなら、萬子媛は初婚のときも授かったのか?

結婚するたびにお稲荷さんを持たされて送り出されるというのも、不自然な気がする。

なぜなら、そのお稲荷さんは、ただのお稲荷さんというわけではない。朝廷の勅願所であった伏見稲荷大神の分霊なのだ。

萬子媛は二歳で、母方の祖母・清子内親王(後陽成天皇の第三皇女)の養女となっている。清子内親王について、萬子媛との関係を中心にざっとまとめてみる。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説<https://kotobank.jp/dictionary/nihonjinmei/>(2018年10月25日アクセス)に、次のような解説がある。

清子内親王(後陽成天皇の第三皇女)
1593-1675* 
江戸時代前期,後陽成(ごようぜい)天皇の第3皇女。

文禄(ぶんろく)2年10月23日生まれ。母は女御藤原前子(さきこ)(中和門院)。慶長6年内親王となり,9年鷹司信尚(たかつかさ-のぶひさ)にとつぐ。信尚没後,大鑑院と号した。延宝2年12月9日死去。82歳。

清子内親王は28歳で、夫・鷹司信尚と死別して大鑑院と号した。
大鑑院は34歳で、孫娘である萬子媛を養女とした。
37歳になる萬子媛を1662年に嫁に出したとき、大鑑院は69歳。
曾孫の文丸が生まれた1664年(萬子媛39歳)、大鑑院は71歳。
曾孫の朝清が生まれた1667年(萬子媛42歳)、大鑑院は74歳。
1673年に文丸が10歳で死去したとき、大鑑院は80歳。

未亡人であった清子内親王は、なぜ萬子媛を養女としたのだろうか。萬子媛には同じ母から生まれた兄弟姉妹がいる。サイト「公卿類別譜(公家の歴史)」より引用させていただく,。

忠弘
定教(母同。忠広嗣) 
円利(※家譜による。母同。入叢林為出家)
定誠(母同。定教嗣) 
堯円(母同。専修寺十六代。近衛尚嗣猶子) 
女子(母同。号貞寿院実全妙操〔高千穂家譜〕。   
 元禄10年9月18日(1697年11月1日)卒〔高千穂家譜〕。   
 ※家譜は豊前国英彦山座主亮有室とあるが、愛宕家譜・知譜拙記によれば、愛宕通福の実父は亮有の父有清〔岩倉具堯二男〕で、母は定好の娘とある)
女子(母同。鍋嶌和泉守室) 
女子(母同。惣〔*系図纂要作総〕持院尼。智山周旭)


花山院家(清華家)-公卿類別譜(公家の歴史)<http://www.geocities.jp/okugesan_com/kazanin.htm>(2018年10月25日アクセス)

鍋嶌和泉守室というのが萬子媛のことで、下に妹がいる。この妹といくつ違いなのかわからないが、母(没年不明)が出産後に亡くなり、そのときまだ二歳だった萬子媛を祖母が引き取ったということも考えられる。

祖母との暮らしは、抹香臭い(?)、宗教色の濃いものだったのではないだろうか。

『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収の萬子媛の小伝「祐徳開山瑞顔大師行業記」に、
大師、いまだ笄[こうがい](かんざしで髪を束ねる)せざるより、早くも三宝[さんぽう]の敬すべきを知り、香華を仏に供[そな]うるを以[もっ]て常の業と為[な]し、帰に泪[およ]ぶ」(2016,p.72)とあることから考えても。

萬子媛は成人以前に早くも仏教における「仏・法・僧」と呼ばれる三つの宝物を敬うべきことを知り、仏前に香と花を供えることを日課とし、仏教に帰依していた――とあるので、祖母と一緒に、清く正しく美しくお暮しになっていたことは間違いない。

そして、それは幼いころからのものであったために、萬子媛にとってはごく自然な、快いものでさえあったのではないだろうか。

…ここから31日加筆……

父の花山院定好はもとより祖母も、萬子媛の良縁を心底願っていたに違いない。わたしに憶測できる、萬子媛が晩婚になった理由はこのことしかない。格式の高さと貧乏である。

江戸時代、公家は様々な制約の中で、貧乏生活を余儀なくされていた。

萬子媛の実家である花山院家は750石。養女に行った鷹司家は五摂家※の一つで、最高貴族といえる家柄だが、鷹司家は1500石と小大名より少ない(10万石以上を大大名、5万石以上を中大名、それ以下の大名を小大名といった)。

※藤原北家から出た近衛家、九条家、鷹司家、一条家、二条家の五家のことをいい、鎌倉時代半ばより代々摂政・関白を務めた。

萬子媛が後妻となった、その小大名の一つである肥前鹿島藩は2万石である。

下種ないいかたになるが、格式の高い家の生まれの明眸、才知ともに備わった萬子媛が年増となり、当時の基準での嫁としての商品価値が下がって初めて、小大名が近寄れるくらいの雰囲気が醸成されたのではないだろうか。

適齢期に大大名、中大名にやるには、貧乏が邪魔をした。

萬子媛が父から授かった伏見稲荷大神の分霊こそ、花山院家屈指のお宝といってよいものだったかもしれない。

前掲引用の系図にあるが、以下の過去記事から引用すると、村上竜生『英彦山修験道絵巻 』(かもがわ出版、1995年)は江戸時代に作られた「彦山大権現松会祭礼絵巻」に関する著作で、それによれば、絵巻が作られたのは有誉が座主だったときだった。

2016年1月23日 (土)
江戸初期五景2 #2 英彦山。鍋島光茂の人間関係。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/01/2800-e9da.html

この著作には有誉の父が亮有、母は花山院定好の娘だと書かれている(亮有の父・有清の室という説もある)。いずれにしても、ここで出てくる花山院定好の娘というのは、萬子媛の姉だろう。交際があったらしく、英彦山からのお使いは時々、鹿島藩日記に出てくる。

有清の三男で亮有の弟の通福は中院通純の猶子となっており、中院通純の娘・甘媛は鍋島光茂の継室(後妻)となっている。

このころ、英彦山は「英彦山三千 八百坊」(3,000人の衆徒と坊舎が800を数えた)と謳われるほど栄えていたというが、何しろ険しい山の中である。京都住まいの貴族である花山院定好が、本心から嫁にやりたいと思うようなところだったのだろうか。

萬子媛の妹は、臨済宗単立の比丘尼御所(尼門跡寺院)で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入った。以下の過去記事、参照。

2015年1月19日 (月)
歴史短編1のために #12 尼門跡寺院
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/01/12-293c.html

定好の娘達の落ち着き先をみていくと、下種の勘繰りかもしれないが、花山院定好のつらい胸のうちが読めるような気がしてくる。

渾身の力を振り絞り、万感胸に迫りつつ娘を送り出した父の思いが萬子媛に伝わらないはずはない。こんなことを二度も三度も繰り返すだけの財力も気力も父にはないことを、聡明な萬子媛はわかりすぎるほどわかっていたに違いない。

こうしたことを総合して考えてみると、萬子媛は初婚だったと思えてしまうのだ。

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2018年10月28日 (日)

黄檗文化(煎茶道、普茶料理)に鍋島焼が使用されていたことを裏付けるニュース

萬子媛が娘時代を過ごされた江戸時代前期の公家町について、わかっていることがあれば知りたいと思った。図書館検索で、こうした情報に接することができそうな資料を検索したが、思うように出て来なかった。

24日の深夜、「公家町 江戸初期」でネット検索すると、2018年2月21日に発信された、次のような思いがけないニュースがヒットした。

京都市文化財保護審議会(井上満郎会長)は21日、京都迎賓館(上京区)の建設に伴う公家町遺跡出土品2件555点を含む10件を市文化財に指定・登録するよう、市に答申した。[略]杉之坊の281点は、当時最先端の文化だった煎茶の道具や茶碗をはじめ、高級な肥前磁気の色絵ふた付き鉢、輸入陶磁器など。[略]市文化財保護課は「いずれも江戸前期に門跡・公家が所持した高級磁器の実態や、公家と町衆の生活を比較する上で重要な資料」としている。

京都新聞(2018年02月21日 22時38分)「公家町遺跡出土品など指定・登録へ 京都文化財保護審」<https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20180221000159>(2018年10月28日アクセス)

このニュースは、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で書いた、次のような記述の裏付けとなるものではないだろうか。

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

隠元隆琦の渡来は1654年のことで、隠元は63歳であった。1625年生まれの萬子媛は、このとき29歳である。黄檗宗がもたらした文化は「黄檗文化」と呼ばれる。
ウィキペディアによると、「隠元には、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した」
*1という。

隠元隆琦は普茶料理という中国式の精進料理を伝え、日本における煎茶道の開祖となった。

有田を中心として焼かれる磁器は有田焼と呼ばれるが、伊万里港から積み出されていたため、伊万里焼とも呼ばれる。これとは別に、大川内山にあった鍋島藩直営の窯で焼かれた献上用の高級磁器は鍋島焼と呼ばれた。

萬子媛が生きていた江戸初期から中期にかけて、黄檗宗が流行り、人々は普茶料理に親しんだ。そして、これはまだわたしの憶測にすぎないが、佐賀藩の有田で焼かれた磁器及び献上用の鍋島焼は、普茶料理に使用されたのではないだろうか。

21歳で早世した萬子媛の次男・式部朝清は佐賀藩2代藩主・鍋島光茂(1632生 - 1700没)に仕え、佐賀に住み、光茂の信頼厚く「親類同格」の扱いを受けていた。

光茂は三家格式を定めることで、蓮池藩・小城藩・鹿島藩の三支藩を完全な統制下に置いた。古今伝授を受けるほどに和歌を好み、彼は『葉隠』の語り手となる山本常朝の主君であった。また、寛文2年(1662)、幕府に先んじて殉死を禁止している。

明敏な頭脳を持ち、政治的、文化的に先取的動きを見せる光茂が黄檗宗、煎茶道と関係が浅かったとは考えられないし、彼は鍋島焼とも関係が深い。鍋島焼との関係の深さは、元禄6年(1693)に光茂が有田皿山代官に与えた手頭(指示書)からも明らかである。

黄檗宗は幕府の鎖国政策の下で流行した。鍋島藩で焼かれた磁器は、江戸時代に花開いた黄檗文化の形成に関係していたとわたしは考えている。もしこの憶測が正しければ、鍋島藩は黄檗文化の流布に一役買っていたことになる。

*1:「隠元隆き」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2016年11月27日 (日) 07:35 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

写真を見ると、様々な食器がある。

前掲ニュースと関連した催し物(平成30年7月14日~平成30年11月25日)の記事も出てきた。

 平成29年度の京都市有形文化財に「公家町遺跡(安禅寺杉之坊)出土品」と「公家町遺跡(櫛笥家)出土品」が指定されました。そこでこのたび、京都市考古資料館では、文化財指定を記念して平成30年度前期特別展示「お公家さんのうつわ − 京都御苑出土の古伊万里を中心に − 」を開催する運びとなりました。
 指定品は、京都御苑内における京都迎賓館の建設工事に先立って1997~2002年に実施された発掘調査で出土した遺物の一部です。

[略]
 今回、有形文化財に認定された資料は、公家町遺跡出土遺物群のうちの安禅寺杉之坊の穴蔵と櫛笥家の土坑から出土したものです。いずれも、京都市内では類例の少ない古伊万里(肥前磁器)が多数含まれており、江戸時代前期の公家屋敷で用いられた焼き物の実態を伝えています。

京都考古学資料館「平成30年度前期特別展示『お公家さんのうつわ』開催について 」<https://www.kyoto-arc.or.jp/blog/jp-mus-exhibition/2935.html?cat=11>(2018年10月28日アクセス)

このような出土品がなかったために、矢部良明『世界をときめかした伊万里焼』(角川書店、2000)の中の次のような記述が生まれざるをえなかった。

鹿島藩初代藩主を務めた鍋島勝茂(1580-1657)か二代藩主光茂(1632-1700)の時代であったか、鍋島藩が支配する伊万里焼の製品をもって、徳川政権の長である将軍から諸大名、そして貴紳たちに進上することが考えられた。
 後世の記録であるから伝承の範囲のこととはなるが、その鍋島焼の創業は、寛永五年(1628)のことという。もしこの伝承が正しければ、鍋島焼開窯は鍋島勝茂の采配によると考えなくてはならないが、残念なことに当時の史料では証明されていない。
(矢部,2000,p.108)

図書館に返してしまったので、再度借りて確認しなくてはならないが、『伊万里市史 第二巻 陶磁器編 古唐津・鍋島』に、その時代の進上にまつわるエピソードが紹介されていた。

メモしようと思いながら忘れてしまったのは、鍋島焼が黄檗文化に関係していたというには、その進上にまつわるエピソードと、前掲書にもある鍋島光茂が元禄六年(1693)に有田皿山の代官に出した「指令文書」(矢部,2000,p.114)の存在だけでは証拠として弱いと思ったからだった。

黄檗文化と鍋島焼の結びつきを専門家にお尋ねしたときに、その結びつきを否定なさったことを考え合わせて、確かに史料、出土品共に乏しすぎる――と思い、何とはなしの失意の中で、本を返してしまった。

それ以上の追究を諦め、所詮は素人芸の小説なのだから、フィクションでどう書こうが問題ない……と半ば投げやりな気持ちでいたときに、このニュースに出くわしたのである。

鍋島焼についてはもう少し詳しく書いておきたいが、とりあえず、このノートはここまで。

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椿山様、季刊文芸誌「日曜作家」第24号をお送りくださり、ありがとうございます

御礼を申し上げておきながら、目下お送りくださった文芸誌を拝読する時間的、精神的ゆとりが持てません。

初の歴史小説第二稿のことで、頭がいっぱいなのです。

ところで、最初に『日曜作家』を拝読したときから、編集代表・発行人のお名前に見覚えがある気がしていました。

本の紹介の欄「大原正義の本」の一番上の御本に――『長安の月 阿倍仲麻呂伝』 平成7年 関西書院刊――とあって、「ああそうか」と思い、本棚にある「関西文学」を手にとりました。

「関西文学」(№399、1997年7月、発行所・関西文学会、発売元・関西書院)の奥付の頁を開くと、左側に本の広告が載っていて、その中に『長安の月 阿倍仲麻呂伝』がありました。これを覚えていたのでしょうね(我ながら凄い記憶力)。

奥付の頁の次号八月号予告には、小説4編の中にわたしの掌編「牡丹」があります。

なつかしくなりました。文学の世界って、狭いようで……狭いですね。

あのころがわたしにとって、一番楽しい時代でした。文学界は今ほど変ではなく、横井晃先生のような意識の高い文学者や文学一筋の横井三保編集長の下で勉強させていただいていたあのころ……本当になつかしいです。

感想が書けないせめてもの罪滅ぼし(?)に、アマゾンに出ている大原編集代表の御本へのリンクを張らせてください。

命の輝き若き遣唐使たち
大原 正義 (著)
出版社: 叢文社 (2009/7/1)

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2018年10月27日 (土)

最近買って正解だったキッチン用品など。収穫の最後を飾ってガパオライス。

古い賃貸マンションで一番気になっていたのは、シンクの排水口カバー、ゴミ受けバスケット、臭い防止の排水トラップでした。

排水トラップは掃除しにくくて不潔になっているというよりは、爪の欠けた箇所があって嵌めにくいので、流し台を設置した業者に交換を打診したのですが、古くて同じものはないとのこと。「頼まれれば、別のもので工夫してやってみます」とのことでしたが。

排水口カバーは黒い菊割れがついていました。炊事のたびにこまめに洗っても、細い隙間の汚れがなかなか落ちません。相当に劣化もしていましたが、交換できると思わなかったので、何年も使い続けていました。

ホームセンターで見つけたので、交換したのですが、夫は元ホームセンター勤務で、交換用の菊割れがあるのは知っていたとのこと。教えてくれればよかったのにと思いました。

その後、百貨店の家庭用品売り場で、ブルーのシリコーン製排水口カバー(キャップと書かれていました)を見つけ、交換。菊割れはやはり掃除しにくいので。

綺麗なブルーのカバーで、シンクが感じよくなりました。掃除もしやすいのですが、カレーなどしたときの色が落ちません。せっかくの綺麗なブルーが褪せたようになっていきます。

そろそろ交換しようと思い、アマゾンで探すと、ステンレス製のカバーが出てきました。使い心地はどうだろうと迷いましたが、値段も高くはないので、試しに取り寄せたところ、これが快適な使い心地なのです。掃除は簡単だし、洒落た感じです。

サイズが合わないと使えないので、メジャーで測って注文しました。以下は、あくまで一例として貼り付けたまでです。

伸晃 排水口カバー シルバー サイズ:約直径14.3×2.8cm
素材: ステンレス
ASIN: B001JEF9BQ

ついでに注文したゴミ受けバスケットが、これまたヒット。これも、サイズが合わないと使えないので、ご注意ください。一例として、貼り付けます。

パール金属 日本製 排水口 ごみ受け 大 13.5cm 抗菌 ステンレス アクアスプラッシュ H-9164
素材: ステンレス
ASIN: B000FMLKHK

元々ついていたものはパンチングの穴が小さく、部品のつなぎ目に垢が溜まりやすかったのですが、このバスケットは簡単に洗えて、ピカピカになります。バスケットには、排水口用ストッキングを装着しています。

シンクが清潔になり、後片付けが楽しくなりました。

毎回掃除しても落ちないしつこい汚れ、掃除するたびに遭遇するぬめりって、自分で自覚していた以上に不快で、主婦としての自信ややる気までいくらか削いでいたんだなと思いました(ちょっと大袈裟かもしれませんが)。

1キロぶんの味噌を保存していたプラスチック容器の蓋が変形してしまい、ホームセンター、百貨店でそれに代わる丈夫で清潔感のある容器を探したのですが、理想的な容器がなかなか見つかりません。

そこで、またアマゾンで検索してみたところ、ホーローの蓋付きストッカーに目が留まりました。1キロぶんの味噌が入り、快適に使っています。

野田琺瑯 持ち手付きストッカー 角型L 琺瑯蓋付 MSH-12K
素材: ホーロー・金属, ホーロー
ASIN: B003VIVZWA

キッチンから話題が離れますが、うちは、ヒートポンプ式のドラム式洗濯乾燥機を使っています。

昔話になりますけれど、福岡での暮らしに比べると、大分に引っ越してから――たまたま住みついた場所がそうなのでしょうが――とにかく洗濯物が乾きにくいのです。

福岡では風が強かったので、風の弱いのが原因ではないかと考えています(その癖、物凄い風の害――台風ともいう――に遭ったりもしましたっけ)。

洗濯乾燥機がないと、臭いが出るまで干しっぱなしにするか、ストーブで乾かすか、アイロンを当てるか、コインランドリーを使うことになります。迷った挙句、タテ型洗濯乾燥機を買いました。

この市に引っ越してきてから買い替えることになり、タテ型は乾燥機としてはあまり使えないと思いドラム式に。

我が家にとっては高い買い物だったので、大切に使うように努め、毎回乾燥フィルター、糸くずフィルターを綺麗にしています。それでも、分解しないと掃除できない部分に溜まるごみが出てくるのですね。

乾燥がうまくできなくなって修理を依頼すると、ただのごみ掃除の場合、長期無料保証の対象外だそうで、ごみ掃除に関しては、二年に一回くらいお願いするパターンが普通だとか(ありがたいことに、このときはこちらがそのことを知らなかったということで、サービスしてくださいました)。

素人にはできないごみ掃除が必要なんて、これは構造上の欠陥だとしか思えず、無料保証対象外になるのが納得できませんでした。

ただ、乾燥フィルター手前の開口部分からドラムに通じる部分に溜まるごみは、こちらの努力次第では(?)とれる可能性があり、風の通り道になるそこが塞がるかどうかで、うまく乾燥できるかどかかが決まるとのことでした。

付属のお掃除ノズルでは、そこまで届かせるのは無理です。業者のかたがご自分で工夫なさったという、お掃除グッズを見せてくださいました。せめて業者には、メーカーから特別仕様のお掃除専用グッズが配られていてもよさそうなものではありませんか。そんなものはないのだとか。

正直いって、業者のかた手製のグッズでお掃除できる自信がわたしにはありませんでした。

もっと細くて柔軟な、それでいて開口部分からドラムに通じる穴を通り抜けるだけの貫通力のあるグッスがないだろうか――と、夫とない知恵を絞りました。

しばらくして、夫が「これはどうかな」と見せてくれたのが、彼が水槽の掃除に使っているパイプブラシでした。

これはいけるかもしれないと思い、取り寄せて試してみると、開口部分から突っ込んだブラシは、いとも簡単に穴を貫通してみせました。「あなたって、天才ね!」とわたしは夫を――ブラシを――絶賛しました。

そのブラシが以下のものです。ドラム式といってもメーカーや型によって違うでしょうからこのグッズが役立つとは限りませんが、一例として貼り付けておきます。

水槽クリーニングブラシ 水槽ブラシ パイプブラシ ホース パイプ クリーナー 水槽 水族館 メンテナンス ブルー 155cm (イエロー)
サイズ: 155cm
ASIN: B0751413Q5

ところで、レモン水のお陰で、我が家のバジルはすこやかでした。何度も収穫出来ました。でも、そろそろ終わりかな。バジルは一年草なのです。

収穫の最後を飾って、昨夜作ったガパオライスです。目玉焼きが邪魔をし、ピーマンの緑とまぎらわしいのですが、バジルがたっぷり入っているのがわかるでしょうか?

Img_2165_d

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2018年10月24日 (水)

萬子媛は再婚だったのか、初婚だったのか?

記事を改めました。

お手数をおかけしますが、以下にアクセスしてください。

2018年10月31日 (水)
(再考、31日に加筆)萬子媛は再婚だったのか、初婚だったのか?
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/10/31-9152.html

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神秘主義エッセーブログ「44」に目次をつけ、若干改稿しました

44 ヴァージニア・ウルフの知性美と唯物主義的極点
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/02/04/211114

ヴァージニア・ウルフはフェミニズムの先駆者として、また「意識の流れ」という手法を用いた知性派の小説家として知られている。

少女時代に性的虐待を受けたことが原因となって精神病を発症し、自殺したことでも知られているだろう。

目次

  • フェミニズムの先駆者とされるヴァージニア・ウルフ
  • 作品に感じられる、ある制限及び限界
  • 子供時代
  • 精神病の発症、結婚、戦争
  • 悲痛な思いが伝わってくる、美しい遺書
  • キルトのような小説
  • ブルーズベーリー・グループへの参加
  • フェミニズム運動の聖典となった『自分だけの部屋』
  • 異色作『オーランドー』のモデルとなったヴィタ
  • 創作手法となった、W・ジェームズの心理学概念「意識の流れ」
  • 心霊現象研究協会の会長を務めたジェームズ
  • 唯物論的知的流れ作業の果てに倒れたウルフ

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2018年10月22日 (月)

フランス語版ウィキペディアが伝える大戦中の迫害、ペレストロイカ後のロシアで復活したブラヴァツキー

拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」の「人名インデックス」を工事中ですが、時間がかかりそうなので、公開しつつ書き加えることにしました。

また、「26 ブラヴァツキーの神智学を誹謗中傷する人々 ①ブラヴァツキーとオウムをくっつける人」を一部以下のように書き直しました。「フランス語版ウィキペディア」と題していた部分です。

フランス語版ウィキペディアが伝える大戦中の迫害、ペレストロイカ後のロシアで復活したブラヴァツキー

シモーヌ・ヴェイユのウィキペディアの記事が日本語版とフランス語版ではずいぶん違っていたので、「神智学協会」をフランス語版ウィキペディアで閲覧してみた。次の写真が使われている。

Blavatsky_olcott_mavalankar_1_2

Helena Blavatsky (au centre, debout), Henry Steel Olcott (au centre, assis) et Damodar Mavalankar (3e de gauche) à un congrès de la Société de théosophie à Bombay (Mumbai) en 1881.
出典:Wikimedia Commons

同じようなことが書かれていたとしても、ブラヴァツキーを貶めようとする意図が感じられないというだけで、こんなに清々しい印象を受けるものだろうか。

神智学を誹謗中傷したゲノン(エッセー 25 「ブラヴァツキー批判の代表格ゲノンの空っぽな著作『世界の終末―現代世界の危機』 」を参照されたい)の考えも紹介されているが、冒頭に次のように書かれている。

Parmi les opposants à la théosophie moderne, René Guénon est un des plus virulents.*16

Google先生に訳していただくと、「近代神学の反対者の中でも、ルネ・ゲーノンは最も毒性の強い人のひとりです」と訳されたので、笑ってしまった。

わたしなら、「近代神智学への反対者の中でも、ルネ・ゲノンは最も辛辣な一人です」と訳すところだ。virulent(e) には「意地悪な」「とげとげしい」という意味もあり、それらも魅力的に感じられる。が、ゲノン有毒説は捨てがたい。

いや、冗談だが、ゲノンを辛辣というには、彼のブラヴァツキー批判にそれなりの論拠が必要なはずで、ゲノンにはそれがない。それにも拘らず、誹謗中傷という毒性を持ち、強い伝染性があるのは確かだ。

「Persécutions(迫害)」という項目を読むと、第二次大戦中、ドイツ、フランス、オランダ、スペインといった西欧の国々で、フリーメーソン同様、神智学協会の会員が迫害されたことがわかる。

「ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー」をロシア語版*17で閲覧してみた。ロシア語は全くわからず、辞書もないので、完全にGoogle先生に頼るしかないが、充実した内容に驚かされる。

Google先生が次のように訳された箇所に、特に興味が湧いた。

ロシアの3つの主要な図書館(RSL、NLR、BAN)によって2012年にリリースされた図書館書誌分類では、E. P. Blavatskyの思想は「ロシアの哲学」セクションに割り当てられています。宗教と宗教の哲学科のメンバーを含む哲学と宗教の分野で、多くの専門家が参加しました。モスクワ州立大学の哲学科がこの版の作成にあたりました。
    (略)
20世紀の終わりには、科学界でも、神学文献での関心が急増しました。以前は、20世紀半ばの80年代半ばに「ペレストロイカ」の始まりに至るまで、理想的な理由から、E. P. Blavatskyの作品の出版は不可能でした。例えば、1953年の百科事典辞典(The Encyclopedic Dictionary)は、Theosophyを「反動的ブルジョア隠喩の一形態」と呼んでいます。
E.P.Blavatskyの研究のなかには、ロシアの宇宙主義(N.F. Fedorov)の起源であったと主張するロシアの哲学者の研究と比較される研究者もいます。Blavatskyの教義は、ロシアの宇宙論者の理論に反映され、哲学と芸術におけるロシアの前衛に近いものでした。

Google先生の訳はもう一つのようだが、おおまかにわかるところでは、ぺレストロイカ後、ブラヴァツキーの著作の出版や研究が可能になったようだ。ブラヴァツキーの研究が一気に進むかもしれない。

何しろ、「82 18世紀のロシア思想界を魅了したバラ十字思想」で見ていったように、オンライン論文、笠間啓治「『戦争と平和』にあらわれたロシア・フリーメイスン」*18には、バラ十字思想とロシア思想界について、「中世が生んだこの形而上学的思考方法は、18世紀ロシア思想界を席巻したと言っても過言ではない。というより、まったくの無菌状態のロシアにて異常繁殖したと表現してもよいだろう」と書かれていた。

イルミナティがフリーメーソンを侵食しなければ、ロシアは暴力革命に走る代わりに、豪華絢爛な思想を花開かせたかもしれなかった。その影響は哲学的深みのあるロシア文学に見ることができるのだが、ブラヴァツキーが母国ロシアで復活したと考えると、わたしはまばゆいような喜びでいっぱいになる。

・・・・・・・

*16:「Société théosophique(神智学協会)」『フリー百科事典 ウィキペディアフランス語版』。2018年10月1日14:29 UTC、URL: http://fr.wikipedia.org

*17:「Еле́на Петро́вна Блава́тская(ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー)」『フリー百科事典 ウィキペディアロシア語版』。2018年9月19日07:33 UTC、URL: http://ru.wikipedia.org

*18:スラヴ研究(Slavic Studies), 42: 41-59,北海道大学スラブ研究センター,1995,URI: http://hdl.handle.net/2115/5233

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2018年10月18日 (木)

息子からiPad貰いました。新しく作った神秘主義エッセーの目次。アバ嬢の綱渡り(お休み中ですが)。

チェコに一週間出張していた息子が、プラハで買ったチョコレート、コーヒー豆、マグカップを送ってくれました。

一緒に iPad を、「誰か使ってくれれば」といって送ってくれたので、今日はほぼそれに夢中でした。

娘がアップルの iPhone を使っているので、設定には慣れていました。娘はスマホがあるからといって、わたしたち夫婦に渡してくれました。

好奇心旺盛だけど飽きやすい夫がまずあれこれ調べたり、動画を視聴したりして、飽きたころにわたしのところへ。

わたしは自分のブログが iPhoneではどんな風に見えるか、時々娘から借りて見え具合を確認したりしていたのですが、同じことが iPadでできるので、便利です。画像が鮮明に見え、動画も視聴しやすいことが何かわくわく感を誘います。

iPad という別の媒体で見たせいか、自分のブログを客観的に見ることができ、目次機能のある「はてなブログ」で作ったブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」にはやはり目次を作ったほうがいいなと思いました。

本ですと、ばらぱらめくって先のほうに何が書かれているのか、簡単に確認できますが、ブログを閲覧してくださる方々は、はじめのほうを閲覧して面白くなければ、先――ページの下――のほうに何が書かれているのかわからないまま――知ろうとしないまま――出て行ってしまわれることが多いのではないかと思います。

目次があると、全体に何が書かれているのか、おおよその見当をつけていただくことができます。

その「はてなブログ」の機能で、「https」化(暗号化通信)設定を有効にして安心していたのですが、目次作りのついでに早い時期に書いた記事を確認すると、画像のアドレスが結構「http」のままだったりしました。まだ全部の画像を「https」化できてはいないのですが、これもやらなくてはなりません。

過去記事に書いたように、人名インデックスも作る必要を覚えていますが、こうしたことばかりやっていると、また萬子媛の歴史小説が放置状態になりかねないので、そこそこにして、ゆっくり改善していこうと考えています。

iPad で当ブログのいつもの編集画面にアクセスし、新規投稿しようとしたら、HTML でしか書けず、面倒だったのでやめました。

前掲はてなブログで、目次をつけたのは以下の記事です。

15 最愛の子にブッダと呼ばれたガブリエラ・ミストラル――その豊潤な詩また 神智学との関わりについて
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2015/08/29/191929

目次

  • 大人の世界を開示してくれたミストラル
  • ミストラルの詩の核にある、高度に洗練された哲学性
  • 神智学の会に入会した23歳のミストラル
  • 異母弟とも実子ともいわれるジンジン、その死
  • 「母たちのうた」「別れ」

20 バルザックと神秘主義と現代
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2015/09/02/225128

目次

  • 神秘主義の芳香を放つ、バルザックの「谷間の百合」
  • ブラヴァツキーに結実した神秘主義の流れ
  • 史的唯物論を基本的原理とするマルクス
  • マルクス主義の鬼子に冒される日本文学

22 グレイ 著『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ 』を読了後に
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2015/09/08/181833

目次

  • 財力に飽かして過保護の限りを尽くしたシモーヌの両親
  • シモーヌと両親の別れ、兄アンドレと両親の確執
  • 聖女に祭り上げられたシモーヌ
  • 神秘を意味する言葉がない神秘主義
  • シモーヌ・ヴェイユ研究の偏り
  • わたしのシモーヌ体験

49 絵画に見る様々なマグダラのマリア
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/05/05/025512

目次

  • 絵画によるマグダラのマリアの競演
  • 東方教会が伝える、誇り高く行動的なマグダラのマリア(主の復活の第一証人、方々へ伝道、ローマ第二代皇帝にイエスの冤罪を直訴)
  • イエスが結婚していたとする説
  • イエスの愛しておられた者とは誰か?(横になって食事するローマ式だった最後の晩餐)

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萬子媛の小説をいくらかでも進めるためにインターポットをお休み中です。前にランキングでいただいた「お世話ストーン」を設置しているので、楽です。

ビンゴは、新しいアイテムが登場したとき、チャレンジすることがありますが、1~3回程度しかしないので、ビンゴ券がどんどん貯まります。しないと貯まるって、本当ですね。

それでも、たまたま「コイコイ綱渡り」が当たったので、設置しました。執着がなくなると、当たるのかしらね。

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2018年10月16日 (火)

神秘主義的エッセーブログの記事に初めての目次。人名インデックス作成中。

昨日加筆した拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」の以下の記事が長文となって読みにくいので、目次をつけました。はてなブログだと、簡単につけられるんです。これを活用してこなかったのは、もったいなかったと思いました。

26 ブラヴァツキーの神智学を誹謗中傷する人々 ①ブラヴァツキーとオウムをくっつける人
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2015/09/22/183629

目次は次のようになっています。

目次

・ SPRが誕生した経緯
・ ウィキペディア日本語版「神智学」を検証する
・ ブラヴァツキーの方法論
・ ブラヴァツキーが愛したインド、活発な報道機関
・ オウム真理教の反日性を一顧だにしない文学博士
・ ブラヴァツキーが回答する、神智学と心霊主義の違い
・ フランス語版ウィキペディア
・ 追記: 『岩波哲学・思想事典』の項目中「神智協会」から抜粋

また、今日は萬子媛ノートのアップを置いておいて、「人名インデックス」を作成していました。前掲記事の読みにくさが気になって目次をつけましたが、記事が増えるにつれ、人物を探しにくいことが気にかかっていたのですね。

当ブログも、「当サイトで紹介した作家、思想家一覧」を作り、2017年5月に2013年4月13日の記事に登場した345番目の人名を収めたところで、放置状態になっています。6,000記事超えた今となってはもうお手上げです。

「マダムNの神秘主義的エッセー」はまだ記事数が少ないので、それほど時間はかからないと思います。もう少し収めたら、工事中でも公開します。

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2018年10月15日 (月)

拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」を更新しました(新しい記事2本、加筆1本)

息子が一週間のチェコ出張から帰ってきました。土産話を聴き、娘のスマホに送ってきたプラハにあるカレル橋とその下を流れるモルダウ川の写真をブログにアップする許可を得たので、その記事を書こうと思っていますが、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」を更新するのに追われています。

新しくアップしたのは次の2本。このところの萬子媛関係のノートを全部、アップしておきたいと思っています。

86 祐徳稲荷神社参詣記 (7)神社に参拝する僧侶たち。冷泉家の乞巧奠 (七夕祭)。
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/10/14/035744

87 祐徳稲荷神社参詣記 (8)鹿島鍋島家の御殿医
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/10/14/042302

それから、加筆したのは、前掲ブログの次の記事です。

26 ブラヴァツキーの神智学を誹謗中傷する人々 ①ブラヴァツキーとオウムをくっつける人
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2015/09/22/183629

ウィキペディア「神智学」の最新版を閲覧しました。

かなり加筆されていますが、新プラトン派、ベーメ、ブラヴァツキーといった、このテーマに関係のある重要な著作そのものを読まないという基本姿勢が変わっていず、ブラヴァツキーを貶める意図で書かれているためか(そのように読めます)、改善されたとはいえません。

信用できる情報もそうでないものも(そうでないもののほうが多い)ごっちゃに引用されているため、ますます玉石混交状態、訳のわからないものとなっています。咲き誇る花園に大量の生ごみが投棄された状態とでもいいましょうか。芳香より、悪臭がひどい……

エッセー26へのわたしの加筆は古い版(2015年9月16日 (水) 01:27 UTC)への加筆です。ライン以下の続きに、加筆したところまで、転載します。加筆したのは青字部分です。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

続きを読む "拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」を更新しました(新しい記事2本、加筆1本)"

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2018年10月12日 (金)

落胆と取材の成果 (2)早逝した長男の病名、萬子媛の結婚後の呼び名

落胆と取材の成果 (1)祐徳稲荷神社での私的心理劇
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/10/post-891c.html

……………

祐徳博物館で、改めて鎧を見ると、大きさが様々で、体形に合わせて作られていることがわかる。それからすると、萬子媛の夫である鍋島直朝と家督を継いだ直條(萬子媛の義理の息子)はいずれも小柄だったのではないだろうか。

萬子媛の肖像画の前に行った。微笑んでいられるように見えたことがあったけれど(その見えかたのほうがむしろ普通ではないだろう)、厳めしく見えた。

過去記事の繰り返しになるが、萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。

寛文2年(1662)、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。

寛文4年(1664)に文丸(あるいは文麿)を、寛文7年(1667)に藤五郎(式部朝清)を出産した。延宝元年(1673)、文丸(文麿)、10歳で没。

1687年、式部朝清、21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。

元服以前の10歳で亡くなった文丸(文麿)の死因は伝染病ではないか、とわたしは推測していた。というのも、郷土史家・迎氏からいただいたメールには、父・直朝と側室の間に文丸と同年に生まれた中将が同年、文丸に先立って亡くなっていると述べられていたからだ。

文麿と朝清の肖像画の前にも、改めて立った。そのとき、これまでは気づかなかった文麿に関する解説に目が留まった。

文麿公は痘瘡[とうそう]に罹り、長く病床にあったとあるではないか。これまでこの解説になぜ気づかなかったのだろう? ちなみに夫も気づかなかったといった。夫はわたしの整理不足の小説の第一稿を読み、気に入ってくれた一人で、それなりに興味を持って、見学していたのだった。

痘瘡とは天然痘のことだ。ウィキペディアより引用する。

<ここから引用>
天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。
(……)
大まかな症状と経過は次のとおりである。
・飛沫感染や接触感染により感染し、7 - 16日の潜伏期間を経て発症する。
・40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。
・発熱後3 - 4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。
・7 - 9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。
・2 - 3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。
・治癒後は免疫抗体ができるため、二度とかかることはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。

<ここまで引用>
「天然痘」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年9月23日 23:53 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

長く病床にあったという文麿は幼い体で懸命に病魔と闘い、周囲に治癒の希望を抱かせた時期があったかもしれない。文麿は聡明な子供だったようだ。

文麿は花山院家から贈られた木の人形がとても好きで、朝夕手放さなかったという。病床でも、文麿はその人形を握り締めて苦痛に耐えていたのかもしれない。その人形は菅原道真の木像だったそうだ。

迎氏からいただいたメールには、文麿が亡くなる前年の寛文12年(1672)に船で上京し、花山公(文麿の祖父、萬子媛の父)に逢ったとある。帰りは参勤交代で帰国する父・直朝の船に同船した。

人形は、文麿が上京したときにおじいちゃんから贈られたものかもしれない。

花山院定好(文麿の祖父)の没年はウィキペディアに中将、文麿と同年の延宝元年(1673)とあるのだが、死因は書かれていない(「花山院定好」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2017年11月28日 02:14 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org)。

文麿は、上京したときに天然痘に感染したのだろうか。それが中将にも感染した――と考えたくなるが、天然痘の潜伏期間は7~16日とされていて、花山院定好の亡くなったのが延宝元年7月4日(1673年8月15日)。潜伏期間の短さを考えると、文麿が前年上京したときにおじいちゃんから天然痘が感染した可能性はなさそうだ。

文麿の死が延宝元年の何月だったかはわからないが、もし花山院定好に先立って亡くなったのだとしたら、文麿の死の知らせがおじいちゃんの体にこたえたということはあったかもしれない。

いずれにせよ、一度に父と子供を亡くした萬子媛の気持ちは、如何ばかりであっただろう。

ところで、文麿に関する解説の下に、和歌の揮毫された色紙があり、年齢と名前が記されている。名前が萬子と読める気もしたがはっきりせず、また記された年齢が萬子媛の没年を超えていた。

祐徳博物館の女性職員のかたにお尋ねして、改めて二人で見た。やはり萬子媛の没年を職員のかたも指摘され、まぎらわしいが、萬子媛の揮毫ではないという結論に達した。

・‥…━━━☆

そのときに、以前からの疑問をお尋ねした。

萬子媛――という呼び名には、史料的な根拠があるのかどうかということだった。

というのも、郷土史家からいただいた資料にも、購入した本(『鹿島藩日記 第一巻』『鹿島藩日記 第二巻』『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』)にも、萬子という名は出てこないのだ。

わたしが見たものからは、俗性は藤氏、父は花山院前[さき]の左丞相(左大臣)定好公、母は鷹司前[さき]の関白信尚公の女[むすめ]、二歳にして前[さき]の准后清子[じゅんごうすがこ]内親王(後陽成天皇の第三女)の養女となって、結婚し、子供二人を亡くした後、尼となって祐徳院に住み、「瑞顔実麟大師」と号した女性が存在したことしか、わからなかった。

史料的な根拠はあるということで、一般公開されていないという史料の一つを博物館の職員のかたと見ていったが、そこには見つからなかった。もう閉館になってしまったのだが、鹿島市民図書館の学芸員がお詳しいということで、電話をかけてくださった。

前にも、萬子媛に関することでご教示くださったかたである。以下の過去記事を参照されたい。

2018年8月 4日 (土)
歴史短編1のために #37 核心的な取材 ①インタビュー
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/08/36-d6f8.html

日本では、身分の高い人の実名を生存中は呼ぶことをはばかる風習があり、複名(一人物が本姓名以外に複数の呼称を併せもつこと)が多い。滝沢馬琴は没後の法名まで含めると、35の名を持った。ただし、本人は滝沢馬琴という筆名は用いていず、これは明治以降に流布した表記だという。

萬子媛の名が史料に出てきにくいのも、このような日本特有の事情によるものだということが、学芸員のお話を拝聴する中でわかった。

結論からいえば、萬子という名はおそらく明治以降に流布した呼び名で、子のつかない「萬」が結婚するときにつけた名であっただろうとのことだった。

萬子媛に関する興味から江戸時代を調べるようになってからというもの、わたしは、男性の複名の多さに閉口させられてきたのだったが、学芸員のお話によると、女性のほうがむしろ名が変わったという。

生まれたとき、髪を上げるとき(成人するとき)、結婚するとき、破談となったとき、病気したときなども、縁起のよい名に変えたそうである。

また、女性の名に「子」とつくのは、明治以降のことらしい。

そこから、萬子媛は結婚するときに「萬」と名を変え、結婚後は「御萬」あるいは「萬媛」と呼ばれていたのではないか――というお話だった。

明治以降、すべて国民は戸籍に「氏」及び「名」を登録することとなって、氏(姓)と家名(苗字)の別、諱と通称の別が廃されたが、ざっと以下のようなものがある(沢山あって、全部は書ききれない、わからない)。

  • 同じ血統に属する一族を表す氏[うじ]。
  • 日本古代の諸氏(うじ)の家格を示す称号、姓[かばね]。
  • その家の名、名字(家名)。
  • 生存中は呼ぶことをはばかる、身分の高い人の実名、諱[いみな]。
  • 実名のほかにつける別名、字[あざな]。
  • 元服以前の名、幼名[ようめい]。
  • 出家後の諱、法諱[ほうき]。法名にほぼ同じ。
  • 受戒した僧に師が与える、あるいは僧が死者に与える名である法名・戒名・法号。
  • 人の死後にその人を尊んで贈る称号、諡[おくりな]。
  • 公的な身分や資格、地位などを表す称号、号[ごう]。学者・文人・画家などが本名のほかに用いる名(雅号)も号[ごう]という。
  • 別につけた称号・呼び名、別号[べつごう]。

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2018年10月10日 (水)

シモーヌ・ヴェイユと母セルマとガリマール書店の〈希望〉叢書

10月5日に「アルベール・カミュのシモーヌ・ヴェイユに関する文章」というタイトルの記事をアップしましたが、ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録するに当たり、大幅に加筆を行いましたので、過去記事を削除し、前掲ブログにアップしたエッセー 86 「シモーヌ・ヴェイユと母セルマとガリマール書店の〈希望〉叢書」を転載します。

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シモーヌ・ヴェイユ(不詳)
出典:Wikimedia Commons

図書館から借りた『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行人・鈴木宏、水声社、2017)に、アルベール・カミュがシモーヌ・ヴェイユに関して書いた短い文章が収録されていた。

アルベール・カミュ(Albert Camus,1913 - 1960)はフランス領アルジェリアの出身で、純文学小説『異邦人』、哲学的エッセー『シーシュポスの神話』で有名になったフランスの作家である。カミュは不条理という言葉を『シーシュポスの神話』で鮮烈に用い、その後、この言葉は実存主義の用語となった。不条理とは、人間存在の根源的曖昧さ、無意味さ、非論理性に由来する絶望的状況を意味する言葉とされる。

わたしの大学のころ――40年ほども昔の話になる――には、第二次大戦後にフランスからサルトルなどによって広まった実存主義はまだ流行っていた。

否、今でも哲学的主流はこのあたりに停滞していて、現代哲学は唯物論に依拠して局部的、細部的分析に終始しているのではないだろうか。

カミュは自分では実存主義者ではないとしているが、その思想傾向からすれば、実存主義者に分類されていいと思われる。

カミュに発見されたといってよい女性哲学者シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil, 1909 - 1943)はパリでユダヤ系の両親から生まれ、晩年、キリスト教的神秘主義思想を独自に深めていったが、しばしば実存主義哲学者に分類される。だが、そのシモーヌも、ジャン・ヴァールへの手紙で次のように書いて、実存主義に警戒心を抱いていたようである。シモーヌ・ペトルマン(田辺保訳)『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅱ』(勁草書房、1978)より、引用する。

<ここから引用>
わたしは、《実存主義》的な思想の流れは、自分の知るかぎりにおいて、どうやらよくないものの側に属するように思えますことを、あなたに隠しておくことができません。それは、その名が何であれ、ノアが受け入れ、伝えてきた啓示とは異種の思想の側に、すなわち、力の側に属するように思われます。*1
<ここまで引用>

実存主義はマルクス主義の影響を受けた思想で、唯物論的であり、マルクス主義の流行とも相俟って一世を風靡した。しかし、一端、唯物論的袋小路へ入り込んでしまうと、自家中毒を起こし、下手をすれば阿片中毒者のような廃人になってしまう危険性さえある。

村上春樹のムーディ、曖昧模糊とした小説はこうした不条理哲学の子供――ただし、カミュの作品が持つ聡明さ、誠実さを欠いた子供といえる。戦後、日本はGHQによる洗脳工作(WGIP)や公職追放*2などもあって、唯物主義、物質主義が優勢となったのだった。

わたしが「カミュに発見されたといってよい女性哲学者シモーヌ・ヴェイユ」と先に述べたのは、シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『超自然的認識』(勁草書房、1976)の訳者あとがきで述べられている、次の文章を根拠としたものだった。

<ここから引用>
ガリマール社版のシモーヌ・ヴェイユの著作はほとんどすべて、本書と同じ「希望[エスポワール]」双書に収められているが、この双書はアルベール・カミュ(1913―60)によって創設された。第二次大戦下の英国において、34歳で死んだ、当時まったく無名だったといっていいシモーヌ・ヴェイユを、戦後のフランスの思想界に紹介した大きい功績は、当然第一にカミュに帰せられるべきであるが、本書の編集も(明記されてはいないが)、カミュであるとみなすことは充分に可能である。*3
<ここまで引用>

現在60歳のわたしが、『超自然的認識』によってシモーヌ・ヴェイユの思想に触れたのは大学時代だった。この本には「プロローグ」というタイトルで、シモーヌ・ヴェイユの有名な美しい断章が紹介されていた。『超自然的認識』の新装版がアマゾンに出ていたので、紹介しておく。

超自然的認識
シモーヌ・ヴェイユ (著), 田辺 保 (翻訳)
出版社: 勁草書房; 改装版 (2014/5/1)

『超自然的認識』を読んだときから、シモーヌの作品の邦訳版を読み漁り、またシモーヌとカミュとの接点を求めて、あれこれ読んだ。カミュがシモーヌを発見した人物であることを雄弁に物語っているような文章には、出合えなかった。

邦訳されていないだけだと思っていたのだが、『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行人・鈴木宏、水声社、2017)に収録されたアルベール・カミュの文章、及び解説を読んで、シモーヌの母セルマの関与が浮かび上がってきた。

訳出されたカミュの文章は、竹内修一氏の解説によると、『NRF出版案内』1949年6月号に発表された「シモーヌ・ヴェイユ」と題された文章だという。

カミュがシモーヌの発見者であるにしては、その文章の内容からしてシモーヌを高く評価していることに間違いはないにせよ、短いというだけでなく、いささか精彩を欠くものであるようにわたしには思える。竹内氏は述べている。

<ここから引用>
1943年8月、ロンドン郊外のサナトリウムで死したとき一般の人々にはほとんど知られていなかったシモーヌ・ヴェイユが、戦後これほど有名になるためには、彼女が「生涯のあいだ頑なに拒否した「第一級の地位」を獲得するためには、みずからが監修していたガリマール書店の〈希望〉叢書から彼女の著作を次々に刊行したカミュの功績があったのである。*4
<ここまで引用>

ところが、この叢書が1946年3月に創刊されたとき、カミュはヴェイユのことをほとんど知らなかったばかりか、シモーヌの遺作の出版は全く予定されていなかったというのだ。

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シモーヌ・ヴェイユの歴史的・政治的著作の初版のカバー
出典:Wikimedia Commons

カミュの文章「シモーヌ・ヴェイユ」は本来なら〈希望〉叢書の9冊目の書物『根をもつこと』のための序文として書かれたものだった。それがヴェイユの遺産相続者――シモーヌの父母なのか、兄アンドレなのかは不明――の依頼によるものか、あるいは何らかのトラブルによって、この文章は別個に発表された。『根をもつこと』は序文も注釈もなしに出版されたのだそうだ。

1960年にカミュが自動車事故で死んだとき、〈希望〉叢書24作品のうちの7つの作品がシモーヌ・ヴェイユの著作だった。カミュの死後も2つのシモーヌの作品が出版された。

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シモーヌ・ヴェイユの署名
出典:Wikimedia Commons

竹内氏の解説中、ギー・バッセによれば、〈希望〉叢書から出版されるシモーヌの著作に無署名の「刊行者のノート」が付されたとすれば、それはカミュではなく、母セルマが作成したものだという。

シモーヌ・ヴェイユの兄アンドレ・ヴェイユの娘で、シモーヌの姪に当たるシルヴィ・ヴェイユ(1942 - )は自著(稲葉延子訳)『アンドレとシモーヌ ヴェイユ家の物語』(春秋社、2011)の中で、シモーヌの死後、アンドレと両親との間にシモーヌの死や彼女の自筆原稿をめぐって亀裂が生じたと述べている。シモーヌの死後、ヴェイユ夫妻の残りの人生は娘の原稿を後世に残すための清書に費やされたそうだ。

シルヴィはその著書で、「父はこの分析が正しいのかどうかはわからないが、自分の母親がシモーヌの内に、母親がいなくてはならない状態をつくりあげ、それが原因でシモーヌは死んだと見做していた」*5と述べている。

また、エッセー 22 「グレイ著『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ 』を読了後に」で採り上げたフランシーヌ・デュ・プレシックス・グレイは、シモーヌの摂食障害――拒食症の傾向――に迫っている。

これはわたしの憶測にすぎないが、シモーヌ・ヴェイユの母セルマは、豊かな財力によってカミュが監修していたガリマール書店の〈希望〉叢書の9つの出版枠を買い取ったのではないだろうか。

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シモーヌ・ヴェイユの墓
出典:Wikimedia Commons

我が身に自ら拘束帯をつけたかのような、ストイックすぎる生きかたをしたシモーヌ・ヴェイユ。高純度の思想を書き残したシモーヌと母セルマを思うとき、一卵性親子と呼ばれた美空ひばり(加藤和枝)と母・加藤喜美枝を連想してしまう。

セルマには、シモーヌをプロデュースしたステージママのような一面があったように思う。シモーヌは哲学者となり、兄のアンドレは高名な数学者となった。

『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅰ・Ⅱ』『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ』『アンドレとシモーヌ ヴェイユ家の物語』を読むと、セルマの並外れた母親ぶりに圧倒される。

わたしはエッセー 23 「ミクロス・ヴェトー(今村純子訳)『シモーヌ・ヴェイユの哲学―その形而上学的転回』から透けて見えるキリスト教ブランド」で、次のように書いた。

<ここから引用>
シモーヌ・ヴェイユは、おそらく母親の偏愛――シモーヌ・ヴェイユが理想とする愛とはあまりにもかけ離れたものを含む現象――を感じ、その呪縛性を知りつつも、それをそっとしておき、恭順の意さえ示している。キリスト教に対する態度も同じだったように思える。

彼女はキリスト教というブランドを非難しつつも、それに屈し、媚びてさえいる。その恭順の姿勢ゆえに、シモーヌ・ヴェイユという優等生は西洋キリスト教社会では一種聖女扱いされてきたということがいえると思う。
<ここまで引用>

シルヴィ(稲葉訳,2011,pp.157-159)によると、セルマは演劇的な人物だった。シモーヌの死後は聖女の母という役を演じて能力を開花させ、修道女のような態でシモーヌの賞賛者である限られた数人の聖職者たちと亡き娘の部屋に籠っていたという。

シルヴィ(稲葉訳,2011,pp.157-176)はまた、17歳のセルマが母親ジェルトルード宛の手紙に「使用人と類する人たち」に対する嫌悪感を綴ったこと、その同じ人物が第一次大戦後ほどなくヴァカンスで過ごした豪奢なホテルのサロンにあるピアノで「革命家インターナショナル」を笑いながら自慢げに演奏し、組合主義者の教師となったシモーヌが右翼メディアに「赤い聖処女」と採り上げられたときには、その赤い聖処女の母という役回りに愉悦していたという事実が信じられないと語る。

Simone_weiland_studentle_puy

シモーヌ・ヴェイユと生徒(ル・ピュイ)
出典:Wikimedia Commons

完全主義者で所有欲が強く、演劇的で矛盾に満ち、絶え間なくシモーヌを見守った――ある意味で操ったとさえいえる――セルマは、どこか世俗キリスト教と重なる。

『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅱ』の著者シモーヌ・ペトルマンは、ヴェイユの最も親密な友人の一人であったそうだが、「日本語版によせて」の最後に、次のように書いている。

<ここから引用>
シモーヌ・ヴェイユは宗教問題に深い関心を寄せていましたが、それはキリスト教の限界を越えるものだったことを、もう一度思い出しておきたいと思います。特に彼女は、禅仏教に強い興味を示していました。フランスにおいて、禅なんてほとんどまったく知られずにいた時代のことでした。
*6
<ここまで引用>

その禅とは、鈴木大拙の著書を通したものだったと考えてよい。シモーヌ・ヴェイユは、ペトルマン宛の手紙で次のように書いている。

<ここから引用>
英語で書かれた、禅仏教に関する、哲学者鈴木テイタロー[大拙、仏教哲学者]の著書をおすすめします。とてもおもしろいわよ。*7
<ここまで引用>

エッセー 24 「ルネ・ゲノンからシモーヌ・ヴェイユがどんな影響を受けたかを調べる必要あり」で書いたように、鈴木大拙は神智学協会の会員だったから、シモーヌ・ヴェイユは大拙の著作を通して近代神智学思想に触れたといえるかもしれない。

しかし、その同じシモーヌ・ヴェイユがルネ・ゲノンという、極めて混乱した宗教観と貧弱な哲学しか持ち合わせないばかりか、近代神智学の母と謳われるブラヴァツキーの代表的著作すらろくに読んだ形跡がないにも拘わらず、神智学批判を行った――これは誹謗中傷というべきだろう――人物の著作の愛読者だったそうだから、わたしはあれほどまでに輝かしい知性の持主のシモーヌがなぜ……と、違和感を覚えずにはいられない。

それは、シルヴィが祖母セルマに感じたのと同じような、信じられない思いである。

…………………………

*1:ペトルマン,田辺訳,1978,p.370

*2:わが国では、第二次大戦後のGHQの占領政策によってマルクス主義の影響力が高まった。20万人以上もの公職追放によって空きのできた教育、研究、行政機関などのポストにフランクフルト学派の流れを汲むラディカルなマルキストたちが大勢ついたといわれる。

*3:ヴェイユ,田辺訳,1976,訳者あとがきpp.409-410

*4:『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行・鈴木宏、水声社、2017、p.49)

*5:シルヴィ、稲葉訳、2011、p.152

*6:ペトルマン,田辺訳,1978,日本語版によせてp.433

*7:ペトルマン,田辺訳,1978,p.323

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2018年10月 8日 (月)

風邪から脱出。コーヒー・アート(百貨店のイタリア展で)。

美容院、祐徳稲荷神社、イタリア展と、三日連続の外出が祟って、7年ぶりに風邪で寝込みましたが、思ったより速い回復でした。まだ咳込むと止まらない、しつこい咳は残っていますが。フルタイドをいつもより増やし、ニトロ2錠使い、受診せずに治りそうです。

祐徳稲荷神社に出かけた翌日、百貨店のイタリア展へ行くのはよそうかとも思いましたが、イタリア展は年に1回だけになってしまったし、娘の連休もめったにないので、出かけました。

ここへ引っ越してきた当時は、年にドイツ展、フランス展、イタリア展があって、イタリア展は2回でした。その後、ドイツ展がなくなり、イタリア展が1回になって、フランス展もなくなりました。イタリア展までなくなると寂しいと思い、さすがに円高・円安問題を考えさせられます。

お買い得で、いつも購入していたオリーブオイルが来ていなかったのも(高価なものは来ていました)、円安の影響でしょうか。円安と円高のどちらがいいとは一概にいえないようなので、庶民の一人としては極端なことにならないよう政府にお願いしたいところです。

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向かって左が娘の頼んだカフェ・マキアート。右がわたしの頼んだカプチーノ。葉も見事ですが、猫が可愛らしすぎて、飲むのがためらわれました。

最近では、立体感のある3Dコーヒーアート(ラテアート)が流行っているようですね。画像検索でググってみると、びっくりするようなアートに出合えますよ。

過去記事「落胆と取材の成果」の続きは、半分下書きしたところです。もう少し、お待ちくださいね。

前の記事「アルベール・カミュのシモーヌ・ヴェイユに関する文章」も、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録する予定です。タイトルは「シモーヌ・ヴェイユとガリマール書店の〈希望〉叢書」に変えようと思います。

我が身に自ら拘束帯をつけたかのようなストイックすぎる生きかたをしたシモーヌ・ヴェイユ。高純度の思想を書き残したシモーヌと母セルマを思うとき、一卵性親子と呼ばれた美空ひばり(加藤和枝)と母・加藤喜美枝を連想してしまいます。

セルマには、シモーヌをプロデュースしたステージママのような一面があったと思うのです。シモーヌは哲学者だったし、兄のアンドレは高名な数学者。並外れた母親ぶりだったことは確かです。

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2018年10月 5日 (金)

Yahoo!ジオシティーズのサービス終了のお知らせが……

Yahoo!から、「2019年3月31日をもってYahoo!ジオシティーズのサービスを終了することにいたしました」というお知らせが届きました。

ジオシティーズで作ったホームページ「バルザックの女弟子になりたい!」は、何年も前から放置状態でした。一応、2015年3月12日に更新した痕跡はあります。

が、このホームページを作っていたころのことを思えば、ノスタルジックな気分に誘われます。

作品の発表舞台を電子書籍に移してからは、ホームページに載せていた作品のほとんどを非公開にせざるをえず、閑古鳥が鳴いていたのです。

今改めて見れば、垢抜けしない変なホームページですが、本人は四苦八苦しながらも、とても楽しかったのですね。

当時お世話になったサイト「Kigen」様を久しぶりに訪問させていただくと、健在で嬉しくなりました。

webでの利用をメインとした美しい素材が沢山置かれています。

和風素材 Kigen
http://www.sobu-net.com/

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2018年10月 4日 (木)

落胆と取材の成果 (1)祐徳稲荷神社での私的心理劇

昨日、祐徳稲荷神社に出かけました。

そのときにまた貴重な取材ができ、二つの疑問がほぼ解けました。祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館の学芸員のかたには今回もお世話になりました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

萬子媛の死後、祐徳院がどうなったのかなど知りたいことは沢山残っているのですが、わたしが書こうとしている歴史小説にはもうこれ以上のリサーチは必要ないと思うので、とりあえずお試し期間(?)としてひと月、創作に集中する予定です。第二稿を書けるかどうかのお試し期間です。

写真は娘がスマホで撮りました。縮小以外の修正は加えずにアップします。

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祐徳博物館横の駐車場に車を止め、橋を渡りました。午後の2時を回ったくらいの時間でした。せせらぎに心が和みました。参拝客はそれなりにいましたが、娘はいないところをうまく撮ってくれています。

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なぜか、金色の鯉が夫に懐いて(?)、しきりに寄ってきました。夫が熱帯魚を飼っているからでしょうか。

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階段を上り、萬子媛のお社「石壁社」にも参拝しました。

ああでも、今回はどこもかしこも空っぽでした!  御神楽殿での御祈願の間も、そうでした。石壁社へ参拝した後はすっかり意気消沈して、泣きたいぐらいでした。

あのかたがたの気韻に溢れる気配を感じることができないと、こんなに空っぽに感じるんですね。勿論、これはわたしの感じかたにすぎません。

昨年参拝したときは、博物館を優先したために、萬子媛ご一行が一日のお勤めを終えて御帰りになるところが――もう雲の辺り――地上から何となくわかり、そのときに萬子媛の放たれた霊的な光が辺りを一変させて、わたしは天国にいるような高揚感を覚えました。そのときのことは、以下のエッセーに控えめに書いています。

72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日 (収穫ある複数の取材) : マダムNの神秘主義的エッセー
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710
<ここから引用>
博物館の近くの駐車場に夫が車を止め、降りて本殿や石壁社のあるあたりに目を向けたとき、傾きかけた日が燦然と射して、あまりの美しさにしばらく見とれてしまった。
日を受けた樹々の緑の輝きがあまりに美しいので、「まるで天国みたいに綺麗ね、こんなに綺麗に見えるのは初めてよ」と娘にいうと、娘は怪訝な顔をした。
何て綺麗なんだろう、ずっとここにいたいと思ったほどだった。後で、もっと傾いた日を受けて、それでもまだ輝いている樹々の緑を見たときの平凡な印象とは、落差があった。あの美しさは、お帰りになる萬子媛のオーラの輝きが日の輝きに混じっていたからだとしか思えない。

<ここまで引用>

お勤めを放棄なさるはずはないので、まだ「夕焼け小焼け」が響き渡る時間以前に何も感じられないということは、わたしが感じられないというだけのことだったと想像するしかありません(尤も、感じられないという人が大多数でしょうけれど)。

なぜ? 母親を求める乳児のように、わたしは萬子媛の霊的存在を求めましたが、何も感じられませんでした。

家で早朝、娘に起こされてそちらを見ると(萬子媛についてまだわからないことを、明け方近くまでかかってまとめていて寝坊しました)、娘とわたしの間の空間に、金色に輝く大きな楕円形の光が見えました。2014年に見た短冊状の光とは形状が違いましたが、共通点が感じられたので、萬子媛のメッセージかしらと思いました。以下は2014年のときのことを書いたエッセーからの引用です。

45 祐徳稲荷神社参詣記 ①2012~2014年: マダムNの神秘主義的エッセー
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/02/10/210502
<ここから引用>
しばらく熱中してふと顔を挙げると、目の前の空間に金色の短冊状のものが棚引くのが見えた。
これは肉眼には見えないもので、神智学でいう透視力が目覚めてきてからこうした類のものが次第に見えるようになった。いつからその透視力が目覚めてきたかといえば、大学時代から「枕許からのレポート」(エッセー34「枕許からのレポート」参照)を書いた頃にかけてだったように思う。
文通をしてくださった神智学の先生――先生は多くの人々と文通をなさっていた――がお亡くなりにあと、先生はあの世に行かれる前に透明になったお体で挨拶に来てくださったのだが、その後しばらくしてから空間に星のようにきらめく色つきの光の点を見るようになった。
空間はわたしには見えない世界からのメッセージボードのようなもので、それまでにもいろいろと見えることはあったが、ある種の規則性を持ったものが見えるようになったのはそれ以降だった。
それが何なのかはわからないが、先生からの、あるいは見えない世界からの助言ではないかと想像している。
金色の短冊はそれとは異なった。それを目にすると同時に「急いで」と優しくいわれたような気がした。萬子媛のお使いかな、と思った。

楕円形の光の意味はわかりませんでしたが(急いで、と今回もおっしゃったのでしょうか)、萬子媛は今回の御祈願のときも2016年のときのように臨在を感じさせてくださるに違いないと、自ずから期待が高まりました。

71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日: マダムNの神秘主義的エッセー 
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355
<ここから引用>
御祈願していただいている間中ずっと、わたしは背後に、萬子媛を中心にして、生きているときは女性であったと思える方々が端然と立っていられるのをほのかに感じていた。すぐ後ろにいらっしゃるのが萬子媛だとなぜかわかった。
<ここまで引用>

夫の運転する車で佐賀へ向かっているとき、高速道路の両脇に植えられた木々が、葉の間から光がこぼれているだけの現象とはとても思えない、沢山の大粒のダイヤモンドのような実をつけているかのようにキラキラと輝いている非現実的な光景を助手席からうっとりと眺めていましたが、帰りの車の中で夫と娘に尋ねたところ、気づかなかったといいました。

あのような輝かしい木々を見て気づかないはずはないと思うので、あれは萬子媛が贈ってくださった光景だったのでしょう。でも、お会いできなかった……あえて、そうなさったのでしょうね。

御祈願のときに心の中で、わたしはまずは一年間見守っていただいたお礼を述べたあとで、わたしが萬子媛の小説を書くことはあまりにつつしみのないことではないかということを第一にお尋ねしたかったし、そのあとも沢山の質問を思い浮かべる予定でした。それに答えてくださるはずはありませんが、気配で伝わって来るものがあるだろうと計算していました。

神様にお目にかかるというのに、何て打算的だったのでしょう。実はその自覚はあったので、お目にかかれないかもしれないという虞れも一方ではありました。それが的中したのでした。

これまでのことがわたしの妄想でないことだけは、はっきりしました。あのような高貴な気配やオーラを、わたしが自分でつくり出す――想像する――など、とてもできない芸当だからです。尤も、それを他人に証明できないという点では同じですけれど。

もう萬子媛をモデルとした歴史小説は書けない気がしていました。祐徳博物館に行くのが何だかつらい気さえしました。でも、遠くてめったに来られないので、萬子媛の肖像画にお目にかかってから帰ろうと思いました。(2)へ

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2018年10月 3日 (水)

美容師さんの憂い……最近の子供達に増えた白髪

髪が伸びて鬱陶しいので、美容室に行きました。行きつけの美容室は、予約のために電話すると、いつも担当していただいている女性美容師さんは休日に当っているということでした。

別の日に行こうかとも思いましたが、たまには違う美容室をお試ししてみるのもいいかと思い、娘推薦の美容室へ。娘と同じハンサムな男性美容師さんに担当していただきました。

白髪染めに、これまでは髪の傷みが少ないということで、マニキュアを選択していたのですが、すぐに色落ちする気がしていました。

初めて行った美容室でお尋ねしてみたところ、マニキュアの場合は確かに傷みはカラーに比べて少ないが、やはり色落ちは速いそうです。また、白髪部分を染めることしかできず、黒い部分はそのままということでした。

カラーとマニキュアの違いも、ろくに知りませんでした。最近のカラーは、染めかたにもよるが――金髪にするとかでなければ――それほど傷まないとのことで、カラーにしてみました。これまでより明るめの髪色になって、満足です。

夫は白髪が増えてから染めない方針で、黒髪は残っていますが、銀髪に近い、艶があるほうなので、見苦しくなく、わたしも賛成しています。ただ、そうなると、散髪をこまめにする必要があるので、少し伸びると、散髪に追い立ててしまいます。

改めてググってみて、カラーとマニキュアの違いがよくわかりました。マニキュアだと髪は傷まないという思い込みが、間違いであるということも。といっても、カラーが髪を傷めることには間違いないようだし、今後はどうするかで迷います。

わたしはどの美容室に行っても、大抵頭の形を誉められます。理想的な卵形だそうで、日本人には少ないそうです。それはいいとしても、肝心の髪の毛が細くて、ぺたんとなりやすいのです。美容師さんが、わたしの髪の毛の特徴を色々と教えてくださり、勉強になりました。

そういえば、最近の子供達に白髪が増えているそうですよ。アシスタントの男性美容師さんが気がかりそうにおっしゃり、担当していただいた美容師さんも同調しておられました。

その原因として、担当していただいた美容師さんはゲームのやりすぎを挙げられ、アシスタントの美容師さんは勉強、勉強といわれすぎてストレスが溜まっているのではないかとおっしゃっていました。わたしはスマホの見過ぎや栄養不足もあるのでは、と思いました。

書店勤務の娘が、最近の母親は玩具として幼児にスマホを与えているように見えるといっていたからです。また、過去記事で書いた息子の話を思い出したからです。

2018年1月 6日 (土)
モロッコ出身の女性**さんに会いたい(家庭創りに関する考察)
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/01/post-0ccc.html
<ここから引用>
息子の前々職場には学歴も育ちもよい人が多く、稼ぎもよくて、奥さんも忙しい仕事に就いている共稼ぎの人も多かったようだが、そのような一人であった上司がコンビニ弁当を食べ続けて干からびると冗談をいっていたというから、男女がフルに働けば、やはりそうならざるをえないのだ。
<ここまで引用>

「マーミー」というサイトには、子供に白髪が生える原因として、ストレス、食事の偏り、睡眠不足、眼精疲労、過度に紫外線を浴びた、不適切なヘアケア製品、病気(尋常性白斑、甲状腺疾患、鉄欠乏性貧血、ビタミンB12欠乏症、結節性硬化症、ビオチン欠乏症、金属アレルギー…)が挙げられています。

子供に白髪が生える原因~対策7つ黒髪に改善してあげよう マーミー
https://moomii.jp/kosodate/children-gray-hair.html

2045年に人工知能が人類の知性の総和を越える――という話でも、盛り上がりました。客であるわたしの興味に話を合わせていただいたのでしょうが、地球の全球凍結の時代の話とか、恐竜の話に合わせられる人は少ないので、興味の分野が似ているのでしょうね。

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