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2018年8月の20件の記事

2018年8月29日 (水)

芥川賞受賞作「送り火」のちゃんとした感想を、次の記事で(青字部分、加筆)

前の記事で、第159回芥川賞(平成30年上半期)を受賞した「送り火」の感想を書いたが、乱暴な感想になってしまったので、次の記事か拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で、もう少し丁寧なものを書こうと思う。

なぜ、「送り火」を神事、文学に対する冒涜と考えたのかの説明もろくに行っていないし、神秘主義的考察が唐突に出てくる。

小説では、神事で使用される道具や用語がアイテムとして出てきてリンチが行われ、神秘主義的な知識なしでは考察できない領域に作者が無知な状態で安易に踏み込んでいたため、不快感と懸念から、つい説明もなしに書いてしまった。

1人の弱者が、6人からなる中学生男子集団(弱者と主人公を含む)とその上部組織とでもいっていいような何人かのヤクザな男達からなる集団から凄惨なリンチを受け、最終的にはその弱者が復讐鬼と化し、主人公にムカついていたといって襲いかかる。

「バケモンだ」「あだま狂ったじゃ」「神降ろしばしでしまっだ、彼岸様ァ、此岸さおいでになられた!」と、ヤクザな男達が恐怖に駆られて叫ぶ。

主人公は都会的で、幾分偽善的なところはあるが、それは誰にでもある長所、短所の域を出ない程度のものにすぎない。弱者へのリンチが加害者の身勝手な理由でなされたのと同様の身勝手さから、被害者であった弱者は加害者へと豹変して主人公を攻撃する。

彼らは餌食を探しているだけであって、相手がどうであろうと、どうでもいいのだ。草食動物を餌食にする肉食動物は、草食動物の個性に立腹して襲うわけではない。仕留めやすそうな草食動物を狙うだけだ。それは自然の営みの一環なのであるが、リンチする者達はこの自然、この地上の営みに属しない忌まわしい性格を帯びている。

「送り火」の文章を借りるなら、彼らはこのとき、神秘主義的にいえば、彼らが「バケモン」とも「彼岸様」とも呼ぶ、普通の人間の肉眼には見えない低級な別世界に属する者達に憑依されているのだ。

小説ではそれが、人間的知性と危機感を帯びて表現されているわけではない。作者の意識はむしろ忌まわしいあちら側にあって、むしろ楽しんでいる。

そのことが、良心的な読者に嫌悪感を惹き起こすのだ。選考委員の中では唯一、高樹のぶ子氏だけがそうだった。他の選考委員はリンチをゆとりをもって傍観している、あちら側に属する者達にわたしには見える。

発表誌『文藝春秋』(平成30年9月号)に掲載されている受賞者インタビューが、それを裏付けている。

インタビュアーは表現を和らげて「リンチにもつながりかねない危険な遊戯」といい、作者がそうしたものを「沢山創作なさっています」といっている。

リンチにもつながりかねない危険な遊戯どころか、警察に通報しなければならないような犯罪性のある、まぎれもないリンチであるのに、作者がそれを「遊び」というので、インタビュアーはそれに合わせているのだ。

書店勤務の娘に、作者がリンチを描いて楽しんでいるようにしか思えない、それによる社会的影響を考えているようには全く思えないと嘆くと、「そういうの、エンター系ではいっぱい出てるよ。例えば、山田悠介とか」といった。

「純文学なんて、ない」といって純文学排斥運動の行われた結果が、これだ。芥川賞は純文学作品ともエンター系作品ともいえない、バケモンを産出するようになってしまった。

娘のいう山田悠介は、登場人物の生命を賭け金代わりにする「死のゲーム」というジャンル(そんなジャンルが存在するとは!)の作家であるようだ。現実にも、死のゲームのような忌まわしい事件が起きている。以前、海外のニュースで見た記憶がある。

そう、あれは、ロシア発「青いクジラ」(2017年頃の発祥だという)という名のSNSを利用した、参加者を自殺に導く死のゲームだった。世界のあちこちで多くの犠牲者を出し、社会問題化した。

作家がそうした風潮を安易に作品づくりに利用しているのかもしれないが、ならばそれは純文学作品であろうと、エンター系作品であろうと、死の灰だ。

「送り火」で見られる単純なリンチといわゆる「死のゲーム」とでは性質の違いがあるが、生命を軽視しているというところに共通点がある。いずれにせよ、本物の純文学作家であれば、そうした風潮の解明にこそ、腕を揮うはずであるのに。

芥川賞は過去の業績から国内では権威ある文学賞であり、そのブランド性が信頼されて、読書感想文の課題に選ばれたり、翻訳されて海外に紹介されたりする。

まさか、日本の神事が「送り火」にあるようなものだとは海外の読者も思わないだろうが――そう信じたい。もはや芥川賞は弊害でしかない。

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2018年8月28日 (火)

神事、そして文学に対する冒涜でしかない高橋弘希「送り火」(第159回平成30年上半期)

ノーベル文学賞は終わった感があるが、『文藝春秋』(平成30年9月号)に発表された高橋弘希「送り火」(第159回平成30年上半期)を読んで、芥川賞もとうとうここまで冒涜的、おぞましいシロモノを日本社会に送り出すようになったか、と脱力感を覚える中で思った。

書きかけだった「鹿島藩日記第二巻ノート (6)祐徳院における尼僧達」の続きがまだだし、トルストイ『戦争と平和』に関するエッセーも「マダムNの神秘主義的エッセー」に連載中で時間がないのに、今日はこれを読まされた(絶賛されていたのだから、「読まされた」だ)。

高橋氏の文章は描写力があって素晴らしいそうだが、誉めすぎだ。描写力というほどの印象的な描写はなく、くどくどしく説明が重ねられているだけで、どちらかというと平板な文章である。

ただ、過去記事で書いたように、わたしは文学界に新星が現れたと確信したので、日本文学が終わったとは思っていない。この希望の光がなければ、不快感、絶望感で今日は何もできなかったかもしれない。

2018年5月12日 (土)
「三田文學」(第24回三田文学新人賞)から新星あらわる
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/05/24-98ca.html

選評の中では、高橋のぶ子「青春と暴力」だけがまともで、他の選考委員の選評は批評能力以前に常識を疑う。

高樹氏の選評のタイトルに青春とあるが、複数の中学生、そして後半は複数の大人が主体となるリンチ事件(殺人になったかどうかがストーリー上は不明)を長々と描いたものが、青春文学などであるはずがない。

しかも、このリンチ事件には神事を――ミサの倒錯であるかのような黒ミサに匹敵するおぞましさで――絡めてあるのだ。虚構なら、何を書いてもいいというわけではないだろう。

実際にも報道されることのある、凄惨なリンチ事件を神秘主義的に見れば、凶悪な低級霊の憑依事例といえそうであるが、話が文学から離れるので、これ以上は追究しない。

ただ、果たして「送り火」が文学といえるだけの資格を備えているかどうかといえば、微妙である。

高樹氏の選評に同感の部分を以下に引用したい(前掲誌309~310頁)。高樹氏が選考委員の中にいてくれたことは芥川賞にとって、わずかな救いだった。そうでなければ、芥川賞の名を辱めただけで終わっただろう。

<ここから引用>
けれど受賞作「送り火」の十五歳の少年は、ひたすら理不尽な暴力の被害者でしかない。この少年の肉体的心理的な血祭りが、作者によって、どんな位置づけと意味を持っているのだろう。それが見いだせなくて、私は受賞に反対した。〔略〕文学が読者を不快にしても構わない。その必要が在るかないかだ。読み終わり、目をそむけながら、それで何? と呟いた。それで何? の答えが無ければ、この暴力は文学ではなく警察に任せれば良いことになる。
<ここまで引用>

懸念されるのは、あれだけの冒涜、暴力を描きながら(そこでは平板な文章が活気づいている)、受賞者インタビューに「暴力性と言われますけど、自分としては男の子たちが皆でお祭りでワイワイしている様子を描こうと思ったのが最初です」という自覚のなさだったことである。

村上春樹の創作姿勢にも、わたしは同様の疑問を覚えた。過去記事「村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅲ)」から以下に引用する。

<ここから引用>
 ネットで、『海辺のカフカ』について新潮社が作者の村上春樹にインタビューした記事を見つけた。そこで「この小説はいくつかの話がばらばらに始まって、それぞれに進んで、絡み合っていくわけですが、設計図みたいなものは最初からあったのですか?」という問いに答えて、彼は次のように答えている。
いや、そういうものは何もないんです。ただいくつかの話を同時的に書き始めて、それがそれぞれ勝手に進んでいくだけ。なんにも考えていない。最後がどうなるとか、いくつかの話がどう結びつくかということは、自分でもぜんぜんわかりません。物語的に言えば、先のことなんて予測もつかない。
 『ノルウェイの森』が『海辺のカフカ』と同じような書き方をされたかどうかはわからないが、わたしには同じご都合主義の臭いがする。『海辺のカフカ』を読みながら、本当にわたしが憔悴してしまうのは、死屍累々の光景が拡大され、即物的な描写が目を覆うばかりにリアルなものになっているからだ。以下は、そのごく一部分だ。
ジョニー・ウォーカーは目を細めて、猫の頭をしばらくのあいだ優しく撫でていた。そして人指し指の先を、猫のやわらかい腹の上で上下させた。それからメスを持ち、何の予告もなく、ためらいもなく、若い雄猫の腹を一直線に裂いた。それは一瞬の出来事だった。腹がぱっくりと縦に割れ、中から赤い色をした内臓がこぼれるように出てきた。猫は口を開けて悲鳴を上げようとしたが、声はほとんど出てこなかった。舌が痺れているのだろう。口もうまく開かないようだった。しかしその目は疑いの余地なく、激しい苦痛に歪んでいた。
このような息も詰まる残酷な場面が、何の設計図もなしに書かれ、無造作に出てくるというのだから驚く。作品が全体として現実とも幻覚ともつかない雰囲気に包まれており、主人公がまだ15歳の少年ということを考えると、作者の筆遣いの無軌道さには不審の念すら湧いてくる。

<ここまで引用>

神秘主義的に考えれば、作家が質〔たち〕の悪い低級霊に憑依され、そのような低級霊の影響下で書かれた作品が流行病のように広がることだって、ある。売れているからといって、有名な賞を受賞しているからといって、油断してはならない。娯楽や慰めのために読む本の影響を、わたしたちは学問的な読書のとき以上に受けると思うべきだ。

勿論、村上氏や高橋氏を霊媒作家というのではない。作家の姿勢次第で、読者は思わぬところへ導かれることがあるということを警告したいだけだ。

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2018年8月26日 (日)

鹿島藩日記第二巻ノート (6)祐徳院における尼僧達 その1

ノート(5)で、萬子媛は出家同然の扱いで、葬礼は「軽ク」執り行われ、僧侶の方々が大勢お見えになった、黄檗宗色の濃い葬礼であったようだ――と書いた。

布施の記録に、30人の僧侶の名があるのだが、この中に祐徳院で萬子媛と寝食を共にして修行に励んできた尼僧の名はあるのだろうか、というわたしの疑問があった。今一度、その記録を引用して凝視してみたい。

祐徳院様御葬礼、今日於津御庵相済申候、右に付、僧衆へ被下候布施、左ニ書載、

 白銀三枚   桂岩和尚
 同 壱枚    月岑和尚
 金子弐百疋   慧達
 同 弐百疋   石柱
 銀拾五匁宛   先玄 五州 絶玄 盤江 長霊 禹門 石応 万山 訥堂 蘭契 満堂 蔵山 亮澤 大拙 瑞山 
 銀拾匁宛   眠山 石林 観渓 英仲 梅点 旭山 仙倫 全貞 禅国
 銀五匁宛   智覚 𫀈要
 (406頁)

30名の僧侶方。「和尚」が付けてあるのは、桂岩(桂巌)和尚、月岑和尚のみ。

桂巌は普明寺の開山であり、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)であった。次に記されている慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)。

その次に記されている石柱は、前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てくる。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れた。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させている。

そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されている。比丘尼とは尼僧のことだから「御庵中比丘尼」というのは、祐徳院で萬子媛と共に修行した尼僧達のことだろう。

御霊供膳用を含め、精進料理に使う野菜を祐徳院に運んだのは大熊孫左衛門で、彼は御厨藤左衛門・原口孫左衛門へ渡した。またこの料理関係で提市郎兵衛が十四日晩から料理が済むまで祐徳院に詰めた。

食材は豊富である。こんにゃくにも、「こんにゃく」「白こんにゃく」「佐賀こんにゃく」「氷こんにゃく」が出てくる。氷こんにゃくを試しにググってみると、文字通りこんにゃくを凍らせたものがダイエットによいということで流行っているようだが、宝永のころの氷こんにゃくとは別物だろうか。

布施の記録にある桂岩、月岑、慧達、石柱は、普明寺関係の男性僧侶達である。それ以外はわからないのだが、残り全部が尼僧達かもしれないし、何割かがそうであるかもしれない。あるいは、尼僧達はこの記録には全然ないのかもしれない。

「蘭契」という名が女性的だな、とわたしは思った。果たして、この蘭契が先の頁に出てきた。

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2018年8月24日 (金)

鹿島藩日記第二巻ノート (5)萬子媛、直條の葬礼

候文はもう、おなかいっぱいという感じですが、江戸中期の情景の中へ入っていくような面白さがあって、つい読んでしまいます。

日記を読むことで、萬子媛が剃髪後も鹿島鍋島家から、こまやかに見守られていたことがわかりました。台風被害の記録で、倒木の1本に至るまでも把握されていることに驚きました。罪を犯した者の記録もありましたが、その者達は追放になったようです。

引用だけからはわからないと思いますが、藩全体に何か家族のような雰囲気があるように感じられるのが意外でした。台風で倒れた木、盗まれた材木、打擲された下人も、藩の大切な財産であると同時に、家族のようなもの、慈しまれるものでもあったわけです。

そのような雰囲気が交際などを通して、藩の外まで広がっているように感じられるのです。いや、それはあるいは外から来たものであったのかもしれません。

死後313年経っても、地上であくせくと生きている人間達を見捨てず、思いを同じくするあの世の方々とボランティアなさっている萬子媛。そのような思いがどこから来たのかを知りたいと思い、計画した歴史小説の執筆。果たして書けるでしょうか。

そうそう、萬子媛、直條公の葬礼がいつで、どのようなものだったか、ノートしておかなくては。アバウトなノートになっています。あまり参考にしないでくださいね。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

萬子媛の葬礼は、宝永二年閏四月十四日(1705年6月5日)に執り行われた。

僧侶方――格峯(鍋島直孝、断橋和尚)、月岑和尚――のご意見により、「祐徳院様御事、御出家御同前ノ御事候ヘハ、」、つまり萬子媛に関する事柄は御出家同然の事柄なので、簡素に――「軽ク」と書かれている――執り行われた。

僧侶の方々が大勢お見えになった、黄檗宗色の濃い葬礼であったようだ。布施の額が記されている。

祐徳院様御葬礼、今日於津御庵相済申候、右に付、僧衆へ被下候布施、左ニ書載、

 白銀三枚   桂岩和尚
 同 壱枚    月岑和尚
 金子弐百疋   慧達
 同 弐百疋   石柱
 銀拾五匁宛   先玄 五州 絶玄 盤江 長霊 禹門 石応 万山 訥堂 蘭契 満堂 蔵山 亮澤 大拙 瑞山 
 銀拾匁宛   眠山 石林 観渓 英仲 梅点 旭山 仙倫 全貞 禅国
 銀五匁宛   智覚 𫀈要
 (406頁)

30名の僧侶方。匁[もんめ]は江戸時代における銀貨の重量単位。僧侶方にはまた、ニ汁六菜、あるいは一汁六菜の料理が出された。

日記には「御葬礼ニ付、御領中今日一日、殺生禁断申付候、」と記されている。

桂岩和尚というのは、桂巌禅師(桂巌明幢1627 - 1710)のことだろう。桂巌は萬子媛を黄檗宗に導いた義理の息子・断橋の師で、萬子媛はこの桂巌を授戒師として得度した。

鹿島四代藩主・鍋島直條の場合、五月十九日(1705年7月9日)が四十九日に当ったが、葬礼がまだだった。それでも、(葬礼より先に)普明寺・泰智寺で軽い四十九日の法事が執り行われたようだ。

五月二十日(1705年7月10日)の日記に、「今晩より来ル廿六日迄、殺生禁断、筋々相触候、」と記されている。

直條の葬礼が二十二日(1705年7月12日)に普明寺で執り行われるのだが、前日の二十一日(1705年7月11日)の日記に、それにたずさわる者の名が16頁に渡って記されている。大がかりなものだった様子がわかる。萬子媛の簡素な葬礼と対照的である。

以下に、役目のみ引用しておく。人物名は省いた。変換できない文字には?をつけた。「御葬禮行烈(列)次第」の右同は横書きでは上同になるが、原文通りに引用した。

都合頭人  銀穀役  料理方  筆者  御茶湯方  普明寺門番  施行?放生気遣  方々より御名代衆  普明寺被罷越候節、近辺宿気遣、野菜・薪等迄、宿々へ指出候気遣  方々より之御名代取合  普明詰給仕  寺中無作法之儀無之様、気遣・掃除等、見計役、  御香奠請取役  法泉庵詰  通玄庵詰  御霊前堪忍  御霊供奉役  

御葬禮行烈(列)次第
 壱番   御卒馬  木綿打掛
 二番   沓箱  右同
 三番   御挾箱  右同
 四番   御? 対  右同
 五番   具足箱  右同
 六番   御臺笠  右同
 七番   御長柄  右同
 八番   御打物  右同
 九番   散花  木綿上下
 十番   散米  右同
 十一番   大幡  右同
 十二番   鍬  右同

この行列次第は32番まであります。御棺の登場は25番。後で気が向いたら続きを引用します。

翌、五月二十二日(1705年7月12日)の日記には「御葬礼、今昼八ツ時相澄〔ママ〕候、」と一行だけ記されている。お疲れ様!

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2018年8月22日 (水)

鹿島藩日記第二巻ノート (4)飛脚が東奔西走、洪水。こよみの計算に便利なサイト、CASIO「keisan」

「円福山普明禅寺創建事由略記」(井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)の中の普明禅寺末寺である祐徳院に関して引用しておきたいが、Windowsのメモ帳に写しているところで、前日は時間切れとなった。

その作業を残しつつ、今日は引き続き、『鹿島藩日記 第二巻』を読んでいた。解読しつつ、ざっと読んでいるだけなので、間違いがあるかも。

鹿島四代藩主・鍋島直條と継母に当る萬子媛の死亡時期が近かったうえに、当時の交通事情もあって連絡が遅れ、萬子媛の訃報をあちこちに届け、葬礼準備にとりかかった矢先、先月直條が江戸で亡くなったという知らせが届く。届くのに、13日もかかっている。

今であれば、メール、電報、電話で瞬時に伝わる情報も、当時は飛脚頼み。二人の死が重なって、日記には飛脚の文字が頻出する。飛脚が東奔西走する。

直條の亡くなったのが、宝永二年四月三十日(1705年5月22日)。この年は翌月が閏四月であって、四月が2回あるのだ。萬子媛が亡くなったのはその閏四月だった。宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)。郷土史家の迎昭典氏がこのあたりのまぎらわしい前後関係を整理してくださっているので、ありがたい。

江戸で亡くなった直條の遺骸を鹿島まで運ぶのも大変だった様子が、日記から伝わってくる。遺骸はまず、江戸から「大坂」まで運ばれた。

御遺骸去月廿七日大坂御着、同廿九日彼地御出棺、(430頁)。

これは五月六日の日記であるから、つまり直條の遺骸は閏四月二十七日(1705年6月18日)に大坂に到着し、二十九日(1705年6月20日)にその地を出棺した。

ちなみに、CASIO「keisan」というサイトが便利。ホーム→こよみの計算→和暦・西暦とアクセス。「和暦から西暦変換(年月日)」のページで、指定する和暦年月日を西暦の年月日に変換してくれる。高性能で助かる。

日記には、人、馬、舟の手配(勿論その手配のための連絡には飛脚が欠かせない)、銀などによる金銭の遣り取りなども記されている。

五月十四日(1705年7月4日)の日記には直條の遺骸は去十二日(1705年7月2日)に下関に着き、十三日に小倉の海を渡って黒崎に泊まることになるが、潮時次第で遅速が当然あるだろうと記されている。「次馬35疋、人足30人、駕3挺」。駕は乗り物。

小倉より飛脚が到着し、小倉の海を渡るのに適した船がなく、十三日は小倉に留まるといってきたので、花木庭へお知らせしたとある。花木庭は、萬子媛の夫で鹿島三代藩主・鍋島直朝の隠棲の地。

同日、盗物である材木(樛[※ツガ]、樫)を売って一儲けしようとした者達。また傷害事件に関する記録があり、斎藤伝右衛門とその女房が下人三助を斧で打擲(殴った)。そのときの傷が原因で三助は後日、相果てた(死んだ)……

いずれも岩松殿(鍋島直堅)家来が起こした事件である。鍋島直堅は直條が亡くなったため、将軍綱吉に謁見し、家督相続して五代藩主となるが、このとき、11歳。

同日、晩の記録には、小倉より飛脚が到着したとあり、遺骸が下関に到着、海を渡って、「大里御泊十三日、飯塚御泊十四日、田代御泊十五日、牛津御泊十六日、加嶋御着之段、外記へ舎人より(※「より」は合字が使われている)申越候、依之、」と文章は続く。

五月十五日(1705年7月5日)の日記には、今日御遺骸が牛津に到着するので、御迎えのため吉田官兵衛・松永藤次郎が牛津に向かった。一方、「今日祐徳院様御三十五日」とあり、御供えする野菜、料理のことなどが書かれている。

現代でも和食(精進料理)に使われている食材、調味料が色々と書かれていて、読んでいて全く違和感がない。当時からこんなに色々とあったのかと驚かされる。これについても、別にメモしておきたいと思う。

それにしても直條の遺骸が鹿島に届くまでにずいぶん日数がかかっているけれど、防腐処理なんかは施されていたのだろうか。五月十六日になってもまだ、牛津を御出棺、雨が降り続いているために「塩田川水出、中川・山田川も水出申候、」などと書かれていて、続く記述を読むと、これは洪水状態と考えていいだろう。人が大勢出て、対処している。

翌五月十七日になってやっと、「昨夜中雨止申候付而、塩田川水減、御尊躰船より(※「より」は合字が使われている)御渡被成候、」とあり、読んでいてホッとした。直條公、御帰りなさい。

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2018年8月20日 (月)

難字検索に便利なウィクショナリーのカテゴリ「漢字」。H・P・ブラヴァツキーの素晴らしくも難解な著作。

「円福山普明禅寺創建事由略記」(井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)に、普明禅寺末寺である祐徳院の由緒が簡潔に述べられている。稲荷社の位置づけなどもわかる。

引用したいと思ったが、難字がちょくちょく出てきて、「らくらく手書き入力」を使ってもうまく表示されず、家にある漢和中辞典にも載っていない。

引用を諦めるか、表示できない漢字についてのくどくどしい説明を加えるかで迷いつつ、リサーチ疲れして頭を掻きむしり、動悸までしてきたが、以下のサイト「ウィクショナリー」の「カテゴリ:漢字」で出てきた。

ウィクショナリー
https://ja.wiktionary.org/w/index.php?title=%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8&oldid=719007

カテゴリ:漢字
https://ja.wiktionary.org/w/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E6%BC%A2%E5%AD%97&oldid=1006027

ブラウザによっては、表示されないだろうけれど。

この程度の難字で音をあげるヘタレのわたしには、近代神智学運動の母H・P・ブラヴァツキーの代表的著作『シークレット・ドクトリン』の邦訳がどれほど大変だったかを思い(世界中のどんな辞書にも載っていないような難字が出てくる)、改めてH・P・ブラヴァツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1989)、H・P・ブラヴァツキー(忠源訳)『シークレット・ドクトリン 第2巻 第1部 人類発生論』(竜王文庫、2018)の重みを確かめた。

2018年6月25日 (月)
H.P.ブラヴァツキー(忠源訳)『シークレット・ドクトリン 第2巻 第1部 人類発生論』(竜王文庫、2018)を読んで
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/06/hp-2-1-2018-791.html

ああ早く、萬子媛をモデルとした歴史小説を完成させて、児童小説を書いたり神智学の勉強をしたりしたい。

わたしがこのような小説など書いたところで、何にもならないのではないだろうか、それどころか百害あって一利なしではないだろうか――と毎日考える。

それでも続けてしまうのは、萬子媛に問いかけると、何らかの形で回答がもたらされてきた――ように思える――からだ。

霊験あらたかと評判になるような場所には、天然資源の恵みがあるか、あるいは萬子媛がなさっているような霊的な行為――あの世の方々のボランティア――が隠れているのではないだろうか。

あの世で楽しく遊び暮らすことだって、おできになるはずだ。現に、亡くなった人のほとんどは、おそらくそうだ。

この世にあるときにあの世のことなどめったに思わないとすれば、あの世に行ってからもこの世のことなど、めったに思いはしないのだ。一方で、強い欲望からこの世に執着している悪霊たちには、あの世という精妙な世界は存在せず、この世とあの世の間の暗黒の谷間で惰性で生き永らえながらこの世に有害な関与をし続けている。

萬子媛のような高級霊があの世の清浄な大気からこの世の汚れの中に下りて来られることがどれだけの犠牲を払ってのことかを想像し、また人間のカルマに障らないようにボランティアすることの微妙さ、難しさを想像するとき、胸が痛くなってしまう。

時間が来ると、萬子媛たちはさっと空の彼方へ去って行かれる。それはわたしには主に気配としてわかるだけなのだが、何となく御姿が見えるような気がすることもある。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1995改版)に「神智学の教えは霊と物質の同一性を主張し、霊は潜在的な物質であり、物質は結晶化した霊にすぎないと言います」(42頁)とあるけれど、現代日本人はあまりにも物質主義に染まりすぎているように思う。進歩しているつもりで、退歩している。

そんな愚かしい現代日本人を萬子媛のような優れた先人たちは見捨てず、さりげなく助けてくださっている。

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2018年8月19日 (日)

鹿島藩日記第二巻ノート (3)萬子媛の死

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

萬子媛(一貫して祐徳院様と記されている)逝去後、すぐに葬礼の段取りがつけられると同時に、あちこちへ訃報が届けられた。細かく記されている。

訃報は直ちに松之助様、お幾様(鍋島直條の娘で萬子媛を慕った義理の孫。前ノート②参照)、泉州様(鍋島直朝、萬子媛の夫)、京都・花山院(萬子媛の実家)、江戸……

こうした記述と交錯するように、鍋島直條に対するお見舞いが蓮池家から届けられたリしている(実際にはこのとき既に江戸で直條は亡くなっている)。

さらに訃報を届けるため、飛脚が遣わされた。信州様(鍋島綱茂。佐賀藩の第三代藩主。光茂の長男。光茂は1700年に亡くなった)、その他御親戚方。彦山僧正(萬子媛の姉が嫁いでいる)。

萬子媛に引導を授けるために格峯(鍋島直孝。断橋和尚)の指示で請待された僧の名が「拙巌」と記されており、この人物がわからなくて躓いた。またしても悶々としてリサーチ。

結局わからないままなのだが、桂巌禅師(桂巌明幢1627 - 1710)以外に考えられない。まぎらわしいことに、拙巌(せつがん)という僧は存在するが、浄土真宗本願寺だし、1791-1860 で時代が違う。

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2018年8月18日 (土)

Kindle版児童小説『すみれ色の帽子』『田中さんちにやってきたペガサス』をお読みいただき、ありがとうございます!

Kindle版児童小説『田中さんちにやってきたペガサス』(ASIN:B00BEMD5ZK)を8月10日ごろ、『すみれ色の帽子』(ASIN:B00FB4K0X2)を8月11日ごろ、KENPC(Kindle Edition Normalized Page Count)でお読みいただきました。

『田中さんちにやってきたペガサス』をKENPCでお読みいただいたのは今回で9回、お買い上げいただいたのは8冊です。

『すみれ色の帽子』ををKENPCでお読みいただいたのは今回で10回、お買い上げいただいたのは8冊です。

サンプルをダウンロードできます。
     ↓

田中さんちにやってきたペガサス(中編児童小説です)

すみれ色の帽子(日記体児童小説です)

以下は、99円の短編児童小説です。サンプルをダウンロードできます。

卵の正体

ぼくが病院で見た夢

花の女王

ぬけ出した木馬

マドレーヌとわたし

マドレーヌとわたし(漢字使用)

以下はシリーズ物の第1巻です。冒険前夜の物語です。サンプルをダウンロードできます。

不思議な接着剤1: 冒険前夜

以下はアマゾン・キンドルストアの著者ページです。管理人の電子著書一覧を御覧いただけます。

Amazon.co.jp: 直塚万季: 作品一覧、著書略歴
https://www.amazon.co.jp/-/e/B00BERQ7P0

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2018年8月16日 (木)

鹿島藩日記第二巻ノート (2)萬子媛の病気が心配でたまらない義理の孫

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

変体仮名が曲者だわ~!

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『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、1979)によく出てくるこの文字がわからず、悶々とした。合略仮名(仮名合字、つづきかな)で、平仮名の「よ」と「り」の合字、「より」。

昨日からまだざっとメモしているだけなのだが、萬子媛の実家を継いだ弟、花山院定誠が萬子媛の亡くなる前年に亡くなったことが日記からわかる。

前の記事に「忠広と定教は若くして亡くなり、寛永17年2月26日(1640年4月17日)生まれの定誠が藤原氏北家師実流の花山院家24代当主となった。権大納言、武家伝奏役、内大臣をつとめたあと、元禄5年(1692年)、52歳で出家し、宝永元年(1704年)に死去」と書いた。萬子媛にはショックだったのではないだろうか。

萬子媛が病気になられてから、頻繁に「お幾様」というお名前が出てくる。鍋島直條女とあるから、このお幾様は萬子媛の義理の息子の娘。義理の孫になる。お幾様が萬子媛を心配していた様子が日記から伝わってくる。

鍋島直條(1655 - 1705)は51歳で亡くなっており、家督を継いだ五男、直堅(1695 - 1727)は病弱だったらしく、33歳で早世している。

直堅の母違い(?)の姉が「お幾様」ではないかと思うが、弟との年齢差はかなりあっただろう(直堅の母は側室から昇格した継室・中野氏)。それでも、父、直條の年齢を考えれば、比較的、若かったのではないだろうか。

直條の結婚は寛文11年(1671)、17歳のときで、相手は佐賀藩主光茂の養女(蓮池藩鍋島直澄の娘)千代、19歳である。直條夫人千代は元禄元年(1688)、36歳で出産後、亡くなっている。千代のこの末の子もほどなく亡くなった。第二女が既に天和二年(1682)、亡くなっている。

お幾様が長女だったとすれば、早ければ結婚の翌年くらいに生まれ、遅ければ第二女が生まれ亡くなった前々年くらいの生まれになるから、萬子媛が亡くなったとき、25歳~33歳くらい。

萬子媛の修行期間は62歳からの18年間に及ぶから、萬子媛の出家時、お幾様は7歳~15歳。子供のころ可愛がられ、萬子媛の出家後は時々会いに行っていたとすれば、慕うのも頷ける。

わたしは萬子媛をモデルとした歴史小説の第一稿で、萬子媛を慕い、お産につきそう若い女性を描いた。

義理の娘に設定したのだが、実際には娘ではなく孫だったとはいえ、萬子媛を慕う「お幾様」のような女性がいたことに驚きを覚えた。

他にも、萬子媛が筝を奏でる情景が頭に浮かんだので、その場面を書いたら、実際に萬子媛は筝を弾かれたようで、遺愛の琴(筝)を祐徳博物館で観ることができる。

萬子媛が可愛がり、萬子媛を慕う若い女性が萬子媛に付き添っているところがしきりに頭に浮かび、病気はちょっと思いつかなかったので、萬子媛のお産ということにしたのだった。

実際の萬子媛も、お幾様を可愛がられたに違いない。わたしが神秘主義的感性で捉える萬子媛はそのような格調高い慈母のような雰囲気を持つかたなのだ。

だからわたしも――お幾様には負けるかもしれないが――あの世のかたであるにも拘わらず萬子媛が大好きになってしまった。そうでなければ、書き慣れない歴史小説など書こうとは思わない。児童小説の続きを書く。

お亡くなりになった神智学の先生も大好きなので(先生は多くの会員から慕われていた)、ちょっと困るくらいだ。百合も薔薇もたまらなく好き、という感じだろうか。

護摩堂での二夜三日の祈禱を命じたり、お見舞いに行く折に中尾地蔵へも参詣したり、しきりに人をやって容体を尋ね(萬子媛逝去の前日も)……と、お幾様は萬子媛のことが心配でたまらなかったのだろう。

父と義理の祖母を一度に亡くしたお幾様……可哀想に。萬子媛と寝食を共にして修行に明け暮れた筋金入りの尼僧たちとは違って、一般的な女性だったと思われるので、なおさら気の毒になってしまう。

元禄14年に起きた赤穂事件について日記に書かれており、解説を引用しておきたいが、記事を改めよう。『伊万里市史』から、鍋島焼についてもノートしておきたい。

赤穂事件が起きた翌年の元禄15年、肥前佐賀領大風雨とあり、これは台風だろうか。被害状況が細かく記されている。

田畠18万1,000石が荒れた。倒家数2万9,045軒。崩塀3,800間余。
倒木3万4,850本。破船29艘。
死人62人のうち男57人、女5人。
死馬8疋。

わたしは萬子媛が断食入定ではなく、一般的な死にかたを選ばれた――と推測できることが嬉しい(萬子媛が古枝にあった祐徳院のどこで病まれたかが書かれていないので、断定はできない)。

萬子媛に興味が湧いたのは断食入定という過酷な死にかたをなさったという伝承に接したからだったが、わたし自身は死に至るまで断食を続けるような過激な修行を不自然、不要なことだと思っている。

それに、高雅でありながらとても率直なかたである萬子媛がわたしの思い込みに違和感を覚えていられる感じがそれとなく伝わってきて、現実にはどうであったのか知りたくなり、『鹿島藩日記 第二巻』を購入した。購入して、よかった。

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2018年8月15日 (水)

鹿島藩日記第二巻ノート (1)萬子媛の病気

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

過去記事に書いたように、『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、1979)には宝永二年三月六日ごろから、ほぼ毎日、閏四月十日に「今夜五ツ時、祐徳院様(花山院定好女萬子 鍋島直朝後室)御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」と記されるまで、萬子媛の病気に関する記述が繰り返されている(前掲書366~398頁)。

同年の三月二十六日の日記に、二十四日からの石丸作佐衛門という人の手紙が写されていて、萬子媛の病気や食欲について知ることができる。

この間より御心持御かろみあそばされ、御快(おこころよく)なられましたとのこと――といったことが書かれているから、病状はよくなったり悪くなったりで、一進一退を繰り返した。

食欲について、「御食事四十め宛」とあり、めは目盛り(?)、宛は「数量を表す名詞に付いて、…あたり、…について、の意を表す」接尾語(?)。

御腫気とは浮腫のことか?

同写しに御風気とあり、御風気(ごふうき)とは風邪のことだから、高齢になって、断食行などは続けていられたのだろうが、やはり体は弱ってきており、風邪に罹ってそれがなかなか回復しないまま、肺炎か何かで亡くなられたのではないだろうか。まだざっと読んだだけで、解読はこれからだから、間違っているかもしれないが。

花山院家や英彦山との交際があったことなどもわかる。以下の過去記事に書いたように、萬子媛の姉が英彦山座主に嫁いでいた。

花山院家系図で見ると、定好には男子5人、女子3人いて、真ん中の女子が萬子媛。鍋嶌和泉守室とあるから。嶌は島で、鍋島。和泉守は官位。室はその妻のこと。
忠広と定教は若くして亡くなり、寛永17年2月26日(1640年4月17日)生まれの定誠が藤原氏北家師実流の花山院家24代当主となった。権大納言、武家伝奏役、内大臣をつとめたあと、元禄5年(1692年)、52歳で出家し、宝永元年(1704年)に死去。
円利は禅寺に入ったようである。堯円は浄土真宗の寺に入り、第16世大僧正となった。
姉は、豊前国英彦山を統括する首席僧、亮有の妻となった。亮有の父有清の妻となったという異説もあるようだ。有清も英彦山座主である。萬子媛の妹は惣持院の尼となったとある。

閏四月十日(6月1日)の日記には様々なことが書かれている。萬子媛の義理の息子である鍋島直條は既に四月三十日(5月22日)江戸で亡くなっていたのだが、郷土史家の迎昭典氏がお書きになっているように、まだ鹿島ではそのことを知らなかったことがこの日の日記を読むと、わかる。

同日、萬子媛の病床に付き添っている人々に、殿様からこわ飯(おこわ)・煮しめ物重二組が差し入れられた。萬子媛はこの日の「今夜五ツ時」――夜8時に亡くなった。

『鹿島藩日記 第二巻』は、なかなか興味深い。食物について。当時は様々な種類の鳥が食べられており、魚の種類も豊富。餅菓子なども出てくる。

日記には元禄14年3月14日 (1701年4月21日)に起きた赤穂事件についても、詳しく記されている。

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2018年8月12日 (日)

「試着室」(金平糖企画新作公演、作・演出 時枝霙)を観劇して

インターネットでの拡散はOKのようなので、下手なレビューを書きます。ネタバレありなので、これから観劇なさるかたはご注意ください。

金平糖企画主宰、時枝霙さんを採り上げた記事がネット検索で出てきたので、リンクしておきます。

クローズアップ 2018  輝きの女たち
いつも行く美容院や飲食店を舞台に公演
演劇、朗読、写真、文章など多彩に表現
時枝 霙さん
金平糖企画主宰

http://www.josei-oita.jp/2018_7h.html

「医師と表現者の二足のわらじ。演劇、朗読、文章、写真など活動は多彩」と前掲記事にあり、驚かされます。

以下は、「金平糖企画」のツイッターです。

金平糖企画 @confettiplannin
舞台作品をつくったり、ライブをします。9/23.24熊本DENGEKI参戦。諫早独楽劇場シアターバー10月。

https://twitter.com/confettiplannin

8月8日、「試着室」(金平糖企画新作公演、作・演出 時枝霙)を観に行きました。

貸店舗での舞台と客席の境界を設けない上演で、全体に実験的要素が感じられる劇でした。

舞台はアパレルショップ。舞台装置は極めてシンプルで、境目のない舞台からドアに向かう空間が舞台の延長として活用され、能楽でいう橋掛りの役目を持っていました。

音響はレトロ調、近距離からの照明は迫力がありました。

店主役によって吊り下げられていくハンガーには折鶴がぶら下がり、床には折り紙が巻き散らされます。それらは服に見立てられているようでした。

登場人物は、アパレルショップの店主、アルバイトの女子学生(長身のスリムな男性が演じていました)、女性客、沈黙したまま片隅に蹲っている首にギブスをつけた怪我人。

台詞はしばしば詩のようで、客と店主が会話を交わすとき、客が失恋を独白するときなどに、学生がバックミュージックのように髪、爪、血液などの人体に関する自然科学的な台詞を詩の朗読のようにいう場面があり、不思議な雰囲気を創り出していました。

客が学生と一緒に駆け回りながら、床にまき散らされた折り紙を掴んではまき散らす場面は圧巻で、絶望感に囚われた女性に合う服はどうしても見つかりません。

ストーリーらしいストーリー、結末らしい結末はなく、別の客がアパレルショップへやってきて(片隅に蹲っていた怪我人との二役。演じていたのは時枝さん)、店主と新しい客が、前の客と全く同じ会話を交わすところで、存在しない幕が下りました。

アパレルショップは、エンドレスに循環する宇宙的な営みをシンボライズしているようでもありました。

娘の友人の演技には磨きがかかっていました。アパレルショップへの訪問者(客)を過去のトラウマから自分探しの旅(?)へと誘う店主の役を、品よくこなしていました。

この品のよさこそが、劇中で日常と非日常を違和感なく一体化させていた重要な要素に思えました。

「試着室」からはよい意味でのアマチュアリズムというべきか、ひじょうにナイーヴな芸術性というべきか、純粋志向が感じられ、いささか古い用語を用いるならば、「不条理」なテーマへの純粋すぎるくらいのアプローチが印象的でした。

不条理という言葉は、今の若い人々には馴染みのない言葉かもしれませんが、アルベール・カミュ(Albert Camus,1913 - 1960)の哲学的エッセー「シーシュポスの神話」で有名になった実存主義の用語で、人間存在の根源的曖昧さ、無意味さ、非論理性に由来する絶望的状況を意味する言葉です。

ここからは蛇足になりますが、わたしの大学のころ――40年ほども昔の話になります――には、第二次大戦後にフランスからサルトルなどによって広まった実存主義はまだ流行っていました。否今でも哲学的主流はこのあたりに停滞していて、現代哲学は唯物論に依拠して局部的、細部的分析に終始しているように思えます。

ちなみに、カミュは自分では実存主義者ではないとしていますが、その思想傾向からすれば、実存主義者に分類されていいと思われます。

カミュに発見された女性哲学者シモーヌ・ヴェイユは晩年、キリスト教的神秘主義思想を独自に深めていきますが、しばしば実存主義哲学者に分類されます。

実存主義はマルクス主義の影響を受けた思想で、唯物論的であり、マルクス主義の流行とも相俟って一世を風靡したのでした。

しかし、一端、唯物論的袋小路へ入り込んでしまうと、自家中毒を起こし、下手をすれば阿片中毒者のような廃人になってしまう危険性さえあります。村上春樹のムーディ、曖昧模糊とした小説はこうした不条理哲学の子供、ただしカミュの作品が持つ聡明さ、誠実さを欠いた子供といえます。

戦後、日本人はGHQによる洗脳工作(WGIP)や公職追放(注)などもあって、唯物主義、物質主義が優勢となりました。こうしたことに起因する現代日本の問題点が演劇という形式で真摯に表現されているという点で――それが意図されたわけではなかったのかもしれませんが――、「試着室」は興味深い作品でした。

(注)
わが国では、第二次大戦後のGHQの占領政策によってマルクス主義の影響力が高まりました。20万人以上もの公職追放によって空きのできた教育、研究、行政機関などのポストにフランクフルト学派の流れを汲むラディカルなマルキストたちが大勢ついたといわれます。

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2018年8月11日 (土)

観劇のあとで入った、てんぷら専門店「えび福」。バジルの収穫。

木曜日の夜、娘の友人が出演する演劇「試着室」(金平糖企画新作公園: 作・演出 時枝霙)を観に行きました。一昨年に同じかたの出る演劇を観に行っています。

2016年11月 4日 (金)
演劇を鑑賞した昨夜
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/11/post-bc62.html

昨年も行きたかったのですが、野外劇ということで、暑さに弱いわたしたちは断念。今年はぜひ、と思っていました。感想は記事を改めて。

観劇の帰りに、娘が先日イタリア語講座の先生(イタリア人男性で、大学の先生もなさっています)、その奥様(やはりイタリア語講座をなさっています)、受講者の皆さんで行ったという――今回の講座はこれで終わり――イタリアンのお店が美味しかったというので、そこへ行くつもりでしたが、生憎、店休日でした。

イタリア語教室といえば、奥様の教室に見学に行ったときのことを思い出します。あのときはビビったわ。

2014年9月23日 (火)
お気楽な見学のつもりが体験学習でした。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2014/09/post-bdcf.html

大分市のガレリア竹町にある天ぷら専門店「えび福」に久しぶりに行きました。ここのてんぷらは、綺麗な油で揚げられていることが見た目にも、いただいても、すぐにわかります。サクッとしてジューシーで、ほっぺが落ちそうになりますよ。

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とり天定食。1,260円で、お得感あり。

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てんぶら定食。メニューには、他にも美味しそうなてんぷらが沢山……

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これはわたしの下手な料理ですが、最近作って美味しいと思った栗原はるみさんの「白あえ」。

バジルが二度目の収穫を迎えました。一度目は失敗。害虫にやられて、収穫量は少なめでした。娘がレモン水スプレーしたらいいみたいよ、というのでググってみると、そのようでした。

実はベランダ菜園(?)は夫の聖域となっているので、手を出しにくかったのですが、バジルパスタをたっぷりのソースで食べたいというわたしの欲が勝り、夫に代わって小まめにレモン水をスプレーしたところ、バジルはすっかり健康を回復。

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これで、100gありました(使える葉だけに処理した後)。手前のものは、飾りにする花つき葉っぱ。

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2018年8月10日 (金)

8月2日ごろ評論『村上春樹と近年のノーベル…』(Kindle版)をお買い上げいただき、ありがとうございます! 

評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays 1)』(Kindle版、ASIN:B00BV46D64)をお買い上げいただき、ありがとうございます! 

8月2日ごろ、オーストラリアのキンドルストアでお買い上げいただいたようです。オーストラリアでのお買い上げは初めてでした。『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』は、77冊お買い上げいただいたことになります。

  • オーストラリア……1冊
  • ブラジル……1冊
  • カナダ……1冊
  • 日本……34冊
  • アメリカ……31冊
  • ドイツ……4冊
  • イギリス……2冊
  • メキシコ……1冊
  • イタリア……1冊
  • フランス……1冊

サンプルをダウンロードできます。

村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays, Volume 1)

以下に、アマゾンに掲載中の商品説明を引用します。

商品の説明

自由な立場から書かれた本書は鋭い分析力を特徴とし、文学界のみならず日本文化そのものに警鐘を鳴らしている。
2006年5月3日から7日にかけて、著者は自身のブログで、小論「村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ」を公開した。その小論に加えて、近年のノーベル文学賞作家オルハン・パムク、ドリス・レッシング、ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオ各人の作品に関する雑感を紹介する中で、村上春樹がノーベル文学賞作家にふさわしいだけのわが国の誇りとできる作家であるのかどうかを検証した評論を2009年5月、同人雑誌に発表。本書はそれに加筆・訂正を行ったものである。

〈目次〉
 はじめに
 Ⅰ 村上春樹現象
 Ⅱ 小論「村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ
 Ⅲ オルハン・パムク『わたしの名は紅』を分析する
 Ⅳ 乾いた知性、強烈な社会性――ドレス・レッシング
 Ⅴ ル・クレジオの光と風
 Ⅵ 最後に
 あとがき
 第二版あとがき 

以下はアマゾン・キンドルストアの著者ページです。拙電子著書一覧を御覧いただけます。

Amazon.co.jp: 直塚万季: 作品一覧、著書略歴
https://www.amazon.co.jp/-/e/B00BERQ7P0

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2018年8月 8日 (水)

歴史短編1のために #38 核心的な取材 ②萬子媛の死を記録した本が届いた

貴重な本を届けていただき、祐徳博物館には感謝の気持ちでいっぱいです。

・‥…☆・‥…☆・‥…☆

今日は他に用事があるので、とりあえず、ざっとメモしておこう。漢文が苦手なので、まだ「祐徳院」と出てくる箇所をチェックしただけ。

当時の雰囲気に引き込まれ、「萬子媛、死なないで!」と心の中で叫びながら、藩日記を辿っていた。

現実(?)には萬子媛は現在、この世のどなたよりも生き生きと、オーラの威光に満ち、あの世のかたとして神社という形式を最大限に活用し、毎日あの世からこの世に通って、千手観音のようにボランティア集団のリーダーとして活動なさっていることが、神秘主義的感受性に恵まれた人間にはわかるはずだ。先祖返りにすぎない霊媒能力ではおそらく、あの高貴、精妙な存在感はわからないだろう。

しかしながら、肉身としての萬子媛は、宝永二年(1705)閏四月十二日に逝去された。

祐徳稲荷神社のオフィシャルサイトには、次のように書かれている。

齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました。

祐徳博物館の女性職員がおっしゃるには、寿蔵で萬子媛が断食の行を積まれたことは間違いないだろうとのこと。

身体が弱ってからも、断食の行を続けられたのかどうかはわからない。断食の行が御老体に堪えたのかどうかもわからない。

いずれにしても、萬子媛は宝永二年三月六日ごろにはお加減が悪かった。それからほぼ毎日、閏四月十日に「今夜五ツ時、祐徳院様(花山院定好女萬子 鍋島直朝後室)御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」(『鹿島藩日記 第二巻』祐徳稲荷神社、1979、398頁)と記されるまで、萬子媛の容体に関する記述が繰り返されている(前掲書366~398頁)。

この「今夜五ツ時、祐徳院様(花山院定好女萬子 鍋島直朝後室)御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」という藩日記からの抜粋は、郷土史家の迎昭典氏からいただいたコピーの中にあった。

藩日記にははっきりと「御病気」という言葉が出てくるから、萬子媛が何らかの病気に罹られたことは間違いない。

そして、おそらくは「断橋和尚年譜」(井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)の中の断橋和尚の追悼詩に「末梢(最期)疑うらくはこれ熟眠し去るかと」(92頁)と描かれたように、一進一退を繰り返しながら、最期は昏睡状態に陥り、そのまま逝かれたのだろう。

鹿島市民図書館の学芸員は取材の中で「石壁亭そのものは祐徳院様が来る前から断橋和尚が既に作っていて、観音様を線刻したような何か黄檗宗の信仰の対象となっているようなところ――洞穴を、自らのお墓に定められたということだと思います」とおっしゃったが、現在の萬子媛の活動を考えると、観音様のようになることを一途に祈念しつつの断食行であり、死であったのに違いない。

2018年8月 4日 (土)
歴史短編1のために #37 核心的な取材 ①インタビュー
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/08/36-d6f8.html

また、学芸員は「尼寺としての在り方はたぶん、祐徳院さんが死んで10年20年くらいしか持たなかった……比較的早い段階で男性の方が入るということに。祐徳院さんが京都から連れてきたような人たちや祐徳院に女中として仕えたような人たち――祐徳院に入って一緒に修行したような人たち――が、やはり祐徳院と直接の接点を持っている人たちが死に絶えていくと、新しい尼さんを供給するということができなかった」とおっしゃった。

ところで、わたしは拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に「萬子媛を囲むように一緒に整然と行動している女性的な方々の一歩引いたような、それでいて萬子媛を促がしたりもする雰囲気からすると、大勢の中で中心的役割を果たしている女性的な方々は生前、萬子媛と寝起きを共にした尼僧たちではないかとどうしても思えてくるのだ。萬子媛の最も近くに控えている毅然とした感じの女性的な方は、もしかしたら京都から萬子媛が嫁いで来られたときに一緒に鹿島にやってきた侍女かもしれない。萬子媛が出家したときに一緒に出家したのでは……あくまで想像にすぎないが、小説であれば、想像を書いてもいいわけだ」と書いている。

71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355

学芸員のお言葉は、わたしの感性が捉えた萬子媛とその周囲にいる人々の雰囲気に符号するものがある。中心的役割を果たしている人々を囲むようにボランティアなさっている方々はもっと沢山いらっしゃるように感じられるのだが、あの世で新たに参加なさった方々なのだろうか。

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2018.8月8日に内分泌内科受診

再来受付機に診察券を通して出てきた受診案内票に、見知らぬドクターのお名前が……担当医が交代していた。

男性医師から女性医師に変わり、また男性医師に。

これまでの経緯を訊かれ、副甲状腺機能亢進症疑いで経過観察していただいていることをいったあと、言葉に詰まった。検査入院したのがいつだったかさえ、曖昧だ。5年前だそうだ。

担当医が交代することが予めわかっていれば、「復習」して行っただろうが、明快に説明できなかった。カルテが残っているはずではと思い、先生にそういうと、しばらくパソコンを操作して「あ、ありますね」とおっしゃった。

話の流れの中で、循環器クリニックにかかっていることをお話しすると、先生は「ああ……」と、クリニックをご存知のようだった。クリニックで尿路結石を出やすくするウロカルンを処方していただいて、予防的に飲んでいるといった。

先日、先生の患者さんで腫大した副甲状腺を摘出して、腎結石ができなくなった人がいるそうだ。そんな話を聞くと、羨ましくなる。その患者さんの場合はかなり腫大し、カルシウム値も髙かったという。

わたしはそこまでない。若干高めという状態がずっと続いている。検査入院したときのカルテでは、4個ある副甲状腺のうちの1個が大きくなっていたというが、それは5年前のデータであって、5年前の古いデータで現在を語るわけにはいかないと先生。

で、次回、11月にエコーをしましょうという話になった。このエコーであまり変化がなければ、これまでのように半年に1度の経過観察でいいそうだ。血液検査、尿検査もある。

今日受けた血液検査の結果を見ると、最近下がっていたALPがまたいくらか高くなっている。106―322のところを、362。カルシウムは8.8―10.1のところを、10.0。思わせぶりな、人を苛々させる数値だ。Whole PTH(副甲状腺ホルモン)は次回しかわからない。前回の結果は貰わなかった。

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2018年8月 6日 (月)

甲子園初のタイブレーク、佐久長聖が延長14回を制す

第100回全国高校野球選手権。佐久長聖(長野)-旭川大高(北北海道)の延長戦で、甲子園初のタイブレークという制度が適用されました。14回に佐久長聖が1点をあげて、旭川大高に勝利。

いやー、面白い試合でした。北畑玲央投手の冷静な投球は凄かった!

タイブレークについては、デイリースポーツの解説を参照→ここ

佐久長聖の校歌が流れましたが、作詞が詩人の草野心平と出て、あっと思いました。蛙をテーマとした詩で有名な詩人ですね。

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2018年8月 5日 (日)

爽やかな味わい「ホワイトキーマカレー」

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こう暑いと、丼物、ピラフ、炊き込み御飯、カレーライスなど、御飯にのせたり、混ぜたりするレシピが目に留まります。

先日目に留まったのは、ホワイトキーマカレー。材料が如何にも爽やかそうではありませんか。ヘルシーな感じだし、どんな味だろうと興味が湧きました。

参考にしたレシピは、以下のロケットニュース。

【究極レシピ】カレー研究家オススメの「白いカレー」を作ってみたら超カンタンなのに激ウマだった! 市販のルーは必要なし!!
https://rocketnews24.com/2018/06/29/1081687

前掲記事からレシピを紹介します。

「ホワイトキーマカレー」

【材料 2人前】
・明治ブルガリアヨーグルト(100グラム)
・鶏ひき肉(100グラム)
・玉ねぎ(中 1/2個 約100グラム)
・牛乳(200cc)
・水(100cc)
・バター(10グラム)
・水溶き片栗粉(大さじ2)
・味噌(小さじ1)
・塩(小さじ1/2)
・クミンパウダー(小さじ2)
・こしょう(少々)

【作り方】
その1:玉ねぎをみじん切りにする。
その2:鍋にバターを入れて、中火で玉ねぎを透明になるまで炒める。
その3:鶏ひき肉を入れ炒めたら、ヨーグルト、水、味噌、塩を加える。
その4:牛乳を加えて加熱し、沸騰したら水溶き片栗粉でとろみをつける。
その5:クミンパウダー、こしょうを加えて3分間加熱する。
辛いカレーが苦手な娘が「辛くないから、スープとしても飲めそう。とっても、美味しい」といいました。

短時間でできる優れものレシピです。カレーを作りたいけれど、野菜を煮込む時間がない、というときにいいかも。

鶏ひき肉があると、いざというときに役立つので、わたしは冷凍室に欠かしたことがありません。三食御飯、炒り豆腐、散らし寿司、ガパオライス、つくね、和風ハンバーグ、そぼろ煮……

美味しい、白いキーマカレーでしたが、案外おなかがいっぱいになりますよ。キーマカレーを先に味わったわたしはサラダが入らず、翌朝に回したほどでした。お皿に盛ったごはんの量が多かったのかもしれません。

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2018年8月 4日 (土)

歴史短編1のために #37 核心的な取材 ①インタビュー

インタビューにお答えくださったかたは、鹿島市民図書館の学芸員でいらっしゃいます。歴史小説の第二稿を書くための取材でしたが、ブログ公開の許可をいただいたので、紹介します。貴重な内容だと思います。

鹿島市民図書館学芸員への取材で、わたしが主にご意見をお伺いしたかったのは、萬子媛の断食入定は事実としてあったのか、また黄檗文化の普茶料理や煎茶などに鍋島焼は使われたのか――という二点でした。

わたしの質問で、それを除いても文章の意味が通る箇所は省略しました。

・‥…☆・‥…☆・‥…☆

2018年 6月 5日

● 萬子媛(祐徳院様)の死の前後について

実際のところはわからないというのが正直なところだと思うんですけれど、具体的なことで言うと、祐徳神社さんが祐徳院さん中心にお祀りしていく中で、こういう風な祐徳院さんの最期であったという形でいわれていること、あるいは継承しようとしていることと、実際の史料から伺えることというのは当然乖離するというところだと思うんです。

亡くなる前から準備されて、修行僧として、あるいは民の幸福を祈りながら最期を遂げられたというのは祐徳神社さんにとっては当然、見解としては持っておきたいところですよね。

亡くなられたあとで遺骸を移されたという風に考えるのが、実態に近いことだと思います。生前墓を作るというのは、あの時期でいうと当たり前のように思われていることなので。

―――萬子媛は後妻さんですから、普明寺には入れないということで、あそこに生前墓を作らなければならなかったということもあるのでしょうか。

祐徳院様のお墓は、泰智寺にはたぶんあるとは思うので。それも元々そこにあったものなのか、祐徳神社さんになるときに――神仏分離のときに――移したものなのか……今の神社の境内には墓は置かないということになっているので。

―――石壁社の側に洞穴に蓋をしたような跡がありますよね。そこに御遺骸が埋まったままなのかと思っていました。

当然、ご遺骸本体はそこにあるのだと思います。泰智寺には御遺髪で……御遺骸は土葬で埋められて、御遺髪は普明寺に持ってくるという形態をとっているので、それに準じた扱いになっているのか……

祐徳院さんは鹿島藩の年譜の中でははっきりと出て来ない方にはなってくるので。直條さんの時代に亡くなられているので、直條さんとの血脈の関係もあって、その時期の藩日記はたぶん残ってはいるとは思うので、遺骸、葬儀の様子はどこまで……鹿島藩日記の刊行されているぶんにはたぶん記載があるとは思うので。

ただ先ほど申し上げたように、信仰上の最期のありかたと実際のありかたというところは、どちらをとって語られるか考えるということはちょっと難しいところがあるかなと思います。

伝承というのがですね、祐徳神社そのものが元々祐徳院というお寺の中心だったものが、寛政くらいから稲荷神社という側面が前面に出てくるんですね。

そこから宿場町――、それまでの人里離れた修行場からいろんなところから参拝客を連れてきて門前が形 <成されて、お客さんを誘致してくるときの口上というか伝承というのが、こういうところの霊験がありますよというのを普及して、それで皆さんを佐賀や大牟田や島原といったところから連れてきて宿坊を中心に栄えて行く。江戸時代の途中の段階で、たぶん祐徳院さんに関する伝承というものも形成されていって、それまでの在り方と変わっていく、ということだと思うんですよ。

尼寺としての在り方はたぶん、祐徳院さんが死んで10年20年くらいしか持たなかった……比較的早い段階で男性の方が入るということに。

祐徳院さんが京都から連れてきたような人たちや祐徳院に女中として仕えたような人たち――祐徳院に入って一緒に修行したような人たち――が、やはり祐徳院と直接の接点を持っている人たちが死に絶えていくと、新しい尼さんを供給するということができなかった。

あくまで祐徳院さんとの関わりで入った方ということになってくるので。鹿島のどこからか女の人を連れてきて、黄檗僧として入れるというものでもないと思うので。

黄檗宗の修行が相当厳しいものにはなってくるので、そこらへんに耐えうる女性というところはなかなか、祐徳院さんの信仰心に直接接点を持っていた方以外にはそこまでやり遂げる力というのはなかったのかなというところだとは思うんですよ。

祐徳院さんがお子さんたちを亡くして悲嘆に暮れている様子に直接接した記憶がある人たちは、祐徳院さんの気持ちに最後まで添い遂げようとはされるとは思うんですけれども。そこが直接接点を持たない人たちになると、ちょっと意味合いが変わってしまうのかなというところだと思うんですけれどもね。

―――「断橋和尚年譜」〈※井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』(佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収〉の中の「大師、偶[たま]たま痾[やまい]染[うつ]りて起[た]たず」という記述は信憑性があると考えていいのでしょうか。伝染性の病気にかかられたということですよね、この文章の意味は。

そうですね。ぼちぼちそういう年齢にはなられているとは思うので、いろんなところで体調を崩されて、ということだとは思うんですよ。

石壁亭そのものは祐徳院様が来る前から断橋和尚が既に作っていて、観音様を線刻したような何か黄檗宗の信仰の対象となっているようなところ――洞穴を、自らのお墓に定められたということだと思います。

―――「断橋和尚年譜」の中に、断橋和尚の追悼詩が紹介されているのですが、意味のわからない箇所があります。次のような詩です。

「一座さん(※王偏に賛。引用者)玩[がん]たり石壁山。三千刹海、顔を蔵さず。末梢(最期)疑うらくはこれ熟眠し去るかと。鼻息齁々[こうこう]たり生死の間」これは、萬子媛が亡くなったあと、皆で石壁山に集って遺徳を讃えるといった情景を描いたものだと考えていいのでしょうか。

禅宗系のお坊さんは追悼の詩は必ず読まれるので、その中に定型化している文章というものと、個人的な思い入れが強い分についてはその方の生前の様子とか関わりが出てくるということになると思います。

断橋さんの場合、祐徳院さんとは義理のおかあさんであり、黄檗に招いたという密接な関わり方になってくるので、ありきたりの漢詩の定型文というものとは違う形になるかなあと思います。

追悼詩からはこのころから既に神秘的にというか、直接的な描写をしないという形でされていて、最期がどうであったかは明白にはしないというところかなと思うんですよね。

この段階から、神秘的な捉え方があるということだと思います。皇室絡みの人でもあり、開山というような特殊で、これから先そういう風になっていくということであった方であったことは間違いがなかったと思うので、そこらへんの部分でかなとは思うんですよね。

あくまでもこれは桂巌さんはじめ、黄檗の高僧たちがこの葬儀のときに来ているとは思うので、断橋さんというのは鍋島家の関係者であったとしても、黄檗での序列は低い方にはなるので、何十人ものお坊さんがいた中での献詩の一種になるかと思います。

―――黄檗宗は当時はかなりの勢力だったのでしょうね?

このころが全盛期に近い――。

● 黄檗文化と鍋島焼は無関係?

―――鍋島焼というのは黄檗文化に関係があるのでしょうか。普茶料理とかに使われていたのかと。伊万里焼の発展がそのころでしょ、ちょうど。

そういうことはあまり考えたことはなかったのですが、おそらくこの時期のものは中国から持ってきたものを作っている、あるいは復刻するという状態で作っていると思うので、中国のありかたをそのまま再現をするということなので、日本流にアレンジしたものを使うのはもう少しあとかと思うんですよね。

―――萬子媛の息子さんが二十歳くらいのころに亡くなられて、息子さんは、佐賀の殿様のところへ入られていましたよね。その鍋島光茂公が藩窯に出したかなり厳しい指示書が残っているようなのですが。

そのころは長崎を中心とした、あるいは萬福寺を中心として動いている時期なので、佐賀が独自に何かそういったものを、とりたててそれが黄檗に入ってくるというよりは、長崎や京都から直接に黄檗の下へと持ち込まれる、藩を介するということはあまりないかなあとは思うんですけれどね。

―――この時代、若くてポックリと亡くなったりするのは、伝染病とかが多いんでしょうね。

88歳までも長生きする人はしているので。この時期になると、鍋島家の血統を守るために近親婚に近いものがあったりもするので、いろんな条件が重なって、ということだと思います。

江戸で亡くなっている場合は伝染病という可能性は高いと思うんですけれどね。こっちの場合はそこまで人口が多くはないので、伝染病が流行るうんぬんというのは、もうちょっと後になってからかな。

江戸のように人口が密集して、水や何やらが循環できない、綺麗にすることが追いつかないところは発生しやすいんだと思います。明治くらいになってからコレラや赤痢といったものがどんどん流行り出してくる……人々の生活のあり方が自然との調和を超えて循環し出したころに、それまでは自然の循環の中で成り立っていたものが、どんどんどんどん消費の拡大等もあって難しくなっていく時代がくるとは思うんですよね、森林の伐採含めてですね。

森林を伐採して洪水が起きやすくなって、といったことが江戸時代の中期から終わりのころにかけて起こってくるので、そういった中に病気というものも含まれてくるのではないかと思います。

―――祐徳院のあった場所はわからないんでしょうか。

おそらく神楽殿のあたりだったのではないかと。神社を上のほうに作って、下のほうにお寺が広がっていたということだと思います。

―――今の本殿のあるあたりに神社があったということですね。普明寺の子院はいくつもあったのでしょうか。

山沿いにずらっとあったということですけれど、絵図や何やらでそういったものが押さえられているかというと、まだ押さえられていない状況です。

―――お時間を割いていただき、申し訳ありません。ずいぶん深く研究なさっていて、感動しました。ありがとうございました。

・‥…☆・‥…☆・‥…☆

②では、インタビューを参考にして、わたしなりに調べたことを公開します。この調べものの段階で、前にもお世話になった祐徳博物館の女性職員に、これは今日の話になりますが、本の注文についてお尋ねしたことに合わせて、教えていただいたことがありました。

鹿島市民図書館の学芸員に萬子媛の時代の歴史に詳しいかたがいらっしゃると教えてくださったのも、このかたでした。

実は、その本『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、1979)の注文自体がこれからです。第一巻を購入した昔と値段が変わっていなくて、よかった! 

アマゾンでは、第一巻が45,000円という馬鹿高い値段で出ていて、次巻からは出ていません。博物館で注文できるということで、値段は5,000円だそうです。漢文なので、おおまかな把握すら難儀しそうですが、どうしても確認しておきたいことがあるのです。

祐徳稲荷神社には秋に行く予定です。鹿島市民図書館にそのとき寄って調べるには遅すぎるので、購入できないということであれば、困ったところでした。

ただ、おそらく、その本で確認するまでもなく、萬子媛の最期に関するわたしの結論は学芸員のご意見と同じになりそうです。小説――フィクション――としてどう書くかは、これから考えます。

鍋島焼については、改めて史料探しから始めました。意外なところから参考になりそうな史料に出合いました。伊万里市史編さん委員会編『伊万里市史 陶磁器編 古唐津・鍋島』(伊万里市、2006)。

余談になりますが、夫の母方の祖父は、伊万里市が伊万里町だったころに町長を務めました。その後の昭和29年(1954)、2町7村合併により、伊万里市が発足します。

昨年、図書館で借りた『伊万里市史 現代篇Ⅰ』に、第二次世界大戦直後の大変な時期に町長を務めた夫の祖父が登場しました。市史には、夫の祖父が語ったことや働きぶりが活写されていたのです。

これは家宝とすべきと思い、注文して我が家に一冊、息子に一冊、義父母に一冊送りました。義父母からは大変悦ばれました。

この伊万里市史の中に鍋島焼のことを書いた巻が存在することを思い出したというわけでした。一町長のことがあれほど詳しく書かれているのだから、鍋島焼についてもそのはずだと予測しました。

図書館から借りて、今手元にあります。黄檗宗と鍋島焼の結びつきが書かれていることを期待しましたが、それについては期待外れでした。ですが、やはり鍋島焼の史料の乏しい中で、これほど丹念にアプローチした著作は陶器の専門書にもないのではないかと思えるほどです。

それにしても、一世を風靡したはずの黄檗文化に、方々の文献でほとんど触れられないのはどういうわけでしょう。

『黄檗――OBAKU 京都宇治・萬福寺の名宝と禅の新風』(九州国立博物館、2011)によれば、明朝体[みんちょうたい]は隠元和尚が伝えたもので、原稿用紙も隠元和尚の言葉をまとめた本がもとになっているとか。

普茶料理、あるのが当たり前になっているドリンク――煎茶、いんげん豆、すいか、たけのこ、れんこん。寒天はメイド・イン・ジャパンでも、名付け親は隠元和尚だそうです。普茶料理のごま豆腐はわたしの大好物。鳴り物では木魚の原型である飯梆[はんぽう]、木魚、小鼓[しょうこ]、銅磬[どうけい]、銅羅鼓[どらこ] ……

隠元和尚はまるでサンタクロースのように、明末清初期に再興された臨済禅と中国文化の数々の贈り物を携えて日本にやってきたのでした。

萬子媛に心の中でお尋ねすると、しかるべき時期に必ず回答といえるものに巡り合えるのが不思議です。それでも、次々に知りたいことが出てくるのですが、これで何とか書けそうな気がしてきました。核心的なことすら結論が出ないままでは、書けるはずがなかったのでした。

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2018年8月 2日 (木)

はてなブログをHTTPS化

萬子媛をモデルとした歴史小説第二稿のためのメモの整理をする前に、これまでに「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップした祐徳稲荷神社参詣記を確認しておこうとアクセスした。

そのとき、ふと、「マダムNの神秘主義的エッセー」を含む三つのはてなブログがどれもまだHTTPS化(常時SSL化)――データのやりとりを暗号化して通信――していないことが気になった。

当ココログブログもHTTPS化していないため、接続が安全ではないとの警告が出てしまう。ネットサーフィンしてみると、HTTPS化していないブログもまだ多いとはいえ、安全のためにはHTTPS化できるものならしたほうがいいに違いない。

当ブログは記事数が増えすぎたため(間もなく6,000件の記事数になる)、他のブログサービスへの引っ越しなど考えただけで億劫になるが、はてなブログの三つはまだ記事数が少ないので、HTTPS化しているブログサービスへ引っ越すなら今のうちとも思えた。

特に、「マダムNの神秘主義的エッセー」は内容的に神秘主義的な事柄をテーマとしているので、怪しいブログであるかのような印象を与えるのはまずい気がする。

ただ、はてなブログはHTTPS化を開始したのではなかったっけ? 

果たして、HTTPS化できるようだ。以下の記事を参考にさせていただいた。

はてなブログのSSL化で安全な接続にする50のてならい
https://chan50.hatenadiary.jp/entry/hatena-ssl

WordPressをhttpからhttpsにSSL化した全手順まとめ(エックスサーバー環境)(寝ログ)
https://nelog.jp/wordpress-ssl

はてなブログでは、ダッシュボードの設定から詳細設定にアクセスすると、「HTTPS配信」の項目がある。初期設定では無効となっているそこをクリックして有効にするだけだった。

ところが、「マダムNの神秘主義的エッセー」の場合、これで、安全な接続と出たかといえば、そうではなかった。ブラウザがFirefoxの場合、安全な接続だとグリーンの錠前が表示される。わたしのブログはグレーの錠前にオレンジの警告が表示されていた。

前掲ブログの解説に従って、確認してみると、サイドバーのブログランキングのバナー画像に「http://」となっているものがあったので「https://」に書き変えた。すると、錠前はグリーンになったが、まだ「混在コンテンツ」となっていて、「このページの一部が安全でないため Firefoxが ブロックしました」と出るではないか。

201881h_c_2

同じはてなブログで開設した他の二つのブログは、この段階で合格となっていた。

それら二つに存在せず、「マダムNの神秘主義的エッセー」に存在するものは何かと考えると、サイドバーに設置したHTTPS化に対応していないアクセス解析だった。これを削除したら、ようやく合格となった。

201881h_e

念のために、他のブラウザでも確認してみる。

Microsoft Edge。

201881h_a

Google Chrome。

201881h_b

結構、時間が潰れた。でも、気にかかっていたことなので、ホッとした。これで、安心してエッセー「祐徳稲荷神社参詣記」の⑥を「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップできる。もう少し時間がかかる。

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2018年8月 1日 (水)

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他に、神秘主義的なエッセーを集めた「マダムNの神秘主義的エッセー」などがあります。
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