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2017年12月16日 (土)

(書きかけ)歴史短編1のために #33 『断橋和尚年譜』に描かれた萬子媛②

師走の慌ただしさで、調べものをしていても気が急く。気が急くと、集中力が削がれ、現時点での本当に必要なこととそうでないことの区別が曖昧になり、余計なことをしてしまったりして、よけいに時間がかかることになる。

ここ数日、『断橋和尚年譜』の内容が気にかかり、気が急きながらもこれをノートしているため、とんでもない引用ミスや解釈ミスをしでかしてしまうかもしれない(このノートは素人の試行錯誤の創作のためのノートにすぎないので、参考にしないでください)。

ネットや漢和辞典での旧字体探しが半端ない~! 旧字体は文字化けしたりしそう。

○o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*

の続きになる。

ごく簡単に復習すると、『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集=井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、発行=佐賀大学地域学歴史文化研究センター)所収『断橋和尚年譜』の執筆者は元徳大愚、執筆年は享保6年(1721)。

鍋島直朝の長男である断橋(直孝)は承応元年(1652)に生まれ、正徳5年(1715)に没している。

わたしがどうしても気にかかるのは、萬子媛(祐徳院)の死についてである。断食入定であったという確証がこれまでのところ黄檗禅寺の記録からは掴めていないからだ。

それを想わせる記述はあっても、短い、抽象的な書きかたで、神社の由緒記に明記されているようなはっきりとしたものではない。

『断橋和尚年譜』の記述に関しては、断橋が義母であった萬子媛を弔った詩を含めて、このあと見ていきたいが、前掲書所収『円福山普明禅寺創建事由略記』には、萬子媛の死が次のように記されている。書き下し文から引用する。

世寿八十歳、臨抹消頭[右宝永二乙酉年四月初十日]、平生の如くして帰寂(逝去)す。法骸は、院の乾(西北)丘巌阿に窆[ほうむ]り、扁して華蔵窟と曰う。故[ゆえ]を以て今、当院僧房と作[な]ると雖[いえど]も、永く大師を院の開基と尊崇する者なり[大師、曽臣家にに在る時、紅綃に製作されし官服乙具、并びに家系図等、院の宝庫に鎮蔵す]。 (『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』15頁)

萬子媛は平生の如くに逝去し、遺骸が葬られた窟には「華蔵窟」という横額が掲げられた。『断橋和尚年譜』には「不蔵顔」と掲げられたとある。

逝去後に遺骸が移されたように読めるが、凡庸な死にかたとは思えない表現である。

執筆年は延享五年(1748)、著作者は際祥聚海。

解説によると、『円福山普明禅寺創建事由略記』と『断橋和尚年譜』は昭和8年、21代鸞峰和尚によって合本された。「普明寺由緒、祐徳院関[と]じらるるに及び、記録・典章、寺院に殆ど絶ゆ。幸いに此のニ珍書有り、実[まこと]に是れ什宝[じゅうほう](宝物)なり」とあり、明治期の廃仏毀釈の爪痕を見る思いがする。

danger この記事は書きかけです。

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