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2017年11月29日 (水)

歴史短編1のために #32 『断橋和尚年譜』に描かれた萬子媛①

『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集=井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、発行=佐賀大学地域学歴史文化研究センター)には21の著作が収められている。鍋島直條の著作とされている――署名には別人の名があるので、代筆によるものと思われる――『祐徳開山瑞顔大師行業記』もそのうちの一つだ。

その中に、『断橋和尚年譜』というのがあって、昨日これを読み、発見があった。

『断橋和尚年譜』の執筆者は元徳大愚、執筆年は享保6年(1721)。

原文は漢文で、書き下し文が添えられているのだが、わたしにはその書き下し文すら難しく感じられるため、そのうち『断橋和尚年譜』もちゃんと読まなければと思いつつ、放置してしまっていたのだった。

それが昨夜『断橋和尚年譜』を読み、なぜもっと早く読まなかったのだろうと思った。

断橋は、萬子の夫・直朝の長男で、後継として大名になった直條の兄に当たる。病弱だったために大名とならず、出家した。

『断橋和尚年譜』はこの断橋の小伝といってよい作品で、断橋の生き方自体に神秘主義者のわたしとしては興味深いものがある。

というのも、度々霊夢を見たと書かれていて、その内容に圧倒されるのである。何とも荘厳なのだ。わたしはまるで、神智学の文献を読んでいるような気がした。

断橋の夢には神仏習合のきらびやかさがあって、中にはお告げと思われるものもある。

しかし、断橋和尚は知的な人であったようで(黄檗禅がそうしたものでもあったのだろう)、夢には妄想の変形にすぎないものと神的なものとがあると解釈し、夢がどちらの性質のものであるかということを熟考して、見た夢について他人に語らなかったことも多かったようだ。

『断橋和尚年譜』中、萬子媛に関する記述は4箇所ある。瑞顔大師とあるのは萬子媛のことである。萬子媛の小伝『祐徳開山瑞顔大師行業記』に「大師、諱[いみな]は実麟[じつりん]、号は瑞顔[ずいがん]、洛陽(京都)の人なり」(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』72頁)とある。

注目したのは、1689年と1705年に萬子媛の誕生祝を行ったと記されている箇所だった。

1705年の場合は、「猛春十八日」に「耋齢(80歳)の誕を祝する」と書かれている。

旧暦では1月から3月までを春(猛春・仲春・季春)、4月から6月までを夏(孟夏・仲夏・季夏)、7月から9月までを秋(孟秋・仲秋・季秋)、10月から12月までを冬(猛冬・仲冬・季冬)とし、1月を睦月、正月、猛春、早緑月、太郎月、初空月などと称する。

旧暦1月18日に萬子媛の80歳を祝うパーティーが行われたのだろう。

そしてまた、「この歳の夏、大師、偶[たま]たま痾[やまい]染[うつ]りて起[た]たず。四月初十日を以て、畢[つい]に本院に帰寂す。全身を送り、石壁停傍の岩窟中に葬る」(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』92頁)と書かれているではないか。

この記述からすると、萬子媛は4月にたまたま伝染病に罹り、それが原因で亡くなって、亡骸を石壁停傍の岩窟中に葬ったように思わせられる。

しかし、祐徳稲荷神社の公式ウェブサイトの「石壁社[せきへきしゃ]・水鏡[みずかがみ]」の「ご祭神|萬子媛(祐徳院殿)」には、「齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました」<https://www.yutokusan.jp/sanpai/sekiheki.php>(2017年11月29日アクセス)とあり、他の史料や伝説の存在からも、萬子媛の断食入定はまず間違いのないところだろう。

黄檗宗の大本山・萬福寺(宝物館)への電話取材からも、断食入定が修行法の一つとして存在していたことが確認できている。(拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」中、「72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日(収穫ある複数の取材)」を参照されたい →ここ

元禄17年(1704)に直條によって著されたとされる『祐徳開山瑞顔大師行業記』には、萬子媛の断食入定に関連した次のような記述がある(書き下し文から引用する)。

大師、今[こん]歳[さい]、春秋[しゅんじゅう](年令)七十有九、自[みずか]ら残生の久しく存すべからざるを念(おも)う。乃[すなわ]ち(そこで)、院後の石壁亭の側に就[お]いて、自らの寿蔵(生前につくる墓)を造り、以[もっ]て百年の後に備う。この日、工竣[おわ]り、余にこれを視んことを請う。(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』73頁)

79歳になった萬子媛は自分が長くないことを悟り、断食入定の準備として、石壁と称されるあずまやの側に生前墓を築かせ、直條に視察を要請したのだ。

そして、翌年80歳の祝いを終えた後の閏4月に、断食入定を実行した。萬子媛は、最後の気力・体力を振り絞って大事業に挑まれたのだろう。

次のような経緯を経て、萬子媛の死は訪れたと思われる(前掲拙ブログ収録のエッセー 72 から引用する)。

萬子媛は寿蔵に入ったあと、水はお飲みになった可能性が高い。

毎日お経を唱え、水を飲んで、入寂のときまで……。

郷土史家・迎昭典氏が提供してくださった資料の中に『鹿島藩日記』からの抜粋があり、それには入寂を伝える様子が生々しく記されている。

鹿島藩日記抜粋  宝永二年(1705年)以下()内はすべて注書き
 閏四月十日

一 今夜五ツ時、祐徳院様御逝去之由、外記(岡村)へ、番助(田中)・石丸作左衛門より申来。

迎氏の解説によれば、祐徳院様(萬子媛)の入寂は、宝永2年(1705)閏4月10日(太陽暦にすれば宝永2年6月1日)のことだった。この年は4月が2回あり、閏4月の前に4月があったという。

『断橋和尚年譜』からわかったことは、義理の息子・断橋も萬子媛同様に、神秘主義的体験を持つ僧侶であったということである。

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