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2016年2月 3日 (水)

過酷な知的流れ作業の果ての霊的な餓死者に見えるヴァージニア・ウルフ

過去記事でヴァージニア・ウルフについて書いたが、この記事はその続きである。

31日から1日にかけて集中的にナイジェル・ニコルソン(市川緑訳)『ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書) 』(岩波書店、2002年)を読んだ。

作品の評論的な部分は少ないが、ヴァージニア・ウルフという人物を知る上では好著だと思う。

ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書) 
ナイジェル・ニコルソン (著), 市川 緑 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (2002/6/24)

ヴァージニア・ウルフ(西崎憲訳)『ヴァージニア・ウルフ短篇集(ちくま文庫)』(筑摩書房、1999年)の解説によると、アデリーン・ヴァージニア・スティーブンは1882年1月25日ヴィクトリア朝の中流上層に生まれた。父は作家・批評家で『十八世紀英国思想史』を著した。母は美貌で有名で、エドワード・バーン・ジョーンズの絵のモデルを務めたりした。

ヴァージニアは二人の4人の子供のうち3人目で、上からヴァネッサ、トビー、ヴァージニア、エイドリアンの順である。

両親は再婚で、父にはローラという連れ子がいた。ローラは精神薄弱児であった。母にはジョージ、ジェラルド、ステラという連れ子がいた。総勢10名という大家族で、父の仕事柄さまざまな詩人や作家や画家がスティーブン家を訪れたという。

ナイジェル・ニコルソン(市川緑訳)『ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書) 』(岩波書店、2002年)によると、詩人、作家ではメレディス、ヘンリー・ジェームズ、テニスン、マシュー・アーノルド、ジョージ・エリオットが父の友人だった。

しかし、ヴァージニアは6歳ごろから十代後半までジェラルドから性的虐待を受けた。ジョージからもまたそのような扱いを受けた。

ヴァ―ジニアは学校へは行かず、両親、家庭教師から教育を受け、父の書斎の本を沢山読んだ。1895年に母が亡くなった後と1904年に父が亡くなった後にもヴァージニアは神経症あるいは狂気の症状に陥ったという。

1912年に結婚した「レナード・ウルフによれば、ヴァージニアは4度正気と狂気のあいだを行き来した」(ウルフ,吉崎訳,1999年,p.209)。

ナイジェル・ニコルソン(市川緑訳)『ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書) 』(岩波書店、2002年)によると、ヴァージニアに精神病との診断が下されたのは1913年だった。

彼女の強い理性と荒れ狂う妄想とが戦ったが、理性が妄想に組み伏された。言葉遣いが乱暴になり、ひどい頭痛襲われ、奇妙な声が聞こえ、眠れず、食べようとしなかった。1913年の三ヶ月、事態は悪化するばかりで、ついに精神病との診断が下され、レナードは彼女が二年前にいたことのあるトウィッケナムの療養所にふたたび送ったほうが賢明だと考えた。(Nicoison,2000 市川訳,2002,p.57)

1915年2月にヴァージニアはまた精神錯乱に陥った。最悪といえるようなものだった。不眠症と食事拒否だけではすまず、レナードが「悪夢のような狂乱と絶望と暴力の世界」と表現するような状態に陥ったのだった。

自分でそうと意識できるような精神不調の境界を越えてしゃべりまくるという狂気の状態へ突入したのである。彼女は、支離滅裂なことを間断なく、時には何時間も、意識を失うまでしゃべり続けた。彼女が彼に話しかけることはなく、ののしるだけだった。(……)彼らは、まだ狂っているヴァージニアをホーガス・ハウスに移動させた。そして、なんとか四人の住み込みの看護人をつける費用を捻出した。(Nicoison,2000 市川訳,2002,pp.58-59)

1915年9月にアッシャムに戻って来られ、リハビリテーションを始めた。ヴァージニアの狂気の発作はレナードに大きな精神的打撃をもたらし、政治ジャーナリストとして国際関係においては権威となっていた彼がヨーロッパでの戦争の勃発にほとんど気づいていなかったほどだった。

第二次大戦が始まった。ドイツ軍の侵攻の脅威の中、レナードはユダヤ人であり――ユダヤ人に対してヴァージニアは複雑な感情を持っていたようである――、反ナチ活動をしていたために二人共ゲシュタポに捕われたときのために致死量のモルヒネを常備していた。

ロンドンの二つの家が崩壊し、サセックス州ロドメルのモンクス・ハウスで最晩年となる1941年の数ヶ月を過ごした。

ヴァージニアは3通の遺書を残した。過去記事で引用した遺書を書いてからも十日間生きていたという。3月18日にずぶぬれで帰ってきて、間違って水路に落ちたといった。

3月28日、「正午頃、ウーズ川まで半マイル歩き、毛皮のコートのポケットに大きな石を詰め込み、水中に身を投げた。彼女は泳げたが、強いておぼれるよう務めた。恐ろしい死であったに違いない」(Nicoison,2000 市川訳,2002,p.193) 59歳だった。

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Lytton Strachey and Virginia Woolf.
From Wikimedia Commons, the free media repository

ヴァージニアの作品には短文も長文もあるが、同じような形式で書かれていることが多い。散文詩というべきなのか、詩的な散文というべきなのかはわからないが、いずれにしてもストーリーを重視しない詩のような文体で綴られ、「意識の流れ」という手法が用いられている。

今回ヴァージニアの数編の作品を再読し、彼女の作品からは流れるような、とりとめのない印象を受けるが、よく読むと、断片を縫い合わせたパッチワークキルトを連想させられるところがあった。

キルトはどんどん仕上がっていく。ある制限された空間を占め尽くさんばかり。分析の確かさや機知の閃きから躍動感や浄化のイメージが生まれるが、全体にどこか演技がかっているといおうか、書き割り風だ。若いころに比べると読者としてより自然体となったせいか、読んでいて息苦しい。

物事の描写に強弱がない。1個の果実の落下も、戦争のような重大な社会現象も均等の重さでもって描かれる。情報を無意識的に優先順位をつけて選択している凡人の意識からすれば、創作上の意識的な作業によるものだとはいえ、これは大変なことであるし、不自然なことでもある。

日記でもそうした向きがある。こうした精緻であり、刺激的であると同時に単調でもあるような独特な思考傾向の中からこそ、評伝の著者であるナイジェル・ニコルソンが九つだったときにヴァージニアから受けたようなユニークな質問も出てくるのだろう。

「子どもでいるってどんな感じ?」 (Nicoison,2000 市川訳,2002,p.1)

わたしは評伝を読むとき、次のことを知りたいと思っていた。

  • ヴァージニアの狂気の発作とはどのようなものだったのか。
  • 性的虐待を受けたというが、相手は誰でどんな虐待内容だったのか。
  • ブルームズベリー・グループのメンバーたちとその活動。
  • 友人関係を超えた母とも、恋人ともいえる女性だったというヴィタ・サックヴィル=ウェストとはどんな人物なのか。

ブルームズベリー・グループについては、ウィキペディアから引用したほうが手っ取り早い。

ブルームズベリー・グループは、1905年から第二次世界大戦期まで存在し続けたイギリスの芸術家や学者からなる組織である。
もともとは、姉妹であるヴァネッサ・ベルとヴァージニア・ウルフを含む4人のケンブリッジ大学生によって、結成された非公式な会合がきっかけであり、メンバーたちの卒業後もこの集いは存続した。

(……)
ブルームズベリー・グループの意見や信念は第二次世界大戦を通して話題を呼び、広く非難されたが、次第に主流となりそれは終戦まで続いた。ブルームズベリー・グループのメンバーであった経済学者ジョン・メイナード・ケインズの著作は経済学の主要な理論となり、作家ヴァージニア・ウルフの作品は広く読まれ、そのフェミニズムの思想は時代を超えて影響を及ぼしている。他には伝記作家リットン・ストレイチー、画家のロジャー・フライ、作家のデイヴィッド・ガーネット、E・M・フォースターがいる。また早くから同性愛に理解を示していた。イギリスの哲学者で熱心な反戦活動家であったバートランド・ラッセルも、このグループの一員と見なされることがある。
ブルームズベリー・グループは組織一丸となっての活動成果よりも個々人の芸術的な活動成果が主に評価されているが、20世紀の終わりが見えた頃から、組織内での複雑な人間関係が、学問的注目を集め研究対象となっている。

ウィキペディアの執筆者. “ブルームズベリー・グループ”. ウィキペディア日本語版. 2014-10-27. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97&oldid=53352032, (参照 2016-02-02).

ブルームズベリーとは場所である。要は両親亡き後、ブルームズベリーのゴードン・スクエア46番地に引っ越したスティーブン家の兄トービーがケンブリッジの友人たちを連れてくるようになり、その集まりにはスティーブン姉妹もいたのだった。

彼らはまじめな若者の集まりで、ブルーズベリーでの討論会は当初はケンブリッジでのセミナーの延長のようなものだった。彼らは新聞記事を互いに読み聞かせ、真理や美といった抽象的な理念を論じ合った。出されるものといえばココアやわずかなウィスキーだけだったが、それが彼らに買える全てであった。ケンブリッジとの違いは女性が二人いることだった。(Nicoison,2000 市川訳,2002,p.23)

メンバーに経済学者ケインズがいることに注目してしまうが、こうしたブルームズベリーにおける知的で軽妙な集まりが社会的な影響を及ぼすようになったということのようである。

ヴァージニアは兄たちの自由な雰囲気に溶け込んでおり、物を書く場にも恵まれているという風で、ヴィクトリア朝の中流上層階級から出なくとも作家として知的扇動できる境遇にあった。

ヴァージニアのフェミニズムには性的虐待という悲痛な体験から出た部分、逆に当時の女性としては環境的に恵まれている部分から出たところがあるのではないかと思うが、彼女はいわゆる社会活動家という感じではない。

作家として女として人間として思ったことを自然体で主張したところ、その主張は時宜を得ていて世に受けた――という感じを評伝からは受ける。

ブルームズベリーの先駆者の一つとして、フェビアン協会が挙げられている。ヴァージニアと比較すれば、のちに神智学協会2代会長となったアニー・ベザントのフェビアン協会での活動のほうが抑圧されていた労働者側に徹底して立とうとした情熱と心情の純粋さでは勝っている気がする。

しかし、ヴァージニアの知性美は彼女の政治がかった意見以上の発言力を持ち、両性の相克を遥かに凌駕している。一方、社会改良だけではどうにもならないと悟ったベザントは人類の根源的なテーマを求めて神智学へ向かった。

この時代の女性達は肉体的に動的であれ静的であれ、スケールが大きく、徹底している。

ヴァージニアのような知性の勝った乾いたタイプはヴィタのような潤いのある女性を必要としたようだ。

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Vita Sackville-West
Studio portrait presented by Esther Cloudman Dunn to the Smith College Library.
From Wikimedia Commons, the free media repository

ヴィタ・サックヴィル=ウェストは『ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書)』を執筆したナイジェル・ニコルソンの母だった。ヴァージニアの異色作『オーランド―』のモデルとなった女性である。

ヴィタはといえば、あるときは大いに大胆だが、次の瞬間には非常に内気になる性格で、十歳年上のヴァージニアに恋する半面、彼女を恐れてもいた。ヴィタにとってブルームズベリーは頭がよすぎるうえ、故意に威圧感を与えていると感じられた。(Nicoison,2000 市川訳,2002,p.86)

ヴィタは魚座ではないかと思って調べたら1892年3月9日に生まれ、1962年6月2日に亡くなっているから、やはり魚座である。

わたしも魚座で、獅子座上昇宮に天王星が入り、水星と金星が水瓶座に入っているから、魚座のヴィタの気質も水瓶座のヴァージニアの気質もどちらもわかる気がするのである。

ヴィタも作家・詩人であったからヴァージニアの物の考え方は新鮮であっただろうし、自分より十歳年上であったとはいえ人間的にはどこか不器用な彼女を庇護してやりたいような母性愛が湧いたに違いない。

ヴィタは恋多き人であったようだが、戦争の中で親密さが復活した。ヴィタがロドメルまで車を走らせてヴァージニアに最後に会ったのは2月17日だった。

ところで、ヴァージニア・ウルフは「意識の流れ」という手法を用いた。「意識の流れ」はウィリアム・ジェームズの心理学概念、心理学用語である。

ヴァージニアの父の仕事関係でスティーブン家を訪れていたヘンリー・ジェームズはウィリアム・ジェームズの弟である。

ウィリアム・ジェームズについては漱石やブラヴァツキー関連でいくらか調べた。

アメリカ哲学の創始者といわれ、その影響は哲学、心理学、生理学、文学など多岐に及ぶとされるウィリアム・ジェームズ。

ウィリアム・ジェームズの代表作は、1906年11月および12月ボストンのロウエル学会において、また1907年1月ニューヨークのコロンビア大学において講述された講義録『プラグマティズム』である。

プラグマティズムが何であるかは、ウィリアム・ジェームズ(桝田啓三郎訳)『プラグマティズム(岩波文庫)』(岩波書店、2010年改版)からの以下の引用にいい表されていると思う。

「一つの観念ないし信念が真であると認めると、その真であることからわれわれの現実生活においていかなる具体的な差異が生じてくるであろうか? その真理はいかに実現されるであろうか? 信念が間違っている場合に得られる経験とどのような経験の異なりがでてくるであろうか? つづめて言えば、経験界の通貨にしてその真理の現金価値はどれだけなのか?」
 プラグマティズムは、この疑問を発するや否や、こう考える。真の観念とはわれわれが同化し、努力あらしめ、確認しそして験証することのできる観念である。偽なる観念とはそうできない観念である。これが真の観念をもつことからわれわれに生ずる実際的な差異である。したがってそれが真理の意味である。それが真理が真理として知られるすべてであるからである。
 (ジェームズ、桝田訳,2010,pp.199-200)

現金価値という言葉が出てくるあたり、アメリカの哲学らしいといえばそうだが、わたしにはここでジェームズが馬脚を露わしたように感じられた。過去の哲学が最新科学ではないといって非難しているかのようだ。

験証とは、検証、実験の結果に照らして仮説の真偽を確かめることだが、最新の実験装置で験証できる観念だけが真の観念である、とジェームズはいっていることになる。

つまりそのときの科学で解明できることだけが真で、それ以外の仮説は全て偽ということになるわけだ。神秘主義者はそうやって切り捨てられたりするわけだが、それはつまり、哲学を科学に限定してしまうという話になるのではないだろうか。しかし、科学が仮説によって成り立っているところからすると、科学的というわけでもない。

1882年に心霊現象の研究と検証を目的とした研究機関(SPR、英国心霊現象研究協会)、1885年にはASPR(米国心霊現象研究協会)が設立された。ウィリアム・ジェームズは1894年から1895年にかけてSPR会長を務めている。

SPRは「ホジソン報告」でブラヴァツキーに汚名を着せ、神智学協会の社会的信用を失墜させた。

H・P・ブラヴァツキー(加藤大典訳)『インド幻想紀行 下(ちくま学芸文庫)』(筑摩書房、2003年)の解説で、高橋巌は次のように書いている。

一九八六年になって、SPR(ロンドンの心霊研究協会)は、HPBの欺瞞性を暴露したといわれた「ホジソン報告」(一八八四年)について亡き夫人に謝罪し、百年来の論争に終止符を打った、とのことである。(ブラヴァツキー,加藤訳,2003年,「解説 魂の遍歴」p.501)

だが、SPRの「ホジソン報告」の影響は現在にまで及んでいる。

ウィリアム・ジェームズは超常現象について、「それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない。超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている」と発言し、コリン・ウィルソンはこれを「ウィリアム・ジェームズの法則」と名づけたそうだ(ウィキペディアの執筆者. “ウィリアム・ジェームズ”. ウィキペディア日本語版. 2016-01-30. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA&oldid=58429691, (参照 2016-02-03). )。

このウィリアム・ジェームズの法則、わたしには意味がわからない。信じるとか信じないといったことが、事の真偽に何の関係があるのだろう? 

わからないことを端から色眼鏡で見たり、否定したりする態度が科学的だとはわたしには思えない。わからないことをわからないこととして置いておく態度こそ科学的といえるのではないだろうか。

ブラヴァツキーを誹謗中傷する人々はコリン・ウィルソンの著作の影響を受けたり、引用していることが多い。

わたしが怪訝に思うのは、ウィリアム・ジェームズのような哲学者を会員として持ちながら、なぜSPRはブラヴァツキーの著作について学術的な論文を書かなかったのかということである。

もっとも、『ブラグマティズム』で「プラトン、ロック、スピノザ、ミル、ケアード、ヘーゲル――もっと身近な人々の名前をあげることは遠慮する――これらの名前は、わが聴講者諸君の多くには、それだけの数の奇妙なそれぞれのやりそこない方を憶[おも]い出させるに過ぎないと私は確信する。もしそういう宇宙の解釈がほんとうに真理であるとしたら、それこそ明らかな不条理であろう」(ジェームズ、桝田訳,2010,p.45-46)と、大哲学者たちをまず否定してかかることを何とも思わないウィリアム・ジェームズが、ろくに読みもせずにブラヴァツキーの著作を否定したことは充分考えられる。

聴衆や読者に先入観を植え付けるような態度が哲学的な態度でないことは、いうまでもない。

また、神秘主義者によって拓かれた心理学の分野[※上山安敏『魔女とキリスト教』(講談社、1998年)を参照されたい]がウィリアム・ジェームズのような唯物主義的、実利的な人物の影響を受けたことと、現代の精神医療が薬物過剰となっていることとは当然、無関係とはいえないだろうと思う。

ウィリアム・ジェームズより遥かに知的だったヴァージニアは自分にわからないことを否定したりはしなかったが、その思索は唯物論的世界に限定されていたような感じを受ける。プラトンなど読書した形跡は日記にあるが、ざっと読んだだけという印象を受ける。

生と死は頻りにモチーフとなっているが、死のことを書くにしても、以下のように控えめである。

結局のところ人はここで生まれるのと同じようにあちらで生まれると推測してはなぜいけないのだろうか?(ウルフ,吉崎訳,1999年,p160)。

激しい、美しい表現をとっても、思索の翼をそれ以上広げることはせずに、慎ましくこちら側に留まっている。それは思索にとって自然なことだろうか。もしかしたら、病気のために、翼を広げることが恐ろしかったのかもしれない。

死こそ敵だ。槍を構えて、若者のように髪を後ろになびかせ、印度を疾駆したパーシバルのように、わたしは死に向つて馬を乗り入れるのだ。いまこそ馬に拍車を加えるぞ。汝に向かって突進する、征服されることなく、屈服することなく、おお死よ。
     *
 波が渚に砕けた。

ヴァジニア・ウルフ(鈴木幸夫訳)『波(角川文庫)』(角川書店、昭和29年初版、平成元年3版、p.291)

なぜかわたしにはヴァージニアが工場労働者だったようなイメージが湧く。過酷な知的流れ作業の果てに倒れたのだと思える。

わたしは「詩人」と呼んでいた女友達を連想してしまう。象徴主義的な美しい詩を書いたが、彼女は意外にも唯物主義的な人で、わたしは彼女には一切神秘主義的な話ができなかった。

芸術の歓びはあちらからやってくるのではないだろうか。もっと翼を広げ、もっと享受できたはずなのに、翼を広げかけたままのつらい姿勢に終始し、あまりにも少ししか受けとらなかったヴァージニア・ウルフ。

神秘主義的に見れば、それは霊的な餓死に見える。

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