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2016年1月23日 (土)

江戸初期五景2 #2 英彦山。鍋島光茂の人間関係。

即身仏に至る修行で有名なのは密教で、修験道はその密教や山岳信仰と関係が深い。

萬子媛は僧侶となった義理の息子の指導を仰いで黄檗宗を信仰し、断食入定したが、英彦山座主に嫁いだ姉を通して修験道の影響を受けたといったことはなかったのだろうか?

カテゴリー「Notes:江戸初期五景1(萬子ひめ)」の過去ノートでも採り上げたが、村上竜生『英彦山修験道絵巻 』(かもがわ出版、1995年)は江戸時代に作られた「彦山大権現松会祭礼絵巻」に関する優れた著作である。

絵巻が作られたのは有誉が座主だったときで、この著作には有誉の父が亮有、母は花山院定好の娘だと書かれている。亮有の弟は愛宕家(おたぎけ)を創立し、宰相まで昇進したらしい。

愛宕家は、村上源氏中院庶流の公家である。家格は羽林家。

亮有の父は有清である。ウィキペディアによると、有清の三男で亮有の弟の通福は中院通純の猶子となっているのである(ウィキペディアの執筆者. “愛宕家”. ウィキペディア日本語版. 2016-01-03. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%84%9B%E5%AE%95%E5%AE%B6&oldid=58108751, (参照 2016-01-23).

猶子(ゆうし)とは兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度である。

中院通純について念のためにウィキペディアで調べてみると、鍋島光茂が出てきて驚いた。この肥前国佐賀藩2代藩主・鍋島光茂という人物は神出鬼没というか、よく出てくる。

鍋島光茂の母は奥平松平忠明の娘・ムリ(恵照院)であり、松平忠明の母は徳川家康の娘・亀姫(盛徳院)である。そうした血筋も与って、光茂は人間関係が広かったのかもしれない。

ウィキペディアからの以下の引用を緑字にしたが、光茂関連だけ赤字にした。

中院通純(なかのいん みちずみ、慶長17年8月28日(1612年9月23日) - 承応2年2月8日(1653年3月7日))は、江戸時代前期から中期の公卿。父は内大臣中院通村。母は新発田藩主溝口秀勝の娘。室は権大納言高倉永慶の娘。子に内大臣中院通茂、権中納言野宮定縁、甘姫(鍋島光茂室)、猶子に権大納言愛宕通福がいる。
ウィキペディアの執筆者. “中院通純”. ウィキペディア日本語版. 2011-12-26. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E7%B4%94&oldid=40550182, (参照 2016-01-23). 

甘姫は光茂の継室である。正室は上杉定勝の娘・虎姫(柳線院)。

中院通純の娘・甘姫(栄正院)は越前松平光通の養女とウィキペディアにあったので、松平光通について調べてみると、松平光通は越前福井藩の4代藩主で結城秀康の孫。結城秀康は徳川家康の次男である。

松平光通の正室は越前松平光長の娘・国姫(清池院殿法譽性龍大禅定尼)。国姫は京都の公家からも賞賛されるほどの和歌の達人だったという。

ところが、国姫は祖母・勝姫(2代将軍・徳川秀忠の娘)の期待通りに跡継ぎの男児を産めないことを苦にして35歳で自殺している。光通も3年後に39歳で自殺した。

鍋島光茂の長男で佐賀藩3代藩主・鍋島綱茂の正室は越前松平光通の娘・布与(寂光院)である。光茂の和歌好きをふと連想させられる。

話が英彦山から逸れたが、2015年11月19日付西日本新聞朝刊に江戸期の繁栄を裏付けるとする英彦山に関する記事があったので、引用する。

 日本三大修験道場の一つ、福岡、大分県境の英彦山(1199メートル)に800軒超の建物跡があることを、福岡県添田町がレーザー測量で確認した。英彦山は江戸時代、「英彦山三千 八百坊」とうたわれるほど栄え、その数字は人口3千人、800坊を意味するとされてきたが、詳細は不明だった。今回の調査で国内最大規模の山伏集落の姿が初めて克明になった。

 測量は山頂から中腹までの約6・9平方キロで実施。上空から40センチ四方ごとにレーザーを照射して地表の高低差を測定し、山伏が暮らした宿坊や仏堂などがあったとみられる平たん面を800余カ所確認した。集落に通じる古道や「窟」と呼ばれる修行場の岩穴も見つかった。(以下、略) =2015/11/19付 西日本新聞朝刊=

日田市に住んでいたころ、車でよく英彦山を通ったので、鬱蒼とした山容を思い浮かべて本当に江戸時代、そんなに宗教的繁栄を極めていたのだろうか……と半信半疑だったが、それが裏付けられたわけである。

以下のタイトルのオンライン論文は、英彦山を知るために役立つ。

  • 第2章 添田町の維持向上すべき歴史的風致

修験道の法流は、室町期には真言宗系の当山派と天台宗系の本山派に分かれた。

江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、諸国の修験者を真言宗系の当山派、天台宗系の本山派のいずれかに分属させた。

英彦山の場合はどうであったか、ウィキペディアより引用する。

12世紀より天台宗に属し、西国修験道の一大拠点として栄えた。元弘3年(1333年)、後伏見天皇の第八皇子・長助法親王(後の助有法親王)を座主に迎えて以降、座主はそれまでの輪番制から世襲制となった。(……)元禄9年(1696年)に天台修験の別格本山となった。
ウィキペディアの執筆者. “英彦山神宮”. ウィキペディア日本語版. 2015-11-19. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%8B%B1%E5%BD%A6%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E5%AE%AE&oldid=57587458, (参照 2016-01-23). 

徳川家康のブレーンであった2人の黒衣の宰相のうちの一人、天海は山王一実神道を創唱した。#3で、それがどんなものであったか、図書館から借りた以下の貴重な本からざっとメモしておきたいと思う。

『天海僧正と東照権現―第49回企画展』(栃木県立博物館、1994年)

ところで、過去記事に書いたことと重なるが、萬子媛の短編を書いているときに、数多く聴いた梵唄の動画が印象的で、忘れられなくなった。それらの唄を通して信仰が生きている感じがするといおうか。今の日本の仏教からはあまり感じられない類いの精気があるといおうか。過去記事で、そのうちのいくつかを紹介した。

しかし、これらがどこからアップされたのかがわからない。台湾か香港だろうと思った。調べるうちに、中国共産党の弾圧を逃れた僧侶たちが台湾に逃れ、香港や他のアジアの国々にはそこで育くまれた僧侶が布教に渡ったということのようだ。

日本の台湾統治時代に日本仏教の影響もあったようだが、大陸系の中国仏教が中心だろう。萬子媛が生きた江戸初期、黄檗宗は大陸から渡ってきた明僧が開いた。

参考になりそうなオンライン論文を見つけた。以下のタイトル。

  • 佛光山からみる,台湾仏教と日本の関係 (<特集>台湾における日本認識)

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