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2015年12月 2日 (水)

歴史短編1のために #25 禅院で尼僧たちを率いた萬子媛

わたしは萬子媛を中心に置いた歴史小説を執筆するにあたり、短編5編をまず執筆して、それをあとで長編に纏める予定で計画を進めていました。

そのままの計画で行くかもしれませんし、5編の短編はそのままの形で『江戸初期五景』(仮題)という題のもとに収録するということも考えています。

今回仕上げた短編を崩したくない気がしてきたからです。

創作の都合上、前にそうしたようにNotesを非公開設定にしようと思ったのですが、これらに含まれる情報自体はわたしのものではなく共有されるべきものですし、ストーリーのある創作物とは別物なので、一応このままにしておくことにしました。

ただ、わたしの考えがかなり含まれていますので(間違った考えが含まれている可能性があります)、カテゴリー「Notes:初の歴史小説」と「萬子媛 - 祐徳稲荷神社」に収録している記事へのリンク、転載などはご遠慮いただければと思います。

萬子媛の真相に迫りたいという思いで、初めての歴史短編を執筆し、何とか自分なりのものが仕上がったと思っています。

家族の受けはかなりよいものでした。夫にも娘にも、祐徳稲荷神社に対してわたしのような思い入れは全くありません。なくて当然で、果たして朗読を聴いてくれるだろうか、という懸念がありました。

わたしは作品を書きながらある量が溜まると朗読して人に聴かせる癖があり、家族には迷惑なことでしょう。夫は大学の文芸部時代に合評し合った仲ですが、その夫も、娘も、気にいらないと途中で聴いてくれなくなるのです。

そうすると、こちらのモチベーションも下がるので、朗読にも勇気が要るのですが、もう癖になっています。案の定、2人とも、最初は露骨に迷惑顔でした。が、しばらくすると、「歴史小説らしく書けている」といい、真ん中くらいになると、夫は作中の萬子媛にときめくものを覚えたようで、続きを心待ちにしてくれるようになりました。

こんなことは結婚以来初めてでしたよ。いつもですと、わたしの創作は家事の妨げになるので、むしろ不機嫌そうで、応援してくれるということは全くないのですが、今回は「もう少しやん、ガンバレ」なんて何回もいって励ましてくれました。

娘も、「これだと、萬子媛や鹿島を知らない人でも興味を持ってくれるのではないかな」といってくれました。それはどうかという気がしますが(純文系歴史小説なので、エンター系歴史小説ほど関心は持たれないでしょう)、嬉しい言葉でした。最終回を朗読しようとすると、「あん、最初から読みたいよ」というので、プリントアウトして渡すことにしました。

さて、肝心の萬子媛はどう思っていらっしゃるのでしょうか。世俗の出来事として、無関心? あの世で一大ボランティア集団を率いていらっしゃるようなので(?)、お忙しくてそれどころではないかもしれませんね。

不肖わたしが既に人口に膾炙している萬子媛をヒロインにして歴史小説など書いていいものだろうか、という怯えを感じることもたびたびでした。

実は、大発見がありました。というより、郷土史家が「萬子媛についての最も古くて上質の資料は、『祐徳開山瑞顔大師行業記』だろうと思います」とご教示くださった萬子媛の小伝ともいえる『行業記』をちゃんと読んでいなかったのでした。

ただ、これは言い訳になりますが、萬子媛は祐徳院に1人隠棲して長年修行に励んだというイメージは出来上がったものとしてありました。

祐徳稲荷神社のホームページには、萬子媛について次のように紹介されています。

ご祭神

萬子媛(祐徳院殿)

祐徳稲荷神社を創建された、鹿島藩主鍋島直朝公夫人萬子媛(御神名萬媛命)をお祀してあります。
萬子媛は後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の娘でありますが、寛文2年直朝公にお輿入れになりました。その折、父君の花山院定好公より朝廷の勅願所でありました稲荷大神の神霊を、神鏡に奉遷して萬子媛に授けられ「身を以ってこの神霊に仕へ宝祚(皇位)の無窮と邦家(国家)の安泰をお祈りするように」と諭されました。萬子媛は直朝公に入嫁されてより、内助の功良く直朝公を助けられ、二人のお子様をもうけられましたが、不幸にしてお二人共早世されたのを機に、貞享4年62歳の時此の地に祐徳院を創立し、自ら神仏に仕えられました。以後熱心なご奉仕を続けられ、齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました。萬子媛ご入定の後も、その徳を慕って参拝する人が絶えなかったと云われております。諡を祐徳院殿瑞顔実麟大姉と申しましたが、明治4年神仏分離令に添ってご神号を萬媛命と称されました。

ここには祐徳院において「1人で」神仏に仕えたとはありませんが、そうしたイメージが湧くのが自然でしょう。

「1人で」とはっきり書かれた創作物も、そうでないものも、やはり「1人で」のイメージです。前掲の史料のコピーをもたらしてくださった郷土史家でさえ萬子媛の祐徳院での暮らしを質問したときには「日常の暮らしについては食事などの世話をする侍女が何人かいたようですが、詳しいことはわかりません」というお答えでした。

そうした先入観があり、行業記は漢文で、郷土史家が読み下し文を提供してくださいましたが、高校時代までに学んだ漢文の知識しかないわたしには(古文は好きでしたが、国語の中で一番苦手だったのが漢文でした)、難しいものでした。

「漢語林」に頼りましたが、文章自体にわたしにはどうしても意味の通らないところがあり、例えば「十七」だと意味が通るのに「一十七」となると、訳がわからない。そんな箇所が何箇所かあれば、もう投げ出したくなって、「ここに書かれているおおよそのことは他の資料からわかっているのだから、こんな難解なものを読む必要はないだろう。わたしが書くのはフィクションなんだし」と開き直る始末で、本当に真剣に取り組んだのは、いざ出家後の萬子媛を描写しなければならない段階に来てからでした。

出家する以前に、鍋島直朝夫妻は黄檗宗の教えを2人で受け始めたと別の資料で読みましたが、その後出家し1人で院に籠もって独修に近い形で修行を積む萬子媛……その姿がどうしても浮かばず、最終段階に入って暗礁に乗り上げてしまったのでした。

なぜ祐徳庵ではなく祐徳院なのだろう、という疑問は最初からありました。尤もそれは既に禅僧になっていた義理の息子から譲られたものではありましたが……

とにかく読むしかないと思って読んでいくと、これまでは見えなかった――先入観と原文の読みにくさから無意識的に無視していたらしい――言葉が目に留まりました。

その前文には、これまで親戚のために繋ぎとめられてできなかった萬子媛は出家の希望を義理の息子の格峯(断橋)禅師に打ち明け、理解を得、祐徳院を譲って貰い、その祐徳院において和尚(前出の桂老和尚、すなわち桂厳禅師のことと思われます)に薙染[ちぜん](出家)させて貰ったことが書かれています。

そのあと「是ニ於テ大師、尼十数輩ヲ領シ、晨ニ誦シ、夜禅シ、敢テ少シモ懈ルコトナシ」とあるではありませんか。

「尼十数輩ヲ領シ」の部分を穴があくほど凝視してしまいました。どうして、これが今まで、見えなかったのでしょうか。2年も下調べに費やしておきながら、肝心の史料読みをおろそかにしてきた報いでした。

でも、このほうが納得ができます。萬子媛が1人孤独に庵に隠棲して18年も過ごした揚げ句に断食入定というなにかしら悲惨なイメージよりは十数名の尼僧を擁した禅院の責任者として、森厳な規則を敷いて指導し、自らも修行したというイメージのほうがずっとワタクシ的にはびんとくるのでした。

そして、萬子媛のような人並み以上の人でさえ、子どもを亡くした哀しみで鬱屈し、病気になったのだと。しかし、猛省後に体のあちこちにあった具合の悪いところはたちまちよくなった。「而シテ其ノ強健、猶少壮ノ時ノゴトシ」とあります。

猛省後の萬子媛は若い元気なときのような強健を誇ったようです。これで、仏法に触れる喜びの禅院の楽しみを得られないわけがない、と行業記には書かれています。

陽性のイメージの萬子媛ですよ、いやホント、わたしのイメージにぴったりです。燦然と輝く太陽のイメージ。

念のために、漢文だけは得意だったという夫に頼んで、2人で丹念に読んでいきました。それでもわからない箇所が出て来ました。もし間違った読みかたをしていたとしたら? つくづくお馬鹿夫婦ということなりますね、わたしたちは。フィクションですから、とへらへら笑うしかありません。

まあ、あとは小説を読んでほしいのですが、公開には時間がかかります。その前に賞にチャレンジしたりもするので。凝りもせず。文学観がどうであれ、紙媒体で読んで貰うには、貧乏人は他に手段がないのです。

黄檗宗は梵唄で有名ですが、禅院では以下のようなものも唱えられたのでしょうね。リンク先の梵唄、これ凄い。フーガお経ですね。なぜか、「芋掘りエコロジー」と聴こえてしまうところがあって困りますけれど。

https://youtu.be/IHkSejHSPq8?list=PL2OLTz5OiV8fo2hT6jwY81pmcJgAIHwQq

以下のような梵唄の動画も公開されていました。男女の歌声が美しくて、厳かです。この種の仏教音楽を聴いたのは初めてでした。香港か台湾からのアップでしょうか。

以前にも紹介した姜敏を歌手とする神韻芸術団の舞台。神韻芸術団は米国ニューヨークに拠点を置いた舞台芸術団体ということです。

以下の動画は執筆中よく聴いた宮城道雄の「日蓮」。お正月によく流れる宮城道雄の「春の海」を知らない人は少ないでしょうね。

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