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2015年9月 9日 (水)

グレイ 著『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ 』を読了後に

※当ブログ公開の記事に加筆し、「マダムNの神秘主義的エッセー」で公開中の作品です。

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シモーヌ・ヴェイユの生誕100年ということで、フランシーヌ・デュ・プレシックス・グレイ著『ペンギン評伝双書シモーヌ・ヴェイユ』*1が上梓された。

その秀才ぶり、哲学者アランとの邂逅と薫染、生来の美貌に異議を唱えるかのような男性的な粗野な服装、赤い乙女と異名をとった社会活動、キリスト教への接近と次第に濃厚となっていった神秘主義思想への傾斜、風評を呼んだ死にかた、残された諸作品に散りばめられた煌くような思想の断片……哲学には馴染めない一般人にも、人気の高いシモーヌ・ヴェイユである。

フランスの女性哲学者シモーヌ・アドルフィーヌ・ヴェイユ(Simone Adolphine Weil)は1909年パリで生まれ、1943年夏イギリスのケント州アッシュフォードのサナトリウムで亡くなった。34歳だった。

新しく出たこの本では、これまで書かれた評伝類でもさりげなく触れられてはいたが、シモーヌの摂食障害――拒食症の傾向――に迫っている。

シモーヌの育った家庭が、それまで読んだ評伝などを通して想像していた以上のブルジョア家庭であったことを知った。

シモーヌの父親は内科医で、「何世紀にもわたってストラスブールに定住していたユダヤ人大商人の一族の出」*2であり、母親は「多くの国で輸出入業を展開していた裕福なユダヤ人実業家一族の出」*3なのだそうだ。相当にお金持ちの家系なのである。

シモーヌの兄は数学者アンドレ・ヴェイユ(André Weil、1906年 - 1998年)。アンドレは仲間と数学者集団ブルバキを結成。数論、代数幾何学に大きな業績を残した。主な著作に三部作『代数幾何学の基礎』(1946)、『アーベル多様体と代数曲線』(1948)、『代数曲線とそれに関連する多様体』(1948)がある。

シモーヌに対する両親の過保護ぶりは病的と思われるほどで、お金がなければ、ここまで過保護になることはできないだろう。ヴェイユには、想像以上の抑圧でもあったのではないだろうか。

両親の過保護ぶりを引用すると、シモーヌが1931年にノルマンディー海岸で漁師の仕事に挑戦したとき、ヴェイユ夫妻は「娘の精神のバランスにこの種の激しい仕事が必要であることを感じとり、一足先にノルマンディーに出向いてシモーヌが漁師の仲間に加えてもらえるように骨折った」*4。

教職時代、「ル・ピュイへの赴任に続く数年間、その数年間、ヴェイユ夫人は娘が新しい任地に移るごとに同行して住まいを探し、毎月様子を見に行っては食料貯蔵庫に食べ物を買いそろえ、娘が健康を害さぬようにあれこれと世話を焼いた。ル・ピュイでは、リセとの校長の面談にもついていった」*5。

シモーヌにとって食事は骨折り仕事で、「彼女は最高品質のごく新鮮な食べ物しか受けつけず、梨にキズ一つあると食べられなかったのだ。偏頭痛に襲われるとさらにひどくなり、そういうときには食べ物をもどしてしまい、口にはいるのは生のじゃがいもをすったものだけだった」*6。

ヴェイユ夫人はそんな「娘の健康を守るための策略をめぐらせた」*7。

ヴェイユ夫人は息子アンドレに手紙でこぼしている。「かわいそうなトロールを怒る気にはなれないの、ほんとにいい子でかわいいのですもの。……晩ごはんにも、じゃがいもと水で溶いたココアしか食べないの。……そしてこの散らかりようといったら!」「だめだわ、この子絶対、結婚できない!」*8

1932年8、9月をヒトラー率いるナチスが台頭するベルリンに滞在したときには、「両親は娘の安全を考えて恐怖にかられ、娘にはそれと悟られないように彼女を保護する手立てを工夫し続け、その夏はハンブルグに滞在することに決めた」*9。

その年の秋、シモーヌはオセールのリセで教え始めた。「ヴェイユ夫人は近所のビストロの主人にお金を渡し、たまには娘がまともな食事をするように取り計らってくれるように頼み込んだりもした」*10。

ブールジュ赴任中の1936年、シモーヌが母親に送った手紙には「今朝、奇妙な夢をみました……おかあさまが私に『あなたへの愛があまりに強くて、他に誰も愛せない』と言うのです。怖くて苦しかった。……」*11という母親との心理的葛藤を感じさせる文章がある。シモーヌはこのとき、27歳である。

1936年、シモーヌがスペイン市民戦争に従軍したときには、ヴェイユ夫妻は「知人の組合活動家に頼みこんで、スペイン国境を越え、バルセロナに辿りついたのである」*12。みすぼらしい下宿屋の一室を借りたが、シモーヌが前線にいるという以外の情報が得られず、「共和党の軍隊の到着は夜半であったため、彼らはPOUMの本部の前のベンチに座り、何日も続けてその到着を待った」*。4、5日の後ついに現れたシモーヌは足に火傷を負っていた。父のヴェイユ医師が傷の手当てをし、夫妻は娘を宿に連れ帰った*13。

神秘主義に関する著作のある独学のカトリック哲学者ギュスターヴ・ティボンの農場で働いたときにも、ヴェイユ夫妻はシモーヌを訪ねている。

しかし、ついにヴェイユ夫妻の保護がシモーヌに届かなくなるときがやってきた。

両親と共にニューヨークに滞在していたシモーヌがイギリスに行こうとしたとき、ヴェイユ夫妻も後を追って行こうとしたが、書類が揃わず、叶わなかったのである。

「人生がいくつもあれば、その一つをお父さまとお母さまにあげるわ。でも人生はこれ一度きりなの」*14という別れの言葉を両親に残し、シモーヌは1942年ニューヨ―クを船出した。
ヴェイユ夫妻の残りの人生は娘の原稿を後世に残すための清書に費やされたが、夫妻がシモーヌの墓を訪ねることはなかったという。

守護天使でさえも自分の出る幕はないと思ったに違いないと想像したくなるくらい、あっぱれな両親であるが、これは深刻な話である。シモーヌの行動が、両親の過度な介入のためにどこか戯画化されるほどだ。

シモーヌの何事につけ極端な傾向は、両親との関わりのなかで丁寧に見ていく必要があると思える。何にしても、両親の徹底した関心は娘に注がれ、娘の徹底した関心は神に注がれたのだ。

シモーヌの死後、アンドレと両親との間にシモーヌの死や彼女の自筆原稿をめぐって亀裂が生じた。

アンドレの娘で、シモーヌの姪に当たるシルヴィ・ヴェイユ(Sylvie Weil、1942 - )は自著(稲葉延子訳)『アンドレとシモーヌヴェイユ家の物語』(春秋社、2011年)の中で「父はこの分析が正しいのかどうかはわからないが、自分の母親がシモーヌの内に、母親がいなくてはならない状態をつくりあげ、それが原因でシモーヌは死んだと見做していた」*15と書いている。

シモーヌが晩年、キリスト教神秘主義に傾斜したその態度には、明晰さに忍び込むあまやかな霧のような、如何にもキリスト教的盲目性と信仰的ムードが感じられ、わたしが影響を受けてきたブラヴァツキーの神智学のような神秘主義的態度とは明らかに違う。

例えば、よくシモーヌの神秘体験として紹介される「プロローグ」*16と名づけられたような体験は、一般的な観点からは特異であるのだろう。

だが、わたしはさりげなく残されたその覚書の彼女独特の厳密さとロマンティシズムとが溶け合わさったような美しい表現にこそ注目するのであって、彼女の体験そのものを過度に重要視することには疑問を覚える。

その体験ゆえに、聖女といわんばかりの書きかたをしたヴェイユ関係の本は多いように思う。この本でも切り札のような使われかたをしていて、それはどうかと思ってしまうのだ。

もっとも、こうしたことにわたしが疑問を覚えるのは、わたしがブラヴァツキーの神智学のような筋金入りの神秘主義に傾倒しているからである。

神秘主義では、肉眼には見えない存在にも届く限りの知性の光を当てることが当たり前のことであるため、シモーヌが書き残した「プロローグ」のようなエピソードをただありがたがったり、忌み嫌うだけといった態度はむしろ異常なことに思えるのだ。

実は、わたしにも生涯に一度だけの体験ではなかったかと考えている、当時は天使かと思った存在との接触があった。

その存在を見たのはありふれた場所で、塾の教室だった。わたしはまざまざと見たのに、わたしのすぐ傍にいた助手仲間にも、塾のオーナーにも、見えなかったらしい。

わたしたちが仕事をしていたテーブルから、いくらか距離を置いたところに、さりげなくその人は立っていた。掃き溜めに鶴――というとオーナーに失礼になるが、要するにありふれた場所といいたい――とはこのことかとわたしは思った。

何という眉目の繊細さ、まなざしの美しさであったろう。

その人は、これまで見たこともなかったような素材でできたごく軽やかにフワフワとして見える、薔薇色を帯びたドレスのようなものを纏っていた。

ただならぬ美しさ、煌きに満ちたその人は、状況から考えると、生徒の母親で、パーティーを抜け出してきたとしか思われなかったが、あまりにも場違いな現象にわたしはどう解釈してよいのかわからなかった。

我を忘れるほどだったが、かろうじてお辞儀をすると、その人もお辞儀をした。それは、その人がまるでわたしの侍女でもあるかのように遜った、それでいて気高い感じを受ける、この世のものならぬ優雅なお辞儀の仕方だった。

わたしは、鈍感な助手仲間に注意を促した。彼女は仕事の手を休めて、わたしの見るほうを見、しばらくその方向を注視したあとで不審そうにわたしを見ると、苦笑しただけだった。次いで、塾のオーナーに注意を促したところ、目で叱られた。『何をしているの、早く、仕事をしなさい!』

その直後に、生徒に注意をとられたということもあって、その人から目を反らした少しの間にその人はいなくなっていた。

後日、喫茶店でそのときのことを助手仲間に問い質したところ、わたしが彼女に注意を促したときのことは覚えていて、そのとき彼女にはわたしが目で示した場所には何も見えず、わたしの行動を変に思ったとのことだった。

今にして思えば、そのとき、わたしは思想の転換期にいた。

大学時代からキリスト教と、それに対峙する形のいわゆる秘教といわれてきた――門戸が一般に開かれている現在では秘教ではなくなっているのだろうが――神秘主義に惹かれていて、どちらに行こうかと迷っていた。両者の思想には重なるところもあるだけに、迷いは深まった。

あるとき、神父さんたちの宿舎のある黙想の家を訪ねようとしたときのことだった。そこへ出かけるのは、何回目だっただろうか。

わたしは庭の像を見ながら歩き、洗礼を受けるかどうか考えていた。そのとき、ある男性的な響きがわたしの内部で響き渡り、驚いて足を止めた。「そこでは、お前の満足は到底得られない!」と声は忠告したのだった。

人にいえば気違いと思われるので、文章にする以外は人には話さないが、わたしにはあの世の空気と前世に関する微かな記憶があり、子供の頃から見守りを感じてきた。

その1グループの存在から来る忠告は、小さな頃はわたしには叱責と感じられることが多かったが、次第に干渉が少なくなり、最近ではその存在をほとんど忘れている。見放されたのかと思うこともあるほどだ。

それで、そのときの忠告もわたしには自然に感じられたのだが、臍曲がりなわたしはその声をあからさまに無視して、黙想の家のほうへ断固として足を向けた。

わたしの迷いはその後も深まるばかりだった。そして、卒業間際に母が倒れ、『枕許からのレポート』*17で書いた内的な体験があった。

天使かと思うほどに美しい人を見たのは、そのしばらくあとのことだったから、今思えば、神智学で高級霊といわれるような高次元的存在が思想的な節目に現れて、神秘主義への門出を祝福してくれたのではないだろうか。子供の頃から見守りを感じてきたグループに関係のある存在なのかもしれない。

わたしはもうお亡くなりになった神智学の田中恵美子先生に、自分の様々なフシギ体験を話した。

すると、それは不思議でも何でもないそうで、便宜上神秘主義には「神秘」とついているが、神智学の辞書に神秘を意味する言葉はなく、人間に解明はされてなくても、全てに科学的な原因があるという。

もっともなことだとは思ったが、わたしは自分が狂人か特別な人間かという観点で揺れ続けた。幸い先生は長生きされたので、自分を特別視したり蔑視したりする習慣は、先生の手紙で叱責されたり、意見されたり、また励まされたりすることで、ほぼなくなった。

人は凡庸なわたしを見て、シモーヌの体験とおまえの体験は所詮格が違うというかもしれない。だが、キリスト教という権威を剥ぎとれば――とわたしは思う。わたしは天使のような高級霊にあこがれ、シモーヌはイエス・キリストにあこがれていた。見たものの違いにはその違いがあるだけではないか――と。

こうしたことを書いたのは、シモーヌの思想のすばらしさはすばらしさとして、一方に苦しさというか、ある限界を感じるからである。

とはいえ、ここで中途半端にシモーヌのある限界を論じるわけにはいかない。したがって、今はこの覚書をささやかな問題提起としておくにとどめたい。

わが国にはエッセー「20 バルザックと神秘主義と現代」(「マダムNの神秘主義的エッセー」)で書いたような特殊事情があって、神秘主義を忌避する傾向があることを指摘しておきたい。

わが国では、第二次大戦後のGHQの占領政策によってマルクス主義の影響力が高まった。公職追放によって空席となった教育、研究、行政機関にフランクフルト学派の流れを汲むラディカルなマルキストたちが大勢入り込んだといわれる。

わが国のシモーヌ・ヴェイユ研究には偏り、あるいは欠落があるのをわたしは感じてきたのだが、シモーヌの豊かな知性及び情感は左派活動では到底満たされえず、また彼女の厳正中立な精神性がキリスト教会の枠内にも収まりきれなかったのは次の引用からも明白である。

 ペラン神父はすぐさま洗礼を持ち出したが、シモーヌは間髪をおかず、一連の異議を展開しはじめた。洗礼を受ければ、ただひとえにキリスト教に帰依し、他の偉大な宗教のなかに自分が見出した真実を排除しなくてはならなくなるのではないか、とシモーヌは異議を唱えた。さらに、カトリックの教義は教会の外での救済を認めるか否かという問題に、明快に応えてほしいとも迫った。*18

シモーヌが神秘的なエピソードに「プロローグ」と名づけたのは、象徴的な意味合いでだろうか。それとも、いずれ本筋を展開するつもりだったのだろうか。

大学時代に博多の書店「リーブル」で初めてシモーヌの本――『超自然的認識』*19――に出合ったとき、何気なく開いた白いページがきらきらと金色に輝き、自分の体が宙に持ち上げられたような――勿論、それは錯覚なのだが――感じを覚えて、これまで覚えたことのなかった類の感動の中で慌てたのを昨日のことのように覚えている。

「プロローグ」が収められた『超自然的認識』の訳者田辺先生にお目にかかったことはなかったが、試行錯誤をそのままぶつけたようなわたしの不躾な手紙の数々に美しい返事をくださった。

大学時代に田辺先生と神智学の田中先生に質問の手紙を出してから、お二方はお亡くなりになるまでわたしごときと文通をしてくださった。キリスト者と神智学者の双方に接することで、わたしはバランスを保とうとしていたのかもしれない。

田辺先生はキリスト者、田中先生は神智学者であり、この世における思想の区分では違う場所にいらっしゃったが、いずれも重厚な思想的ムード、人間的な優しさを漂わせておいでだった。このお二方から受けた影響力の大きさは自分でも自覚できないほどだと思う。

マダムNの覚書、2009年3月13日 (金) 22:18
2015年9月8日加筆

*1:フランシーヌ・デュ プレシックス・グレイ Francine du Plessix Gray(上野直子訳)『ペンギン評伝双書シモーヌ・ヴェイユ 』岩波書店、2009年
*2:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.6
*3:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』pp.5-6
*4:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.41
*5:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.53
*6:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.54
*7:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.54
*8:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.54
*9:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.63
*10:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.63
*11:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.113
*12:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.120
*13:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.120
*14:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.204
*15:S・Weil(稲葉訳)『アンドレとシモーヌヴェイユ家の物語』p.152
*16:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』pp.244-246
*17:マダムNの覚書「枕許からのレポート」及び直塚万季「枕許からのレポート(Collected Essays, Volume 4)」ノワ出版、2013年、ASIN:B00BL86Y28
*18:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』pp.177
*19:シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『超自然的認識』勁草書房、1976年

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