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2015年9月15日 (火)

ルネ・ドーマル(巖谷國士訳)『空虚人(うつろびと)と苦薔薇(にがばら)の物語』(風濤社、2014年)

ルネ・ドーマル(巖谷國士訳)『空虚人(うつろびと)と苦薔薇(にがばら)の物語』(風濤社、2014年)を読んだ。感想はブクログに書いた。

(橋本一明ほか訳)『シモーヌ・ヴェーユ著作集 Ⅱ ある文明の苦悶―後期評論集―』(春秋社、1968年) を再読していたとき、「解説2」の156頁に、シモーヌがルネ・ドーマルを通してインド思想に触れたと書かれている箇所に目がとまり、その関連からこの本を図書館から借りて読んだ。
「あとがき」によると、ルネ・ドーマルの絶筆となった未完の小説『類推の山』に挟まれるいくつかの「話中話」の一話で、小説ではどこかの高山の伝説として紹介されているそうだ。人気の高い小話らしい。
しかしわたしの読後感としては、これだけでは何ともいえない感じだ。作中作として十全に機能している小話もあることを考えれば、読者任せにすぎる小話なのではあるまいか。
象徴的な道具が複数使われているわりには、それらが何の機能も果たしていず、ただ装飾として利用されているという残念な印象を受けた。無意味に技巧の凝らされた(シュルレアリズムはそんなものではあるが)、思わせぶりな掌編という感想しか持てなかった。
道具に寄りかかりすぎではないだろうか。これを読んで読者が勝手に楽しむのは自由だが、果たして作中作としてはどうか。この小話を包み込む『類推の山』自体への関心も薄れてしまった。

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