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2015年7月19日 (日)

立ち読みで窺えた又吉直樹の才能、しかし『火花』の冒頭は文章としておかしい

又吉直樹『火花』を図書館から借りようとしたら、予約者が60人以上いた。順番が回ってくるころには、次の芥川賞が決定していそうだ。

仕方なく、「文藝春秋 BOOKS」で立ち読みした。

冒頭は文章がおかしいと思ったが、そのあとは、内容が充実していくと共に、文章はまともになっていく(のではないかと思う。老眼には字が小さすぎてつらい)。

老眼のせいもあるかもしれないが、立ち読みを終えるころには、漫才界の裏話が読めそうな期待感も薄れ、小説自体がどうでもよくなってしまった。

その中に深刻な文学的テーマも美醜も、あるいはユーモアもあるのだろうが、荒れた環境、荒れた場面、荒れた言葉遣い、荒れた変な登場人物。

こうした荒れた世界を舞台にした、しかし、その世界をもう一つ包括的には捉えきれていない、それほど知的とはいえない作品ばかり、読まされてきて、日本中が今や荒れた世界になってしまったかのようで、何のための文学か、わからなくなってくる。

というと、立ち読みで作者を否定しているかのように誤解されてしまいそうだが、立ち読みしただけの直観では、西村賢太と同じくらい才能を秘めた人物だろうとは思う。

西村賢太と同じように、美しいものを内面に湛えている人物であることが窺える。作家の資格として、それ以上に大事なものはない。

『火花』の冒頭の文章がおかしいと書いたが、それについて少し。

以下『火花』より、冒頭部分の抜粋。

 大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残を夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。

文章がくどい。野暮ったい。頭の中にすっと入ってこない。そうした場合、表現が不適切、不正確であるとか、文法的に間違っているといったことが原因となっている場合が多い。

最初の行で疑問に思ったのは、笛の音が単数か複数かということだ。単数の笛の音が(和太鼓の律動に)働きかけているのか、複数の笛の音が重なり合って(和太鼓の律動に)働きかけているのか?

「大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。」
の読点の位置を変えて、「大地を震わす和太鼓の律動に甲高く鋭い笛の音が重なり、響いていた。」とすると、単数の笛の音が思い浮かぶ。

複数の笛の音であることを強調したければ、
「大地を震わす和太鼓の律動に、重なり合う甲高く鋭い笛の音が響いていた。」

ただ、音と律動(リズム)は同じ意味ではないから、律動に音が重なるという無造作な表現にも違和感がある。

和太鼓の律動、笛の律動。和太鼓の音、笛の音。作者にとって、和太鼓の場合は律動が、笛の場合は音の甲高さが印象的だったのだろう。

「甲高い」は、調子が高く、鋭いことを意味するから、「鋭い」は不要。「鋭い」と重ねることで、むしろ印象を弱める。

2行目は、文章に構造的欠陥がある。

「熱海湾に面した沿道~草履に踏ませながら」までは擬人法が使われている。そのあと、そうではなくなっている。

ここは「草履に踏ませながら賑わしている」とでもなるのかな。

あくまで擬人法にこだわりたいのであれば、わたしなら、こう書く。
「熱海湾に面した沿道は、白昼のほてりを夜気で鎮めて、浴衣姿のカップルや家族連れの草履に踏まれるまま、喧騒に身を任せている。」

「浴衣姿の男女や家族連れ」の「男女」を「カップル」に換えたのは、家族連れも男女(混合)であることが多いから。

作家の卵40年のわたしも未だ日本語に詳しいほうではないが、芥川賞を受賞した作品は教材に使われてもおかしくないだけの文学的名声を授かる。

教科書に載るかもしれないと考えると、『火花』は内容以前の文章的問題を抱えている気がする。

芥川賞は日本語を壊すために存在しているのだろうか、と疑いたくなるほどだ。ひじょうに不注意な書き方である。

当ブログにおける関連記事:

2015年7月22日 (水)
拙ライブドアブログの人気記事。芥川賞に関する懸念。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/07/post-ee93.html

編集者は何のためにいるのだろう? 

編集者がしっかりしていなければ、作家が恥をかく。作家に恥をかかせる編集者は、編集者として失格といえる。

アンドレ・バーナード編集『まことに残念ですが・・・ 不朽の名作への「不採用通知」160選』(木原武一監修、中原裕子訳、徳間文庫、2004年)に、ミステリー作家ジョゼフ・ハンセンの次のような言葉がある。

もしきみが確固たる信念を持っていれば、そのうち確固たる信念を持った編集者とめぐりあうだろう。何年もかかるかもしれないが、決してあきらめるな。

ハンセンのこの言葉をわたしは幾度となく読み返してきた。作家にとって、理想的な編集者にめぐりあう歓びほど、大きなものがあるだろうか?

どんなに優秀な作家でも、完璧な日本語を常に駆使することは難しいに違いない。おかしな文章はあとで編集者が指摘してくれる――という安心感があれば、作家の筆遣いは格段に伸びやかになるだろう。

それとも、これは編集者の指導や助言の結果なのか?

よく文学賞では最初の1行で決まるといわれるが、壊れた日本語で冒頭を飾らないと受賞できないということなのか。文学賞は何のためにあるのか……深く考えると、日本人として何とはなしにある疑いが首をもたげ、空怖ろしくなる。いや、これはわたしの妄想だろう。そう願いたい。

読了したら感想を書こうと思っているが、その時間はとれないかもしれない。

何しろ、初の歴史小説が待っているというのに、図書館からゾラの『ルーゴン家の誕生』『夢想』『パスカル博士』(総論社)、レオ・ペルッツ『世界幻想文学大系 第37巻 第三の魔弾』(国書刊行会)を借りてきたのだ!

ゾラの『夢想』には『黄金伝説』が出てくるようだ。

『黄金伝説』とマグダラのマリア伝説とは切り離せないが、『黄金伝説』にはいろいろな伝説が集められている。その中のどの伝説が作品にどう絡むのか、楽しみだ。

わたしの児童小説『不思議な接着剤』のために、黄金伝説とマグダラのマリア伝説にかんするノートがあるので、紹介しておく。

以下、#44、50、51、55、62、80。

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