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2015年5月10日 (日)

第45回九州芸術祭文学賞・大分県内選考の記事を読んで

昨日、大分県の芸術文化振興課から封書が届き、以下のものが入っていた。

  • 案内「九州芸術祭文学賞の作品募集について」
  • 九州文化協会「『九州芸術祭文学賞』応募要項」
  • 西日本新聞平成27年3月23日掲載記事「第45回九州芸術祭文学賞選考 劇作家の岩豪友樹子さん講評」のコピー

前回、九州芸術祭文学賞・大分県内選考の記事を読んだ感想を書いてから間が空いたが、九州芸術祭文学賞は滞ることなく、毎年主催されている。

応募しなかった年はこの種の記事が書けないし、応募した年があっても、このような記事をアップすることがよいことなのかどうかがわからないため、あえて書かなかったということもあった(あまり他の応募者の傾向と対策には益しないだろうし)。

今回はわたしも応募したのだが、引っかからず……▄█▀█●ガーン

※昨年11月7日、芸術文化振興課から大分地区入選作が決定したとの発表があった。

尤も、慣れているので、立ち直りは速かった。5分くらいかな。冠攣縮性狭心症の発作から回復するより、速くなった(ニトロは要らないし)。以前は自棄食いして太る後遺症に悩まされたりもしたものだが、電子書籍を作成するようになってから、落選してもほとんど落ち込まなくなったのだ。

というのも、受賞すれば、著作権を持って行かれることが多く、そうなると、電子書籍にできなくなるので、「ああ著作権持って行かれなかった」という特典がわたしの落選にはもれなくつくようになったというわけだ(受賞したいから応募するのは当然だが、執筆に集中し、作品の完成度を高めるために応募を利用しているという面も、わたしにはある)。

といっても、電子書籍にするには早い。まず、気になっていた箇所を書き直した。その後、枚数の見直しから始めて、全体を書き直した。そして、別の賞に応募した。

一度や二度落選したからといって、作品を捨てることはないとわたしは思う。精魂こめた作品はある意味では生きものなのだから。

大手出版社の新人賞では下読み集団(?)があっちこっち移動するため、違う雑誌の賞に応募しても同じ下読みに出くわすことがあるとも聞いたが(今もそうなのかどうかは知らない)、賞によっては、わたしの経験からいって、捨てる神あれば拾う神ありだ。

受賞の経験はないが(だからプロになれず、こんな記事を書いているわけ)、ある賞では1次すら通らなかった作品が、別の賞ではいいところまで行ったことがあった。また、どこかの批評欄に採り上げられることだって、ないわけではない。

こうした現象がありふれたものとなっているのは、賞の数が多くて、選者の好みが多様であるためともいえるが、それだけ賞の質が低下しているともいえそうだ。

捨てられっぱなしであれば、自分が拾う神になればいいだけの話である。先述したように、電子書籍にするとか、お金があれば作品集を自費出版、あるいは朗読版の動画を作成してYouTubeで公開するという手もある。

悠長に、したたかに構えなければ、潰されずに物書き人生を全うすることはできない。

優れた受賞作が現れないのは、選者のせいだとわたしは思っている。才能のない選者が才能のある人間のやる気を削ぎ、才能のない選者が才能のある人間を潰す。

さすがに、それはわたしに起きていることだとはいえないが、あちこちで発表されているいろいろな受賞作を読んでみて、こんな作品しか集まらないわけはないだろうに、と思うことがよくある(関連記事として拙過去記事を参照されたい。ライン以下に再掲しておく)。

だから、時々こうやって選者の講評をチェックしてみたい気持ちに駆られるわけである。

前置きが長くなった。以下に、お名前を除いて記事から引用。

 作品は前年度より1編多い28編だった。男性22人、女性6人で、女性が少なかった。年齢別では20代2人、30代2人、40代2人、50代8人、60代9人、70代3人、80代2人だった。 
 選考委員3人が5編ずつを選び、選考会に臨んだ。上位5編に残ったのは受付け順に「かいほう」、「ドッグキャッチャー」、「もげさんへの手紙」、「浄焔」、「赤いスタートライン」だった。

わたしは前年度、応募しなかった。1人増えたのはわたし? いや、わたしが応募数を増やしたのは間違いないが、わたしを除けば応募者が前年度と同じメンバーなんてことはないだろうと思う(^_^;)ハハハ 

このうち、大分地区入選作は以下。おめでとうございます!

地区優秀作  「かいほう」
地区次席    「もげさんへの手紙」

優秀作に対する講評を、以下に引用。

 地区優秀作に決まった「かいほう」は、社会不安障害を患いながらリサイクルショップを経営する「ぼく」を中心に、精神に不均衡さを持つ登場人物たちが絡み、不毛な日常が続く。選考委員の評が最も高く、33歳の作者は読ませる力量を持っていた。タイトルが意味するのは「開放」か「解放」。もしくは「介抱」か、すべてを包含するものなのか、謎のままだ。

「読ませる力量を持っていた」というだけでは、この作品の魅力が伝わらない。作品のどこに魅力があったのか、今後の参考のためにも、落選した応募者として知りたいと思うのは自然な感情である。

文章力があるのか。社会不安障害を患う人々の様子や群像としての描写が優れているのか。リサイクルショップに障害者たちがどう絡むのか。不毛な日々が続くとあるが、それはどんな不毛か。働くことが障害の改善につながらない不毛か、儲けにつながらないという不毛か、あるいはよい人間関係が結べない不毛かなど、勝手に想像を膨らませてみる。

不毛な日々が続くところに問題提起があるのか。作品を通して作者の人生観なり哲学なりがメッセージとして伝わるのか。技法的にはどうなのか。何もわからない。

タイトルの意味するものが謎のままという感想を持ちながら、作品内容かタイトルのつけ方に疑問を抱かない選考委員がわたしには謎である。

次席に対する講評を、以下に引用。

 次席の「もげさんへの手紙」はエッセー風の作品。主人公は20年にも渡り、友人の妻から「彼は少年のまま死にました」という不可解な手紙を受け取る。彼がいまだ純粋すぎたゆえの自死であったことを悟り、「山頭火のようにどぶ沼のぬかるみの中で生き続けて欲しかった」と、手紙を書く。主人公たちの年齢設定が40代にしては全般に老成しすぎていると感じた。

字数に制限があることを考慮したとしても、作品紹介の部分はまずいのではあるまいか。読み手は混乱を来す。「主人公たちの年齢設定が40代にしては全般に老成しすぎていると感じた」とあるが、主人公と友人の妻の文通は20年も続いているわけで、20年経った現時点で40代ということなのか(文通が始まったのは20代)、それとも文通の始まった時点で40代だったのか(現時点では60代)が、わからない。

選考委員の感想として主人公たちが老成しすぎていると感じるとあるから、前者なのかと想像するが、だとすると、友人が亡くなったのは20代。40代になるまで、「彼は少年のまま死にました」という不可解な手紙を送り続ける妻。1年に1通届くだけなら、年賀状代わりの挨拶とも考えられるが、だとすると、呪いのような年賀状である。もっと頻繁に届くなら、ストーカーめいてくる。それとも、主人公のほうでも返事を送り続けたのか。

エッセー風の作品とあるが、この小説は書簡体小説なのだろうか。酒で身を持ち崩したが、すばらしい俳句を残した山頭火が主人公の返事に出てくるのはなぜだろう? 主人公は友人だったにも拘わらず、彼がなぜ自殺したのか、皆目見当がつかなかったのだろうか。

少年のまま死んだ――という言葉の意味を、20年も考え続けた結論として、「いまだ純粋すぎたゆえの自死であった」と悟ったというのであれば、何だか滑稽な話であるが、作品紹介の不備がそう勘違いさせるだけなのかもしれない。

この講評では、作品の魅力が伝わらないばかりか、断片をくっつけたような不備な作品紹介のために、むしろ作品が損害を被っている印象すら受ける。

応募には、400字詰め原稿用紙1、2枚程度の梗概をつけなくてはならない。梗概を書くことは難しいから、選考委員の講評を応募者はその参考にするつもりで読むのだ。少なくとも、わたしはそうだ。これではあまり学べない。

講評では、5編全部について書かれている。結びの言葉を以下に引用しておく。

 本年度は、社会不安に押し流されそうになりながら自分を見いだそうとする作品が多く見られた。「自分は何者なのか」という、かつて「自分探し」や「モラトリアム」などと呼ばれた自己喪失「アイデンティティークライシス」が今や若者だけのものではないように思えてならない。

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2011年8月 8日 (月)
文藝春秋「文學界 平成二十三年八月号」 ‐ 「新人小説月評」に対する私的不信感
http://elder.tea-nifty.com/blog/2011/08/post-723d.html

近藤くんの『銀杏神社』を読むために、文藝春秋「文學界 平成二十三年八月号」を購入。

まだ小説は近藤勲公『銀杏神社』を読み、その前に掲載されていた三輪太郎『海の碧さに』を失礼ながらざっと読み、コラムの雪舟えま『種の暮らし』を読んだくらいだが、「文學界」を読むときはいつもそうするように、まず陣野俊史/大澤聡「新人小説月評」を読んだ。

この『新人小説月評』に掲載される評論が掲載や新人賞の基準となり、作家志望者の《傾向と対策》となって、作家をつくっていくからだ。その目で読んで、わたしは久しくこのコーナーに不信感を抱いている。

 陣野俊史のタイトル……誠実な態度

 賞応募の傾向と対策のため、チェックすべき箇所を抜書きしてみた。

  • 小説家は小説を書いて、原発に対峙する。古川は、小説と小説ではないものとの間で苦悶する。小説は揺らいでいる。
  • 翻訳と言語の問題を全面に出しながら、後半の詩的なイメージが横溢する文章
  • 時間軸を自由に移動する伊坂の作風
  • 全篇に流れるホラーテイストは◎。妹の「肉」の描写がよい。
  • ……というと割とよくある設定なのだが、最後の数枚で大転換。ここが気持ちよい。
  • 主人公の無気力キャラを大事にして欲しいと願いつつ読んだ
  • それぞれの家庭まできちんと描き込んであって、好感を覚えたが、『きことわ』以後、このタイプはやや書きにくくなったかも。
  • トリッキーな設定
  • 才気を感じた。このテイストの作品をあと十篇くらい並べられれば、かなり面白い。

新人賞とは、流通業界における新商品を生み出すようなアイディア戦であることがわかる。それも、ひねりを入れた軽薄なものであればあるほどよさそうだ。本当にそれが文学作品に対して一般が求めるものなのだろうか。

この文芸評論家の頭に浮かぶ詩的、才気というイメージは、おそらくわたしの頭に浮かぶそれらとは全く異質のものだろうという絶望感を覚える。小説で原発に対峙する? あたかも小説家は小説の素材に対立し、敵対しなければならないように読めるが、わたしには意味不明だ。

わたしにはとても、この評論家が求めるような作品は書けそうにもない。書きたくもない。この月評からは間違っても、文豪といわれる小説家の作品のようなものは浮かんでこない。

  大澤聡のタイトル……「新人」の条件、二重の。

このタイトルからして、わたしには早くも意味不明だ。内容となると、カラーン(あ、思わず、匙投げちゃった)。それでも、自身を叱咤し、賞応募の傾向と対策のため、チェックすべき箇所を抜書きしてみた。

  • 本欄「新人」の条件は、「芥川賞候補となる可能性を残す」といったところか。実際そうらしい。
  • 以上二作、ジャンルへの無防備な甘えが随所に看取された。
  • どうということもない。だが、どうということもないことを読ませてしまう。それが丹下の一貫した姿勢。語りの位地と時制を中盤まで宙に吊る構造も機能している。
  • 職業設定からラスト(空港!)への動線まで、ドラマ的文法の密輸入を思わす。定型だが、それゆえエンタメとして高水準で成立。
  • 貧乏設定、アフォリズム、並行世界[パラレルワールド]etc。デビュー以来のツールを全て搭載。もはや熟練の境地。
  • 動力に使用言語の非対称性を適用。その時点でご都合主義に嵌るのは不可避。
  • 凡庸な解読を拒む。書くという営為をめぐる自己言及。怪作。
  • 複層的な時空間の堆積=物語たる同作に、さらなる時間(日付)と空間(地図)を挿し込んでゆく。ジャンルの分節など退けてしまう筆圧。
  • 円城・古川と同様、非線的で錯時的な章構成。再縫合は難しくない。
  • 「純文/エンタメ」の対立枠組はとうに瓦解した。残るは各誌の伝統と自画像だけ。「純文学」は異質なアイテムや想像力を周回遅れで誘致し延命してきた。隣接分野からのリクルートは定石。大正期から反復された光景だ。そのつど、新人に期待されるのは、内部のプログラムを秘かに書換えてしまう剰余である。その点、今月は模倣の限界例が多く観測された。出来にかかわらず。もっと逸脱した参入動機を。既存の磁場に回収されぬ圧倒的な不可解さを!

「純文/エンタメ」の対立枠組とは何だろう? 音楽に置き換えてみれば、この言葉の不可解さがはっきりする。クラシック音楽とポピュラー音楽の対立枠組というと、何のことか、さっぱりわからない。ジャンルが違うだけのことを、一体何をけしかけているのだろうか?

最後の言葉などは、シュプレヒコールのようにも気が触れた人のわめきのようにも感じられる。

わたしには、まともな文学作品をまともに読む能力に欠けた人間が、まともでない作品を持ってこさせては、このコーナーで自己満足的な嗜好の世界に浸っているとしか思えない。ここには指標らしきものは存在せず、全ては彼の好みに合うか合わないかで決まるようだ。

当世風の評論家たちは、作家の卵を何処へ連れて行こうとしているのだろう? ハーメルンの笛吹き男をさえ連想してしまう。

当世風評論家たちの批評を読んだあとで、近藤くんの『銀杏神社』の頁を開いた。抒情的な銀杏の描写にホッとさせられる。安定した筆力と精緻な描写力。今の純文学界では、それだけでも希少価値と思われた。

幸いというべきか――それなりのバランス感覚が働くのか、当世風批評家の嗜好に副う、文章も作りも派手に壊れている作品が芥川賞に選出される一方では、従来型――同人雑誌型と言い換えてもいいかもしれない――の比較的日本文学的な作品が時々選出されているように思う。

比較的日本文学的と書いたのは、文章がそうでも作りはそうでもないからである。戦略としてそうさぜるをえないのか、そんな書きかたしかできないのか、個別に見ていく必要があるだろう。

ホッとさせられたのも束の間、『銀杏神社』を読み進め、わたしはその美々しく描写された銀杏がアイテムとして使われていることに気づいた。となると、この作品は従来型の日本文学的なものではない。

ストーリーを追ってみる。

老女ミサは、神社で銀杏の葉をビニール袋に集めている。逝った夫惣一の遺体にかけるために。遺体は生乾きだ。ミサは死体遺棄罪に問われることを承知で、夫の希望に応えようとしているのだった。夫は「わしが、死んだら、焼かずに、ここの銀杏の落葉の中に、埋めて、くれ……腐るまで」と言ったのだった。

ひとり息子が湿地帯の銀杏の葉に埋もれた状態で夭折した過去があった。湿地帯は埋められ宅地となり、銀杏の木々も伐採されて神社に群生されるものだけが残る。惣一は銀杏を求めて神社に通う。銀杏の群生が惣一の拠り所となっていった。それが、夫に前掲の言葉を言わせ、ミサが銀杏の葉を集め続ける行為の動機なのだ。

死ぬ前から惣一の魂は体を離れ、神社にいることがあった。死後も神社を彷徨っている。「もし夫ならば何か未練があって神社をさまよっているのだ。それを認めることが辛かった。自分の真心でその未練を拭ってやりたかった」とミサは思う。この辺り、どうにも解せない。ミサの行為はわたしには、夫の魂をこの世に呪縛するための儀式か何かのように思えてしまう。

『銀杏神社』では老醜がモチーフかと思われるが、それだけでエンディングまで引っぱっていこうとしたかのような単調さがあり、老醜の先に来る死の扱いにしても、作者の死生観がはっきりしないための場当たり的な印象を拭えない。

息子が神社で死んだのなら、そしてミサが惣一を神社に埋めるのならまだしも納得がいくだろうか。夫婦の銀杏の葉に対する異常なこだわりにも、もう一つ説得力がない気がする。

ストーリーの不自然さは、モチーフと思いつきを強引につないだためではないかと思われる。核となるべき観念の形成ができていないのは、その原動力となるべき作者の哲学とか思想といったものが希薄だからではないだろうか。

明治期から日本文学が手本としてきた西洋文学は、何よりその部分を大事にしてきた。しかし、当世風評論家は、そんなものは腹の足しにならない、技巧と技巧が要求するお手軽な知識さえあれば上等といっているかのようだ。

端正な筆致に、この小説の展開は似合わない。

ところで、わたしには長年賞狙いを続けたことからきた弊害があり、「日田文学」の合評会で、河津さんからそのことを指摘されたことがあった。近藤くんのこの作品に、わたしはそれと同じものを感じずにはいられない。しかし、文学的には瑕となるそれも、今のわが国の文学界ではその限りではないようだから、わたしの感想など無意味と思っていただいたほうがよいと思う。

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