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2015年3月の28件の記事

2015年3月31日 (火)

春の風物詩、アスパラガス~! 重宝する牛肉の切り落とし

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細いアスパラガスが束で安かったので、すっかりアスパラ好きになったわたしは買いましたが、それを水洗いして1本を三等分に切ったところ。

このアスパラガスと同じ太さに成長した、うちのプランターアスパラ(苦節3年)。夫がそれを昨日も収穫するというので(数日置きに3本ずつしか収穫できない)、この中に混ぜて料理しようと思ったのですが、一緒にしたら駄目だそうで……(^○^) アハハ

茹でて、マヨネーズを添え、夕食の前に食べたりしていますが、今日まで花瓶に挿して春の風物詩として観賞することにしました。そして、スープにでも散らしますかねえ?

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いや、なかなか風情のあるものです。

お店から買ったアスパラは昨日、牛肉の切り落としと一緒に炒め、みりんとしょうゆ(ごく軽く塩胡椒)で味付けしました。

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牛丼、ビーフストロガノフ、マスタード炒め、ハヤシライスなどでは1人100gはほしいので、3人だと300g要りますが、野菜など他の食材と炒め合わせるには300gだと我が家では多すぎますし、お買い得な切り落としで充分です。

3人に切り落とし150g~200gもあれば、ボリュームのあるメインディッシュが完成!

切り落としの我が家の人気レシピは、青椒肉絲(チンジャオロースー) 、肉じゃがですが、牛肉ときのこのみぞれ煮なんかも美味しいですね。

今年になって作った中では、蓮根、スナップエンドウとの組み合わせがグー!でした。

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過去記事で紹介した中では、土井善晴先生のレシピ「青梗菜と牛肉の炒め物」が家族に受けました。

やはり土井善晴先生のレシピで、「牛肉のわかめ蒸し」もちょっと変わっていて美味しかったです。牛薄切り肉が使われていますが、切り落としでも美味しいですよ。

ところで、切り落としとアスパラ炒めのお皿にのっている白いものは、ディチェコのポテトニョッキです。ジュピターで安くなっていたときに2パック買ったのですが、お試しに茹でて炒めたものを付け合わせにしてみました。

が、酸味がきつくて、わたしは苦手かな。常温で11月までも持つのはありがたいのですが。ひとパック500gも入っていますよ。

上手にはできなくても、自分で作ったほうが美味しいと思いました。酸味が気にならない人にはいいでしょうね。

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『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays 1)』をお買い上げいただき、ありがとうございます! 

『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays 1)』(ASIN:B00BV46D64)をお買い上げいただき、ありがとうございます! 

3月23日ごろ、キンドルストアでお買い上げいただいたようです。日本でのお買い上げは19冊目でした。

 『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』は35冊目のお買い上げでした。

  • 日本……19冊
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村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays, Volume 1)

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気まぐれに芥川賞受賞作品を読む 2007 - 2012(Collected Essays, Volume 2)

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2015年3月29日 (日)

アントニオ・タブッキの新刊『イザベルに ある曼荼羅』(和田忠彦訳、河出書房新社、2015年) ※31日に加筆あり。

タブッキのファンで、わたしにタブッキのことを教えてくれた娘が炬燵テーブルのわたしの場所に、何気なくその本を置いていた。

Tabu8
イザベルに: ある曼荼羅

勿論、娘は自分のためにその本を買ったのだが、わたしと喜びを共にしたいのだ。

娘に教えられてタブッキを読むようになり、魅了されるまでに時間はかからなかった。

それだけではなく、タブッキの作風に、神智学徒として神智学の影響を感じないわけにはいかないので、その方面から研究したいと思うようになった(わたしの家族は神智学にも神智学協会にも関心がないが、わたしが毎年神智学協会の会費を払って――年会費が4,500円から5,000円に上がった――インドのアディヤールにある神智学協会国際本部の会員名簿に登録された自分の名前が抹消されないよう、更新していることは知っている)。

文学関係では他に待っていることが山ほどあるので、とりあえず当ブログにノートだけでもと思い、カテゴリー「Notes:アントニオ・タブッキ」を設置したのだった。

そして、図書館からこれまでに邦訳・上梓されたタブッキの本は全部借りて、だいたいの傾向は掴んだものの、ノートのほうはあまり進んでいない。

最近では夏目漱石の作品にふと疑問を覚え、深入りする気のないままに調べているうち、漱石との関連で出てきた鈴木大拙が神智学協会の会員だったことを知り、『神秘主義』『日本的霊性』を読んだら、これまたカテゴリー「Notes:夏目漱石」を設置せざるをえなくなった。

漱石や彼と対照的な生きかたをした鈴木大拙の作品を読み、調べるのも、まだまだこれからだが、大拙の『神秘主義』『日本的霊性』を読む限り、それらには神智学徒ならではの視野の広さや偏見を排した厳密さがあって、神智学協会の目的(以下に引用)を連想させられるところがある。

神智学協会の目的
1)人種、信条、性別、階級、皮膚の色の相違にとらわれることなく、人類愛の中核となること。
2)比較宗教、比較哲学、比較科学の研究を促進すること。
3)未だ解明されない自然の法則と人間に潜在する能力を調査研究すること。

アントニオ・タブッキの新刊『イザベルに ある曼荼羅』の原題は Per Isabel: Un mandala と解説にあり、邦題は原題そのままであることがわかる。

うっとりするくらい、綺麗な本……

Tabu6

目次からして魅力的だ。「第一円 モニカ リスボン 想起」と始まって、これが第九円まである。目次の最後は「『レクイエム』から『イザベルに』へ 夢うつつのはざまで」だが、これは訳者による解説となっている。

この作品は『レクイエム』に重なるところがあるらしいので、図書館から再度借りた。傾向を見るために借りただけで、読了していなかったから。

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ウィキペディアに「イタリアは1985年までカトリックが国教だったが、廃止によって信者が激減している」とあるが、『インド夜想曲』は1984年に発表されているから、その時点ではイタリアはまだカトリックを国教としていたということだ。

『レクイエム Requiem』の発表は1992年。そして、この『イザベルに ある曼荼羅』という本の誕生に関して註に、以下のような興味深いエピソードが紹介されている。

 この書物についてアントニオ・タブッキの〈出版許可〉は存在しない。それゆえ作家の作品としては歿後に出版される未刊の遺作第一号ということになる。(……)作品全体は一九九六年、ヴェッキアーノで口述された。(……)ほかの作品の執筆に取り掛かっているうちに、方向もいろいろ変わっていった。旅を重ね、国境を越えていくなかで、この作品をある親友の女性に預けることにしたのだ。ようやく預けた作品を、読み直したいから返してほしいと言ったときには、おそらく出版する意志が固まっていたのだろう。だが、それは二〇一一年のことだった。そしてその秋には病を得ていた。(pp.177-178)

曼荼羅を知らない日本人は少ないと思うが、1996年当時、イタリアで曼荼羅はポピュラーなものだったのだろうか?

過去記事で書いたが、フィレンツェの書店主さんとメール交換している娘によると、書店主さんは邦訳版の源氏物語をお読みになるくらいの読書家なのだが、タブッキはお読みになったことがない。

自国の作家ではルイージ・ピランデッロ、ディーノ・ブッツァーティ、イタロ・カルヴィーノがお好きだそうだ。最近、娘は書店主さんの文学や演劇の話についていけなくなり、中断中。短期間だけ、やはり娘のメル友だったイタリアの地震学者はタブッキがお好きとのことだった。

娘は目下、イタリア語講座の家族的雰囲気に満足していて、そこでイタリアへのあこがれがかなり満たされている様子。年輩の人が多いが、とっても楽しそう(わたしも娘につき合って体験学習した)。それで、メール交換のほうがなおざりになっているようだ。

話が横道に逸れてしまった。

『レクイエム』(鈴木昭裕訳、白水社、1996年)を何気なく開いた頁に、スピノザが出てきた。

実は漱石ノートに追記を書くつもりだったが、それがアリストテレスとスピノザのことだった。

娘がカルヴィーノのタロット・カードをテーマにした作品を話題に出したので(河出文庫版『宿命の交わる城』)、本棚を漁っていたら、なくなったと思っていたアリストテレスの本『形而上学』と、「世界の名著」シリーズに入っていた1冊しか持っていないと思い込んでいたスピノザの文庫版が何冊も出てきた。

それらを読み返して書き留めたくなったことが出てきたため、今日はそれについて書くはずが、なぜか今、タブッキについて書いている。鈴木大拙にしても、タブッキにしても、作品に触れると、「この神智学徒め!」と歓喜の声をあげたくなる。

わたしの好きな本、関心を持った本がよく出てくるし、何しろ内容に共鳴できて、心地よいからだ。

以下の緑字部分は31日に加筆。

神智学徒という呼びかたは不用意にすぎるかもしれない。タブッキに関しては、神智学協会と関わりがあったかどうかは知らない。「神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ④で書いたように、その作風から神智学の徒といったにすぎない。

タブッキに覚えたのと同じ親しみを期待して、ペソアの本を繙いたのだった。ところが、ペソアの本は見知らぬ思索者の本として存在していた。

流派の違いをはっきりと感じ、改めてアントニオ・タブッキが神智学という思想、思考法と如何に関係の深い人であるかがわかった気がした。タブッキが神智学協会の会員であったかどうかは知らないが、彼の諸作品は神智学の芳香を放っている。

『白水Uブックス 99 インド夜想曲』(須賀敦子訳、白水社、1993年)に次のようなくだりがある。

「おねがいだから」僕は言った。「思い出してよ。協会っていったいなんの協会なの」
「わかりません。学問の集まりじゃないかしら。たぶん。でも、わかりません」(……)なにか思い出したようだった。「神智学協会です」そう言って、彼女は初めてにっこりした。
(p.22)

「彼が神智学協会の会員だったかどうか、僕は知りたいのですが」僕は言った。
会長はじっと僕を見つめ、「メンバーではありませんでした」と小さく否定した。
「でも、あなたと文通をしていたでしょう?」僕は言った。
「そうでしたかな」彼は言った。「たとえそうだとしても、個人的な文通でしたら、内容を申しあげるわけにはいきません
(pp.70-71)

「でも、どうしてゴアに行ったんだろう。もし、なにかごぞんじでしたら、おっしゃってください」
 彼はひざのうえで手を組みあわせ、おだやかに言った。「存じません。あなたのお友だちが具体的にどんな生活をしておられたか、私は知らないのです。お手伝いはできません。残念ですが。いろいろな偶然がうまく噛み合わなかったか、それともご自分の選択でそうされたのか。他人の仮の姿にあまり干渉するのはよくありません」(
pp.79)

インドで失踪した友人を探して神智学協会を訪ねた主人公に、協会の会長は主人公をじらすような、意味深な態度をとるが、確かに協会には誰が会員であるとかないとかといったことを穿鑿したり、アピールしたりする習慣がない。

よく宗教団体にあるような、有名人を広告塔にする習慣でもあれば、神智学の影響を受けた作家について調べ始めたわたしのような人間には好都合なのだが――。

このようなことをプライベートなこととして干渉しないのは、最初の引用で女性がいうように、神智学協会が宗教の集まりではなく、学問の集まりだからだろう。

ところで、『レクイエム』の訳者あとがきで、主人公が会おうとする相手は「詩人」「食事相手」としか呼ばせていないが、ペソアであると名前を明かしてある。

タブッキがペソアに強く惹きつけられたのも、心情的によくわかる。ペソアは神秘主義者ではない。形而上学徒だと思う。

神智学徒には神秘主義者が多いと思うが、神秘主義者は形而上学徒に惹かれる傾向があるのかもしれない。

偶然にも、わたしには「詩人」と呼んだ女友達がかつていて、追悼短編小説まで書いたのだが、彼女は形而上学徒だった(当人にその自覚はなかっただろう)。

詩人の死

ウィキペディアによると、曼荼羅はサンスクリット語の言葉を漢字によって音訳したもので、マンダラには丸いという意味があり、円には完全・円満などの意味があることから、これが語源だろうという。

神秘主義は丸く、形而上学は直線だから、違いは一目瞭然なのだ。

違いがわかっていても(わかっているからこそというべきか)、何しろこちらは丸いので、包容せずにいられないというわけである。

W・Q・ジャッジ『オカルティズム対話集』(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳、神智学協会ニッポン・ロッジ、平成8年)に以下のような問答がある。

学徒 オカルティズムとは何ですか?
師匠 卵の形で宇宙を現そうとする知識の分野です。(pp.44-45)

たぶん『レクイエム』『イザベルに ある曼荼羅』は近いうちに読了すると思うが、タブッキノートを更新できるかどうかはわからない。

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『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays 1)』をお買い上げいただき、ありがとうございます! 

『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays 1)』(ASIN:B00BV46D64)をお買い上げいただき、ありがとうございます! 

3月21日ごろ、キンドルストアでお買い上げいただいたようです。日本でのお買い上げは18冊目でした。

 『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』は34冊目のお買い上げでした。

  • 日本……18冊
  • アメリカ……13冊
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2015年3月28日 (土)

キアヌを食べてみました

どんな匂い、食感なのか、ドキドキのキヌア初体験。

表示を参考に、白米に混ぜて炊いてみました。

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ライスアイランド 素材 キヌア(輸入) 500g

「水洗い不要」とある商品でよかったと思いました。粒が想像以上に小さくて、目の細かいザルを使っても、流れてしまいそうだからです。

炊いているときから、青臭い匂いが漂ってきました。炊飯器を開けたら、その独特の匂いが一気に鼻に……。

でも、嫌な匂いではありませんでした。草原を連想させられる遠い日の匂い。

その匂いが、お茶碗によそるときになると、ほとんど感じられなくなりました。

Q1_4

いただきます……

家族の反応は如何に?

「いわれなければ、入っているとわからない。少しモチモチ感があるかな」と、クスクスのときは気難しげだった夫が、明るい口調でいいました。どうやら、気に入った様子です。

娘も同様の反応で、「確かに入っているのに気づかないくらいだけれど、ごはんの美味しさが増した気がするよ」と、かなりのお気に入りの様子。

わたしはすでに、キヌアが好きになっていました。

炊いているときの草原の匂いも、栄養的にはとても優秀でありながら、自己主張せず(?)、白米を立てているさりげなさも……ちょっと思い入れが強すぎる気もしますが、初回ではまりましたよ。

家族も気に入っている様子だし、キヌアごはんを続けてみようと思います。

ところで、キヌアと並び称されるアマランサスについて、知りました。そのうち、アマランサスも試してみたいと考えています。

ライスアイランド 素材 アマランサス(輸入) 500g

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ついでに、夕飯の鳥瞰図。

家族に「イカがあるんだけれど、バターしょうゆ炒めと塩炒めのどっちにしようか?」と訊くと、「うーん、バターしょうゆ。やっぱり塩。あ、ちょっと待って。うーん、どっちにしよう?」と、なかなか返事が返ってきません。

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結局、昨夜はイカの塩炒めにしました。おろし生姜を添えて。

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茹でたスナップエンドウに、めんつゆ、砂糖、ごま油、すり胡麻を加えて、あえます。

それに、プチトマト。海苔を散らした、キャベツたっぷりの中華スープ。

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2015年3月27日 (金)

#13 漱石が影響を受けた(?)プラグマティズム ②W・ジェームズの疑わしい方法論

第八講まである『プラグマティズム』のうち、わたしには第一講も第二講も疑問が噴出したが、第三講になってスコラ哲学やロックが出てきたとき、わたしの疑問はいよいよ大噴火を起こすに至った。

というのも、わたしは大学時代、『プラグマティズム』に出てくる哲学者や宗教家ヴィヴェーカーナンダの著作をいくらか読んだことがあり、どんな内容だったかはほとんど記憶が失せている今も、その残り香のようなものは忘れがたい印象として残っているので、ウィリアム・ジェームズの要約に甚だ違和感が生じたのだった。

まだちゃんと『プラグマティズム』を読んだわけではないので、再読時に考えが変わるかもしれないが、そのためにざっと疑問点をメモしておくことにしよう。

第三講の冒頭で、W・ジェームズは「私はいまプラグマティズムの方法を特殊な問題に適用した実例を二つ三つ挙げてこの方法をいっそう諸君になじみ深いものにしたいと思う。私はまずはじめにごく無味乾燥なもの、すなわち実体の問題を取り上げることにしよう」と切り出す。

ここで早くもW・ジェームズは実体=ごく無味乾燥なもの、と定義づけている。第一講と第二講にそう定義づけるに至った根拠が書かれていたっけと思い、目を皿のようにして読み返してみたが、実体という哲学用語はまだ出てきていなかった。

とすれば、この第三講でその根拠が示されるに違いない。そうでなければ、おかしい。

実体という用語は、哲学作品にはよく出てくる。アリストテレスは家にはないが、アリストテレスの哲学では重要な用語だったはずだ。

アリストテレスが嫌いだからといって、アリストテレスくらいは家に置いておくべきだと後悔している。

W・ジェームズが3頁に渡って実体について述べていることはアリストテレスの哲学作品『カテゴリー論』のW・ジェームズ的要約ではないかと思うが、おぼろげな記憶しかないので、あとで確認しておきたい。

ひとまず、ウィキペディアのウーシア「実体」から、アリストテレスによる実体の定義を引用しておこう。

ウーシア:Wikipedia
ウーシア(希: οὐσία, 英: ousia)とは、「実体」(英: substance)や「本質」(英: essence)を意味するギリシャ語の言葉。ラテン語に翻訳される際に、この語には「substantia」(スブスタンティア)、「essentia」(エッセンティア)という異なる二語が当てられたため、このような語彙の使い分けが生じた。

アリストテレスによる定義

この「ウーシア」(希: οὐσία, ousia)という語に、「substantia」(スブスタンティア)、「essentia」(エッセンティア)という異なるラテン語の二語が当てられるようになったのは、偶然ではなく、アリストテレスによる多様な定義・用法に由来している。

『範疇論』

アリストテレスは、『オルガノン』の第一書である『範疇論』にて、実体概念を、
第一実体 : 個物 --- 主語になる
第二実体 : 種・類の概念 --- 述語になる

の2つに分割している。

アリストテレスは、「イデア」こそが本質存在だと考えた師プラトンとは逆に、「個物」こそが第一の実体だと考えた。

こうして実体概念はまず2つに大きく分割された。

『形而上学』

アリストテレスの『形而上学』中のΖ(第7巻)では、アリストテレスの実体観がより詳細に述べられている。

そこではアリストテレスは、第一実体としての「個物」は、「質料」(基体)と「形相」(本質)の「結合体」であり、また真の実体は「形相」(本質)であると述べている。
第一実体 : 「個物」(結合体) --- 主語になる 「質料」(基体)
「形相」(本質)

第二実体 : 種・類の概念 --- 普遍 --- 述語になる

また、用語集である第五巻(Δ巻)第8章においては、この「ウーシア」(希: οὐσία, ousia)(実体)という語は、
1.単純物体。土、火、水のような物体や、それによる構成物、及びその部分。述語(属性)にはならず、主語(基体)となるもの。
2.1のような諸実体に内在している、そのように存在している原因となるもの。例えば、生物における霊魂。
3.1のような諸実体の中に部分として内在し、それぞれの個別性を限定・指示するもの。これが無くなれば、全体も無くなるに至るような部分。例えば、物体における面、面における線、あるいは全存在における数など。
4.そのものの本質が何であるかの定義を言い表す説明方式(ロゴス)それ自体。

といった列挙の後、
1.(上記の1より)他の主語(基体)の述語(属性)にはならない、窮極(究極)の基体(個物)。
2.(上記の2・3・4より)指示されうる存在であり、離れて存在しうるもの。型式(モルフェー)、形相(エイドス)。

の2つの意味を持つ語として、定義されている。

このように、「ウーシア」(希: οὐσία, ousia)(実体)という語は、今日における
「物理的実体」「物質」(physical substance)
「化学的実体」「化学物質」(chemical substance)

それも「究極基体的な物質」(今日の水準で言えばちょうど「素粒子」(elementary particle)に相当する)を含む、「実質」(substance)という意味から、それをそれたらしめていると、人間が認識・了解できる限りでの側面を強調した(観念的・概念的・言語的な面も含む)「本質」(essence)という意味までを孕んだ、多義的な語であった。

アリストテレスのいう実体がこうした複雑なニュアンスを含んでいるとなると、第三講でW・ジェームズがまず取り上げるという実体を、彼が最初から「ごく無味乾燥なもの」と安直にいい切る姿勢に、これから哲学的なお話が深まっていくとは思えない違和感を覚えるのだ。

この人の哲学はまず先入観を聴衆や読者に植え付けることから始まるのか、とすら疑ってしまう。

アリストテレスにおける実体と関係がありそうな説明に続けて、W・ジェームズは「スコラ哲学は実体の考えを常識から採り入れて、それを甚だ専門的な理路整然たるものに仕上げた。ここで言う実体ほどわれわれにとってプラグマティックな効果の乏しいものはあまり見あたらないであろう」(p.93)という。

スコラ哲学の代表的神学者といえば、トマス・アクィナスである。

トマス・アクィナスは特にアリストテレスを神学に導入しようとして苦慮した人(カトリック教会と聖公会では聖人)であったので、アリストテレス主義者といわれたりもするが、『神学大全』には様々な哲学者の説が出てくるし、アリストテレスが批判したプラトンのイデアについてもトマスは一章(第一部、第十五問)を割いて神学に採り入れようと頑張っている。イデアは神の精神のうちに存在する――と結論づけて、トマスはホッとしたようである。

『世界の名著 続5  トマス・アクィナス』(責任編集 山田晶、中央公論社、昭和53年再版)の注にトマスが実体という名称を――第三問第五項で――どんな意味に用いているのかが注でわかりやすく解説されているので、引用しておく。

「実体」substantiaという名称は二つの意味で用いられる。一つは「自体的独立的な存在者」ens per se substennsである。この意味では神は最高度に実体的であるといえる。一つは、「独立に存在することがそれに適合する本質」essentia cui competit per se esseを意味する。いま問題とされる「顔」としての実体はこれである。かかる類としての実体であるものは、その本質と存在とが区別されたものでなければならない。しかるに神においては、本質と存在とは同一である。ゆえに神は第一の意味では実体といってよいが、だからといって「実体」の類のうちに含まれるとはいえない。

W・ジェームズの「実体」とトマス・アクィナスの「実体」が別物であることは明らかで、W・ジェームズのスコラ哲学の要約や解説は、スコラ哲学の理解に役立つよりは、ジェームズのスコラ哲学に対する蔑視を聴衆や読者に印象づける。

権威に依存しやすい単純な人間には偏見を植え付けて、スコラ哲学は知るに値しないと思わせるだろうし、わたしのように疑い深い人間にはジェームズ本人に対する警戒心を起こさせる。

このような独断的な要約や解説からなるW・ジェームズの哲学が、プラグマティックな価値はともかく、どのような学問的価値を持つのか、わたしは疑う。 

ちなみに、本棚からデカルト(1596年 - 1650年)、スピノザ(1632年 - 1677年)、ライプニッツ(1646年 - 1716年)、カント(1724年 - 1804年)を引っ張り出して開いてみると、どれにも「実体」が頻繁に出てくる。

スピノザの『エティカ』では第一部が「神について」(『中公バックス 世界の名著 30 スピノザ ライプニッツ』責任編集 下村寅太郎、中央公論社、1980年)となっており、三で「実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである」、六で「神とは、絶対無限の存在者、言いかえれば、そのおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成り立つ実体のことである」と定義づけられている。そこからのスタートである。

『エティカ』の中で実体という用語は「それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである」という意味で使われるのであって、「実体」という用語自体に、「ごく無味乾燥なもの」という意味合いは与えられていない。

ライプニッツの『モナドロジー』は、「一 これからお話するモナドとは、複合体をつくっている、単一な実体のことである。単一とは、部分がないという意味である」と始まる。

実体という用語が出てくるが、これも「ごく無味乾燥なもの」という意味合いは含んでいないと思われる。

「実体」一つとっても、W・ジェームズと他の哲学者たちとではニュアンスが異なる。

それにも拘わらず、何の説明もないまま、ジェームズは好き勝手なところから、好き勝手な方向へ話をどんどん進めて平気である。

W・ジェイムズ『プラグマティズム』で、 哲学者およびその作品に対して「えっ?」と驚くようなことが書かれているので、本棚から哲学書を引っ張り出して読んでいるうちに、2~3日があっという間に潰えた。

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これらを読んだ当時、どこまで理解できていたのか怪しいながら、『プラグマティズム』でひどい書かれ方をしている哲学者の本を引っ張り出して、再読してみなくてはならなかったのだ。

読んだが、家にはない哲学者の本も結構ある。図書館から借りて読んだロックは、好きになったので買いたかったが、当時お金がなく買わなかった。買っておけばよかった。ヴィヴェーカーナンダの評伝は探せば、出てくるのではないかと思う。ヴィヴェーカーナンダの先生だったラーマクリシュナの本は今もたまに読む。

尤も、今でもよく読んでいるプラトンの著作は別として、詳しい内容までは拾い読みしたくらいでは思い出せないのだが、本のあちこちに引いている線や書き込みを読んでいると、当時の高揚感が甦ってくる。

スコラ哲学の代表的神学者、トマス・アクィナスの本は2冊持っている。一冊は中央公論社の「世界の名著」シリーズの中の一冊で、『世界の名著 続5  トマス・アクィナス』(責任編集 山田晶、中央公論社、昭和53年再版)。 

トマス・アクィナスと『神学大全』の解説に続いて、『神学大全』の一部分が訳出されている。

全体は膨大なものらしい。

  • 第一部「神」
    聖なる教
    一なる本質
    三位一体
    創造
  • 第二部「人間の神への運動」
    第二・一部 一般倫理
    第二・二部 特殊倫理
  • 第三部「神に向かうための道なるキリスト」
    御言の受肉
    キリストの誕生・生涯・受難・復活・昇天
    秘跡――洗礼・堅信・聖体・告解
    〔補遺〕

問答形式で書かれていて、第一問から第六十九問まで存在する。訳出されているのは、第一部「神」の「神の至福」(第一問から第二十六問)まで。

大から中タイトルまで紹介したが、小タイトルは小、小小、小小小タイトルまである。タイトルだけ見ていても楽しい。

例えば「一なる本質」の中の「神のはたらき」には「知性」「意志」「能力」とあって、「知性」には「神の知」「イデア・真・偽」とあるのだが、プラトン好きのわたしはイデアとあるのを見て、まず好奇心をそそられた。

また、「創造」の中の「被造物の区別」には「天使」「物体」「人間」という不思議な分類が示されていて、わたしは特に「天使」についてどう書かれているのか読んでみたかった。

第三部の〔補遺〕にある「終末――復活と審判」なんかも、如何にも面白そうに思えた。そのとき、ちょうど20歳。

それで翌21歳のときに『人類の知的遺産  20  トマス・アクィナス』(稲垣良典著、講談社、昭和54年)を買ったのではなかったか。

この本ではトマスの思想、生涯の紹介に多くの頁が割かれている。そしてトマスの著作については、著作の分類と解説、トマス著作抄となっている。全体が鳥瞰できる親切な構成になっていたが、一番読みたかった天使については、読めないままだった。

他にも多くの本を読んでいたので、わたしの トマス・アクィナスへの関心はそれきりになってしまった。トマスの著作が他の哲学作品への関心をそそったということもあった。

優れた著作というのは、そうだ。架け橋の役目を果たしているものなのだ。

昨年ローマに出張した息子が、お金を出してやるからローマを一度見てくるといい、と過日、あまりにも嬉しい、ありえないようなことをいってくれたが、息子が圧倒されたという大聖堂を、わたしは大学時代にトマス・アクィナスの『神学大全』を通して見ていたといってもいい。

壮麗な哲学大系に、文字通り圧倒されたのだった。その哲学には当然ながらキリスト教という制限があったが、そこにはギリシア哲学が豊かに流れ込んでもいた。

哲学のテーマはどうしても時代の制約を伴っている。しかし、「神は細部に宿る」という言葉があるように、哲学の美しさ、豊かさ、魅力は細部に宿っているとわたしは思う。要約してしまえば、その全てが損なわれてしまう気がする。

「神は細部に宿る」という言葉で有名なライプニッツについて、引用の少ないW・ジェームズにしては第一講で3頁も使って『弁神論』から引用し、「楽観主義的」「現実把握の薄弱なことはあまりにも明白」「冷やかな文筆の遊戯」と手厳しい。

それが批判的というよりは誹謗中傷的に響くのは、『弁神論』がどんな作品なのか、まともな紹介がなされていないからだろう。

中公バックス『世界の名著 30 スピノザ ライプニッツ』に『弁神論』は収録されていないから、その批判については、引用文を読んだだけでは何ともいえないが、『モナドロジー』を読んだとき、自分の身の周りに宇宙が拡がるような錯覚を覚えた。いや、現にわたしも宇宙のただなかに棲まっているのだろうが、星雲のきらめく宇宙が映像として見える錯覚を覚えたのだった。

ブラヴァツキー『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、平成7年改版)の用語解説によると、ラテン語のモナドはギリシア語のモナスからきた言葉で、「単一なるもの」であり、単元を意味する。ピタゴラスの体系ではモナスは第一原因である。

『シークレット・ドクトリン』ではライプニッツのモナドについて触れられ、神秘主義ではモナドという言葉をそれとは違った使い方をしているとの説明がなされている。

西洋の哲学、哲学論には、何か単純な価値観で、哲学は進歩するという暗黙の了解を含む一つの流れがある気がするが、そうした考え方自体がキリスト教進歩史観に基づいた考え方ではないだろうか。

昔書かれた哲学作品に対するW・ジェームズの何か不遜ともいえるような姿勢に、それを感じてしまう(今ではW・ジェームズも昔の人となっているが)。

バロック音楽は古いからつまらないと思う人は思うだろうが、不断の新しさを感じさせる、みずみずしい音楽だと感動を覚える人も少なくないだろう。哲学作品もそれと同じで、書かれた当時の時代背景を感じさせられながらも、作品の本質は少しも古びていないと感動させられるものは多い。

スピノザなども、悲しいときに読んでいると、ちょっと楽しくなってくるほどだ。

喜びとは、人間がより小さな完全性からより大きな完全性へ移行することである。
悲しみとは、人間がより大きな完全性からより小さな完全性へ移行することである。(『世界の名著 30 スピノザ ライプニッツ』p.245)

漱石はW・ジェームズに似ているような気がしてきた。影響を受けたといえるのかもしれないし、性格が似ているために共鳴したといえるのかもしれない。そこのところは、もう少し調べてみないと、わからない。

ここで漱石研究は置いておいて、初の歴史小説へ行きたい。漱石研究を始めてから、鈴木大拙が神智学協会の会員だったことを知ったが、哲学書の再読(拾い読み)の合間に、大拙の『日本的霊性』を読んでいた。

漱石研究にも、祐徳院(花山院萬子媛)をモデルとした歴史小説にも、参考になりそうな一冊だ。

過去記事で書いたが、廃仏毀釈前の日本の思想の動きを萬子媛を含む周辺を描くことで、また夏目漱石の生き方を追究することで、廃仏毀釈後の日本の思想や文学の動向を探るという構想が生まれた。

歴史小説ではとりあえず五つの短編を書く予定だが、まだ下調べが終わっていない。朱子学のお勉強から逃げていたわたし。もう逃げられない~。 

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2015年3月26日 (木)

初クスクス。キヌアが届きました。

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初クスクス。ググってみると、クスクスは硬質小麦のデュラム小麦からつくる粒状のパスタだとか。

パスタ大好きな娘は、クスクスが大層気に入った様子。夫は「ヒエとかアワを連想する」ですって。実は、わたしもそうでした。わたしは嫌いではありませんが、一般的なパスタとどちらがいいか訊かれたら、一般的なパスタと答えるかしら。

でも、短時間で食べられるのがいいですね。レシピは検索で沢山出てきました。これはリゾット風にしたものです。

トマトソースで煮込んだ鶏肉と合う気がしました。

そして、過去記事でも書いたキヌアが届きました。

見かけはクスクスと似ています。「これも同類か?」と夫。雑穀という点では、ヒエ、アワと同じ仲間です。クスクスはパスタだっていっているのに、夫はクスクスを雑穀にしてしまいたい様子。

どうも夫はクスクスが駄目そうなので、一つの皿に盛っておいて、各人の好みでサラダやスープに加えるようにすればいいかもしれません。

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麦ごはんもクスクスも大好きな娘はたぶんキヌアも大丈夫だと思いますが、夫は気に入るでしょうか?

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税込み977円、配送料および取扱手数料は0円でした。 

ライスアイランド 素材 キヌア(輸入) 500g

キヌアを知るために閲覧させていただいたサイト「キヌアまとめ」から、部分的に引用させていただくと、

キヌアとは、健康的な体調管理に適する、栄養バランスに優れた南米産の食材です。必須アミノ酸をすべて含み、また各種機能性も豊富で完全食品とも称されます。

1993年のNASAの専門誌は次のように述べています。「1つの食材が、人間にとって必要な全ての栄養素を提供することは不可能だが、キヌアは植物界、動物界において何よりもそれに近いものである」。

――だそうです。

キヌアにはサポニンが含まれます。サポニンには去胆作用、溶血作用などがあり、キヌアの精製段階では水洗でその多くが取り除かれます。

――ともあります。

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ライスアイランドのこの商品は「水洗い不要」とあるので、下処理がなされているのでしょう。

ここ数日のうちに、キヌアを試してみたいと考えています。

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2015年3月25日 (水)

ぬいぐるみの受け入れ制限

昨夜、娘は女友達と食事に出かけたのですが、その人はクレーンゲームの名手なのです。過去記事でも書きました。

これまでに大中小のぬいぐるみを娘が貰って連れ帰り、それでなくともぬいぐるみ過剰気味だった我が家は今や受け入れ制限せざるをえない状況となりました。

可愛らしいのでつい受け入れてしまいますけれど、娘もそのようで、でも今後はお断りすることに。

で、昨夜連れ帰ったのは、どちらも娘が思わず抱きしめたであろう、フェネックと柴犬のぬいぐるみ。わたしもつい、「どちらがママの?」といってしまいました。わたしのは柴になりました。

これ、かなり大きいですよ。

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この記事を書きながら視線を感じたので見ると、自分たちも写してくれというおねだりでした。

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アルパカとポムポムプリンも、その人がクレーンゲームで釣ったものです。フェネックと柴犬は何と500円で釣り上げたとか。

ぬいぐるみがお好きな方は、カテゴリー「ぬいぐるみ・人形」へどうぞ。他にも、ぬいぐるみの写真を公開中です。→ここ

話題が変わりますが、食器洗剤って、すぐになくなりませんか? 

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6倍入りを見つけて、満足しました。使い切った容器に、これから移すところです。

一緒に写したクスクスは昨夜娘がジュピターから買ってきたものですが、今夜、クスクス料理に初挑戦してみたいと思っています。

記事を書く前にレシピを検索していました。過去記事で書いたキヌアはアマゾンで注文していて、明日くらいに届くでしょう。

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2015年3月24日 (火)

『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays 1)』をお買い上げいただき、ありがとうございます! 

『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays 1)』(ASIN:B00BV46D64)をお買い上げいただき、ありがとうございます! 

3月16日ごろ、キンドルストアでお買い上げいただいたようです。日本でのお買い上げは17冊目でした。

 『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』は33冊目のお買い上げでした。

  • 日本……17冊
  • アメリカ……13冊
  • イギリス……1冊
  • ドイツ……1冊
  • メキシコ……1冊

サンプルをダウンロードできます。
      ↓

「気まぐれに芥川賞受賞作品を読む 二〇〇七 - 二〇一二(Collected Essays 2)」)』(ASIN:B00J7XY8R2)は、文学界を考察した姉妹編ともいうべき1冊です。サンプルをダウンロードできます。

      ↓

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2015年3月21日 (土)

アボカド3個はココット、スープ、サラダに変身。観葉植物(?)アスパラ。使いやすい紙パック入り ビーンズ。漱石研究と創作について。

過去記事でアボカドを3個買い、1個目をココットにしたことを書きましたが、他の2個はスープとサラダになりました。

娘にどれが一番美味しかったか訊くと、どれも美味しかったので、一つだけ選ぶのは難しいという作り手の心をくすぐる嬉しい返事。

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ココット。さっと作れてボリュームがあるので、時間がないときのメインディッシュにいいでしょうね(これはプチで、サイドディッシュ)。

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スープ。わたしはアボカドの使い方としては、これが一番好きです。デザート感覚のスープ。

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サラダにしてもいいですね。ブロッコリーに隠れてしまっていますが、アボカド、マッシュルーム、ブロッコリー、ハムのサラダです。

小房に分けたブロッコリーをさっと茹で、アボカド、マッシュルーム、ハムを好みの大きさに切って、レモン汁をふんだんに搾り、オリーブ油、塩、しょうゆ、黒胡椒をかけただけ。

ロースハムを使いましたが、生ハムにすると、お洒落かも。

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三日ほどで、穂先近くから皺が寄って傷んでくるアボカドを生のまま、持たせられないかと思い、ググったら、こうやって水につけて保存すると持つとクックパッドにありました。

Cpicon アスパラの保存方法★一週間OK by りょーーーこ

リンクするために、記事を再読したら、「冷蔵庫で保存」というところを見落としていました。まる一日、テーブルの上で放置していましたが、とても元気です。

20150321161323_2

最近、紙パック入り ビーンズ(豆の水煮)をよく見るようになりました。ひよこ豆と白いんげん豆。どちらも原産国はイタリアで、固形量230g、輸入者はひよこ豆が日欧商事、白いんげん豆が冨士貿易です。

缶入りは外国産のものだと多すぎて、国内産のものだと少なすぎる……と思うことがよくありましたが、この紙パック入りのはわたしには適量と感じられ、軽いし、つい買いたくなります。

数日前にやはり紙パック入りキドニービーンズ(赤いんげん豆)を使いました。キドニービーンズ入りドライカレーを作ったのですが、家族に好評でしたよ。

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ここで文学の話題に変わりますが、漱石から離れようと思いつつ、研究のためについ漱石が影響を受けたというW・ジェイムズ『プラグマティズム』を読んでいました。

うーん、これは哲学書あるいは哲学評論として読むとすれば、ちょっとひどいんじゃないかな。格調高く始まったのに……哲学者の分類のやり方からして、いささか変だとは思ったのですが。

日本人であれば、少なくとも、東洋思想について書かれた箇所の著者(話し手)の理解不足を読んで読まないふりは難しい。だから鈴木大拙さんが頑張ったのかな。

西欧哲学にしても、こんなに単純なものではないでしょう。

あまりの一面的な論の展開に驚きました。まだこの本を、それもざっと読んだだけだから即断は避けなくてはなりませんが、小説家の弟ヘンリー・ジェイムズのほうが兄よりずっと優秀なのかもしれないと思ってしまいました。

感想だけでもざっとメモしておきたいところですが、この研究はひとまず置いておいて、初の歴史小説に入らなくては。もう一編書いておきたい短編があったのでした。どうしましょう、それを書くべきか、初の歴史小説へ行くべきか。

受診記録もメモだけで放置状態。

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2015年3月20日 (金)

ウユニ塩原、キヌア。ちょっと真剣に糖尿病対策。

昨夜、俳優の須田邦裕がボリビアのウユニ塩原をリポートする、「地球イチバン」(NHK総合、毎週木曜22:00~22:48)を観た。

見渡す限りの白い世界で、途中から番組を観たわたしは雪原と勘違いしたほどだった。雪原にしてはリポーターが軽装で、履いているのが黒いゴム長というのが変だと思った。

ウユニ塩原は、四国の半分くらいの面積だそうだから広大だ。

雨季にはウユニ塩原に50㎝の水が溜まり、鏡のようになるという。

ウユニ塩湖に空が映って、まさに空が二つ。天空の鏡と呼ばれるそうで、一日の大空の劇的な動きが天空の鏡にあますところなく映し出され、信じられないような美しさだった。

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Pixabayより

サイト「NAVERまとめ」に、ウユニ塩湖の画像を7つの色別に厳選したまとめ記事があった。

子供を亡くした女神の涙から塩原が生まれたという伝説の残る、インカ文明の伝統を今に伝える村。

そこで食べられていたのが、キヌアという雑穀とリャマの干し肉。キヌアは完全食といわれ、栄養に優れた植物だとか。ググってみると、とっくにブームになっているようだ。

最近の血糖値から見て、どうもわたしは糖尿病との闘いから免れられなさそうな状況となってきた。

またしても食事の見直しが必要だが、キヌアが低GIであるという点に注目した。GIはGlycemic Indexの略で、食後における血糖値の上がりやすさを示す指数。

糖尿病患者のためのキヌアを食材としたレシピ集が出ている。

キヌア・ヘルシーレシピ ― 糖質を考えた健康的なライフスタイルのための低GIレシピ- (Healthy Eating)
Michael Moore (著)
出版社: 医道の日本社 (2015/2/26)

キヌア・ヘルシーレシピ ― 糖質を考えた健康的なライフスタイルのための低GIレシピ- (Healthy Eating)

一般向けのキヌアレシピ本も出ている。

おいしい!キヌアレシピ―アンデスのスーパーフード
村岡 奈弥 (著)
出版社: 成美堂出版 (2014/01)

おいしい!キヌアレシピ―アンデスのスーパーフード

糖尿病対策の食事のポイントが、以下の記事にわかりやすくまとめられていた。

記事に「血糖値を上げやすいパンやごはんなどの炭水化物は一番最後に取る」とある。

妹のご主人が2年くらい前に糖尿病といわれ、姪の結婚式で会ったとき、小太りくらいの体形だったのがすっかりスリムになっていた。

一時的な悪化で痩せたそうだが、食事療法で血糖値が下がり、現在はよい状態に落ち着いているという。

妹の話では、ご主人の食生活について、「ごはんやパンは血糖値を上げるから、あまり食べないように気をつけているよ。最初に野菜をたっぷりとるようにしたら、いいみたい」と、いっていた。

ごはん大好きのわたしにはつらいが、妹の話は参考になる。そして、キヌアを試してみたくなった。キヌアを購入し、キヌアを混ぜたごはんを、お茶碗に軽くよそうようにしてみようと思う。

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シャンソン歌手・ケイ潤子さんの味わい深い「明日は月の上で」

アダモ、越路吹雪が歌う「明日は月の上で」もいいけれど、シャンソン歌手・ケイ潤子さんの「明日は月の上で」は軽快、かつ味わい深くて、一度聴くと、癖になり(?)、YouTubeに行くと、つい聴きたくなります。

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2015年3月19日 (木)

受診メモ

あとでちゃんと書くことにして、忘れないように受診メモ。

心臓が滅茶苦茶に打つ感じというのは心房細動だろうとのこと。心房細動には注意が必要。

心房細動かどうかはともかく、不整脈には頓服としてサンリズムを服用してみる。

フラフラしたのは、心臓細動のときには血圧が低下するからだそうだ。その場合は頻脈になっていることが多い。まれに徐脈のこともある。

不整脈のときにはニトロは使わないように、と先生。ニトロを使うと、頻脈になり、血圧が下がるから。

普通の心電図、足首と手首だけの2分間の心電図は、どちらも異常なし。心レントゲン写真は正面に貼りついていたが、不整脈の話に終始した。

血糖値ヤバ。簡易で高かったので、改めて血糖値用に血をとられた。

節制足りない? たまの間食もだめ? そんなことない、結果で考えればいいよ、と看護師さんたちが慰めてくれた。

採血のため朝食抜きで行ったせいか、馬鹿におなかが空き、買い物に寄ったスーパーで、この間から夫と「スーパーに出ているピザって、味はどんなものかしらね」と話していたピザを買う。

最近、スーパーで、ピザが目立つ。安いものから、そこそこする――高すぎる宅配ピザよりは安い――ものまで。試してみたいと思いながら、まだだった。

399円が半額に。この値段だと、失敗だったとしても腹が立たない。パッケージが大きすぎて、中身はむしろ小ぶりだった。

オーブントースターで焼き、昼寝から起きた夫と半分こ。3時のおやつ。

「案外美味しいね!」と、どちらも満足。今度は、700円くらいのピザを試そうと話した。

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2015年3月18日 (水)

アボカドのプチグラタン。但馬屋、アフタヌーンティー・ティールームで。

昨日の夕食、メインはカレイの煮付けでしたが、3個で安く出ていたアボカドを1個くらいは使っておきたかったので、サイドディッシュとしてプチグラタンを作りました。

割ってみると、食べごろになっていました。熟すと、傷み出すのが早いので、アボカドを続けて使わなくては。

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アボカドとハムを好みの大きさに切り、マヨネーズを合わせて混ぜ、ココット容器に入れ、とろけるチーズをのせて、オーブントースターで焼くだけ。

3人で1個使いましたが、さすがはアボカドは森のバターといわれるだけあって、少量にも拘わらず、ボリュームがありました。でも、手軽にできて美味しい!

わたしが一番好きなアボカド料理は、服部幸應先生のレシピで作る上品な味わいのアボカドスープです。レシピは過去記事の→ここ

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全体像。豆ごはんのグリンピースは、これまでに使ったことのなかった薄い色した「うすいえんどう」。

皮が黄色みを帯びていたので、不思議に思い、「皮が黄色いですが、これで普通ですか? 普段見るのはもっと緑色が強いですよね」とお店の人に尋ねたら、「これは、うすいえんどうです。あまりこちらでは見ないでしょう? 味は淡泊です。あちらに緑のもありますが、お試しに如何ですか」とのこと。

お試しして、たちまち「すういえんどう」のファンになりました。緑のグリンピースに比べると、甘みがあり、優しい味わいです。色は薄いのですが、豆の味がしっかりとごはんについて、とても美味しいと思いました。

豆ごはんが大好きなわたしにとっては、嬉しい出合いでした。

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最近行ったお店で娘が撮った写真を、組み合わせてみました。

向かって左は但馬屋で、お団子好きの娘が注文したもの。わたしはぜんざいが好きなので、ぜんざいを注文しました。

ダイエットからこっち、ぜんざいは冒険ですが、前後の日を少し控えめにすれば、大丈夫。

向かって右は、アフタヌーンティー・ティールームに行ったときのもので、娘もわたしも「トマトタリアッテレのカルボナーラサラダパスタ」を注文。

サラダの下はトマト入りの平打ち麺で、温かいカルボナーラソースが別の容器に入ってついてきます。楽しい、美味しいパスタでした。

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2015年3月17日 (火)

#12 漱石が影響を受けた(?)プラグマティズム ①古き良きアメリカの薫り『プラグマティズム』、漱石のおらが村

memoNotes:夏目漱石・インデックス

漱石研究のために、プラグマティズムにかんする本を2冊借り、代表作『プラグマティズム』は岩波文庫で出ていたので購入した。

プラグマティズム古典集成――パース、ジェイムズ、デューイ
出版社: 作品社 (2014/9/30)

明治プラグマティズムとジョン=デューイ (史学叢書〈3〉)
山田英世 (著) 
出版社: 教育出版センター (1983/06)

プラグマティズム 
W. ジェイムズ (著), 桝田啓三郎 (翻訳)
出版社: 岩波書店; 改版 (1957/5/25)

哲学というものは、それを唱えた人の数だけあると思える。哲学は、哲学の本ををあまり読まない人によって一般に勘違いされているほど、理路整然としたものではなく、本来は単純に区別し、分類できるものではない。

哲学者とその哲学理論は、作曲家とその曲と同じで、ある哲学者の作品を読んだ別の人物がその影響を受けて、新しい作品を書いたりする。よく読めば違うが、似た感じのする哲学理論は同じグループの一員と見なされることがある。

ウイリアム・ジェームズは哲学者・心理学者であったが、代表作『プラグマティズム』を読む限り(まだ読んでいる途中のメモだが)、彼は哲学者というよりは、よりよき哲学書の読み方・影響の受け方を模索し、提唱した哲学評論家であったのではないだろうか。

プラグマティズムとは「ギリシア語のプラグマから来ていて、行動を意味し、英語の『実際(プラクティス)』および『実際的(プラクティカル)』という語と派生を同じくする」(p.52)という

プラグマティズムという語を哲学に導入したのはチャールズ・サンダース・パースで、その影響を受けたのがジェームズ、デューイといわれている。

ただ、パースはプラグマティズムを科学的論理学の一方法として提唱したのであって、「専門学者たちの主張するように、ジェイムズのプラグマティズムは彼がパースの哲学を誤解したところに成り立っており、それゆえに論理実証主義の方向に発展しているこんにちのプラグマティズムとはほとんど関係がないと認められるにしても、それにもかかわらず、プラグマティズムとして知られる哲学上の運動は、疑いもなくジェイムズのこの講演によって強力に押し出されたのであって、アメリカの哲学は、このジェイムズから、ヨーロッパの哲学とは独立な歩みをはじめたと言えるのである」(解説p.319)

ウィリアム・ジェームズはアメリカ哲学の創始者とされているという。恥ずかしながら、わたしはウィリアム・ジェームズがそうした位置づけにあるとは知らなかった。

なるほど、ウィリアム・ジェームズの講義録『プラグマティズム』には、古き良きアメリカのえもいわれぬ芳香がある。

哲学理論というには、最初のほうで出てくる哲学者を二タイプに分類し、一方を「軟らかい心の人――合理論的(「原理」に拠るもの)、主知主義的、観念論的、楽観的、宗教的、自由意志論的、一元論的、独断的」、他方を「硬い心の人――経験論的(「事実」に拠るもの、感覚論的、唯物論的、悲観論的、非宗教的、宿命論的、多元論的、懐疑的)という風に対照させた、そのやりかたからしていささか乱暴で、アメリカ的アバウトさを感じさせるし、また『プラグマティズム』を読むときに強い印象として湧き上がってくる真剣そのもの、純な感じもまたアメリカ的だ。

『プラグマティズム』が、1906年ボストンのロウエル学会、1907年ニューヨークのコロンビア大学で講述されたものであることに、ちょっと注目しておきたい。

弟のヘンリー・ジェームズは「ボストンの人々」(『世界の文学 26 ヘンリー・ジェイムズ』谷口睦男訳、中央公論社、昭和41年)で、ボストンの凋落を描いた。#10で、それについて触れた。

黄金時代のボストン市がどんなところだったかを、解説から引用してみよう。

十九世紀中葉には、エマソン等の文人や理想主義的社会運動家も加わって黄金時代を現出することになった。そして、ボストン市は「アメリカのアテネ」と呼ばれ、ボストンといえば、アメリカ的な知性、教養、上品さ、批判精神などをただちに連想させ、ほとんど他の地域の住人を畏怖させるほどだった。(解説p524.)

ジェームズ兄弟は、こうしたアメリカ的知性、教養、上品さ、批判精神を感じさせる。

神智学協会を創設したH・P・ブラヴァツキー(1831 - 1891)を支え、神智学運動の拡大に貢献した人々の中に、こうしたアメリカのアテネ的知性を湛えた人々が多数存在したことは間違いない。

ブラヴァツキーの相棒で、第一代神智学協会会長になったH・S・オルコット(1832 - 1901)は弁護士、新聞記者をしていた1873年、ブラヴァツキーと出会った。ブラヴァツキーがニューヨーク新聞のオルコットの記事を読んだことが、出会いのきっかけとなった。

『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳、神智学協会ニッポン・ロッジ、平成8年3版)の巻末に付録されていた『議事録』がKindle版で出ている。

シークレット・ドクトリンの議事録 [Kindle版] 
H・P・ブラヴァツキー(著)
出版社: 宇宙パブリッシング; 1版 (2013/9/29)

シークレット・ドクトリンの議事録

ロンドンのブラヴァツキー・ロッジで、ブラヴァツキーを中心として、『シークレット・ドクトリン』一巻の『ジヤーンの書』のスタンザと註釈について、毎週、質疑応答がなされた。その議事録だが、これを読むと、当時の西洋の知識人のレベルの高さには呆れるばかりだ。

漱石はウィリアム・ジェームズの影響を受けたといわれるが、二者は雰囲気が違いすぎるし、漱石はジェームズの方法論の影響を受けるには哲学、宗教にかんする知識や体験があまりに乏しいように思われる。まだ『プラグマティズム』を読んでいる段階なので、何ともいえないが。

弟ヘンリー・ジェイムズの以下の本も図書館から借りた。

ヘンリー・ジェイムズ自伝―ある少年の思い出
ヘンリー・ジェイムズ (著),舟阪洋子(翻訳),市川美香子(翻訳),水野尚之(翻訳)
出版社: 臨川書店 (1994/07)

ヘンリー・ジェイムズ作品集〈8〉評論・随筆
出版社: 国書刊行会 (1984/01)

分厚い『ヘンリー・ジェイムズ作品集〈8〉評論・随筆』の中の「バルザックの教訓」をまず読んだところだ。わたしがバルザックについて日ごろ思っていることが高尚に、的確に書かれていて、感激のひとこと。

ジョルジュ・サンド、ジェーン・オースティン、ブロンテ姉妹、シェイクスピア、スコット、サッカレー、ディケンズ、ジョージ・メレディス、エミール・ゾラなどにも、対照するために軽く触れられており、結構辛口だったりもするが、人を馬鹿にしたような漱石の口吻とは似たところがない。

漱石の悪口からは、悪口をいわれた作家がどんな作品をどのように書いたのか、さっぱりわからないが、ヘンリー・ジェームズの文章からは作家や作品の特徴がよく伝わってくる。漱石が貶したギ・ド・モーパッサン、エミール・ゾラについては独立した評論が収録されているので、読むのが楽しみだ。

無頼派をはじめとする大正から昭和にかけて活躍した主立った作家たちが、漱石を師とするより、バルザックを師としたのは正解であった。漱石は日本をおらが村に変えてしまう。

以下は、「バルザックの教訓」から。

とにかくわたしは皆さまの文学への関心が充分に強いものと考えて、一時間ばかりわたしたち全員の巨匠バルザックの足下にわたしと共に集まるようお願いした次第です。わたしたちの多くの者は道に迷うかも知れませんが、彼は不動です。その重量感によって安定しているからです。そう聞いて、したり顔などなさらないで下さい。わたしから聞かなくとも、彼が重いことは知っていたのだから、わたしの話の中味がそういうことのみなら、今日の講演は聞く必要がなかったなどとおっしゃらないで下さい。確かに彼は動かすには重すぎる存在です。わたしたちの中の多数の者は先程言いましたように、さまよい散らばります――何しろ軽量なのですから、バルザックのようにぐるぐる廻れないというようなことはないのです。しかし、ぐるぐる廻っても移動しないという場合も、妙な話ですけれど、あるのでして、わたしどもも移動しているのかどうか不確かです。とにかくわたしどもはどう動いても彼から離れられません。彼が前方にいないという困った場合でも、背後にはいるのです。わたしたちが田舎のどこかのよく知らぬ道を進んで行くとした場合、道に迷わぬようにするのには木立や林を通して彼の姿を見失わぬようにするのが一番よい方法だと思います。わたしたちが動いているとすれば、それは彼を中心として移動するのです。すべての道は結局彼のもとに戻って来ます。わたしたちの動きとは無関係な地点で彼はどっしりと腰を下ろしていて、道しるべとなってくれます。ですから彼を「重い」と言えるとしても、それは財産の重みが加わっているからなのです。 (p.384)

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2015年3月15日 (日)

美味しい庄分酢、卓上用の塩セル・ファン・ラ・バレーヌ

過去記事で庄分酢を紹介しました。

  • 2014年4月29日 (火)
    ああヌガー……。庄分酢。なつかしいスーパー。
    http://elder.tea-nifty.com/blog/2014/04/post.html
    (デパ地下で)北野エースが入る前のグロッサリーで買っていた、「庄分酢 有機純米酢 300ml 」。
    ずいぶん前に気まぐれに買ってから、はまりました。酢はアク抜きなどにも使うので、それ用には安い酢を買い、酢の物、ドレッシングにはこれを使っています。
    この酢は本当に美味しいです。

1年近く、あちこちで庄分酢を探しましたが、見当たらず、別の酢をあれこれ試してみました。

北野エースで取り寄せをお願いすることもできたのですが、他に美味しい酢があるかもしれないと思ったのです。

でも、わたしには庄分酢ほど、まろやかで爽やかな味わいの酢には出合えませんでした。北野エースではリクエストに応じて貰えることもあるので、リクエストしてみたいと思っています。

もう庄分酢なしではいられないと思い、とりあえずアマゾンで2本、取り寄せました。庄分酢オンラインショップでも買えますが、見たらアマゾンのほうが安かったので。

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庄分酢 有機純米酢 300ml

さっそく、ドレッシングなどのベースとしても使える甘酢を作りました。既にドレッシング作りに使って、減っていますが。

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オンラインショップでは、体によさそうで、美味しそうな酢関係の商品がいろいろと並んでいて、他のも試してみたくなります。

ここの酢で作るドレッシングは最高ですが、オンラインショップにはドレッシングもありました。

ビネガーサイダー(巨峰酢、柿酢、トマト酢、あまおう酢)が美味しそう! 

「【飲む酢】酢飲 博多あまおう(200ml)」は、そのうち注文してみたい。炭酸割り、牛乳割り、水割りなどで、美味しくいただけるようです。お子様にもよく、贈り物にもよさそうですね。

わたしは塩にもこだわりがあり、卓上用の塩では「セル・ファン・ラ・バレーヌ」(フランス天日塩)が気に入っています。

ところが、いつごろからか見かけなくなり、探し続けて、見つからなかったので、これもアマゾンから取り寄せました。

ケンコーコムの販売・発送で、「2,052円以上送料無料」とあったので、ちょっと多いとは思いましたが、塩は腐りませんので、7点も買ってしまいました。

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サラン セルファン ラバレーヌ(顆粒タイプ) 125g

我が家は緊縮経済ですが、ダイエット以来、わたしがほとんど間食しなくなっので、食費がそのぶん浮き、こうした調味料などに対するこだわりを明るい気持ちで(?)追求できるようになり、一石二鳥です。

夕方になると、おなかがとても空くので、料理が楽しいです。間食していたころは、ちょこちょこ食べていたせいか、いつも何となく胃もたれしている感じで(それが当たり前になっていました)、もう一つ料理の気分が出ませんでした。

そういえば、間食をとらなくなったお陰ではないかと思いますが、逆流性食道炎の症状がほとんど消えましたよ。その治療であれこれ薬を飲んでいるうちに、薬剤性肝炎になったりもしましたっけ。

間食を止めれば、簡単に解決したことだったのに、そのときは逆流性食道炎を不治の病(?)と思い込んでいたものでした。

心臓病の患者さんが集うサイトにお邪魔すると、逆流性食道炎に悩まされている人が多いようです。太っている人も多いようですね。

間食の楽しみは生き方と関連性があるので(わたしも時々は間食を楽しみます)、止めた方がいいとはいいにくいところがありますが、間食を一定期間止めてみたら、体調がよくなるかもしれませんよ。

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2015年3月13日 (金)

短編小説、一丁あがり!

漱石ノートを書いていたときにインスピレーションが降ってきて、書きたくてたまらなかった短編だったので、書き終えてホッとした。

ちゃんと校正してみなければ、出来具合が今一つわからない。できれば、初の歴史小説に入る前にもう1編、やはり書いておきたい短編があるのだ。

2編合わせて、200円くらいでKindleストアに出したいところだが、いざKindle本にするとなると、終わらない校正に苦しめられること必至。

それやってると、またしても歴史小説に入れなくなる。先に延ばせば、電子出版したい作品が溜まる一方……

何もかも自分でやるとなると、時間配分が難しい。Kindle本にはしたいが、創作時間の減るのがもったいなくて。うーん。

とりあえず、書き上げた作品の校正をある程度やり、もう1編も今書くかどうか検討してみよう。

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2015年3月11日 (水)

リンツのチョコレート。短編小説を執筆中。

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娘がまたしても、ジュピターコーヒーからこんなものを買ってきました。

リンツ・チョコレート。これは、どうしても味見したくなります。同じもので、小型を食べたことがありましたが、同じ味でした。

太ったら、娘のせい。間食して太ったときは2~3日内に、外食したときは1週間内に体重を戻します。

書きたかった短編小説を書いています。時々、発作的に書きたくなるのです。よい出来であれば、電子書籍にします。2編書ければ、書いておきたいです。

それが終わったら、気になる漱石は一旦置いておいて、祐徳院(花山院萬子媛)の小説へと戻ります。そして、当分はかかりきりになる予定。

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2015年3月10日 (火)

胸の圧迫感に1錠舌下

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珍しいことに、雪が降っている。

胸の圧迫感を覚えてニトロペンを舌下したのは、午前7時前。

朝の慌ただしい時間で、しかも家族が結構近くにいた。ミオコールスプレーだと、噴霧時にシュッという音がする。

なぜか、ニトロ使うところをしられたくない。本当は知ってもらうべきだと思いながらも。

で、前回の受診時に外出用に出して貰ったニトロペン舌下錠を久しぶりに使用した。

ミオコールスプレーに比べると、穏やかな作用だと感じるが、ジワジワと効いてきて、ミオコールスプレーの場合に起きやすい(うまく舌の付け根に噴霧できなくて、2回噴霧することがよくあり、結果的にそれが使いすぎを招くのかもしれない)、血圧の急低下がなかった。

10分くらいはじっとしていないと動けなかったが、薬の作用で胸や頭がすっかり涼しくなったところで(薬が効くと、わたしはそうかんじる)、その後、普通に動けた。

先生オススメはニトロペン舌下錠みたいだが、確かに出す側で管理しやすいに違いない。薬の作用も優しいとあって。

ミオコールスプレーはひと缶出して貰うと、使用期限までに使い切れないほど持つ。つまり、患者がどんな使い方をしているかが把握しにくいと思う。使用期限は薬の性質上比較的短い。

普通に動けたとはいえ、ニトロ使用後の(発作後の、というべきか)行動は、しんどい。

それでも近頃ひと月に1回くらいの割合で起きる、一旦起きると、いつ完全に治まるのか、さっぱりわからない不整脈に比べたら、たちがよい気がする。

上に書いた不整脈は、心房細動だと思う。頻脈になるだけの洞性頻脈だと、疲労感は強いが、失神しそうにはならないので。失神しそうになる不整脈は、怖い。このごろはわたしの場合一旦起きると、数時間影響が及び、まともに動けなくなる。

僧帽弁疾患があると、心房細動が起きやすいようだ。程度は軽いようだが、程度が軽くても起きやすいのだろうか。先生にお尋ねしておきたい。

薬の飲み忘れがこのタイプの不整脈が起きる原因になりやすい気がしているが、1回くらい飲み忘れても、普段は起きない。

が、起きるときは起きる。これが心房細動だとすると、血栓が心配だ。血液がサラサラになる薬の使用を先生は迷われたが、「Nさんは若いから」とおっしゃって、結局出されなかった。

サラサラになる薬が出たら出たで副作用が心配になるが、血栓ができて脳に飛んだらと思うと怖い。

心房細動の予防薬サンリズムの飲み忘れは、わたしの場合、お昼におきがち。昼食をとらないから。朝夕の服用を忘れることはない。

不整脈の管理、解明のために、携帯用心電計がほしいが、昨年後半から今年にかけて冠婚葬祭が続いたせいで家計は赤字続きだから、無理。

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2015年3月 9日 (月)

ペコロス(小玉ネギ)のスープ。誕生日に貰った花は健在。

ペコロス(小玉ネギ)が安かったので、スープを作りました。

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ペコロスを炒め、水とマギーブイヨン2個、刻んだハムとパセリを加えて作ったスープですが、ペコロスが想像したより甘くて、とても美味しいスープになりました。

誕生日(前月21日)に娘から貰った二つのプチ花束のうちの一つは、今日も健在です。

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茎が短かったので、活力剤を使っているとはいえ、すぐにだめになるかと心配でしたが、もう一つの方も二日前までは楽しませてくれました。

息子から貰ったプリザーブドフラワーの薔薇は、わたしの机で、バルザックに見守られて存在しています。

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2015年3月 7日 (土)

カテゴリー「Notes:夏目漱石」にこれまでに収録した記事の紹介、及び閲覧にかんするお願い

祐徳院(花山院萬子媛)をモデルとした歴史小説を書くために、下調べをしていました。

江戸時代初期に生を受けた萬子媛が次男の死をきっかけとして出家し、やがて死期を悟って断食入定を遂げた――そして、これは神秘主義者にしかわからないことではありましょうが、今尚彼の世でこの世のためにボランティアを続けておいでになる――そんな筋金入りの生き方を生んだ当時の社会状況、思想などを考え、さらに、そんな生き方を生まなくなった原因を探しているうちに、明治の廃仏毀釈という大事件に行き着きました。

この事件は今だに半ば封印されているような感じがあります。それで日本の宗教はだめになってしまったのだとも思えましたが、そうではない生き方をした人物をわたしは確実に一人は知っていました。

竜王会という総合ヨガ、神智学の会を創設した三浦関造氏です。この方も萬子媛と同じように、死後に彼の世でボランティアをなさっており、わたしは幼いころからこの方を含む一団の方々に見守られて大きくなりました。

今の日本で、このようなことを書くことが如何に風変わりなことであるかの自覚はありますが、実生活ではごく普通の暮らし方をしてきました。あえて書かなければ、伝えられないため、書いています。

過去記事でも書いてきたように、わたしは前世は修行者だったというおぼろな記憶――もちろん脳は一回性のものなので、これは霊的な記憶です――と、彼の世の大気や光の忘れがたい記憶を持って生まれました。見守っていただいているのは、前世の縁ではないかと思います。

見守ってくれている方々の正体がずっとわかりませんでしたが、大学時代に、多くの書物に触れる中で川が海に注ぐような自然さで神秘主義へと、そして、そのエッセンスともいえる神智学に惹かれていきました。

また、日本でその分野の翻訳・出版事業を行っている竜王会という神秘主義の会を知りました。現在は竜王会と神智学協会ニッポン・ロッジに分かれていますが、元は一つのものでした。

入会を迷っていた夜、うとうとしかけたわたしの眼前高く拓けたエメラルドグリーンの円い光の中に、わたしを見守ってくれている方々がいて、その中央で、写真で見ただけの三浦関造氏が「ようやく辿り着いたね」と笑っておいでになりました。

筋金入りの三浦氏のような人物は、明治の廃仏毀釈後にも存在していたのです。こうした人々の影響力が低下したのはなぜか、また三浦氏が神智学を経由して東洋の思想に触れた理由など、明らかになっていくなかで、それと対照的な生き方をした夏目漱石が思いがけない関連性をもって浮かび上がってまいりました。

廃仏毀釈前の日本の思想の動きを萬子媛を含む周辺を描くことで、また夏目漱石の生き方を追究することで、廃仏毀釈後の日本の思想や文学の動向を探るという構想が生まれました。

評論を完成させ、電子書籍にするまでには何年かかかるでしょう。その間、現在の健康を保って書き続けられるという保証はありませんので、見苦しいところはありますが、ノート、メモを公開していくことにしました。

信念をもって書いたものが読まれないまま埋もれることほど、物書きにとって怖ろしいことはないからです。ネット社会が到来したありがたさを思えば、我々報われない物書きは感謝の気持ちでいっぱいにならざるをえません。

夏目漱石にかんしては、一旦削除したカテゴリーを復活させました。

いずれ評論に使うつもりなので、当カテゴリーに属する記事の無断引用、リンクを禁じます(感想文や研究の参考になさる場合はご一報の上、直塚万季のエッセーからの引用であることを明記してください)。
 漱石研究はこれからなので、今後考えが変わり、記事を訂正、削除、非公開にする可能性があります。

以下は、これまでにこのカテゴリーに収録した10本の記事です。新しい記事が上です。

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2015年3月 6日 (金)

#11 疑似祖母との恋愛物語(ぬるま湯物語) - 漱石の「坊ちゃん」

memoNotes:夏目漱石・インデックス

飛ばし読みしながらも、初めて夏目漱石の「坊ちゃん」を最後まで読んだ。

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この作品は純文学小説ではないが、だからといって大衆小説ともいえず、出来の悪い大衆小説的な作品というほかはない。

平板な表現の毒舌がだらだらと続く文章には耐えられず、飛ばしながらでなくては読めなかった。

その文章自体に、問題があるのではないだろうか。言葉の結びつけ方がおかしいのである(ノートですらないメモだから、ここでは省略するが、評論を書くときに例を出して指摘する)。

坊ちゃんはしきりにレッテル貼りを行う。純文学であれば、逆に、世間で貼られたレッテルをまず剥がす作業を行う。

大衆小説であれば、勧善懲悪の爽快感が得られるのだろうが、そういうストーリー展開でもない。

マドンナの心情に重きを置けば、華のある大衆小説ともなるのだろうが、そうした場面もない。

家柄のよい出でありながら、社会的激変のために女中となった清と坊っちゃんのラブロマンスだろうか?

坊っちゃんが殿で、清に祖母・恋人・召使いの役割を担わせた、夢物語というべきか。

借家とはいえ、坊ちゃんと一緒に暮らすという清の夢を実現させ、離ればなれになっても思いを通わせ続けた男女が、晴れて一軒の家に収まるという、庶民の好みそうなつつましい夢物語となっている。

マドンナがまともな形では出て来ないのも、そのためである。清が紅一点でなければならないから。そのことからも、「坊っちゃん」が変則的恋愛小説であることは間違いない。

若い男と老女が一軒の家に仲むつまじく暮らすエンディング、女のわたしには相当に気持ちの悪い恋愛小説である。

坊っちゃんは、いわゆるおばあちゃんに溺愛されたおばあちゃん子であるのだろうが、清が祖母でないというところが味噌なのであろう。清は疑似祖母であるが、まぎれもなく女なのだ。

坊ちゃんと性関係があってもなくても、ああ気味が悪い。疑似祖母との恋愛物語なんて。

わたしは、年齢差のある恋愛関係が気持ちが悪いといっているわけではない。男の側に都合のよすぎる漱石の女性観が、気持ちが悪いといっているのである。

この女性観、既視感がある。村上春樹の女性観だ。以下の作品(Kindle版)で、わたしはそれを指摘している。

「村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays, Volume 1)」 (ASIN:B00BV46D64)

マドンナ(若い女性)に欲情することもなく、清への初恋を貫いたままの幼児心理で成人後も生きる坊っちゃん。したい放題して、事が暴力沙汰に及んでも逮捕されることもなく、学校をやめても、すぐに他の仕事が転がり込む。常に保護される坊っちゃん。

清にも天にも愛でられる坊っちゃん。このことからも、純文学小説には欠かせない、主人公と作者との間に存在すべき距離感のないことがわかる。

そして、老女が亡くなったあとのことは書かない漱石。

ぬるま湯に浸かり続ける坊っちゃんを、作者が限りなく肯定するお話なのである。

まともに読んで、まともな感想が書けますか、こんな小説で。シェークスピア、デフォー、モーパッサン、ゾラ、イプセン、芭蕉、李白まで貶す漱石が書いた小説がこれって……。

かような内容の「坊っちゃん」を読書感想文に推薦……ほほほ……ホント、どうかしてますねえ、この国。書けないでしょう、まともな感想文なんか。

デフォーは読んだことがないけれど、それ以外のどなたを読書感想文に選んでも、それなりに書き応えがあるはずだ。読書感想文には、漱石が貶す作家をオススメする。

この男が真面目づらして「門」なんか書くと、なおのこと罪深い。門なんてタイトル、こけおどしもよいところだ。

お稽古事に1、2度行ってやめる子供がいるけれど、主人公の参禅がそのレベルにすぎないことを思えば。

まだ漱石にかんする研究は序の口だが、早くも飽きてきた。この男が文豪と祭り上げられてさえいなければ、とっくに夏目漱石から離れているだろう。

夏目漱石は本当はあばた面だが、日本では文豪のシンボルとなっているあの有名な写真には、それを消す修正が施されているそうだ。それは漱石の罪ではないだろうが、加工されたあの写真が漱石のイメージアップに利用されてきたことは間違いない。

隠れマザコン(ババコン)で、幼児心理のまま成熟することを拒否、無教養であることを自慢すらし(この世で教養のある人間は漱石先生だけでなければならない)、他人にレッテル貼りをして馬鹿にして、暴力沙汰を好む――そんな生き方を天は愛でると漱石の文学は教えている……(絶句)。

ちょっと、漱石から離れよう。そのつもりなのに、気になってなかなかそうできない。

テレビの国会中継をつけたまま、KindlePaperwhiteで「坊っちゃん」を読んでいるうちに、爆睡。とにかく、漱石を読んでいると眠くなる。

すると、夢を見た。学校に(高校?)、安倍首相が視察にくる。ぞろっと一団になってこちらに来る安倍首相は、わたしたち生徒のほうを見て、「いつからこの国ではいじめが流行るようになったのか、誰かわかる人がいたら教えてください」と声をかける。

わたしはいじめをテーマとした小説を書いたことがあると思い、その小説の載った雑誌を手に、安倍首相を追いかける。

最上階が首相官邸ということになっていて、最上階へと続く階段の踊り場に首相がひとり。わたしが近づくと、ペロペロキャンディーを差し出される。「お一つどうぞ」

この踊り場でペロペロキャンディーをなめる時間だけが、首相の唯一の自由時間らしかった。

わたしは自作の宣伝ととられると困るなと思いながら雑誌を渡して、この小説を書いた時期からいじめが流行り出しました、いじめをテーマとした小説を書かざるをえない社会状況でした、と説明する。

ほお、という表情の首相。

「子供たちにはよい本を読ませなければいけません。でなければ、この国は崩壊してしまいます。よい本がどんな本かの選択が難しいところですが……」と、力説しているところで、目が覚めた。まだ国会中継中で、共産党議員の質疑中だった。

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2015年3月 5日 (木)

#10 漱石の講演録「文芸の哲学的基礎」を読了し、ショックから抜け出せなかった昨日

memoNotes:夏目漱石・インデックス

#9で、漱石の講演録「文芸の哲学的基礎」を読みかけていると書いた。

それを何とか読了したものの、昨日一日受けたショックから抜け出せなかった。

お札にまでなった夏目漱石。何て、滅茶苦茶な文学論を展開するのかと呆れ、漱石が国民作家と崇められ続けてきた現実と、そのことでどれだけ日本人の読書環境、情操が損なわれ続けてきたかを思うと……(絶句)。

これほど神格化されることなく、一作家として、実力に応じた遇され方をしたのであれば、それほどの問題はなかったのかもしれない。が、漱石を神格化した勢力が日本には明らかに存在していて(その勢力は、村上春樹を第二の漱石にしようとしたと思われる)、彼らの目的が何なのかをわたしは疑う。

わたしは以下の電子書籍で村上春樹にかんする評論を書いたが、食わず嫌いせず、もっと早い時期に、漱石をちゃんと読むべきだった。まあ無力なわたしがそうしたからといって、それでどうなるというわけでもないのだが。

村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays, Volume 1)

ハーヴァード大学のカレン・L・キング教授がイエスにかんする重大な発表を行っても、バチカンが公式にひとこと否定して、それで終わりなのだから、わたしなんかがここや電子書籍で声を限りに叫んでも、南海の孤島からボトルメールを日本に向けて流すのに等しい。

ウィキペディアによると、幸い、漱石は欧米での知名度はあまり高くないという。そりゃそうだろう! 村上春樹を高く評価したジェイ・ルービンが漱石を積極的にプッシュしているようで、苦笑してしまった。

漱石の小品にはすばらしいものがあるから、作品のどこかで引っかかったりしながらも、その引っかかりが問題意識にまで発展するに至らず、追究しようとはしなかった(小品を読む程度で、興味がなかった)。だから、今日になるまで漱石の文学の全貌がわからなかったのだった。最近になって、ようやく読み始めてからは驚きの連続……

「文芸の哲学的基礎」を研究した学者も少なくないだろうに、なぜ、漱石の文学が問題視されないのか、不思議である。問題視した学者、評論家は潰されたのだろうか。

勿論、「文芸の哲学的基礎」がどんな思想家の影響を受けているのか、きちんと調べられているのはさすがに学者の仕事だとありがたい思いでいっぱいになる。

しかし、漱石が影響を受けたとされるウィリアム・ジェイムズにしても、漱石がウィリアム・ジェイムズに本当の意味で影響されたのか、そうではなく、漱石が自分の勝手な都合で断片を拝借し、結果的にウィリアム・ジェイムズの仕事を貶める結果になったのか、そこのところは究明されなくてはならないはずである。それでなくては、研究とはいえない。

当記事のトップに挙げた拙過去記事で、わたしは漱石の因果の法則にかんする解釈に疑問を呈し、「漱石は、キリスト教史観(直線史観)と東洋哲学でいう因果の法則をごちゃ混ぜにして論じているのではないだろうか。ずいぶん滅茶苦茶な内容に思えてしまう」と書いたが、ウィリアム・ジェイムズに因果の法則にかんするものがあるのだろうか。漱石のいう因果の法則とは、東洋哲学でいう因果の法則ではなく、ウィリアム・ジェイムズのいうそれなのだろうか。

西洋哲学由来の因果の法則であるならば、そう説明すべきであろうが、いずれにしてもわたしには漱石のいう因果の法則は東洋哲学でいうそれとしか思えない。

わたしは、まだプラグマティズムの哲学者ウィリアム・ジェイムズを読んではいない。

だが、弟のヘンリー・ジェイムズの小説は――まだ読み残しのほうが多いにせよ――愛読している。この二人はよく比較され、両者共に比較に耐える人物であることを思えば、ウィリアム・ジェイムズの哲学も弟の小説と同レベルの高さを持っていると想像するのが自然ではないだろうか。

その想像からすると、漱石の「文芸の哲学的基礎」はあまりといえばあまりの「猫踏んじゃった」ではあるまいか。だから、漱石がウィリアム・ジェイムズの影響を受けたということに、ウィリアム・ジェイムズを読む前から疑問を抱かずにいられない。

「ねじの回転」はよく知られているヘンリー・ジェイムズの小説で、幽霊小説としても、心理小説としても読める名作である。わたしは何度読み返しても、物書きとしての羨望のため息が出る。過去記事で、「ねじの回転」に触れている。

  • 2010年8月 6日 (金)
    真夏の夜にジュニア向きホラーは如何?
    http://elder.tea-nifty.com/blog/2010/08/post-1bd7.html

     わたしがこれまでの人生で一番ぞっとさせられた文学作品は、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』です。次が泉鏡花の『草迷宮』。
     どちらもこの世の深淵を垣間見せてぞっとさせながら、襞に秘められた魅力……とでもいうべきものを教えてくれました。

もう一編、過去記事でヘンリー・ジェイムズの「ボストンの人々」に触れている。長いので、ライン以下に関係のない部分を除き、折り畳んでおく。

わたしはその記事の中で、「ヘンリー・ジェイムズはボストンのいわば凋落の秋を『ボストンの人々』という作品で描いた。そこは俗物時代が到来し、拝金主義が蔓延る世界だった」と書いたが、そういえば、漱石も頻りにお金のことを恨みがましく書いた男であった。

ヘンリー・ジェイムズのお金と人物の描き方は、漱石とは著しく異なる。漱石が貶すモーパッサンにしても、ゾラにしても、その描き方はそれぞれに個性的だが、それを描くときの作家の透徹したなまざしを感じさせるという点では、モーパッサン、ゾラ、ヘンリー・ジェイムズには共通したものがある。

漱石の小説とは明らかに違う。モーパッサン、ゾラ、ヘンリー・ジェイムズは社会的視点を感じさせる。お金と人間の関わり方を見通しの利く世界の中で見事に描いてみせたが、漱石の場合は「私」の域を出ていないように思える。

社会的視点が感じられないため、作者の愚痴、よくても世間話のようにしか感じられないのである。むしろ、だから人気があるのかもしれないが、文学作品として評価しようとする場合、貧弱に感じられるのは否めない。

例えば、主人公が騙される話なら、モーパッサン、ゾラ、ヘンリー・ジェイムズの小説では、騙される主人公、騙す人間の人物像だけでなく、そのときの社会状況や経済の動き、人間関係がどのようなものであるかが鮮明に浮かび上がってくる。

漱石の場合は、騙された側の苦境や心理状態はよく描かれているが、そのときの社会状況や経済の動きまではわからない。

明治の初期には、江戸時代の経済の仕組みが崩壊して混乱があったようだし、明治時代を通して激動の時代だったわけだから、そうした時代背景をもっと感じさせていいはずだが、あまりそうした情報を得ることはできない。

林芙美子の小説では、さすがにその辺りはよく描かれている。ちなみに、バルザックの小説は経済学者が引用するほど、経済情報が書き込まれているそうだ。ゾラの金融小説は圧巻である。

また、「文芸の哲学的基礎」では、文芸家の理想として美、真、愛及び道義、荘厳とあるが、具体例があまりに低俗なものばかりなので、どれも同じに思えてしまう。

当記事で挙げた欧米の作家たちの小説には、美、真、愛、荘厳が気高い輝きを放って(漱石のいうそれらとは意味合いもムードも違うものだが、それらの言葉を連想させるだけのものがある)、美も真も愛も荘厳も分かちがたく存在しており、そうした小説を愛読してきたわたしには、漱石の分類の意味がさっぱり呑み込めない。

その分類も、どこからか借りてきて、勝手な使い方をしているのではあるまいか。そう疑いたくなるほどの奇妙さだ。

シェークスピアからは妙な圧迫を受けるだけで不愉快(技巧のあるところはよいそうだ。その点デフォーは駄目だそうで)、イプセンは不愉快な女を書いた、軽薄な落ちを作るモーパッサンも不愉快だそうだ。

ゾラに至っては「ゾラ君は何を考えてこの著作を公けにされたものか存じませんが……ゾラ君なども寄席へでも出られたら、定めし大入りを取られる事であろうと存じます」と偉そうに講演なさる漱石先生は、批判するゾラの著作のタイトルさえ解説なさらず、ゾラも余席も〈普通の人〉もまとめて馬鹿扱い。ゾラとモーパッサンは、ほとんど探偵と同様に下品でもあるとか。探偵をなさっている方にも失礼な物言いだ。

芭蕉の俳句は消極的、李白の詩は放縦……

ここまで読むと、わたしはもう恥ずかしい。これが日本の文豪だというのだから。頭がおかしいのではないかとすら、疑ってしまう。

以下の過去記事で、李白の「月下独酌」を山本和夫訳で紹介し、短い感想を書いている。

  • 2010年9月20日 (月)
    更新のお知らせ。山本和夫編『ジュニア版 世界の文学 35 世界名詩集』(岩崎書店、昭和44年)より。
    http://elder.tea-nifty.com/blog/2010/09/post-baaf.html

    酒仙、李白の詩をジュニアのわたしは、ふん、と思っただけでしたが、今は惚れ惚れします。道士の修行をしただけあって、雄大ですわ。李白の詩からは、芳醇な老荘思想の香りがしますわね(わたしは結婚後はほとんどお酒を呑まなくなったせいか、酒呑みは嫌いです。李白みたいな酒呑みって、いませんもの)。

何だかわたしまで頭がおかしくなった気がするが、気をとり直して、まずは、ウィリアム・ジェイムズの著作を読むことから始めなくてはならない。

それには時間がかかるだろうし、今は他にしたいことがあるので、とりあえず、2本の記事(メモ)をまとめ、ノートとはいえもう少し整理して、「国民作家・夏目漱石の問題点と、神智学協会の会員だった鈴木大拙 ④漱石の異常な文学論 #1」を書いておこう。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

続きを読む "#10 漱石の講演録「文芸の哲学的基礎」を読了し、ショックから抜け出せなかった昨日"

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2015年3月 3日 (火)

ジュピターコーヒーのオープニングセール

サイフォンとマキネッター(直火式エスプレッソメーカー)の使い方に上達した夫のお陰で、おうちカフェが本格的になりました。

外で飲むコーヒーより、美味しく感じるほどです。ただ、コーヒー豆代が馬鹿にならないので、月一度家族でわさだタウンの「カルディコーヒーファーム」に繰り出すのが恒例行事となっていました。

それが、「ジュピターコーヒー」が駅のアミュプラザに入ったため、そちらで買うことも多くなりそうです。

現在ジュピターではオープニングセール中で、ナンとコーヒー豆が半額。ハワイブレンドとハワイコナは対象外ですが、こうした高級豆も常備しているんですね。

仕事帰りの娘に買ってきて貰ったのは、ジュピターブレンド(496円→248円〈税込価格〉)、トラジャ(864円→432円)、モカマタリ(1,479円→739円)。驚きの安さです。

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まずジュピタ―ブレンドを、サイフォンとマキネッタで淹れてみて、味わったところです。すっきりした後味。雑味のない、綺麗な感じがしました。

芳ばしさという点ではカルディかなと思いますが、クリアな味のジュピターのコーヒー、気に入りました。他の豆を飲んでみたら、印象が変わるのかもしれません。楽しみです。

Ch3

ハーシーも娘が買ってきました。ハーシーはキスチョコが好きでしたが、アーモンド入り板チョコもなかなかです。ダイエット継続中のわたしも、たまにはね。船員だった父がアメリカからダンボール箱でよく送ってくれたハーシーのキスチョコをたらふく食べて育ったので、たまには口にしないと、変な気がするほどです。

ハーシー キスアーモンド 311g

ハーシー キスチョコレート 340g

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イリー缶はカルディで買いました。

家族全員、イリーの美味しさは確認済みです。これまで買ったではラバッツァと並んで、マキネッタと相性のよいイタリアのコーヒーだと思いました。

全員どちらも好きですが、強いていえば、娘はイリー、夫とわたしはラバッツァ贔屓です。わたしはどちらにもミルクをたっぷり入れて飲むのが好きです。

空き缶は菜箸立てにしています。蓋を底にはめ込むことができます。

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ラバッツァ エスプレッソ VP 250g(粉)

illy(イリー) エスプレッソ粉 ミディアムロースト 250g

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2015年3月 2日 (月)

#9 漱石の哲学風講演録を読みかけて、爆睡。

memoNotes:夏目漱石・インデックス

早いとこ、短編小説を書いて初の歴史小説に戻りたいところだが、夏目漱石の評論類を読んでしまいたいと思った。「文学論」「文明論」は手元にない。

講演録「文芸の哲学的基礎」「創作家の態度」は青空文庫版がKindlePaperwhiteに入っている。「創作家の態度」にはウィリアム・モリスが出てくるので、そちらから読みかけたのだが、途中で睡魔に襲われ、寝てしまった。

最近、心臓の調子が悪く、例によっておなかが膨れている(腫れている。せっかく痩せたのに)。そのせいもあるだろう。あとでちゃんと読もうと思い、「文芸の哲学的基礎」から読むことにした。

時間、空間、意識という、それぞれが哲学的一大テーマとなってきた各概念が、いともあっさり、勝手気ままに――と、わたしには思えた――定義され、そうした定義が錯綜する中でなぜか唐突に「因果の法則」がバッサリ否定し尽くされると、特にびっくりしてしまう。

というのも、読み始めてずっとびっくりしていたので。わたしが特にびっくりしたのは、以下に引用する部分。

 それから意識の連続のうちに、二つもしくは二つ以上、いつでも同じ順序につながって出て来るのがあります。甲の後には必ず乙が出る。いつでも出る。順序において毫も変る事がない。するとこの一種の関係に対して吾人は因果の名を与えるのみならず、この関係だけを切り離して因果の法則と云うものを捏造するのであります。捏造と云うと妙な言葉ですが、実際ありもせぬものをつくり出すのだから捏造に相違ない。意識現象に附着しない因果はからの因果であります。因果の法則などと云うものは全くからのもので、やはり便宜上の仮定に過ぎません。これを知らないで天地の大法に支配せられて……などと云ってすましているのは、自分で張子の虎を造ってその前で慄えているようなものであります。いわゆる因果法と云うものはただ今までがこうであったと云う事を一目に見せるための索引に過ぎんので、便利ではあるが、未来にこの法を超越した連続が出て来ないなどと思うのは愚の極であります。それだから、よく分った人は俗人の不思議に思うような事を毫も不思議と思わない。今まで知れた因果以外にいくらでも因果があり得るものだと承知しているからであります。ドンが鳴ると必ず昼飯だと思う連中とは少々違っています。

漱石は、キリスト教史観(直線史観)と東洋哲学でいう因果の法則をごちゃ混ぜにして論じているのではないだろうか。ずいぶん滅茶苦茶な内容に思えてしまう。

東洋哲学あるいは仏教でいう因果の法則というのは、過去記事で紹介した動画の中でお坊様がおっしゃっているようなことだと思う(再度動画をアップ)。

以下に、ウィキペディアから「因中有果(いんちゅううか)」について引用。

因果:Wikipedia

因中有果(いんちゅううか)
正統バラモン教の一派に、この世のすべての事象は、原因の中にすでに結果が包含されている、とするものがある。

仏教の世界観を表現したものは曼荼羅、円。神秘主義は螺旋史観。

因果の法則は、漱石のいうようなギャンブルめいた確率の問題とは無関係である。

わたしが漱石の講演に行けば、間違いなく爆睡する……まだ「文芸の哲学的基礎」を最後まで読めない。ノート④を書くはずだったが、時間がかかりそうだ。

ひとまず、書いてしまいたい短篇小説に行こう。そして、初の歴史小説に戻らなくては。漱石ノートは時間がとれたときということにしたい。評論に仕上げるには、相当な時間がかかりそう。

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2015年3月 1日 (日)

#8 漱石の問題点と、神智学協会の会員だった鈴木大拙 ③廃仏毀釈後の動き

memoNotes:夏目漱石・インデックス

図書館から鈴木大拙の『神秘主義 キリスト教と仏教』(岩波書店、2004年)『東洋の心』(春秋社、昭和9年新装版)、『鈴木大拙未公開書簡』(禅文化研究所、1987年)を借りた。

東洋の心

鈴木大拙未公開書簡

『神秘主義 キリスト教と仏教』の訳者後記(板東性純)にあるような以下のような文章を読むと、如何にも神智学協会の会員らしい著作という気がする。

 また、本書は単に大学の講壇における講義内容のみでなく、他大学やキリスト教会、仏教会、あるいは精神分析・宗教学・神学・哲学等の学者のセミナー等で語った内容でもあったようである。また本書は、アメリカの最大都市ニューヨークで、最晩年、十年近くの歳月を送った、大拙の心中に去来した思索内容を生々しく伝えている。その広がりはかなり多肢に亘っており、初期仏教の教義をはじめとして、華厳・般若・唯識等の主要な大乗仏教思想の他、わけても大拙が大乗仏教の帰結と見ていた禅・浄土思想に広く説き及んでいる。殊に、西欧においては、長い間異端視されてきたマイスター・エックハルト(一二六〇―一三二七)の神秘思想とその境涯を、禅語録に登場する数多の禅者の場合と直に対照せしめるなど、空前絶後の対比の試みを事もなげに遂行している。仏教・キリスト教、両教に通底した神秘主義の普遍的性格を、縦横無尽に論じていることは、書名が標榜している通り、本書の白眉と見ることができよう。〔pp.307-308〕

過去記事で見てきたように、廃仏毀釈で日本の宗教の主軸となってきた仏教が徹底的に破壊されてしまったため、仏教を本当に知ろうと思えば、仏教の根源、インドの原始仏教からさらにヒンドゥー教へと遡る必要があったのだろうが、インドは1858年から大英帝国の植民地となり、ようやく独立を果たしたのは1947年であった。

悲惨な状態に陥っていたインドの宗教に救いの手を差し伸べたのは、バラモン、仏教の哲学の重要性を認識していたブラヴァツキーの神智学協会だった。

このブラヴァツキーの神智学協会は第一の目的として「人種、肌の色、宗教の差別をせず、人類の普遍的同胞団の核を作ること」(H・P・ブラヴァツキー『神智学の鍵』神智学協会ニッポンロッジ、平成7年改版、p.48)と挙げているような傾向を帯びていた。

神智学協会においては、政治活動は完全に協会外のこととして関知しない方針だが、協会からは、インドの独立運動に飛び込み、ガンジーに影響を与え、インド国民会議の議長に選ばれたアニー・ベザントのような人物が出ている。

鈴木大拙(1870年11月11日(明治3年10月18日) - 1966年(昭和41年)7月12日)や三浦関造(1883年7月15日(明治16年) - 1960年3月30日(昭和35年))が神智学協会の会員であったのは、偶然ではない。

当時は仏教を深く知ろうとすれば、神智学協会というルートをとって、そこへ辿り着く以外に安全、確実な方法がなかったのではないかと思われる。

同様に、ブラヴァツキー著作の邦訳『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』にインド哲学、仏教研究の世界的権威であった中村元の推薦の言葉があるのも、偶然ではない。以下はウィキペディアより抜粋。

中村元(哲学者):Wikipedia

中村 元(なかむら はじめ、1912年(大正元年)11月28日 - 1999年(平成11年)10月10日)は、インド哲学者、仏教学者。東京大学名誉教授、日本学士院会員。勲一等瑞宝章、文化勲章、紫綬褒章受章。在家出身。
主たる専門領域であるインド哲学・仏教思想にとどまらず、西洋哲学にも幅広い知識をもち思想における東洋と西洋の超克(あるいは融合)を目指していた。外国語訳された著書も多数ある。

明治の廃仏毀釈後に日本で起きたのは上述したような動きと、ウィリアム・モリスの著作やジェームズ・マードックとの接触を通して共産主義思想の影響を受けた夏目漱石に見られるような、共産主義思想、無神論、唯物主義への動きであったろう。

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癌と闘っている、双子みたいな気のする男友達 ③ああよかった、まだ生きていた!

過去記事で書いた癌で闘病中の大学時代からの男友達ですが、前回過酷な病状のメールをいただいき、ある程度予測はしていたものの、その件に関して思考停止状態に陥り(逃避状態というべきか)、返事が書けず、お誕生日にようやく返信しました。

その後、今日までメールが返ってこなかったので、もしや……と気が気ではありませんでした。ああよかった!

誕生日が1日違いなので覚えてくれていたのか、このブログを閲覧してくれているのかはわかりませんが、わたしの誕生日を祝ってくれて嬉しくなりました。

わたしは大学時代から占星術にはまったので、当時から一度耳にした誰かの誕生日(あるいは星座)は忘れないのです。サンプルとして記憶の領域に貼り付いているのですね。

もしブログを閲覧して誕生日に気づいてくれたのだとしたら、病気のことなど、あけすけに公開してごめんね。個人が特定できるような情報は混じらないように気をつけているとはいえ、申し訳ありません。嫌な場合は、すぐに削除しますので、いってね。

彼は介護関係の仕事をしているようです。何しろ、ずっと年賀状だけのやりとりだったので(年賀状にはかなりの情報が小さな字で書かれていることもありましたが)、今の仕事については何も知りませんでした。

事務も介護もこなす仕事内容らしく、癌患者としては体力的に過酷な労働環境にあるようで、心配です。

メールに書かれていることはひじょうに興味深く、彼の柔らかな、ユーモラスな文章が、わたしの文章では伝わりません。

転載の許可を得て本格的に紹介したくなりますが、そんなわたしの非常識ともいえる提案が彼の病気に障ったらまずいなとも思い、迷います。

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脈の乱れと胸部不快感。追記あり。

午前1時ごろ、心臓の打ち方が滅茶苦茶になった。5分くらいだろうか?

その間、何もできず、ひじょうに気分が悪くなった。そのあと、もう少し短いのが再度、起きた。

心房細動だろうか?

滅茶苦茶な打ち方は治まったが、目眩がして、体に力が入らず、何もできない。

脈をとってみると、ちゃんと測れたときで58と、普段より少なかった。脈に強弱があり、途中でわからなくなったりするので、測るのが厭になった。2時半ごろまで、そんな感じ。

脳に血が行っていないような感じで、目眩がし、気分の悪さも治まらなかったので、苦し紛れに心房細動の予防に服用しているサンリズムを頓服で服用してみた。

頓服で用いることもあるとネットで見たことがあったからだが、これについては循環器クリニックを受診したときにお尋ねしてみたい。

服用後、頭が涼しくなった感じを覚え、脳貧血のような症状が軽くなった。だが、まだフラフラする感じがあり、気分の悪さ、体に力の入らない症状は消えない。

そうこうしているうちに、午前3時を回ってしまった。この記事を書くのに骨が折れた。

追記:

現在、午前4時。何とか、失神しそうなフラフラ感が治まり、気分の悪さが消えた。2日前から、心臓にミシンをかけられるような刺激が走ったり、変な打ち方をしたことが数回あった。ここ数日、ちょっと忙しくて、薬の服用が遅れたり、遅れすぎて結局飲み損なったりしたことがあった。

薬の服用を徹底しよう。体調の悪さは服用の乱れがきっかけとなることが多い。血中濃度まで測定して貰い、適した分量が処方されているのだから、しっかり服用することが大事だ。

不整脈は本当につらい。冠攣縮性狭心症の発作の場合はニトロという魔法の薬があるが、不整脈の場合、どうしたらいいのかわからず、今にも失神しそうな気分の悪さが過ぎ去るのを耐えるしかない……のだろうか。これも、先生にお尋ねしてみなくては。

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