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2015年2月 4日 (水)

ヨルダン空軍パイロットは1月3日の時点で・・・。『ルーミー語録(イスラーム古典叢書)』より。

前の記事の続きを書こうとしてニュースを見たら、ヨルダン空軍パイロットのモアズ・カサスベ中尉は1月3日の時点で焼殺されていたとする時事通信、1時48分配信の記事が出ていました。

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『ルーミー語録』を最初に読んだのは大学時代でしたが、これまでの年月が掻き消えたように、女子寮の一室で読んでいる自分なのか、今の自分なのかがわからなくなるほど、当時の自分と一体化していました。

『ルーミー語録』を読んでいると、極上のワインに酔ったようになります。

これを書いている今も、胸の奥から汲めども尽きぬ泉の水のように出てきた純白のオーラで部屋の中がいっぱいです。

ルーミーは13世紀にホラーサーン地方のバルフ(現アフガニスタン)に生まれ、シリアの首都ダマスカスなどで学び、トルコの都市コンヤに歿した、ペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人です。

神秘主義的な本は、どれもそっくりなので、どれを読んでいるのか、わからなくなってくるほどです。

『ルーミー語録』には、『コーラン』の言葉が散りばめられています。コーランは大学のときにざっと読んだきりなので、あまり覚えていませんが、旧約聖書がよく出てきて、イエスやマリアがキリスト教とは違った雰囲気で出てきたような記憶があります。

コーランがルーミーにとって、美と慈愛と叡智の源泉であったことを感じさせます。そのルーミーがかつて学び、逍遙した地が現在、ISILによって地獄の様相を呈しています。嘆かわしいことです。どうコーランを読めば、あんなことができるのでしょうか。

では、『ルーミー語録』(井筒俊彦訳、岩波書店、1978年)から断片を紹介します。

 本当に奇蹟と言えるのは、人が卑〔ひく〕い段階から高い段階に昇らされるということだ。あんなところから出発して、こんなところまで辿り着いた、それが奇蹟なのだ。もともとわけも分からなかったものが理性的に考えるようになり、無生物が生命体となったことだ。考えてみれば、そなたも元来は土塊〔つちくれ〕であり無機物だった。それが植物の世界に連れてこられた。植物界から旅を続けて血塊となり肉片となり、血塊と肉片の状態から動物界に出、動物界から遂に人間界に出てきた。これこそ奇蹟というものではなかろうか。
 神はこの長い旅をそなたが無事終えるように取り計らって下さった。途中でいろいろな宿に泊まり、いろいろな道を取りながら、はるばるここまでやってきた。が、その間、そなたは自分でここへ来たいと思ったこともなかった。自分でどの道を選ぼうとか、どうやって辿り着こうとか考えたことも想像したこともなかった。ただ、ひとりでにここまで連れてこられてしまったのだ。だが、自分がここまで来たのだということは、まごうかたない事実としてそなたにもわかっている。同じように、これとは違った種々様々な世界がまだまだ幾つもあって、やがて、そこにも連れてゆかれるのだ。疑心を抱いてはならぬ。このようなことを言って聞かせる人があったら、素直に信じることだ。〔p.207〕

古代インドの哲学書「ウパニシャッド(秘教的教義)」に「神は鉱物の中で眠り、植物の中で目覚め、動物の中で歩き、人間の中で思惟する」とあり、またユダヤ教神秘思想カバラに「石は植物となり、植物は動物、動物は人間、人間は霊、霊は神となる」という格言がありますが、わたしはこれらを連想しました。

 アブラハムの立処で参詣者が二回跪拝する。それは結構だ。だが本当は、立ってはこの世にあって祈り、跪拝してはかの世にあって祈るというような礼拝であってほしい。メッカの神殿とは預言者や聖者がたの心の秘処、神の啓示の下る場所であって、建物としてのメッカの神殿はこの(心の中の)神殿の影にすぎない。内面的精神がなければ、メッカの神殿が何になろう。〔p.288〕

ルカの福音書に「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」とありますね。インドの聖者ラーマクリシュナは「神についての正しい知識を得た人にとっては、この世もあの世もないんだよ。どこも同じさ、あの世があると思っている人には、この世もあるんだ」(マヘンドラ・グプタ『不滅の言葉』奈良毅&田中嫺玉訳、三学出版、昭和55年)といいました。

 わしが好んで語るものは、すべて象徴であって、ただ似たものを例として出すのではない。象徴は、ただ似たものというのとは違う。神がその光を灯火に譬えておられるのは、あれは象徴だ。聖者の身体を玻璃に譬えられるのも象徴だ。もともと神の光は場所や空間に容れられるようなものではない。それがどうして玻璃や灯火の中に入ろうか。宇宙に偏在する神の光が誰の心の中に入ろうか。だが、それを探すとなると、心の中に見つかるのだから妙である。といっても、心が何か容器のような役をして、神の光がその中に入っているわけではない。心の深みから湧出してくるのが見えるのだ。鏡をのぞくと、そこに自分の姿が映って見える。別に鏡の中に姿形が本当に存在しているわけではない。それなのに鏡をのぞきこんでみると、ちゃんとそこに自分がいるのだ。〔p.289〕

わたしは拙著『卑弥呼をめぐる私的考察』(Kindle版、ASIN:B00JFHMV38)の中で、『老子』第十章は鏡を連想させると書きましたが、ここにはもろに鏡が出てきます。

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