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2014年11月 7日 (金)

歴史短編1のために #2 田代陣基。参勤の道筋。

いざ、小説を書き始めようとすると、知識の欠乏が障害となって、進むどころではない。

短編といえど、まだ書き出す段階ではないのかもしれないが、書こうとするときに何が足りないかがわかるので、このまま進んでみよう。

この執筆ノートには企業秘密にあたることは書けないが、書ける範囲内でメモしておくと、葉隠の筆録者、田代陣基(つらもと)iについて、少し。

田代陣基は延宝六年(1678年)生まれで、父は竜造寺胤久の孫――佐賀藩士田代小左衛門宗澄――である。

「祐徳開山瑞顔大師行業記」を書いた肥前鹿島藩の第2代藩主・鍋島直條(なおえだ)の母も、龍造寺政家の娘。

山本常朝の語りの魅力は、田代陣基のインタビュー力と文章力があってこそ、「葉隠」という形で開花した。

龍造寺の血筋は文芸肌なのだろうか。改めて、龍造寺氏の出自をウィキペディアで見てみる。

龍造寺氏:Wikipedia

出自には諸説があって定かにされていないが、藤原道隆の流れを汲むとされる草野季貞の子孫とする高木季綱の次男の高木季家が文治2年、肥前国小津郡龍造寺の地頭となり、地名から龍造寺左衛門尉南三郎と称したことに始まるという。

藤原道隆――、娘は中宮となった定子。定子に仕えた清少納言の著作「枕草子」の中で、明るく、賑やかなサロンの中心人物として、気高い、機知に富んだ女性として魅力的に描かれた女性である。

その血筋というには遠すぎて、はっきりしないようでもあるが、「葉隠」からもサロン的雰囲気が漂うことは過去記事で書いた(あ、非公開設定にしていたんだった!)。

ウィキペディアに「龍造寺本家の断絶後も龍造寺氏の庶家は多久氏、諫早氏、武雄鍋島氏、須古鍋島氏など(龍造寺四家)を名乗り佐賀藩に重臣として仕えた」とある。龍造寺氏の血は「葉隠」のような著作にも一役買って、今も生きているというようか。

話が無関係なほうへ逸れるが、東漢氏のうちの大蔵氏の流れを汲む江上氏が、元冦の役の軍功によって肥前国神埼荘地頭職を賜り、そこへ住むようになった。肥前国での権力争いに巻き込まれ、右往左往したようだが、龍造寺氏との関係は浅からぬものがあるようだ。

わたしの母方の祖母の家系は江上氏の庶流のようで、遠すぎて関係ないといえば関係ないが、あるといえばあるので、龍造寺氏が気にかかる。

子供の頃からなぜか、花山院萬子媛(祐徳院)のことは気になっていたが、その萬子媛に関する最も信頼できる小伝を書いたのが、龍造寺一族の母を持つ鍋島直條(肥前鹿島藩の第2代藩主。初代藩主を鍋島忠茂とする見方では、第4代)……とても遠い、でもナンだか、不思議な縁だなあ。

「葉隠」の口述者、山本常朝は石田一鼎(いってい)の大きな影響を受けている。石田一鼎は光茂(どうでもいい話だけれど、光茂は蟹座だ)の御側相談役だった。潮音道海の影響を受け、神仏儒の合一を説いた。潮音道海黄檗宗の僧侶で、隠元隆琦の孫弟子である。

江戸時代の儒教といえば、朱子学なので、ここ数日、朱子学について詰め込めるだけ詰め込み、それをまたケロリと忘れたが、朱子学が道教と仏教の影響を受けていることはわかった。

アリストテレス的というか、ヨーロッパの近代哲学的というか、頭脳的というか、辻褄合わせ的というか、それだけというか、国家の成立、維持にはとても役立つ思想だろうなあという荒っぽい感想がわいた。

当時の佐賀藩の参勤の道筋を調べた。まだ、後水尾天皇を書いた本を読破していない。それを済ませないと、執筆に入れない。徹夜してでも読破しなくては。

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