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2014年10月16日 (木)

初の歴史小説 (43)外国の影響を表している出来事を地方史からピックアップ(幕府が開かれた年から萬子媛の没年まで)

(41)で以下のように書いた。

萬子媛が12歳のころ起きた島原の乱について、BSプレミアム『英雄たちの選択』の「激突!島原の乱 天草四郎vs.松平信綱」で、「島原の乱は一地域の反乱ではなくて、全日本的な、あるいは世界に波及するような危機的要素をもっていた事件と幕府は判断していたのではないか」といっていた。

ここで、迎昭典著『鹿島市年表』(日本史、肥前国史、佐賀県史、鹿島地方史)から、江戸幕府が開かれた年から萬子媛の没年まで(1603年 - 1705年閏4月10日)、外国の影響を表している出来事をピックアップしておきたい。K(青字)は鹿島地方史。

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  • 1606(慶長ケイチョウ 11)・2月、大村藩初代藩主大村喜前,伴天連追放を命ず。
  • K1607(慶長 12)・浜にドミニコ教会建立
  • K1608(慶長 13)・鹿島に教会建立。※「年譜付録」には高松九郎右衛屋敷は切支丹屋敷。忠茂も来た,とある。
  • 1609(慶長 14)・5.30オランダ船2隻、平戸に入港。・8.22平戸オランダ商館設立
  • 1610(慶長 15)・有馬晴信、セニョーラ・ダ・グラサ(マードレ・デ・デウス)号を長崎港外に襲い沈める。
  • K1612(慶長 17)・嬉野にイエズス教会建つ。
  • 1613(慶長 18)・2.19幕府、キリスト教を禁止。・秋ごろ、鍋島氏は領内から神父らの追放を命じる。
  • 1614(慶長 19)・長崎の11教会破却。・有家、口ノ津のキリシタン45人殉教。・9.24幕府、聖マルチノ・高山右近ら、キリシタン148人海外に追放。
  • 1615(元和ゲンナ 2)・8.8幕府,再びキリスト教禁令。・オランダ・イギリスの貿易を平戸・長崎に制限。
  • 1622(元和 8)・長崎でキリシタン55人を処刑。(元和の大殉教)
  • 1623(元和 9)・11.13平戸イギリス商館閉鎖。イギリス人,日本から撤退。
  • 1626(寛永カンエイ 3)・閏4.26長崎奉行水野守信,イエズス会宣教師らを処刑。
  • 1627(寛永 4)・この年,長崎奉行水野守信,キリシタン340人を島原藩主松倉重政に引き渡し処刑させる。
  • 1628(寛永 5)・5月幕府,ポルトガルと断交(~寛永7年)・7月幕府,オランダと断交(寛永 9年)。
  • 1634(寛永 11)・この年,長崎に出島築造に着手。(1636年完成)
  • 1635(寛永 12)・幕府,外国船の入港を長崎・平戸に限定し、日本人の海外渡航・帰国を禁じる。
  • 1636(寛永 13)・5.10長崎に出島を完成し,ポルトガル人を収容。(第4次鎖国令)。・9.24ポルトガル人妻子ら287人をマカオに追放。
  • 1637(寛永 14)・島原の乱。
  • K1637(寛永 14)・島原の乱に鹿島からも田中安心(83歳)以下1,113人出兵。ただし,勝茂の命で佐賀城の守りに変更。
  • 1638(寛永 15)・原城陥落。・鍋島勝茂,軍令違反により幕府から閉門の処罰を受ける。
  • 1639(寛永 16)・鎖国令。(第5次)・ポルトガル人の来航を禁止する。・オランダ人・中国人のみ貿易許可。
  • 1641(寛永 18)・この年,長崎警護役始まる。(1643年より福岡藩と1年交代)
  • 1647(正保ショウホウ 4)・6.24南蛮船(ポルトガル)2隻長崎入港。佐賀藩兵出動8,350人。
  • K1647(正保ショウホウ 4)・鍋島直朝,はじめて長崎の警備に赴く。
  • 1655(明暦メイレキ 元)・この年,大村のキリシタン,島原で処刑される。
  • 1657(明暦 3)・大村領内のキリシタン600余人捕らえられる。(郡崩れ)
  • K1660(万治マンジ 3)・本藩主光茂病のため,直朝,名代として急遽江戸から長崎の警備に赴く。総勢700人。
  • 1673(延宝エンポウ 元)・5.25イギリス船,長崎に入港して貿易を願い出る。幕府,その要求を拒否。
  • 1674(延宝 2)・2月,キリスト教禁制の高札立つ。
  • 1685(貞享ジョウキョウ 2)・幕府,金銀の国外流出を抑えるため長崎貿易を制限する。
  • 1689(元禄ゲンロク 2)・幕府、長崎に唐人屋敷を設ける。
  • 1690(元禄 3)・ドイツ人ケンペル,出島商館医として来る。嬉野・佐賀・田代などを通る。

迎昭典著『鹿島市年表』より

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鎖国令、キリスト教禁令を出したからといって、素直に聞き入れる外国人ばかりではなかった。だからこそ、鎖国が必要だったのだろう。

そして、その鎖国は統制のとれた、こまめな警備があってこそ成り立つものだった(佐賀藩、福岡藩の1年交代でご苦労様)。

鎖国体制下では、長崎(幕府の管理下で清朝中国、オランダ)、薩摩(島津氏を通じて琉球)、対馬(宗氏を通じて朝鮮)、松前(松前氏を通じてアイヌ)という四つの窓口を通じて外交、通商が行われた。

この鎖国体制をとるためには、当然ながら、それを可能とする防衛力が必要だった。例えば、鎖国:Wikipediaには、延宝元年(1673年)のリターン号事件について、「イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える」とあるが、『葉隠』を読むと、そのとき、多人数が出張を命じられて警備についたことが詳しく書かれていて、興味深い。

イギリス船3隻が無事に引き上げなかった場合は、乗っ取るか打ち沈める必要が出てくるが、そうする場合、あるいはそれがうまくいかなかった場合にどう対処するか、船団の配置、武器、合図、船上における作法、報告について……など、「軍令」として細かい指示が出されている。ご苦労様といいたくなる大変さであった。

東洋の他の国々が植民地になったことを考えると、幕府の判断、賢明だったのではないかと思えるが、以下の本を読んでみたい(図書館にあるかしら?)。

イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ)
高橋 裕史(著)
出版社: 講談社 (2006/10/11)

キリシタンの世紀――ザビエル渡日から「鎖国」まで (岩波人文書セレクション)
高瀬 弘一郎(著)
出版社: 岩波書店 (2013/10/25)

ところで、これって……「1637(寛永 14)・島原の乱に鹿島からも田中安心(83歳)以下1,113人出兵。ただし,勝茂の命で佐賀城の守りに変更」

83歳で出兵って……リーダーが年寄りすぎて、佐賀城の守りに変更? 全員年寄りだったりして(怖いわ)。

90過ぎて出兵した龍造寺家兼にしろ、80歳で断食入定した萬子媛にしろ……昔の人の老人パワーが凄い!

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