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2014年7月24日 (木)

初の歴史小説 (37)鎖国前夜

 ここ数日、「あのひとスパイシー」的に萬子媛の相関関係図を作っていたら、膨れ上がってしまい、収拾がつかなくなったので、今度はキイワードでまとめてみることにした。

 以下は一部。

剃髪
貞享4年(1687年)次男式部朝清の死後、剃髪し、格峯禅師(断橋和尚。鍋島直朝の次男)が建てた祐徳院に住む(瑞顔実麟大師と称す)。この年を祐徳稲荷神社の始まりとする。

黄檗宗
祐徳院は黄檗宗。黄檗宗の開祖は隠元隆琦。

(他宗教を調べる)
朱子学
あとで書く

キリスト教
南蛮貿易、文禄5年(1587年)サン=フェリペ号事件⇒豊臣秀吉によるバテレン追放令・日本二十六聖人。
慶長14年(1612年)マードレ・デ・デウス号、ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件(ポルトガル貿易船の爆沈事件)、岡本大八事件⇒慶長17年(1612年)に慶長の禁教令、元和2年(1616年)に二港制限令。
寛永14年(1637年)島原の乱⇒キリシタン弾圧、寛永10年(1633年)第1次鎖国令~寛永16年(1639年)第5次鎖国令。

修験道
姉妹が密教に関係が深く(?)、萬子媛の断食入定にその影響はないのだろうか。このキイワードは書きかけ

花山院
花山院忠長(花山院定好の兄。後陽成天皇の女官と密通した罪により、蝦夷地へと配流=猪熊事件。配所における松前藩の厚遇、松前に京文化を伝えた)⇒猪熊事件を契機として幕府の公家統制が始まる。慶長18年(1613年)に「公家衆法度」、慶長20年(1615年)「禁中並公家諸法度」制定⇔「武家諸法度」

鍋島光茂
次男式部朝清は佐賀藩2代藩主・鍋島光茂に仕えた。
鍋島光茂は天和3年(1683年)、三家格式を制定して三支藩を完全に支配下に置いた。
幕府に先駆け、殉死を禁止した。
鍋島焼への影響。皿山代官に与えた指示書「有田皿山代官江相渡手頭写」における厳しい注文。
『葉隠』の口述者である山本常朝は光茂に仕えた。父の山本重澄は初代皿山代官。
光茂は武家でありながら歌道を極め、京都の公家で二条流の歌道の宗匠である三条西実教より古今伝授を受けた。

後陽成天皇など、その他沢山のキイワード

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萬子媛の人生を描くには、江戸初期から中期をよく調べなくてはならない。

この時期は幕府のインフラ整備、武家統制(大名の官僚化)が重点的に行われ、対外的には鎖国体制がとられた。

鎖国体制下では、長崎(幕府の管理下で清朝中国、オランダ)、薩摩(島津氏を通じて琉球)、対馬(宗氏を通じて朝鮮)、松前(松前氏を通じてアイヌ)という四つの窓口を通じて外交、通商が行われた。

この鎖国体制をとるためには、当然ながら、それを可能とする防衛力が必要だった。例えば、鎖国:Wikipediaには、延宝元年(1673年)のリターン号事件について、「イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える」とあるが、『葉隠』を読むと、そのとき、多人数が出張を命じられて警備についたことが詳しく書かれていて、興味深い。

イギリス船3隻が無事に引き上げなかった場合は、乗っ取るか打ち沈める必要が出てくるが、そうする場合、あるいはそれがうまくいかなかった場合にどう対処するか、船団の配置、武器、合図、船上における作法、報告について……など、「軍令」として細かい指示が出されている。ご苦労様といいたくなる大変さであった。

外圧が高まって――嘉永6年(1853年)にペリーが来航し、欧米列強が開国を迫った――幕府は防衛力強化のために、武家統制の柱だった参勤交代を緩和し、結果として幕府の求心力低下を招くこととなった。

萬子媛が住まれた鹿島に関する歴史を迎昭典「鹿島市年表」で見てみようと思い、年表の江戸初期を見ていると、イエズス会の脅威を感じてしまったので、鎖国前夜――大村純忠の行動、豊臣秀吉の「バテレン追放令」――をウィキペディアで見ておきたい。

大村純忠:Wikipedia

有馬晴純の次男。母が大村純伊の娘であったために天文7年(1538年)に大村純前の養嗣子となり、天文19年(1550年)に家督を継いだ。

武雄の後藤家に養子に出され、大村家を相続できなかった実子(庶子)後藤貴明の恨み、佐賀城主・龍造寺隆信の圧迫。打開策を求め、キリスト教へ。

貿易港として横瀬浦、福田、長崎を開港して南蛮貿易を行い、日本初のキリシタン大名となった。

別のいい方をすれば、永禄5年(1562年)、横瀬浦(現在の長崎県西海市)をポルトガル人に提供。イエズス会士に対して住居を提供。元亀元年(1570年)にはポルトガル人のために長崎を提供。天正8年(1580年)に長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進。大村領民6万人をキリシタンに改宗させた。

永禄6年(1563年)、宣教師からキリスト教について学んだ後、純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した結果、大村領内では最盛期のキリスト者数は6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいた時期もあったとされる。純忠の入信についてはポルトガル船のもたらす利益目当てという見方が根強いが、記録によれば彼自身は熱心な信徒で、受洗後は妻以外の女性と関係を持たず、死にいたるまで忠実なキリスト教徒であろうと努力していたことも事実である。また、横瀬浦を開港した際も、仏教徒の居住の禁止や、貿易目的の商人に10年間税金を免除するなどの優遇を行っている。しかし、純忠の信仰は過激なもので、領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊した。また、領民にもキリスト教の信仰を強いて僧侶や神官を殺害、改宗しない領民が殺害されたり土地を追われるなどの事件が相次ぎ、家臣や領民の反発を招くことになる。

長崎は日本の中の外国になっていた。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐において秀吉に従い、本領を安堵された(後に豊臣秀吉によってイエズス会から取り上げられ、秀吉直轄領となった)後、死去。

バテレン追放令:Wikipedia

天正15年(1587年)に豊臣秀吉が発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。

「バテレン追放令」の原文

「松浦家文書」に残る6月19日付の追放令の秀吉側近の主侍医施薬院全宗(別名徳運軒)による原文は以下のとおり。

一、日本ハ神國たる処きりしたん國より邪法を授候儀 太以不可然候事
一、其國郡之者を近付門徒になし 神社佛閣を打破之由 前代未聞候 國郡在所知行等給人に被下候儀は當座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処 下々として猥義曲事事
一、伴天聯其知恵之法を以 心さし次第に檀那を持候と被思召候へは 如右日域之佛法を相破事曲事候条 伴天聯儀日本之地ニハおかされ間敷候間 今日より廿日之間に用意仕可帰國候 其中に下々伴天聯に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ 曲事たるへき事
一、黒船之儀ハ 商買之事候間格別候之条 年月を經諸事賣買いたすへき事
一、自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ 商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候条 可成其意事

已上
天正十五年六月十九日 朱印

俗に言う「きりしたん禁令。」この「定」は施薬院全宗という秀吉側近の法印という最高位の医師によって書かれている。現代でいう厚生労働省の通達。 日本は「神国」である。神々の住む美しい国であるところに、「きりしたん国」、キリスト教徒の住む国から、「邪法」(邪教ではない)すなわち邪気(伝染病)またそれとともに邪法(阿片による治療法)を授けたことは甚だ不愉快だ、各地の人々を信者にして、神社仏閣を壊してパードレは勝手な知恵を授け日本国の法を順守しない。これは日本国におくべきではない。国外退去を求める。ビジネスに来る外国船はビジネスに専念することとする。今後日本国の法を順守しない者はビジネスであれ国内に入ることを禁じる。

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