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2014年1月21日 (火)

神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ①「ベアト・アンジェリコの翼あるもの」

 オーラが見え始めたのは大学生の頃からだった。

 わたしのいうオーラとは、H・P・ブラヴァツキー『神智学の鍵』(神智学ニッポン・ロッジ、竜王文庫、平成7年改版)の「用語解説」にある、「人間、動物、その他の体から発散される精妙で目に見えないエッセンスまたは流体」を意味する。「人間、動物、その他の体を取り巻く磁場」と説明されることもある。

 人間が不死の部分と死すべき部分からできているということを知らなければ、オーラが何であるのかを理解することはできないと思う。このことをもっと詳しく、人間が七つの構成要素からなるということをわたしはH・P・ブラヴァツキーの神智学の論文を通して教わった。

 すなわち、人間が不死の三つ組みと死すべき四つ組からなることを。七つの構成要素のそれぞれについて学ぶことはわたしには悦びだったが、一般の方々を相手にした当ブログでこれ以上のことを書くのは控えたい。

 わたしにとって、オーラの美しさに匹敵するものはこの世になく――否、汚れた、不穏で、不快な色彩に見えるオーラも見ないわけではないが――、オーラの美しさを連想させるものといえばオーロラくらいなので、ときどきしかオーラが見えないのはつまらないことに思っていた。

 最近までずっとそう思っていたので、神智学徒だった高齢の女性のオーラがありありと見えた20年も前のことを毎日のように回想し、あのように美しい光にいつも浴していられればどんなに幸福なことだろうと思っていた。

 しかし最近になって、オーラはたまに見えるくらいが丁度よいと思えるようになった。

 尤も、強く意識し目を懲らせば、オーラというものは低い層のものなら容易く見ることができる。

 物体の輪郭――例えば開いた手の輪郭に目を懲らしていると、指の輪郭を強調する、ぼんやりとした弱い光が、夕日の残照のように射して見える色彩やきらめきなどが見えてくる。さらに目を懲らしていると、光はいよいよ豊富に見え出す。

 だが、そんな風に意図的にオーラを見ようとする試みは疲労を誘うし、その水準のオーラを見ても、つまらないのである。自然に任せているのに、オーラが断片的に見えることはちょくちょくあるが、そのオーラがありありと見えることはわたしの場合はまれなのだ。

オーリックエッグと呼ばれるオーラの卵の状態は、その個人の高級我が自ら開示してくれる場合にのみ、その許された範囲内において、観察可能なのではないかとわたしは考えている。

 ただ、創作中は自身から放射される白い光に自ら心地よく浴していることが普通の状態で、創作が生き甲斐となっているのもそれが理由なのかもしれない。

 生者のオーラに関していえば、それが見えるとき、肉体から放射される光のように見えていて、肉体はその光が作り出す影のような見え方だ。観察する側の認知的感受性が高まれば高まるほど、その影は意識されなくなっていき、遂には光だけが意識されるようになる。

 わたしはいつもオーラを見ているわけではなく、その見え方もそのときによるので、死者が訪れ、近くに死者がいたときも[過去記事参照]、輪郭をなぞる点描のようなものとして見えた以外は、ほとんど何も見えなかった。いわゆる幽霊が見えたことは一度もないのだ。

 それなのに、存在は感じられた。そして、たまたま死者の訪問時に死者のオーラが見えたこともあったが、そのとき、おそらくわたしは生者のオーラを見るときと同じように死者のオーラを見ていたのだと思う。

 死者の肉体が存在しないせいか、光だけが見えた。

 たぶん、わたしの認知的感受性がこの方向へ日常的に高まれば、物体は圧倒的な光の中に縮んだ、おぼろな影のようにしか見えなくなるだろう。オーラは人間にも動物にも植物にも物にすらあるので、留まっている光や行き交っている光のみ意識するようになるに違いない。世界は光の遊技場のように映ずることと思う。

 そのとき、わたしはこの世にいながら、もうあの世の視点でこの世を見ることしかできなくなっているわけで、それはある意味で盲目に等しく、この世で生きて行くには不便極まりないに違いない。

 以下の断章は過去記事で紹介したもので、前掲の神智学徒だった高齢の女性のオーラを描写したものだ。

頭を、いくらか暗い趣のあるブルーが円形に包み込んでいた。その色合いはわたしには意外で、先生の苦悩ないしは欠点を連想させた。全身から、美麗な白色の光が力強く楕円形に放射されていて、その白い楕円の周りをなぞるように、金色のリボンが、まるで舞踏のステップを踏むように軽やかにとり巻いていた。金色の優美さ、シックさ、朗らかさ。あのような美しい白色も、生き生きとした金色も、肉眼で見える世界には決してない。

 そのときわたしはあの世の視点で他者のオーラを見ていたわけで、そのときのオーラは物質よりも遙かに存在感が勝っており、こういういい方は奇妙だが、光の方が物質よりも物質的に思えるほど重厚感があった。反面、女性の肉体は存在感のない影だった。

 圧倒的な白色を、まるで保護するように取り巻いていた金色のリボンは何かの役割を帯びた組織なのだろうが、その組織の性質が作り出す形状は装飾的といってもよいぐらいだった。

 ここで、わたしはフィレンツェの画僧フラ・アンジェリコの描く、あまりにも物質的な形状の天使の翼や後光を連想するのである。

 フラ・アンジェリコは天使のような修道僧という意味だという。本名グイード・ディ・ピエトロは15世紀前半のフィレンツェを代表する画家で、ベアト・アンジェリコ(福者アンジェリコ)、同時代人からはフラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレとも呼ばれた。

 以下の画像は画集から無造作に携帯で撮った雑なもので、どんな形状のものであるかをざっと示すためだけにアップロードする。

「聖母戴冠」の一部。

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「最後の審判」の一部。

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「聖母戴冠」の天使たち。「最後の審判」の絵の中で、手をつないでいる天使たちと聖者たち。後光や天使の翼の装飾的なことといったら、笑止千万なほどだ。

 後光に注目すると、天使を前から見ても後ろから見ても後ろに張り付いている可笑しさ。頭を載せる黄金の皿のようだ。金色のシャンプーハットをつけているようにも見える。

 ムリーリョ「アランフエスの無原罪のお宿り」のマリアの頭部から放射されている光は後光としては自然な描き方で、オーラの見え始めには頭部から出ている光がこのように見え出す。

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 ただ、神智学徒だった高齢の女性のオーラがありありと見えたとき、体の周囲に卵形に拡がるオーラを縁取った金色のリボンが高級な工芸品のようにすら見えたことを思い出せば、わたしの視点が完全にあの世的な視点となったら、一種の逆転現象が起きて、光の世界こそ、物質的な様相を呈するかもしれない――などと思ったりもする。

 多くの宗教画家は天上的光を地上世界に投げかけるが、フラ・アンジェリコの工芸的な徹底ぶりは、彼が完全に天上の側に入り込んでしまっていることを意味しているのかもしれない。

 草花の描き方なども印象的で、存在感が際立っている。幻想性を帯びて見えるほどだ。装飾写本画家からスタートしたフラ・アンジェリコならではの描き方といえるのかもしれない。

『NHKフィレンツェ・ルネサンス 3 百花繚乱の画家たち』(佐々木英也監修、日本放送出版協会、1991年)によると、フラ・アンジェリコの真筆とされている僧坊壁画は「メリメ・タンゲレ(我に触れるな)」(第一僧坊)、「死せるキリストへの哀悼」(第二僧坊)「受胎告知」(第三僧坊)、「キリストの変容」(第六僧坊)、「嘲弄されるキリスト」(第七僧坊)、「聖母戴冠」(第九僧坊)、「キリストの神殿奉献」(第九僧坊)など6~7点で、他は彼の下絵に基づく助手や協力者の作品と見なされているという。

 前掲書の森田義之「天使の翼」というエッセーから、以下に一部引用させていただく。

キリスト教の教義では、天使は、三つの階級と九つの種類――(上級)熾天使、智天使、座天使、(中級)主天使、力天使、能天使、(下級)権天使、大天使、一般的な天使――に分けられるが、フラ・アンジェリコの絵画に登場するのは、「受胎告知」の主役の大天使ガブリエルか、一般的な天使たちがほとんどである。
[略]
 フラ・アンジェリコの美しい天使たちのイメージ・ソースはどこにあったのだろうか。
 ひとつは、イタリアの現実の子供たちの文字通り天使的な美しさである。

[略]
 もうひとつは、当時の宗教劇の華麗なコスチュームである。

[略]
 フラ・アンジェリコの天使たち――それは現実のフィレンツェの子供たちと、宗教劇の舞台的華麗さと、芸術的想像力が幸福に結びあって生み出された、永遠の美のイメージなのである。 

 船員時代に北欧に行った父は昔、一昨年オランダに出張した息子も、ヨーロッパの子供たちの天使のような美しさについては言葉を尽くして絶賛していた。

 以下のブログ記事で、フラ・アンジェリコの6枚の受胎告知を鑑賞させていただいた。

 ところで、図書館からアントニオ・タブッキの本を2冊、『供述によるとペレイラは……』(須賀敦子訳、白水社、1993年)と『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』(古賀弘人訳、 青土社、1996年)を借りたのだが、ずいぶん以前のこととはいえ、『インド夜想曲』を読んだことがありながら、タブッキが神智学と関係があるということを忘れてしまっていた。

 タブッキと神智学協会の関係については何も知らないのだが、例えば「以下の文章は偽りである。以上の文章は真である。」という作品で「マドラスの神智学協会でお会いした日から三年が過ぎました」などと出てくるところからも、作風からも、関係がないはずはないので、そのことにも少し触れたいのだが、準備不足である。

 神智学とガブリエラ・ミストラルやカロッサとの関係についても書こうと思いながら、少し書いただけで放置している。

 放置状態にせよ、メモだけでも残しておけば、神智学と関係のあった人々がわかるから、そのうちまとめて何か書けるかもしれない。

『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』の表題作で、タブッキはベアト・アンジェリコ、すなわちフラ・アンジェリコを登場させている。

 ここでの主題は、天使のような――と形容されるフラ・アンジェリコがどのような霊感をどのように受けて天使を描いたかということであろう。

 その結論が、サン・マルコ修道院の野菜畑に墜ちてきた三羽の翼あるものということになるのだろう。

 この作品は自然美とフラ・アンジェリコの純朴さを描いた逸品であろうが、どうだろう、キリスト教的主題として読むと、ひどく違和感を覚えるのはわたしだけだろうか?

 少なくとも、キリスト教的とはいえないのではあるまいか。ここに描かれたフラ・アンジェリコの世界は異教的であるに留まらず、解釈次第では冒涜的とすら感じさせる甚だ挑戦的な側面もあるということになるのかもしれない。

 ここで、わたしは過去記事で紹介し、当記事の上の方で触れた人間の七つの構成要素について改めて紹介しておかないと、話が進まなくなってしまった。

 H・P・ブラブゥツキー著『実践的オカルティズム』(田中恵美子、ジェフ・クラーク訳、竜王文庫、1995年)の用語解説より、その七本質を紹介しておく。

神智学の教えによると、人間を含めて宇宙のあらゆる生命、また宇宙そのものも〈七本質〉という七つの要素からなっている。人間の七本質は、(1)アストラル体(2)プラーナ(3)カーマ(4)低級マナス(5)高級マナス(6)ブッディ(7)オーリック・エッグ

 アストラル体はサンスクリット語でいうリンガ・シャリーラで、肉体は本質というよりは媒体であり、アストラル体の濃密な面にすぎないといわれる。カーマ、マナス、ブッディはサンスクリット語で、それぞれ、動物魂、心、霊的魂の意。ブッディは高級自我ともいわれ、人間の輪廻する本質を指す。ブッディは全く非物質な本質で、サンスクリット語でマハットと呼ばれる神聖な観念構成(普遍的知性魂)の媒体といわれる。

 ブッディはマナスと結びつかなければ、人間の本質として働くことができない。マナスはブッディと合一すると神聖な意識となる。高級マナスはブッディにつながっており、低級マナスは動物魂即ち欲望につながっている。低級マナスには、意志などの高級マナスのあらゆる属性が与えられておりながら、カーマに惹かれる下向きのエネルギーも持っているので、人間の課題は、低級マナスの下向きになりやすいエネルギーを上向きの清浄なエネルギーに置き換えることだといえる。

 人間は、高級マナスを通してはじめて認識に達するといわれている。

 神智学では、真の霊感は完全に清められた心を通して高級自我からやってくるのである。画僧フラ・アンジェリコが受けた宗教的、芸術的霊感にせよ、「受胎告知」という形式をとったマリアが受けた霊感にせよ、それが本当の意味の霊感であれば、同じ過程をとるはずである。以下の過去記事を参照されたい(ライン以下に転載)。

 また、神智学徒は妖精好きで知られることがあるが、それは神智学徒には万物が内に秘めている生命は同じ根源から来たすばらしいものだという認識があるためで、動物も植物も鉱物も、そして神智学徒には知られているエレメンタル(地・水・火・風という四つの自然界または四大元素の中で進化したもの)のうちのいわゆる妖精のような存在も皆、兄弟姉妹と感じられるからなのだ。

 神智学徒は「神は鉱物にて眠り、植物にて夢見、動物にて目覚め、人間にておのが姿を現さんとす」という昔の諺を愛する。

 タブッキの『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』に出てくる三羽の翼あるものはどう読んでも天使ではなく、妖精で、画僧フラ・アンジェリコはその三羽の妖精たちから着想を得て絵画制作したという、キリスト教小説からはほど遠いファンタジーになっている。

 三羽の妖精たちはいずれも弱く、可憐で、フラ・アンジェリコの思いを映し出したりもする。妖精の一羽がネリーナという画僧の思い出にある女の子の顔立ちをしているのは、そのためだ。

 この小説はキリスト教的世界観によってではなく、神智学的(神秘主義的)世界観によって描かれているようにわたしには思われる。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

2009年12月19日 (土)
Notes:不思議な接着剤 #34/ペテロとパウロについての私的疑問/『マリヤによる福音書』についての私的考察#1
http://elder.tea-nifty.com/blog/2009/12/notes347-68b3.html

☆『マリヤによる福音書』についての私的考察

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 岩波書店から1997年から98年にかけて刊行されたグノーシス主義の文書――ナグ・ハマディ文書シリーズは全4冊、荒井献・大貫隆責任編集。内容構成は以下のようになっている。

救済神話 荒井献・大貫隆・小林稔訳

ヨハネのアポクリュフォン/アルコーンの本質/この世の起源について/プトレマイオスの教説/パシリデースの教説/パルクの書/解説

福音書 荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳

トマスによる福音書/フィリポによる福音書/マリヤによる福音書/エジプト人の福音書/真理の福音/三部の教え/解説

説教・書簡 荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳

魂の解明/闘技者トマスの書/イエスの知恵/雷・全きヌース/真正な教え/真理の証言/三体のプローテンノイア/救い主の対話/ヤコブのアポクリュフォン/復活に関する教え/エウグノストス/フィリポに送ったペトロの手紙/解説

黙示録 荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳

パウロの黙示録/ヤコブの黙示録1・2/アダムの黙示録/シェームの釈義/大いなるセツの第二の教え/ペトロの黙示録/セツの三つの柱/アロゲネース/解説

『マリアによる福音書』は『ナグ・ハマディ写本』には含まれていないが(『ベルリン写本』『オクシリンコス・パピルス』『ライランズ・パピルス』から見つかったものが知られている)、このナグ・ハマディシリーズに収録されている。

 わたしは真っ先に『マリヤによる福音書』を読んだ。

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 冒頭で紹介されている『マリヤによる福音書』の内容構成は、以下。

(1-6は欠損)
 一 救い主の弟子たちへの教え(の続き)(7の1-9の5)

物質の消滅についての問いと答え(7の1-9)
世の罪についてのペトロの問いと答え(7の10-20)
人の死について(7の20-8の2)
パトスについて(8の2-11)
内にいる人の子について(8の11-21)
宣教命令(8の21-22)
法についての指示(8の22-9の4)
救い主の退去(9の5)

 二 その教えに対する反応(9の5-10の6)

彼が去った後の弟子たちの悲しみ(9の6-11)
マリヤの勧告(9の12-25)
ペトロのマリヤへの要請(10の1-6)

 三 マリヤが救い主から受けた啓示を語る(10の7-10、15の1-17の9)

幻について(10の7-10)
(11-14は欠損)
心魂の上昇の叙述(15の1-17の9)

  マリヤの話に対する反応(17の10-19の2)

アンドレアスの否定反応(17の10-15)
ペトロの同調(17の15-22)
マリヤの抗議(18の1-5)
レビの叱責と勧告(18の5-21)
弟子たちの出発(19の1-2)

 一はイエスと弟子たちの対話篇。

 二はイエスが去った後の場面。弟子たちは、イエスの宣教命令に対する困難を想像して動揺し、涙を流して嘆く。それに対して、マリヤ(このマリヤはマグダラのマリヤとされる)は彼らを力強く励ます。弟子たちはよい刺激を受けて、イエスの言葉について議論し始める。そこへペトロがいう。他の女性達に勝ってイエスに愛されたマリヤにだけ話されたイエスの言葉を聴きたいと。

 三は、マリヤがペトロの頼みを受けて語る場面。わたしが神秘主義的観点から特に興味を惹かれた箇所を、以下に抜粋しておきたい。

 マリヤが答えた。彼女は「あなたがたに隠されていること、それを私はあなたがたに告げましょう」といった。そして彼女は彼らにこれらの言葉を話し始めた。「私は」と彼女は言った、「私は一つの幻の内に主を見ました。そして私は彼に言いました、「主よ、あなたを私は今日、一つの幻の内に見ました。」彼は答えて私に言われました。
「あなたは祝されたものだ、私を見ていても、動じないから。というのは叡智のあるその場所に宝があるのである」。
 私は彼に言いました、『主よ、幻を見る人がそれを見ているのは、心魂〈か〉霊(か、どちらを通して〉なのですか』。
 救い主は答えて言われました。「彼が見るのは、心魂を通してでもなければ、霊を通してでもなく、それら二つの真ん中に〔ある〕叡智、幻を見る〔もの〕はそ(の叡智)であり、そ(の叡智)こそが……

 ところで、話題はここでパウロに飛ぶが、わたしは以下の2点において、パウロに疑問を抱いてきた。
①イエスによる啓示の強引さ。
②パウロの言葉が発する女性蔑視の臭気。

 神秘主義的観点からすれば、高級霊が①のように強引にこの世の人間に関わることはありえない。わたしが高級霊といったのは、パウロの体験に見るイエスの出現の仕方と、イエスが神的であるとするキリスト教の主張を折衷させて考えるとすれば、この存在しかありえないからだ。

 それでも、高級霊の出現の仕方としては俗っぽすぎて、何なのだろうと思っていた。キリスト教の信者ではない率直さでいうと、わたしはパウロのいうイエスは、イエスではないと思う。パウロの体験は、トンデモ宗教の神に憑かれたトンデモ教祖の体験と区別がつかない。

 それが『マリヤによる福音書』に描かれる内的体験としてのマリアが受けた啓示は、高級霊の関わりかたとして見ても、彼女の内なる神性との関わりかたとして見ても、おそらくその双方であろうが、キリスト教の信者ではないわたしには納得のいくものだ。

 神秘主義的には高級霊は、その人に潜む神聖な意識(高級我)を通してしか関わることができないからなのだ。高級なものは高級なものにしか関わることができない。このことは、以前わたしが過去記事:エッセー『卑弥呼をめぐる私的考察』の中で紹介したような、宇宙と人間の七本質に関する基礎知識がなくては理解に苦しむだろうと思う。

 わたしには今それをここで詳しく解説するだけのゆとりがないが、再度、H・P・ブラブゥツキー著『実践的オカルティズム』(田中恵美子、ジェフ・クラーク訳、竜王文庫、1995年)の用語解説より、その七本質を紹介しておく。

神智学の教えによると、人間を含めて宇宙のあらゆる生命、また宇宙そのものも〈七本質〉という七つの要素からなっている。人間の七本質は、(1)アストラル体(2)プラーナ(3)カーマ(4)低級マナス(5)高級マナス(6)ブッディ(7)オーリック・エッグ

 アストラル体はサンスクリット語でいうリンガ・シャリーラで、肉体は本質というよりは媒体であり、アストラル体の濃密な面にすぎないといわれる。カーマ、マナス、ブッディはサンスクリット語で、それぞれ、動物魂、心、霊的魂の意。ブッディは高級自我ともいわれ、人間の輪廻する本質を指す。ブッディは全く非物質な本質で、サンスクリット語でマハットと呼ばれる神聖な観念構成(普遍的知性魂)の媒体といわれる。

 ブッディはマナスと結びつかなければ、人間の本質として働くことができない。マナスはブッディと合一すると神聖な意識となる。高級マナスはブッディにつながっており、低級マナスは動物魂即ち欲望につながっている。低級マナスには、意志などの高級マナスのあらゆる属性が与えられておりながら、カーマに惹かれる下向きのエネルギーも持っているので、人間の課題は、低級マナスの下向きになりやすいエネルギーを上向きの清浄なエネルギーに置き換えることだといえる。

 人間は、高級マナスを通してはじめて認識に達するといわれており、マリヤが伝えるイエスの言葉は、わたしにはそのことを意味しているように思われる。

 なぜなら、このあと『マリヤによる福音書』ではイエスの教えとして、心魂の上昇する旅が描かれているからで、心魂は七つの権威(煩悩と解釈できよう)――闇、欲望、無知、妬み、肉の王国、肉の愚かな知恵、怒っている人の知恵――に打ち勝ち、時間の、時機[とき]の、永久の安息へと至るのだ。

 では、弟子たちの前にイエスが復活したという福音書におけるリポートをどう解釈するかであるが、他の弟子たちはマリヤほどの高い境地には達していなかったため、死んだイエスには、《復活》するしか彼らと接触する手段がなかったということは神秘主義的に考えれば、充分ありそうなことだと思われる。

 パラマンサ・ヨガナンダ著『ヨガ行者の一生』(関書院新社、昭和35年)では、ヨガナンダの師匠であったスリ・ユクテスワァが死後に出現する場面が、感動的なタッチで描かれている。

 尤も、ヨガナンダの場合は優れた弟子であったから、ユクテスワァは、イエスがマリヤに出現したのと同じような、死者自身に負担の少ない出現の仕方もできたはずだが、ユクテスワァはヨガナンダを喜ばせるために、あえて《復活》してみせたのだろう。

 その場面を前掲の『ヨガ行者の一生』から引用する。

 1936年6月19日の午後3時――つまり、ボンベイのホテルでベッドの上に座っていた私は、名称しがたい歓喜の光によって瞑想から覚まされた。すると、驚いたことに、部屋中が不思議な世界に変わっている。天来の光輝が日光にとってかわっているのである。

 肉体の形をとったスリ・ユクテスワァの像を見た私は、恍惚の波に包まれた。
「私の息子よ」先生は天使のように魅力的な微笑をたたえながら優しくいった。
 私は生まれてはじめて跪座の礼も忘れて、飢えたように先生を両腕に抱きしめた。ああなんという素晴しい瞬間だろう! 今私の上に降った奔流のような至福に比べるならば、過去数ヵ月の苦悩は物の数ではなかった。
「私の先生、私の心の愛するお方、あなたはどうして私を置いて行かれたのですか」私は喜びの余りわけのわからぬことを口走った。「どうして先生は、私にクムパ・メラに行くことを許されたのですか。私はあの時先生の傍を離れたことをどんなに後悔したか知れません!」
「私は、ババジと私の邂逅の地を見たいという、お前の美しい期待をさまたげたくなかったのだ。私はお前とほんの暫く離れているだけだ。お前もいつかは私の処に来るのではないかね?」
「でも、これは本当に先生なのでしょうか、あの神のライオンである先生なのでしょうか? 先生が今着ておられるその肉体は、私がプリの庭に埋葬したあの肉体と同じものなのでしょうか」
「そうだ、子供よ。同じものだ。これは血の通う肉体だ。私の眼にはエーテル体に見えるが、お前の眼には物質に見えるであろう。私は宇宙原子から全く新しい体を創ったのだ――お前が夢の国で、プリの夢の砂地に埋葬した夢の肉体と全く同じ肉体を、わたしは実際に復活したのだ。此の世でなしに、幽界に――幽界の居住者達は、此の世の人々よりもずっと容易に私の高い水準に順応することができる。お前も、お前の愛する高弟達も、いつかは幽界の私の許に来るであろう」
「ああ、死を知らぬ先生、もっと話してください、お願いです!」
 先生は愉快そうにクスクス笑った。「ヨガナンダ、お願いだからもう少し抱擁を緩めてくれないか」
「ほんの少しだけですよ」私はまるで蛹のようにしっかり先生に獅噛みついていた。私には彼特有のほのかな香りよい体臭が感じられた。今でもこの時の輝かしい会合を思い出すと、両腕と掌の内側に先生の神々しい肉体のぞっとするような感触が蘇ってくる。

 ちなみに、ヨガナンダの死に際して起こったことを前掲の『ヨガ行者の一生』から紹介すると、晩餐会における演説を終えたヨガナンダはマハーサマージ(ヨギが肉体を脱する際の意識状態)に入った。そして遺骸に関する検証は、20日経って柩に青銅の蓋がかぶせられる直前になっても死体の状態には何ら分解の色が見えず、死臭が漂うことも全然なく、生前そのままの状態を維持していた……と驚きを持って報告している。

 前掲のブラヴァツキー著『実践的オカルティズム』では、アデプト(イニシエーションの段階に達し、秘教科学に精通されたかたをいう)は、特別な場合に使うために作られるマーヤーヴィ・ルーパー(幻影体)を自在に使うことができると解説がある。

 そこまでレベルを落とさなければ、マリヤ以外の弟子たちにはイエスは出現できなかったのだとしたら、イエスの復活は、復活という負担を師匠に強いらねばならなかった弟子たちの――弟子に選ばれたにしては――一般人とあまり変わらない劣等生ぶりをあかし立てる恥ずかしい事態以外の何物でもないとわたしは思う。その後、イエスの《復活》が満艦飾にイルミネーションされ、広告塔に使われたことを考えると、恥ずかしいというより、人類を知的に退化させるあまりの愚かしい事態に戦慄を覚える。

 マリヤは『マリヤによる福音書』の中では、イエスが愛した女性として、そして、イエスに愛されるに足るだけの高い境地に達した愛弟子として描かれている。しかしマリヤの言葉が、ペトロはじめ弟子たちの嫉妬と不審を買ったらしいことが四のくだりでわかる。その様子は、あまりにも人間臭く、生々しい。

 すると、アンドレアスが答えて兄弟たちに言った、「彼女が言ったことに、そのことに関してあなたがたの言(いたいと思)うことを言ってくれ。救い主がこれらのことを言ったとは、この私は信じない。これらの教えは異質な考えのように思われるから」。
 ペトロが答えて、これらの事柄について話した。彼は救い主について彼らに尋ねた、「(まさかと思うが)、彼がわれわれに隠れて一人の女性と、(しかも)公開でではなく語ったりしたのだろうか。将来は、われわれは自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。(救い主)が彼女を選ん〈だ〉というのは、われわれ以上になのか」。
 そのとき、〔マ〕リヤは泣いて、ペトロに言った、「私の兄弟ペトロよ、それではあなたが考えておられることは何ですか。私が考えたことは、私の心の中で私一人で(考え出)したことと、あるいは私が嘘をついている(とすればそれ)は救い主についてだと考えておられるからには」。
 レビが答えて、ペトロに言った、「ペトロよ、いつもあなたは怒る人だ。今私があなたを見ている(と)、あなたがこの女性に対して格闘してるのは敵対者たちのやり方でだ。もし、救い主が彼女をふさわしいものとしたなら、彼女を拒否しているからには、あなた自身は一体何者なのか。確かに救い主は彼女をしっかりと知っていて、このゆえにわれわれよりも彼女を愛したのだ。むしろ、われわれは恥じ入るべきであり、完全なる人間を着て、彼がわれわれに命じたそのやり方で、自分のために(完全なる人間)を生み出すべきであり、福音を宣べるべきである、救い主が言ったことを越えて、他の定めや他の法を置いたりすることなく」。〔    ±8    〕したとき、彼らは〔告げるため〕、また宣べるために行き始めた。

 ペトロたちを、ここではレビが諭すことにどうやら成功したかのようだが、その後にマリヤが排斥、追放されたことはありえることだ。でなければ、『マリヤによる福音書』が隠されてなどいただろうか。『マリヤによる福音書』の欠損が惜しい。

 わたしにはイエスを仏陀のような、この世という学校を卒業したけれど、後輩の指導のために、あえて母校を訪れてくれた親切なOBの一人としてしか、思い描くことはできない。

 もし、パウロがイエスに由来すると思い込んだ体験が茶番劇でなければ、彼の精神を受け継いだ教会のその後の強引で暴力的な行いと、世俗的な成功は何だろう?  その哲学性ゆえに男女平等の立場を貫くグノーシス主義が勝っていたら、キリスト教にも女教皇が当然のようにいただろうし、東西の思想的な分裂もそれほどではなかったかもしれない。

 正統性を声高に暴力的に主張するカトリックとの関わり合いの中で、グノーシスの精神を受け継いだカタリ派がデミウルゴス(創造神)を悪魔とまで言い切る姿に、わたしは彼らの歴史的に形成されたトラウマ(精神的外傷)を見る思いがする。

 後世に希望を託して写本を隠した人の思いは、如何ばかりであったろう。このことを逆から見れば、それまでは隠す必要がなかったわけだ。

2009/12/19 10:25

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