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2014年1月 6日 (月)

初の歴史小説 (20)教養 ①江戸時代の文学的空白。文学肌の義理の息子、直條。

 旧年中に出すはずだった『気まぐれに芥川賞受賞作品を読む ①2007 - 2012』を出してしまいたい。

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 それから、初の歴史小説へ本格的に突入。これは執筆計画①を細かく立てるところからスタートだ。萬子媛を中心に日本史のどの辺りからどの辺りまで書くかは、だいたい決まりつつある。

 萬子媛に関する年表②と、小説のための総年表③を日数をかけても作成しておかなくてはならない。西日本が当時、外国勢力をコントロールするための要所であったことを考えると、日本に対して影響のあった国々のその頃の歴史も総年表には併記しておく必要がある。

 わたしはお世話になっている郷土史家に、喪中とも知らずに年賀状を出してしまった。今日郷土史家から寒中メールを頂戴してそのことを知った。温かみのあるメールを拝読し、嬉しかった。

 ところで、江戸文藝を通して日本文学の独自性を探ろうとした江藤淳の『近代以前』を読んでいた。最後に追加されたという「はじめに」に、以下のような興味深いことが書かれている。

慶長五年(一六◯◯)を截然たる境として、日本の文学史がほぼ三十年間、見方によってはその倍に当る六十年間、文字通りの空白に帰してしまっている。
[略]
「詩歌」「小説」「戯曲」「その他」の各ジャンルを通じて、ほぼ正常な作品活動が回復するのは、四代将軍家綱の万治年間(1658~1660)まで待たなければならないのである。

 そこにそのような空白があったのだと思ったが、以前からわたしは女性文学史の空白のほうが気にかかっていた。

 関敏子『仮名日記文学論 王朝女性たちの時空と自我・その表象』(笠間書院、2013年)の「はじめに」には、以下のように書かれている。

 一〇世紀後半から一四世紀中葉にかけて、現代の視点から仮名日記文学にジャンル分けし得る作品群が出現し、隆盛を極め、終焉した。

 「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり。」に始まる『土佐日記』は、紀貫之が女性仮託によって日次で綴った仮名日記の試みであり、意表を突く、画期的な発想の転換であった。それから約四〇年後、『蜻蛉日記』が書かれる。「自己を語る女」の登場である。これ以降、南北朝期の『竹むきが記』に至るまで、女性作者たちは、自己を素材にして多彩な作品を残した。その後三五〇年の長きに渡ってあらゆるジャンルから女性作者が消え、女性文学史は空白の時代を迎える。

 研究が進んでいないだけなのかもしれないが、この空白は怖ろしい。南北朝時代の日記『竹むきが記』の作者は日野名子(1310 - 1358)。14世紀中葉から350年の空白。

 過去記事で書いたように、江戸時代の区分には諸説あるようだが、将軍で分ける以下の説がわかりやすい。

  • 前期 1603年 - 1709年
    江戸幕府初代将軍・家康から第5代将軍・綱吉まで。
  • 中期 1709年 - 1786年
    第6代将軍・家宣が将軍から第10代将軍・家治まで。
  • 後期 1787年 - 1867年
    第11代将軍・家斉から第15代将軍・慶喜まで。

 女性文学史は江戸中期になるまで空白。有名な「おあむ物語」は江戸初期の成立とされるけれど。以下の著書『江戸女流文学の発見』は読んでおきたい。

 わたしは拙著『茜の帳』の中の「萬子媛抄」で以下のように書いている。

 神社外苑にある祐徳博物館には、萬子媛遺愛(いあい)の品々を展示したコーナーがあります。そのなかでわたしにとって印象深いものは、萬子媛の遺墨(いぼく)、扇面(せんめん)和歌です。金箔を張った扇面の馥郁と紅梅が描かれた扇面に、新古今和歌集から皇太后宮大夫俊成女のうた、

「梅の花飽かぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月」が薫るように揮毫(きごう)されています。

 その前に立って、わたしは、萬子媛の面影を想像してみるのです。大和物語から写しとったものもあります。筆跡は流れるようでいて、しずかです。大和物語といえば、哀切なまでにしとやかな情趣で貫かれている歌語り集で、最終的な集成は花山院グループの手によるらしいのですが、萬子媛は左大臣花山院定好公の娘として生まれました。

 中古、中世文学を好む公家の娘らしい萬子媛が窺われるが、萬子媛は1625年に生まれ、1705年閏4月10日に亡くなっている。前掲のような女性文学史の空白期間を考えると、江戸女流文学がようやく開花しようとする頃に萬子媛は世を去った。

 萬子媛は義理の息子たちに影響を及ぼした教養の持ち主とされるから、萬子媛の教養について知るには、義理の息子たちの教養を調べなくてはならない。特に文人大名として知られる三男の第4代鹿島藩主、直條。

 以下はウィキペディアより抜粋。ウィキでは直條は第2代藩主となっている。

鍋島直條:Wikipedia

鍋島 直條(なべしま なおえだ)は、肥前鹿島藩の第2代藩主。

承応4年(1655年)2月2日、初代藩主・鍋島直朝の三男として常広城本丸で生まれる。幼少時から聡明であり、特に文学に秀でたという。寛文12年(1672年)12月9日、父の隠居により家督を継いで第2代藩主となる。文芸への造詣が深く、林信篤と交流し、参勤交代のたび、林家で催される詩会に参加していた。中でも人見竹洞とは昵懇の関係であった。自らも「休々集」「鹿島志」「花頂山記」「蒙山和歌集」など、多くの著作を残している。
反面、当時の鹿島は特に主だった産業も資源もないのに、直條の時代から他の藩と同じように幕府の公役負担が課せられて財政難となり、本家の佐賀藩からたびたび援助を受けるようになったという。宝永2年(1705年)4月29日に江戸で死去した。享年51。跡を五男・直堅が継いだ。

 萬子媛の教養に薫染したこの文学肌の直條が『祐徳開山瑞顔大師行業記』を書き遺してくれていなければ、後世の人間が萬子媛の出家の動機について知ることはできなかっただろう。

『祐徳開山瑞顔大師行業記』は萬子媛が亡くなる1年前に著述されたものだという。この古文書の内容は現代人にも訴えかける力を持っている。わたしは――漢文なので、まだざっと読んだだけだが――胸に迫り、泣いてしまったほどだ。

 この内容を、わたしは初の歴史小説の核としたい。

 萬子媛のよき理解者だった2人の義理の息子たち――断橋和尚こと直孝、直條――を産んだのは1660年に32歳で亡くなった彦千代である。彦千代の母は龍造寺政家の娘だった。

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