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2014年1月23日 (木)

初の歴史小説 (22)教養 ③思想界を二分した儒仏二道

 当時、清新の気に満ちていた黄檗禅。萬子媛はこの黄檗禅に帰依した。黄檗禅は西方浄土的かつ密教的であったという。開祖隠元の日本渡来は1654年、仏教界への影響は大きかった。ちなみに木魚は黄檗禅から広がったものだそうだ。

 萬子媛の義理の息子直條は、江戸時代を支えた思想である朱子学(江戸儒学)とは切り離せない林家の三代林鳳岡と親交があった。

 江戸時代には女性は文学には参加しなかったのだろうかとずっと不審に思っていたのだが、どうもそうではないらしい。

          

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『江戸女流文学の発見』(門玲子、藤原書店、新版2006年)では、平安女流文学の伝統的文体を身につけた上に中国の論語、中庸、文選、史記などから縦横に引用できるだけの教養を備えた『松陰日記』の著者、正親町[おおぎまち]町子について、一章が割かれている。町子は公家の娘である。

 萬子媛も公家の娘であり、教養に富み、義理の息子たちに影響を与えた――また逆に影響を受けた――とされる萬子媛も、そうした教養を身につけていた可能性が高い。

 萬子媛は37歳で結婚した。初婚だったか再婚だったかはわからない。

 長男、文丸は10歳で亡くなり、次男は21歳で亡くなった。次男の死が萬子媛を慟哭させ、出家を決意させた。萬子媛は夫ある身でありながら、62歳で出家した。80歳で断食入定。

 萬子媛の慟哭はわかるにしても、夫を置いての出家は特殊なことに思え、断食入定は壮絶に感じられた。黄檗禅に密教的要素があったことを考えると、断食入定もありえたことといえるのかもしれない。

 そして、前掲書『江戸女流文学の発見』には、了然尼[りょうねんに]という、これまた壮絶な歌人・尼僧が登場する。

「主要人物注」には了然尼について、「はじめ東福院に仕え、のち儒医松田晩翠に嫁いだ。夫に妾を置いて家を出た。美貌のため出家を拒まれたので、顔を焼いて出家をとげ、ふたつの寺の住職をつとめた。漢詩、和歌、書をよくした」とある。

 夫に妾を置いて出家というのは、あっぱれというべきか、夫を下半身のみの生き物と独断する絶望的解釈というべきか。ここでわたしはふと、萬子媛が男子(文丸)を出産した同じ寛文4年(1664年)に、側室もまた男子を出産したことを思い出した。

 了然尼が「美貌のため出家を拒まれた」というのはよくわからないが、その障害を乗り越えるために顔を焼いた――という行為には言葉をなくす。

 いずれにしても、その頃の女性の扱われ方の一端を見る思いがする。

 わたしは過去記事で、諸説ある江戸時代の区分法のうち、将軍で分ける以下の説をとりあえず採用してみたが、このことに関しては江戸時代の勉強後に再検討してみたい。

  • 前期 1603年 - 1709年
    江戸幕府初代将軍・家康から第5代将軍・綱吉まで。
  • 中期 1709年 - 1786年
    第6代将軍・家宣が将軍から第10代将軍・家治まで。
  • 後期 1787年 - 1867年
    第11代将軍・家斉から第15代将軍・慶喜まで。

 萬子媛は1625年に生まれ、1705年閏4月10日に没した。了然尼は1646年に生まれ、1711年に没しており、時代的には重なる。

 前掲の区分で見ると、二人が生きた時代は江戸前期に当たる。幕藩体制が確立し、江戸文化が開花しようとする頃である。

 3代将軍家光の時代まで武断政治が行われたが、家光が死去した年に由井正雪ら浪人による慶安事件が起きたのをきっかけとして、幕政方針は4代将軍家綱の時代から文治政治への転換をみた。

 了然尼と、『処女賦』、『深闇記』を著した井上通女[1660-1738年]の間に起きた論争について触れられた箇所は興味深いので、以下に引用させていただく。

朱子学を深く学んでいる通女にむかって、了然尼があなたは現世の学問ばかりに熱心であるが、来世のことは気になりませんか、彼岸の浄土に済度してもらう菩薩の舟を求めませんか、と詰問した。[略]了然尼の、人生の根本に触れるこの問いにたいして通女は、生きがいを持たない人はこの世を憂き世と思い、尼の乗る救いの舟を慕わしく思うのでしょう、私はこの世をいかに生きるかということで充実しています、という歌で正面から切り返したのであった。
 当時の思想界を二分する儒仏二道の、女性によるドラマチックな対決である。通女の思想が付焼刃ではなく、実践を重んじる朱子学の本道をいくものであったことをしめしている。

 ここを読んで、わたしは戦後日本人はある意味で先祖返りして江戸儒教の精神に生きているのかもしれないと思った。GHQの洗脳と資本主義とマルキシズムだけでは説明のつかない現世主義があると怪訝に思ってきたのだった。江戸時代は長かった。日本人の骨の髄まで染み込んだものがあるのかもしれない。

 萬子媛の義理の一人は黄檗宗の僧侶に、一人は大名になって江戸儒学の家系と親交を深めた。「当時の思想界を二分する儒仏二道」という言葉を形にしたような義理の息子たちの選択である。その義理の息子の兄の方は萬子媛が出家するにあたっての導師役を務め、弟の方はそんな萬子媛のことを「祐徳開山瑞顔大師行業記」に書き残したのだった。

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