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2013年11月21日 (木)

初の歴史小説 (18)先妻の死に伴う殉死の記録。外国船の来航、キリスト教の脅威と脅威のない明からの亡命者

 郷土史家から送っていただいた資料の中に、直朝公を中心に戸籍謄本風にまとめられたものがあるのだが、下方に主立った出来事のメモがある。それに以下の記述があり、目を惹いた。

  • 万治3年(1660)寿性院が逝去につき、島原神代から付き従ってきた小柳八郎兵衛殉死。

 寿性院とは、直朝公の先妻・彦千代のことで、21歳で嫁ぎ万治3年(1660年)に32歳で逝去した。

 殉死が禁止されたのはいつだったっけと思い、ウィキペディアで調べてみた。4代将軍・家綱のとき殉死の禁が口頭伝達され、5代将軍・綱吉のとき明文化されたようだ。以下はウィキペディアより抜粋。

殉死:Wikipedia

1663年(寛文3年)、4代将軍徳川家綱、5代綱吉の治世期に、幕政が武断政治から文治政治、すなわちカブキ者的武士から儒教要素の入った武士道(士道)へと移行。寛文3年5月(1665年)の武家諸法度の公布とともに殉死の禁が口頭伝達され、1668年には禁に反したという理由で宇都宮藩の奥平昌能が転封処分を受けている(追腹一件を参照)。この後、延宝8年(1680年)に堀田正信が家綱死去の報を聞いて自害しているが、一般にはこれが江戸時代最後の殉死とされている。天和3年(1683年)には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ、本格的な禁令がなされた。

 ところで、図書館から借りた『隠元禅師年譜』(木村得玄訳、春秋社、2002年)「序にかえて」に「中国明代末期から清代初期にかけての動乱をのがれて多くの中国僧、学者、芸術家などが日本に渡っているが、なかでも黄檗宗の禅僧の数がもっとも多い」とある。

 こうした亡命者は徳川幕府の脅威とはなりえなかったのだろう。前掲書には、中国明代の中国禅をそのまま日本に伝えた隠元が4代将軍・家綱の信頼を得て宇治に万福寺を建立したことが書かれている。黄檗宗が江戸文化にもたらした文化は「黄檗文化」と呼ばれた。

 それとは対照的に、外国船の来航、キリスト教は脅威であった。幕府は鎖国政策をとり、キリシタンを弾圧した。

 識者から送っていただいた『鹿島史年表』を見ると、その経緯が生々しく伝わってくる。慶長12年(1607年)、浜にドミニコ教会建立。慶長13年(1608年)鹿島に教会建立。慶長17年(1612年)嬉野にイエズス教会建つ。

 幕府がキリスト教を禁止したのは慶長17年(1612年)である。元和2年(1617年)、幕府は再びキリスト教禁令を出す。しかし、禁止令の効果がなかったのか、元和8年(1622年)に「元和の大殉教」と呼ばれるキリシタン55人の処刑が行われた。

 見せしめの効果もなかったのか、宣教師やキリシタンの処刑はこの後も続く。そして、それと並行するように、イギリス商館の閉鎖、幕府のポルトガル、オランダとの断交が行われた。

 寛永11年(1634年)に長崎の出島築造が着手され、翌年の寛永12年(1635年)に幕府は外国船の入港を長崎・平戸に限定し、日本人の海外渡航・帰国を禁じる。が、寛永14年(1637年)に島原の乱。寛永16年(1639年)、第5次鎖国令……。

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