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2013年7月 3日 (水)

瀕死の児童文学界 ⑩日本の中の児童文学共産圏

 幸いなことに日本では、小説を書くための基礎的な学力は義務学校で身につけることができます。創作の技法は独学できますし、文芸部などで学ぶこともできます。学ぶことができないのは、独自に育むしかない哲学で、それによって文学観が形成されるのです。

 そういった意味では物書きは求道者に似ており、一人一人が創業者であり、開拓者であって、外の世界に師匠を求めることはあっても、基本的には自分自身が先生であり、生徒のはずです。

 芸術家は皆そうではないでしょうか。

 出来上がった作品を出版社に持ち込み、出版社がそれに惚れ込んだら、契約が交わされます。出版社は印刷所に頼んで本にし、出版取次が流通させ、書店が売る――のはずが、日本の児童文学界ではよほどの経済力かコネでもない限り、そのやり方が通用しなくなっているのです。

 今の日本の児童文学界は日本の中の共産自治区ともいうべき、特殊な社会を形成しています。驚くべきことですが、日本の中に共産圏が存在するのですよ。

 共産主義が悪いとはいいません。日本では言論の自由が存在するのですから。しかし、それが児童文学という日本文化の一分野を占拠してしまうとなると、大いに問題ではないでしょうか。

 一派を形成するのであれば、いいのです。色々な派がある中の一派として存在するのであれば。でも、明らかにそうではなくなっています。いつからそうなのかは知りません。それが、カテゴリー「瀕死の児童文学界」を作り、そこに記事を投げ込み始めてから続けてきたリサーチと観察を通して得た結論です。

 最初、わたしは作品を出版社に売り込むつもりで、持ち込みできる出版社を探しました。10年くらい前には、対面式で持ち込める児童文学専門の出版社が結構ありました。

 今もないわけではありませんが、可能なのは郵送だけです。放置されるか、葉書でお祈りされるかのどちらかだと児童文学作家の卵の皆様はブログに綴っていらっしゃいます。わたしもどちらも経験済みです。

 コネもお金もない貧乏人にとっては、もう賞狙いしかありませんが、そこからの経緯は「瀕死の児童文学界」に書いてきた通りです。発端の記事は以下のようなものでした。児童文学の世界ではよく知られているらしいある賞に応募したところ、創作教室のチラシが送られてきたのにショックを覚えたのが始まりでした。

“2012年3月 4日 (日)
文学の危機――その発端を回想する

ねえ、考えてもみてください。

創作コースとか創作講座といったものは、アメリカ発祥のビジネスです。
アメリカははっきりいって、文学的には後進国ですが、だからこそ、不用意にそんなものがつくれたともいえます。

日本でその種のものができたのは、早稲田大学が最初ではなかったでしょうか? 
こんなものができるようになっちゃ、文学も終わりよね――と誰かと話した覚えがありますが、本当にそうなりつつあるという危機感をわたしは覚えています。

ヨーロッパの偉大な作家(児童文学作家も含めて)の一体誰が、そんなところの出身だというのでしょうか?
このことは、そんなものが必要ないことを示しています。
むしろ、文学という自由な精神を必要とする芸術活動にとっては有害であるとすら考えられます。

 結論だけいえば、賞も同人誌も、異分子をいれないための関所なのです。さすが共産圏。

 内部でがんばっていらっしゃる方、指導に当たっていらっしゃる先生方の一人一人は一生懸命に善良になさっているのだとは思いますが、圏外から見ると、まことに異常な世界なのですよ。

 同人誌での体験学習を非礼を承知であえて公開記事とさせていただいたのは、おそらく他の同人誌も同じような傾向を持つと思われるからです。

 そこで起きたことは、日本の中における児童文学共産圏の特徴をよく表しています。

 そこは当初わたしが思ったより、遙かに有名かつ有力な雑誌でした。プロの作家、編集者が編集委員で、応募作品の全てにコメントがなされます。

 しかし、そもそも売り込むはずが、何でこんな教育を受けるはめになるのでしょうか。共産圏だからとしか考えようがありません。前述したように、そんな派があっても構わないと思うのです。児童文学全体の中の一部を占める限りにおいては問題ではありません。

 ここが違うと思えば、自分に合う出版社を見つけるなり、もう少し技術力を身につけたいと思えば、文学観の合う創作教室や同人誌を探せばいいのですから。

 でも、持ち込みはほぼ不可能。賞も、同人誌も、創作教室も、エンター系のジャンルに限られている上に特殊な文学観を感じさせられるものしかなく、そのどれもが再教育の必要性を謳っているかのようであり、仕方なくそこに身を置けば、否応なしに一から教育し直されるとなると……それは教育というより洗脳ですが、本来の自分を殺して洗脳に身をゆだねてその世界で生きるしかないとなると……それって、何のための文学でしょうか。それは文学といえるのでしょうか。

 同じような作品ばかり出ているのが不思議でしたが、今ではその原因が特定できました。

 大人の文学の分野では、まだしも、自分に合う同人誌や出版社を見つけることが可能でした。わたしが合うと思ったり、わたしの作品に魅力を感じたりしてくれた作家や何軒かの出版社は、上品で教養があるゆえに力がなかったり、貧乏だったりでした。

 わたしは純文学作品を書き続けるつもりですが、児童文学のほうを本格的に書き始めたいと思い、いわば下調べとして持ち込み、応募、同人誌をリサーチしてきたわけでした。

 しかし、これでは仮によい作品ができたとしても、電子書籍にするしかない現状です。作家の卵としては、ほぼ抹殺された状況といってよいでしょう。

 わたしのブログが抵抗文学ならぬ抵抗ブログ的であり、つい図書館からカロッサやケストナーといった抵抗文学を借りてしまうのは、わたしの執筆環境がそれによく似たものだからなのです。自由なはずの日本において。

 日本のメディアは中国、朝鮮、左翼にのっとられている……と警告するサイトを沢山見かけるようになりましたが、それは本当だと思いますよ。

 特に、子供の世界が危ないと思います。荒れるはずです。日本児童文学共産圏には陰湿なところがあるように感じます。そこで書くしかない人々には鬱憤が溜まっており、仲良しごっこの陰には自由行動を許さない雰囲気があります。子供たちのいじめ合いはその反映にすぎません。

 アンドレ・バーナード『まことに残念ですが… 不朽の名作への「不採用通知」160選』(木原武一監修、中原裕子訳、徳間文庫、2004年)はわたしの愛読書です。ひどい言葉で断られようと、作家は編集者と対等に扱われており、健康的な社会だと感じさせます。編集者の断り文句もなかなか独創的です。

 そういえば、一昨日、空間に金色の星のきらめくのが見えました。神秘主義者のわたしには時々、見えない世界からのエールがあります。あながち間違ったことは書いていないというエールではないでしょうか。以下は関連記事。

 ところで、まだ夏休み前なのに(?)読書感想文の記事にアクセスが集中し始めました。新しい記事を書くつもりですが、以下は高校生のために書いた前年版の記事へのリンクです。

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