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2013年3月25日 (月)

デイヴィッド・アーモンド『肩胛骨は翼のなごり』の説教臭さ、ウィリアム・ブレイクの詩『ハエ』との関係

 デイヴィッド・アーモンドが、肩胛骨は翼のなごり……というファンタスティックな俗説(All Aboutの解説によると、肩胛骨は鎖骨と背筋で支えられた背中に浮いている骨であるため、通称天使の羽と呼ばれている。翼のなごりとは、その構造から空想した説だろう)を創作の素材としたように、わたしもまた『卵の正体』で素材としたから、イギリスの作家がどんなものを書いたのだろうという好奇心が湧き、図書館から本を借りたまではよかったが、何かここ数日、落とし穴にでも墜落してしまったような心理状態でいた。

 肩胛骨、天使、鳥、恐竜と同じ素材から気ままに、無責任に空想を膨らませたことは同じだが、その捉えかたには(結びつけかたといったらいいだろうか)、強い違和感を覚えたのだ。

 アーモンドも恐竜について言及していたり、ギリシア神話、ウィリアム・ブレイクなど、わたしと興味の方向が似ている。似ているだけに、その感覚のずれに驚き、さらにはこの本が人気があるということに何ともいえない空虚な気分に陥ってしまったのだった。

 夫とはこの点、こうした根本的な感覚にはずれがないため、本の一部を朗読してどう感じるかを問うと、わたしと同じ反応だったことに深い安堵感を覚えた。

 この作品については後日ちゃんと書きたいと思っているが、ギリシア神話に出てくるペルセポネの話からの引用は――わたしが読んだAmazonのレビューにもあったが――間違っているのではないかと思うし、ウィリアム・ブレイクの詩の引用の仕方のおかしさには言葉が出なかった。

「出たり入ったりする魂」という表現に対する違和感――いや、言葉自体はそれより前のほうに出てくるブレイクの言葉なのだろうが(ブレイクの言葉としてまとまって読むと、おかしいと感じない)、それが人体解剖図にくっつけられることが不自然なのだ。ここでは洒落にはならない。

 ウィリアム・ブレイクの言葉や詩は、他の場面でも引用されているが、意味合いが違うと思うのだ。

 どうしても村上春樹を連想させられるアクセサリー的引用の仕方であり、複数の登場人物はアーモンドの思想を分かち、説教する代理人のようである。ファンタジーを装っているが、宗教書のようだ。

 この感覚はちょうど、プラトンとアリストテレス、原始キリスト教の文献とローマ・カトリック教の教義、ブラヴァツキーとシュタイナー、ユングと河合隼雄を比較したときに覚える違い、後者に覚える違和感と似たものがあった。

 一見、似ているだけに(後者は前者を部分的に引き継いでいるのだから、似ているところがあって当然だが)、その感覚的、意味合いの違いはショッキングなほどなのだ。

 ウィリアム・ブレイクの詩は率直なヒューマニズムを印象づけられるものであって、むしろアーモンドの作品とは対照的なところがある。含みやもったいぶったところを感じさせない。翻訳の問題もあるのか、詩によっては、解釈に苦しむ部分は出てくるのだが。

 以下にブレイクの「ハエ」というタイトルの詩を紹介しておく。アーモンドの『肩胛骨は翼のなごり』ではこの詩が素材としてあまりに直接的に使われているように思えるだけでなく(スケリグとあかちゃん、スケリグとマイケルとミナのダンス)、もしそうだとすれば、意味合いが変えられてしまっていることになる。

 上に書いたように、後日、デイヴィッド・アーモンドについてはもう少しちゃんとした小論を書く予定。

  ハエ

    ウィリアム・ブレイク(高島誠訳)
    ※『世界文学全集――103 世界詩集』講談社、1981年

かわいいハエよ
おまえの夏の遊びを
ぼくの軽快な手が
払いのけてしまった

ぼくこそ
おまえのようなハエではないか
あるいはおまえこそ
ぼくのような人間じゃないのか

ぼくだって踊る
酒を飲む 歌をうたう だから
誰かの無知の手で
翼をもぎとられてしまうのだ

もしも思想というものが
生命、力、呼吸であるのなら
思想がないということが
死と同じであるのなら

生きていようと
死んでいようと
このぼくは
幸福な一匹のハエである

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