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2012年3月20日 (火)

書評 - 梨木香歩『りかさん』(偕成社、1999年) 自己満足の道具となったアビゲイル

梨木 香歩
新潮社
発売日:2003-06

 偕成社版『りかさん』を図書館から借りて読み始めた日の夕方、自分のものにしてちゃんと読んでみたいと思い、仕事帰りの娘に頼んで新潮文庫版を買って来て貰った。

 過去記事で『西の魔女は死んだ』の書評を書き、『裏庭』『春になったら苺を摘みに』『ぐるりのこと』を読んだあとの『りかさん』だった。

2012年3月 7日 (水)
書評 - 梨木果歩『西の魔女が死んだ』(楡出版、1994年)
http://elder.tea-nifty.com/blog/2012/03/--1994-1dc0.html

 連載中の記事『瀕死の児童文学界 ⑥河合隼雄、工藤左千夫の著作を読む』を書く必要から梨木香歩の作品に初めて触れた。作者と年齢が近いということがあるからか、題材や作風に親しみが湧くところがあるのだが、作品が発散しているムードに引っかかるところがあり、読み進むにつれてそれが次第に強まっていく感じだ。

 『西の魔女』では透明感のある翻訳調の文体だった。『りかさん』では和文化に作者の食指が動いていることを感じさせる文体を見せられ、円地文子以来の作家ではないだろうかと興奮した。円地文子には燻し銀のような純文学作品がある一方、オカルティックなライトノベル調の作品もあったと思う。だが、梨木の古典の教養がどの程度のものなのかまではうまく量れなかった。

 というのも、人形たちのおしゃべりに、文楽の作品などからそのまま借りてきたようなぎこちなさがあるからで、それが人形のぎこちなさにはよく合っている。このようなミスマッチや器用さを、作品のあちこちで発揮している作家という印象を受ける。読みながら、もう一つ信用しきれない――才気走ってはいるが、滋味に乏しい感じを受けるのは、それが原因かとも思う。言葉の遣い方に冴えた手腕を見せる作家であるが、どうかと思うような箇所が時々出てくる。

 例えば、主人公のようこが無念の思いから目を見開いたままのママードールの目を閉じてやろうとするが、うまくできない。そのとき、市松人形のりかが、「解消されない屈託があるんだ」という。りかは自らが人形でありながら、人形たちの運命をスクリーンに映して見せてくれたり、適切なコメントを挟んだりしてようこを導く案内役であって、その言葉はようこに恭しく受け入れられてきた。

 屈託という言葉の意味は、物事を気にかけてくよくよするとか、疲れて厭きるといった意味だ。ママードールの置かれた状況は、屈託などという言葉では到底語り尽くせないくらいに重いのではないだろうか。ホラーがかって感じられるくらいにママードールの描写される様が悲惨であるだけに、作者がりかにいわせた屈託という言葉にわたしは引っかかる。不信感が芽生えるのだ。

 『りかさん』がどのような物語かを手短にいうと、ようこという女の子が祖母に遣わされた市松人形の「りかさん」の手解きを受けて、鎮魂(たましずめ)のスペシャリストに成長する物語だ。

 祖母がようこに雛祭りに何がほしいかと訊く。リカちゃんと答えた主人公に贈られたのは、市松人形のりかさんだった。読み始めたときには自然に思えたこの事件の発端も、りかを背後で操っているかのようなその後の祖母の動きを見ていくと不自然で、祖母は年寄りのとんちんかんを装って、りかという特殊な人形をようこに押しつけたとしか思えない。何のためだろう?

 祖母は手紙を添えていた。りかが縁あってようこに貰われるということ。元の持ち主の祖母を含む今までの持ち主たちがりかを大事に慈しんできたから、とてもいいお人形だということ。ようこにも、りかを幸せにしてあげる責任があるということ――が書かれていた。人形の扱い方についても細かな指示があった。

 加えて人形論を説くことで祖母は、本来はようこにとって自由なはずの人形遊びを規定してしまう。そして、鎮魂の役目まで背負わせるというわけだ。ようこは、寺とか修道院に入れられた昔の子供みたいにも思えてくる。祖母は、『西の魔女は死んだ』に出てくる祖母よりはるかに魔女臭を放っている。

 7日間、ままごと遊びというよりは儀式のような食事をりかと共にすると、りかはしゃべりかけるようになり、人形たちの運命を見せる案内役を務めるようになるのだった。登美子の家の雛壇には雛人形のほかに賀茂人形、這子、紙雛、ビスクドールなどが飾られている。クライマックスで登場する目を見開いたままの黒こげのママードールは、このときはまだ汐汲人形の台座に隠されている。

 このママードールは、「アビゲイルの巻」で登場する。日米親善使節としてアメリカから日本に渡ってきて受難に遭った、西洋人形のうちの一体だった。そうした西洋人形は太平洋戦争が始まると、敵国の人形として焼かれたり、竹槍で突かれて壊されたりしたという。アビゲイルも、校長の指示により、生徒たちの竹槍で突かれ、焼かれる。

 アビゲイルを可愛がっていた比佐子は、このことが応えて死んでしまう。アビゲイルを預かっていた女教師が人形を比佐子のお棺に入れてくれるように頼むが、このときの両親の反応が奇妙である。

[引用 ここから]……
 あまりにも恐ろしそうなアビゲイルの姿を見て、それで比佐子が楽しく遊ぶなどとどうしても考えられない、というのが父親の主張だ。けれど母親にとって比佐子はいちばん最初の子どもで、その子が愛おしんだという人形を簡単に捨てる気にもなれなかった。だがアビゲイルの姿はとても人目にさらせるようなものではない。結局、母親の考えで、汐汲の台座に隠すようにして、この家であずかって行くことにしたのだった。
……[引用 ここまで]

 梨木の作品に出てくる大人たちは、いずれも身勝手で押しつけがましい。一見魅力的に描かれている祖母たちもそうである。そして、子供たちはあくまで素直で、大人の意のままに行動する。まるで人形のように。村上春樹の作品に出てくる男たちが気ままで、女たちが男に都合のよい行動ばかりとることを連想させられる。

「両腕片足はなく、もう片足は取れかかり、片目はつぶれ、もう片目はかっと見開かれて恐ろしげにこちらをにらんでいる」アビゲイルの目を閉じてやろうとして挫折したようこがりかにどうしてあげたらいいのか訊くと、りかは「アビゲイルは、かわいがられることが使命なの。かわいいって抱きしめてあげて」という。

 躊躇したようこが「かわいいという言葉を胸の中に抱いてみて」というりかの導きで、「かわいいという気持ちを、小さな鞠のように胸の中にふわりとおいた」ら、その次にどうすればいいのか、りかから指導が下る。そうした過程を経てアビゲイルを抱き締めた。

[引用 ここから]……
 アビゲイルの体に触れると、ようこの心は電流が走ったようだった。かまわずに腕の中に抱き入れると、焼けつくような痛みが起こり、それから、火傷のあとのようにひりひりとして来た。ようこはそれでもアビゲイルを離さなかった。自分のどこか奥の方から、けっして絶えることのないように泉のようにあふれるものがあり、それはしばらくアビゲイルの「ひりひり」と拮抗していた。やがて「ひりひり」があまりに激しくなり、ようこは声を上げそうになったが、心のどこかに、この苦痛は長くは続かない、という確信のようなものがあった。すると心の奥の泉から今までにも増して温かく穏やかな慈しみの川のようなものが流れ出し、ようこの苦痛を包み、アビゲイルの存在までくるんで流して行ったかのようだった。アビゲイルの表情も最初は拒絶するような険しいものに見えたが、やがてそれもおさまった。
……[引用 ここまで]

  神秘主義的観点から考察すると、これはとても危険なことである。

 このあと、ようこはりかにいわれてアビゲイルと一緒にりかを抱く。二体の人形の間で何かが起こり、濃密な空気が醸し出される。そしてりかにいわれてアビゲイルの目を閉じると、アビゲイルは灰の塊になった。

 アビゲイルは悲惨な目に遭ったが、作家としてバランスのとれた書き方をするなら、鬼畜アメリカ人といいながら、自らが鬼畜となっていった当時の日本の苦境も描くべきだろう。

 比佐子は登美子の伯母に当たるのだが、登美子の母親はアビゲイルが発する瘴気のために体調を崩していたのか、アビゲイルの件が落着すると、体調が回復する。このハッピーエンドも腑に落ちない。

 現代日本で豊かに暮すようこが戦時中の忌まわしい出来事の一切を引き受けてその解消に成功するなど、安手のファンタジーにあるような設定ではないか。

 ようこがアビゲイルを癒す光景は美々しく演出されてはいるが、アビゲイル癒しの手段として使われたようこの愛情は実際には、魔女めいた祖母(及び、りか)の手解きでようやく発揮された危うい愛情にすぎない。ばあさん、難事業はあんた自らがすりゃいいじゃないか。アビゲイルは彼らの自己満足の道具に使われただけだ。アビゲイルは比佐子のお棺に入れられたほうがはるかによかっただろう。

 新潮文庫版には『りかさん』と『ミケルの庭』が収録されている。『ミケルの庭』には大人になったようこ(蓉子)が登場して、自己不信に陥った女友達の背中を撫でて癒していた。それには瀕死の赤ん坊が出てくるが、ようこにはこのような赤ん坊の病気とか、人形の瘴気で体調を崩した登美子の母親のような人を直接に癒す力はないようである。

 魅力的なところが沢山あるけれど、『りかさん』からは無責任なにおいがする。このような作品が児童向きとは、わたしには到底思えない。

 ところで、単行本のときは明記されていた参考文献が、文庫版では落ちている。以下の著作である。借りたいと思ったが、図書館にはなかった。

 以下の記事で、アビゲイルの仲間と思われる「ノルマンくん」が――写真も――紹介されていた。

「青い目の人形」と「ノルマン」君について
http://www.city.shinshiro.ed.jp/toyo-el/aoime/noruman.htm

ライン以下にサイトから抜粋しておきます。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

「青い目の人形」と「ノルマン」君について
http://www.city.shinshiro.ed.jp/toyo-el/aoime/noruman.htm

「ノルマン」君 新城市立東陽小学校蔵(ご自由ご見学いただけますので、是非、本校へお越し下さい。)

青い目の人形の歴史

 青い目の人形は、1927(昭和2)年にアメリカの子どもたちから日本の子どもたちへ贈られてきた「友情人形」のことです。
 贈られた当時は友情のあかしとして、大切にされてきましたが、戦争になると敵国の人形として、焼かれたり、壊されたりするなど悲しい運命をたどりました。戦後、全国で残されていた人形が相次いで発見され、人形の存在が大きく取り上げられました。現在300体あまりの人形が各地の学校や幼稚園などで大切に保存されています。
 この「青い目の人形=友情人形」は、民間レベルで行われた草の根の国際交流のシンボルといえます。日本とアメリカの子どもたちの友情の懸け橋となった「友情人形」の歴史を振り返り、平和と国際交流について考えてみませんか。                                        

人形交流の始まり

 1924(大正13)年、不況により排日感情の高まっていたアメリカでは日本人の移民を禁止する法律が出来るなど、日米の関係は悪化の一途をたどっていました。                  
 そんな中、以前日本に20年程住んでいた宣教師のシドニー・ルイス・ギューリック氏は、悪化するアメリカと日本の関係を心配し、子どもの頃からお互いの国の文化を理解することが将来の両国の友好につながると考えました。そして、雛祭りにあわせて人形を贈る計画をアメリカ全土に呼びかけました。この呼びかけにアメリカの48州、約260万の人たちが協力して、12,739体の人形を購入し、手縫いの洋服を着せ、手紙やパスポートなどを持たせて、3月3日の雛祭りに間に合うように日本へ送り出しました。

日本各地での歓迎会

 日本ではギューリック氏と以前から親交のあった日本実業界の指導者渋沢栄一氏が人形の受け入れを引き受けました。そして文部省や外務省へ呼びかけて、人形を配る学校を決めたり、人形の受け入れの準備をしました。1927(昭和2)年1月第一便のサイベリア丸に乗った167体の人形が横浜港に着きました。2月にも続いて横浜や神戸港に人形を乗せた船が次々とやってきました。3月3日には東京の日本青年館で、約12000体の人形の歓迎式が盛大に行われました。
 その後、各都道府県の小学校や幼稚園などに送られ、人形を受け取った学校でも盛大な歓迎会が行われました。歓迎会では「人形を迎える歌」を歌い、踊りや劇を披露しました。現在残されている歓迎会の写真を見ると、雛壇に雛人形とともに飾られた人形の姿を見ることができます。洋服の珍しかったこ時代に洋服を着て、目を閉じたり、「ママー」と、声を出す人形は、子どもたちにとっては大きな驚きでした。                                 

日本からの返礼・答礼人形

 日本からも返礼として日本人形をアメリカの各州に贈ることになりました。人形の数は日本代表の他、各都道府県、六大都市、植民地で合計58体製作され、その年のクリスマスに間に合うようにアメリカへ送られました。人形を受け取った学校から一人一銭の寄付が集められ、一体350円程度の人形が作られました。当時、先生の1ヶ月の給 料が40円だった頃のことで、大変贅沢な人形だったことがわかります。
 アメリカで大歓迎を受けた答礼人形は、アメリカ各地を回って展示された後、アメリカの各州に1体ずつ贈られ、博物館や美術館などに保存されました。
 

戦時中の友情人形

 1941(昭和16)年太平洋戦争が始まり、日本とアメリカは敵国になってしまいました。英語は敵国語として使用を禁止されたり、「青い目の人形」「赤い靴」の歌も歌ってはならないとされました。アメリカから贈られた友情の人形も「敵国の人形」「敵国のスパイ」として、燃やされたり、竹やりでつかれたりして壊され、その大部分が処分されてしまいました。
 しかし、そんな中でも「人形に罪はない」として、学校の裁縫室の戸棚の奥や倉庫などに密かに隠された人形もありました。現在、現存する人形はそうした人形たちです。  

現在の状況と「ノルマン」君

 今日では、日米親善友好と平和の象徴として、全国で約300体の人形が大切に保存されています。
 本校の青い目の人形はそうした人形の愛知県に現存する9体のうちの1体です。名前を「ノルマン」君といい、県内唯一の男の子の人形で全国でも、3体ほどの大変珍しい人形です。資料が少ないため、出生地など詳しいことは、わかっていませんが、学校の沿革史などから、その歴史がうかがえます。
 
 「昭和2年七月、日米親善の意味でアメリカから日本に使節人形がおくられた。この人形は旧八名郡下三校の内に選ばれて、当時の能登瀬小学校に迎えられた「ノルマンくん」である。ノルマンくん歓迎会は全校あげて盛大におこなわれた。                                        -箱の中のメモ書きより-

 「四年になったのが大正十五年でしたが、この年には大きなできごとがありました。その一つは、日米親善使節として日本の小学校へアメリカから贈られてきたアメリカ人形「ノルマンくん」を迎えたことでした。花田伝次郎校長先生に引率された男女数人の代表が二台の自動車に乗って富岡小学校まで迎えに行ってきました。そして、学校へ持ってきてから「青い目をしたお人形は・・・・」の歓迎の歌を歌って盛大に迎えました。
   「親善使節ノルマンさんを迎えた頃」 昭和六年高卒 鈴木よし子(旧姓荻野) -能登瀬小学校百年史より-

 この資料によれば、旧能登瀬小学校(学校統廃合などにより、現在の東陽小学校へ)でも、他の地区と同様に熱烈な歓迎を受け、大切にされていた様子が伺えます。洋服などが、新調された人形が多いなか、現在まで当時の洋服を身にまとっている人形も少なく貴重な歴史の資料と言えます。

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