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2011年3月 2日 (水)

映画を通して考察された、村上春樹に関する秀逸な論文を拝読して

 昨日、下記サイトの管理人S.HIROENIMUS様からメールを頂戴しました。

アリアドネの部屋
http://blogs.yahoo.co.jp/takata_hiroshi_320

 サイトにお邪魔しました。

 建築美を感じさせる文体、思考法ですね。一本の論文が一戸の建築物みたいで、拝読することはその建物の中に入って行くみたいな体験でした。言葉の一つ一つが、煉瓦か何かのように手で触ってみることができそうで、わたしが日頃、読み慣れた文章とは異質の感じがするため、最初はむしろ読みづらかったのすが、次第に魅了され、昨夜から今日にかけて読み耽ってしまいました。

 テーマに対する姿勢は真摯で純粋で、一本一本の論文は花のようでもありました。そのどれもがみずみずしさを発散していて、それを拝読することは、開いている花に顔を近づけて覗いてみるような幸福な体験でした。

 学究的な、高度なことが書かれているので、わたしには難解なところがありながらも、あちこち少しずつ齧らせていただいたわけでした。齧っただけでも、はっとさせられる箇所が一つの論文中、必ず一つはありました。ただ、文章美に酔わされてしまう危険も覚え、はっとさせられた箇所はあとでよく検討してみたいとも思ったのでした。

 わたしは、村上春樹には男巫あるいは霊媒的なところがあると思ってきました。そうしたタイプが独特のカリスマ性を発揮し、大衆の人気を集めることはよくあることで、極端ないいかたをすれば、村上春樹現象をわたしは文学の名を借りた新興宗教的現象と見てきました。

 そうした意味で、作者の自覚を超え、60年代という時代を『ノルウェイの森』は霊媒的によく映し出しているのではないでしょうか。華の部分も恥部も。その時代、わたしは子供でしたから、本当にそうなのかどうかわかりませんでしたが、村上春樹と同世代でいらっしゃるS.HIROENIMUS様の下記の2本の論文を拝読したとき、やはりそうだったのだという確信を与えられた思いでした。

 このように格調高く、哲学的に考察された村上春樹論を、わたしは初めて読みました。以下、引用させていただきます。

村上自身は意識していないかもしれないが、なにゆえ60年代の政治と風俗を時代背景として選んだのか。それはキヅキや直子の余りに純粋すぎるゆえの死と、政治的時代の終焉が重なっていたためではなかろうか。映画の中で青春の純なるものの象徴としてのキズキの死と政治的季節の死は、村上の中で重なり合うような土壌があったのでであろう。映画の中で直子が、恋人が自分よりも死を選択したことの不可解さに傷つきながら、生と死の両極に引き裂かれ、対象そのものの実存を見失ったとたんに、”どう生きていいのか分からなくなったの”と狂気のように泣き叫ぶ場面があるが、これは決して滑稽な場面ではない。虚妄であるにせよないにせよ人をして何事かを信じるという姿勢は敬意を払うに値する出来事なのである。

 ここではひじょうに美しい思考が展開されていて、映画を観ていないわたしには何もいえないのですが、ただ、映画と原作は、別個のものとして見なければならないのではないかと思うのです。原作をモチーフとした、それ自体で自律した作品が映画ではないでしょうか。

 もう一つ気になったことは、「虚妄であるにせよないにせよ人をして何事かを信じるという姿勢は敬意を払うに値する出来事なのである」という一文です。ここまでいいきってよいものだろうかというとまどいが、わたしにはあるのです。

 同じテーマが、下記小論文でも繰り返され、他のキリスト教に触れた論文などでも繰り返されていますね。

 以下、引用させていただきます。

映画”ノルウェイの森”は最初の三分の一ほどまでは退屈でした。俳優が素人っぽくて、それにドラマの設定自体も素人っぽくて、予想していた通りだったのですね。そしてこの手の映画にありがちな、絶叫等の口調と過剰演技が続くのですが、本来ならここで興ざめしてしまうところが、ところがそれが少し違っていたのですね。ツヅキ君の純粋さが理解できました。純粋な死という青春の無償さに直面したとき、自分が生きてることがわからなくなるという直子の絶望感がまざまざと目の前に浮かんできました。ある種の精神的な純度の高い出来事に出会うと、ひとは自分が生きていること自体が解らなくなるってことはあります。直子はこの精神の呪縛から逃れることが出来ずに狂気の世界に殉じることになるのですが、直子とはこの映画に描かれた60年代への隠喩であることが分かってからは、この映画でおきた世界が自分のことのように、するすると理解できるようになったのです。

 映画では、キヅキが、映画制作者の視点で人間としての厚みを与えられていたということでしょうね。

 村上春樹の原作では、キヅキに関してはほとんど何も描かれていません。キヅキの人間像は直子を通して解釈するしかなく、そうすると、キヅキは直子に死の思想を植え付けることしかできなかった……彼を信頼という以上に信仰しきっていた直子という信者に対して、何の生きる指針も与えないまま死んでしまった無責任な教祖がキヅキということになります。

 それくらいキヅキが自身のテーマに絡めとられていて他を顧みる余裕さえなかったのだとしたら、それを若さゆえの青さと想像することも可能ですが、しかしここでイコール純粋とか純度が高い……と結論づけることはできないと思うのです。

 ソクラテスのように死を強制されたというような特殊な場合は別ですが、むしろこの世の俗っぽい何か、この世的な価値観に絡めとられてしまうからこそ、自分から死ぬのではないかと思うのですが。俗っぽさに太刀打ちできなかった、ほのかな、貧弱といってよい程度の純粋さを、S.HIROENIMUS様が思いを籠められているような意味の純粋、純度が高いものだとはわたしには想像できません。

 直子にしても、あそこまで自身の生を他者に絡めとられながら、そのことを疑問に思わない、ある種の知性の欠如が感じられてなりません。それを若さ、青さゆえの美といえないこともありませんが、青いまま地に落ちて腐ってしまったキヅキと直子という二個の果実を見せつけられるばかりでは、わたしは途方に暮れてしまうだけなのです。寒々とした虚しさが拡がるばかりです。

 二つの果実が枝にあったとき、二つの果実はそれぞれ何を思い、またどんな雨風に弄られて落ちてしまったのか、そこのところを丹念に描くのが文学の仕事だとわたしは考えています。村上春樹はその仕事には全く手をつけていません(映画のほうでは、再話的に、そこのところがよく描かれていたわけでしょうか)。

 須賀敦子にも、同様のところがあるように思うのですが。夫ペッピーノの活動がどのようなものであったかが書かれるべきではなかったでしょうか。S.HIROENIMUS様がお書きになっていたようなキリスト教の背景は、わたしのような無知な主婦には、教えて貰わないと、何もわからないのです。ご馳走の匂いだけ嗅がされて、食べさせては貰えないような憾みが残っていて、わたしにとっては何とも苛々させてくれる作家なのですね。勿論、惹かれるところがあったからこそ読んだのです。

愛と性は一致すべきかどうか。この難問を巡って若い登場人物の幾人かは死と狂気の世界に追いやられていく。失礼だが村上春樹には愛と性は一致すべきだとでも言うようなストイックな確信があるようだ。それは古風な理想と云っても良い。全体を通じて過剰なセックス描写が多用されているが、これもまた性を描くことがタブー視された時代があって、タブーに挑戦することが同時に歴史への鋭い批評でもありえたようなヴィクトリア朝後期の古風な文士的な姿勢、”失われた世代”風の甘いノスタルジックな郷愁を無批判に引きづってきているかのようである。主人公であるワタナベ君が古風であることは必ずしも小説作法上の欠陥にはならないが、作者自身がこの点について無自覚であるというのでは少し困ることになりはしまいか。

 これは、まことに貴重な指摘だと思います。

 慌しく読み齧っただけで、いろいろと書いてしまい申し訳ありません。今後もサイトにお邪魔させてください。

 何にしても、これら映画を通した村上春樹論は秀逸で、これが日本人の手によって書かれてよかったとさえ、思いました。でなければ、日本が生んだ村上春樹という作家を当の日本人にはまともに批評できない、それだけの知性を欠いた国民ということになりましょうから。多くの人々に読んでほしいものです。今後、気が向かれたときにでも、サイドバーの「文学専用ゲストブック」を活用していただけたらと思います。

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