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2010年10月 2日 (土)

Notes:不思議な接着剤 #66 シンプルライフを提唱したモーセとイエス

#66
2010/10/2(Sat) シンプルライフを提唱したモーセとイエス

 アテン(太陽神)を唯一神として崇拝し、アマルナ改革を断行したファラオ、アメンホテプ4世の影響をモーセが受けた(逆にモーセがアメンホテプ4世に影響をもたらしたとする説もある)のかどうかは、わたしが調べた限りでははっきりとしたことはいえないように思えるにしても、これだけはいえよう。

 モーセが独自の宗教観を育んだのはエジプトにおいてであったと。エジプト王家に育ったモーセがエジプトの宗教の影響を受けていないなどとは考えられない。

 これは単なるわたしの推測にすぎないが、モーセはエジプトの宗教の呪術的側面に嫌気がさしていたのではないか?

 エジプトの宗教の呪術性は単純なアニミズムとは懸け離れた、高度な科学性を秘めたものとも想像され、それは未だに謎だ。いずれにしても、それに対して、モーセはそこからの離脱とオーガニックコットンの肌触りのようなシンプルライフを志向した。

 そのことはモーセの十戒を見てもわかる。以下はフラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌 1』(秦剛平訳、ちくま学芸文庫、1999年)より。

十戒の要約
 第一の言葉は、神がただ一つであり、その神だけを崇拝せよ、という教えである。
 第二は、いかなる生き物の像もつくってはならず、それに跪拝してもならぬ、という戒めである。
 第三は、どのようなつまらぬことでも、神の名によって誓ってはならぬ。
 第四は、七日目ごとに、いっさいの仕事をやめて休息をとれ。
 第五は、両親を敬え。
 第六は、人を殺してはならぬ。
 第七は、姦淫をしてはならぬ。
 第八は、盗みを働いてはならぬ。
 第九は、偽証をしてはならぬ。
 そして第一〇の言葉は、他人の所有物をむやみにほしがってはならぬ、という教えである。

 「神がただ一つ」というのは他にも神々が存在するということの裏返しであり、「神の名によって誓ってはならぬ」というのは、呪術性の裏返しだ。最も実効を持つマントラム――呪文――が神の名だからだ。

 シンプルライフを提唱して人間性の回復に努めたのが、モーセではなかったろうか。

 しかし、多すぎる神々と呪術から人間性を解放したはずの律法が今度は、時代を経るごとに、人間性を抑圧する道具へと化してしまった。律法学者に対するイエスの警告からもわかるように、イエスの時代には律法学者の数が増え、形式主義が蔓延っていた。

 イエスは複雑化し硬直化した律法から最も大事なものとして愛の律法を掬い上げ、それを中心としたシンプルな法体系を新たに確立しようとした。彼もまたシンプルライフの提唱者だったわけだ。

 モーセについて、もう一つ考えられることは、当時のエジプト社会に対する批判精神であって、その社会体制を否定するとしたら、その社会で核として機能していたエジプトの宗教を否定しないわけにはいかなかっただろう。モーセの理想に叶う新しい宗教が必要だった。

 モーセは神に選ばれたが、それ以前にモーセが彼の理想に叶う神を欲したのだ。いずれにしても、モーセは拾われて王家に育ちながら、当時のエジプトの宗教に批判的だった。もしモーセを選んだ神がモーセの理想に叶った存在でなかったとすれば、モーセのように精神的に強靭な男が、エジプトの神々に対して異議を唱えたのと同様、その神を否定しなかったなどとは考えられない。

 モーセは熟していたのだ。理想に合致した神から選ばれるという幸運な結婚にも似たこの出来事を神秘主義的観点から考察すると、モーセの神はモーセの内的光の具象化と見ることもできる。

 パウロの場合は彼の意思に反してイエスの選択が一方的に行われたのであって、ひじょうに強制的だ。パウロは青い実だった。まるで処女が犯されたかのような召命のされかたではないか。

 神秘主義的観点から考察すると、この現象は霊媒現象と見わけがつかない。パウロに対するわたしの疑問は、彼の召命の段階から早くもピークに達する。――それは本当にイエスだったのだろうか? 

 ここで一神教についてウィキペディアによくまとめられているので以下に抜粋しておきたい。

唯一神教. (2010, 9月 9). Wikipedia, . Retrieved 23:26, 10月 1, 2010 from http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%94%AF%E4%B8%80%E7%A5%9E%E6%95%99&oldid=33914247.

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

唯一神教(ゆいいつしんきょう、monotheism) は、神は唯一であるとし、その唯一なる神を崇める信仰、宗教の形態である。複数の神を認め、崇拝する多神教とは対極的な概念である。アブラハムの宗教と呼ばれる一神教であるユダヤ教とそれを起源とするキリスト教、イスラム教や、ネオプラトニズムに支配的な概念とされている。

同じ一神教でも拝一神教や単一神教が他の神々の存在を認めた上で一つの神を崇めるのに対し、唯一神教においては他の宗教の神々の解釈が問題になる。一つの対応は、そのような神々は人間が想像したもので、実際には存在せず、何の意味も持たないというものである。もう一つは、神的な存在はあり、人間よりも力がある不死の存在だが、人間と同様に心や力に限界を持つというものである。そういう存在は、自らを神と称して人々に崇拝を強いることで、重大な罪を犯していると説明される。最後に神の絶対性と自宗教の絶対性を区別し、宗教多元主義への道を開く思想である。この場合他宗教と自宗教は共に1つの神を信奉しており、違いは単なる伝統に過ぎないとなる。これに付随して多神教と一神教の区分も、神という存在に対する観点の違いであり、必ずしも相互に理解不可能ではないという思想が生まれる。(神は1つでもあり、多数でもある。)

古代エジプトで紀元前14世紀に成立したアテン信仰が世界でもっとも古い唯一神教といわれ、ユダヤ教はこのアテン信仰と、一神崇拝のゾロアスター教からの影響を強く受けて成立した、という意見もある[誰?]。

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 冒険に出かける子供たちのライトについて。紘平はヘッドライト。瞳はランタン型ライト。翔太は980円のストラップ型のライトを瞳のリボンで首にぶらげることにしていたが、訪問者のお一人から安いネックライトがあることを教わった。

 ネックライトに変更するとなると、電器店に行ってみなくてはならないので、それまではとりあえずストラップ型のライトを瞳の白いリボンでつけさせることにしよう。なぜライトにここまで神経質になるのかというと、秋芳洞の印象からだ。

 要所でライトが控え、洞内は贅沢なまでのライトに照らし出されていたが、それでもなお暗かった。子供たちが入っていくのは、手つかずの状態に置かれた漆黒の闇が支配する鍾乳洞なのだ。マリーが囚われている場所に辿り着くまでは、竜が放つオーラをあかりとする以外、自分たちの携帯したライトだけで、子供たちはやっていかなくてはならない。

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