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2010年8月12日 (木)

赤染晶子『乙女の密告』を読んで

 文藝春秋を娘が買ってきてくれたので、『乙女の密告』を読んだ。

 『乙女の密告』では、以下のアンネの日記の中の一文と、アンネたち隠れ家の住人を密告したのが誰だったかに、読者の注意を向ける工夫がなされている。

  今、わたしが一番望むことは、戦争が終わったらオランダ人になることです!

 アンネは確かに、オランダ人になりたいと恐怖の一夜を過ごしたあとで書いているが、そのいくらかあとの日記には、また日常的な感覚の戻ったなかで、勉強家のアンネらしく、こなすべきノルマを(悲鳴をあげつつも誇らしげに)沢山挙げた中に、聖書の課題もちゃんとある(ユダヤ人としての自覚がある)。

 そして、そのもう少しあとの日記には、「このオランダ人という善良で、正直で、廉潔な人々が」色眼鏡でユダヤ人を見ることに対する失望感を吐露してもいる。

 その頃、オランダでは、反ユダヤ主義の波紋が「かつてはそんなことを考えもしなかった人びとのあいだにまで」及んでいたのだった。

 ナチスの動きが、それだけ過激になっていたのだろう。

 当時のオランダが、ユダヤ人を匿っているというだけで、連行される状況下にあったということを考えれば、自らの、あるいは身内を危険から救うために密告することもありえたのだ。

 そういう意味からいえば、オランダ人とユダヤ人の違いは絶対的なものとはいい切れない。

 命ほしさに、あるいは金ほしさに(命をつなぐためという目的もありうる)、もしかしたらナチス的正義感から、誰かがアンネたちのことを密告したのだろうが、その部分を今頃の日本で、殊更に問題視するのはどうかと思う。当時の日本がドイツ、イタリアと三国同盟を結んでいたことを考えれば、なおさら。

 アンネの日記を読む限りでは(何も原語で読まなければ意味が読みとれないというものではないだろう)、アンネは身の安全を考えて、極めて現実的な処世術としてオランダ人になりたいと、泥棒が侵入した恐怖の夜が明けた翌々日の日記で書いたのではないかとわたしには思える。

 作者はきちんとアンネの日記を読んだのだろうか?

 作者は政治的な問題を、心理学的(あるいは実存的)アイデンティティーの問題にすり替えてしまっている。

 アンネの両親がかなりのブルジョアであったらしいことは日記に出てくるし、アンネもお金をかけて育てられたお嬢様であったことは日記を読めばわかる。

 フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユも、お金持ちの家のお嬢様だった。

 彼女たちの受けた教育の充実、審美眼、節度、可愛らしさは、おそらく富と無関係ではない。

 そしてユダヤ人が問題となる原因の一つに、ユダヤ人の富やユダヤ商法がありそうだ。

 それについてはわたしは、佐野眞一著『カリスマ』(日経BP社、1998年)を読むまではぴんと来なかったのだが、『カリスマ』を読んで初めて、今の日本にもユダヤ商法が入り込んでいることがわかった。

 『カリスマ』にはダイエーの中内、日本マクドナルドの藤田、ファミリーレストラン・ロイヤルの江頭、ソフトバンクの孫がそれぞれに興味深い姿を見せているが、彼らに共通しているのはアメリカに対する強烈な崇拝心だそうだ。

 急速な多店舗展開、価格破壊は、ユダヤ商法に学んだ手法らしい。それは生活を便利にする反面、老舗や馴染みのあるお店を潰し、都市のドーナツ化現象を惹き起したりする(この現象と関係の深い『地味な人』という小説を、かつてわたしは書いた)。

 勿論わたしは、アンネのお父さんがお金持ちで、ユダヤ商法で稼いでいたからゲシュタポに捕まったのだ、などといいたいわけではない。

 ただヒトラーが台頭した裏にはドイツの経済危機があり、古来ユダヤ人問題には経済的な問題がつきまといがちなことをいいたいのだ。アンネの魅力も、彼女の身に及んだ危険も、そのことと無関係とは思えない。

 また、アンネの運命を知る後世のわたしたちにとって、アンネはやはり悲劇の人と映るにしても、隠れ家にいて日記を書いていたアンネは、身の不運を嘆いてばかりいたわけではなかった。

 連合軍の勝利によってオランダが解放されることを期待してラジオに耳を傾け、将来ジャーナリストを経て作家になることを夢見ながら、希望にも生きていたのだ。

「できれば、パリに1年、ロンドンに1年留学して、言葉を身につけ、美術史を勉強したいのです」とアンネは書いているが、生きて収容所を出られさえしたら、父親は生きていたわけだから、その望みは叶っただろう。

 少なくとも、平和(ということになっている)今の日本で、わたしがパリに行き、作家になることを夢見るより、ずっと現実的な行為だったのだ。

 多くを知り、多くを考える大人たちのほうが、むしろ悲観的だったようだ。

 悪条件下で書かれながら、アンネの日記は馥郁たる香気を放っている。それは若さ自体の、青春の香気ともいえ、若者の共感と老いたる者の憧れをそそってやまない。 

 その香気が『乙女の密告』にはない。『アンネの日記』をだしに何かが書かれてはいるが、『アンネの日記』とは無関係の作品とわたしは感じるだけだ。

 『乙女の密告』の登場人物とアンネが重ならないばかりか、日記から一部分をとり出して拘泥する偏執的手法には、全く意義を見い出せない。

 川上未映子の作品に似ていると思った。自己流にゴッホを解釈して、そのことに満足していた詩と『アンネの日記』をだしにした独り善がりの小説。村上春樹の小説に通じるところもある。

 評価の定まった作品をだしにして、奇妙な仮想世界を構築する作風。そこには、真に他人の作品を理解しようとする謙虚な文学者としての態度は見出せない。権威をなぞることで、自作の株をあげようとする嫌らしい手法が目につくだけだ。

 読者側の教養が深ければ、こうした作品に引っかかることはないだろうが、心地よいムードや軽い楽しみのみを求める読者層には歓迎される向きがあるのだろう。

 しかし、そのことによってわが国の文学が骨抜きにされ、文化そのものに悪影響を及ぼし、その影響が海外にまで流出する事態をつくり出しているとなれば、何とかしなければならない。

 何とかできる評論家を、わが国の文学界は育てて来なかったばかりか、売り上げの邪魔になるとして抑圧してきた形跡さえある。その罪はまことに大きいといわねばならない。

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