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2010年7月19日 (月)

ニトロ舌下、昨日の昼間は『乙女の密告』を読む下準備

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昼間『乙女の密告』を読む下準備

 昨日は一日中今一つの体調だった。

 夕飯後、恐竜のあまり出て来ない恐竜の番組を観ている途中で寝てしまい、今日に入ってから、やり残した家事をしているときに、心臓を搾り上げられるような胸痛。

 おなかも膨らみっぱなし。ぺったんこになることもあるのだから、この膨らみ全部が中年太りのはずはない。パリエット、減らしたいが、まだ減らすとよくない。

 昼間は、家事の合間に、芥川賞を受賞した赤染晶子『乙女の密告』を読む下準備をしていた。

 文藝春秋が出たら読んで感想を書きたいと思っているので、アンネ関連の本を本棚から引っ張り出して読み返したりしていた。

 わたしのような病人は、ナチスの収容所に送られれば、すぐにガス室行きだったろうと思うと、暗澹としてくる。皮膚病もいけなかった。

 そうした事実があまりに身に迫るので、当時のドイツと日本が同盟国だったとは信じられないくらいだが、過去記事でも触れた野上弥生子『欧米の旅(下)』(岩波文庫、2001年)の《ドイツ》、《ドイツ再び》を読むと、第二次大戦前夜のドイツ、ナチ文化が端正な――ときに皮肉を利かせた――筆致で描出されていて、当時の日本の知識人の一人がそれをどう見たかを知ることができる。

 これを遡る昭和6年(1931年)、満州事変が起きた年に、林扶美子は何とシベリアを旅行している。中国とロシアの国境域は緊張していた。

 わたしはその林扶美子の紀行文集『下駄で歩いた巴里』所収《西比利亜の旅》を読みながら、シネマ『ジュリア』を連想してしまった。

 ジュリアはレジスタンス資金を預かる羽目になるが、ロシアへ行く扶美子はマンジュウリの領事からモスコーの広田大使へ当てた外交文書を預かる羽目になるのだ。

 ソヴェート文化についても触れられているが、以下の文章などを読むと、庶民的作風で知られる扶美子の本質が、文化面から人物の情緒面にまで観察の目を行き届かせようとした生粋の知識人であることがわかる。

※途中ですが、発作も治まったので、続きはパソコンからします。

 以下は、前掲の紀行文集『下駄で歩いた巴里』所収《西比利亜の旅》より抜粋。

 時々、隣室のドイツ人がレコードをかけています。寒い野を走る汽車の上で、音楽を聴いたせいか、私は涙があふれて仕様がありませんでした。
 露西亜人と云う人種はいったいに音楽が好きなのでしょう。トロイカと云う映画を御覧になりましたか。タンゴなどはソヴェートでは禁止されていると云いますけれど、走っている汽車の中では平気でした。窓外(そうがい)には、あの映画に出て来るような馬橇(うまそり)が走っています。このドイツ人のレコードが鳴り出しますと、まるで蜂の巣のようにどこの扉もあいて、みんながドイツ人の部屋の前に集まって来ます。そうして皆の顔が生々(いきいき)してきます。実際音楽が好きなのでしょう。

 ロシア人もドイツ人も日本人も音楽が好きだった。その後に辿ったこれらの国々の運命を考えると、何か悲痛な印象をもたらすほどに美しい場面に思える。《北京旅行》の以下のような描写も忘れ難い。

――北京へは朝早く着いた。私の前を行く耳輪の長い女の、腰の線の何という美しさ、楚々と云う言葉も、ここへ来て初めてうなずける。地紋の浮いたコバルト色の支那服のみごとさ、ああここが北京だったのかと、城壁のすぐ迫っているホームに立って、私は、むかし、巴里の北の停車場に着いた日のような胸の動悸を感じた。
〔略〕
 北京はほんとうにいい処だ。山海関と同じように砂塵の多いのには閉口だったが、何とも云えないロマンチックな都だ。そしてすべてが風雅である。何年か前、上海(シャンハイ)に行った時、散歩と云う言葉を、支那語で白想(パシヤン)と云う、と覚えていた。北京では、その白想が板についていて、誰一人せかせかと歩むひとがない。

 野上弥生子も、林芙美子も、今となっては見聞できない当時の世界の状態を微に入り細を穿ち、目に見えるように描き出している。それだけの豊かな教養と筆力があった。現在活躍している作家に、同じものを求めることができるだろうか?

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