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2010年6月17日 (木)

文学界の風穴となるだろうか?

 サイト「作品発表広場」に作家登録したことは過去記事でご報告したが、迷いがないわけではない。

2010年1月20日に公開を開始したばかりの新しいサイトです。

現在はベータ版としてのテスト運営中です。

真剣にものづくりをされている方の作品を通じて、さまざまな出会いやつながりを作っていくサイトです。

 こうした説明を読んだあとで、サイトに展示した作品が売れると30%、仕事の依頼があると30%支払う仕組みになっていることを知ったら、何だ、商売か、仲介業者か、と一抹の胡散臭さを感じないわけではなかった。でも、何となく新しい形態に思われ、好奇心もそそられた。

 わたしはカテゴリ「文芸の作品」で登録しているので、文芸に限って話を進めたい。

2016年8月25日の追記:その後、アマゾンの日本進出があり、KDPでセルフパブリッシングが可能となったので、Kindle出版へと移行し退会。

2015年1月30日 (金)
「作品広場」(旧「作品発表広場」)からリニューアル中のメールあり。メールで退会手続き。

http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/01/post-62c7.html 

 作品発表広場に作家登録する以前から、わたしは文芸作品の展示、及び仕事の依頼を希望する旨の意思表示を自身のサイトで行ってきた。

 しかし、素人の個人的な、趣味的なサイトでこのようなアピールを行ったところで、どんな依頼者も現われはしないだろうことは予感された。時々好意的なメールをいただくことはあるけれど、それが仕事に結びつくとか、スポンサーが現れるということは夢物語のようなことだ。

 それなりにサイトの訪問者はあるにしても、そのほとんどがわたしの記事から何らかの情報を引き出すために訪れるだけ。わたしもそんな利用の仕方をしているのだから、お互いさまといえる。

 それに、胡散臭さという点でいえば、大手出版社の牛耳る文学界は、本当に胡散臭い。

 純文系の作家として世に出ようと思えば、悲劇だ。

 伝手があれば別かもしれないが、大手出版社の新人賞をゲットするしかない仕組みになっている。運よく賞がとれたところで、飼い殺されている作家(であるような、ないような人々)がどれだけいることか、想像できないくらいなのだ。

 わたしが某賞で最終候補になったときに賞をとった男性は、作家になれるつもりで会社をやめたと聞いた。奥さんが働いていたからそれができたのだろうが、賞の発表誌がわが国を代表する文芸雑誌だったのだから、その気になるのも無理はなかった。

 彼の作品は、エッセーがその雑誌に一度だけ載った。数年後に、わたしが別の作品で最終候補になったとき、授賞式に彼が来ていた。

 依然として、せっせと担当編集者に作品を提出していたようだった。その後、彼がどうなったのかは知らない。そこと接点を持ち、飼い殺されている人々の話は、何度となく聴いた。

 わたしはアレクサンドリア木星王さんに手紙で打ち明けたように、純文学狙いに限界を感じ、昔から好きだった児童文学に方向を変えた。イギリスにあるような良質の児童文学作品が日本にはないと思ったことも理由の一つだった。

 特に近年、小ぢんまりとまとまったものか、エンター系のものばかりが目につく。以前は、素人を育ててくれる児童書専門の出版社が複数あったが、代表的だったところは素人の作品の持ち込みを受付なくなってしまった。

 過去記事を参照していただければわかると思うが〔続きを読む、以下に全文のコピーあり〕、児童書は厳しい――だが大手出版社の怠慢が目立つ――状況にあることは間違いない。

 もう自費出版しかないと思っていたところへ、ひょっこり舞い込んだ前掲の「作品発表広場」からのメール……。

 純文学の話に戻ると、作風は濃いが、内容は薄くて、じっくりと読みたいという気を起こさせない作家の純文学作品が文芸雑誌を独占しており、評論といえば護教的とでもいいたいようなシロモノばかり。

 もっとずっとましなものか、少なくとももう少しはましなものが書けるはずの人材が埋もれている。日々埋もれてゆく。純文学の修練を積み、実力を培った人材の多くが棄てられて行くこの現状は、惜しい。

 純文学が社会の価値観に与える影響は大きいが、潜在的だから、この事態が見過ごされてきている。わが国の純文学は自然にこうなったのだろうか? 勿論、そんなはずはないのだ。

 わたしのパソコン歴は6年くらいのもので、ネットをし始めた頃に、たまたま平野啓一郎の『日蝕』について検索した。一頃話題になった、佐藤亜紀の『鏡の影』との関係が気になったからだったと思う。その頃、交際のあった女性編集者はわたしにそのことについて、佐藤亜紀の嫉妬だろうといった。

 事の真偽はともかく、神秘主義に親しんできたわたしの『日蝕』に対する感想としては、呆れたシロモノだというしかない。神秘主義的な事柄を玩具にしているように映る(いずれきちんと感想を書いてみたいと思っている)。

 悪趣味で幼稚、どこといってとりえのなさそうな、純文系作品ともエンター系作品ともいえそうにないこの作品が天才的と評されて芥川賞を受賞した。

 純文系作品ともエンター系作品ともいえそうにない――といったのは、昔の作家の例になるが、泉鏡花の小説や戯曲、吉屋信子の少女小説のように、どちらの資格もあるという意味でいったのではない。どちらの資格もないといっているのだ。佐藤亜紀の作品はエンター系だが、まぎれもない文学作品であり、作風はスタイリッシュだ。

 ところで、平野啓一郎のデビューの仕方を、ウィキペディアから以下に抜粋。

平野啓一郎. (2010, 5月 7). Wikipedia, . Retrieved 19:09, 6月 16, 2010 from http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B9%B3%E9%87%8E%E5%95%93%E4%B8%80%E9%83%8E&oldid=31979233.

デビューの経緯
啓一郎の特色の一つとしてその「投稿によるデビュー」が挙げられることがある。啓一郎がデビューした文芸誌『新潮』の巻末には、現在まで毎巻欠かさずに「御投稿作品は、全て「新潮新人賞」応募原稿として受付けます。」との記述がある。啓一郎自身がインタビューで答えた情報によれば、デビュー経緯は以下の如くである。

1997年、21歳の啓一郎は1年(資料収集半年、執筆半年)を費やしデビュー作となる『日蝕』を書く。投稿先を『新潮』に決める。年末、『新潮』編集部に自分の思いを綴った16枚の手紙を送る。手紙を読んだ編集部からは「とりあえず作品を見せて欲しい」と回答。編集者の出張先が京都であったこともあり、会って食事をする。1998年、『新潮』8月号に『日蝕』が一挙掲載される。「三島由紀夫の再来とでも言うべき神童」などという宣伝と共にデビューする。翌年芥川賞受賞。

 含みのあるようなエピソードだが、出版社も商売だろうから、作品がよいものであれば、そんなことはどうだっていいと当時わたしは思っていた(よいものとは思えなかったから、そのことが問題だと思った)。だから、ネットで平野のデビューには瀬戸内寂聴が関与しているという記事を閲覧したときも、ちょっと意外に感じただけだった。

 平林たい子と円地文子が好きなので、そのついでにという感じで、瀬戸内寂聴の作品を何編か読んだことがあった。岡本かの子が好きなので、『かの子繚乱』も読んでいる。『かの子繚乱』についてはよく取材がなされており、労作と思われた。

 しかし読後、わたしは一抹の疑問を覚えた。『かの子繚乱』で描かれた天衣無縫というよりは幼稚な、それでいて色欲に衝かれたような生臭いかの子像が、ぴんとこなかった。かの子の作風は高雅で知的であり、性をテーマとしていても、生臭さがない。

 一方、お坊さんなのに、瀬戸内寂聴の作品はどれもこれも生臭いとわたしには感じられた。これまでにわたしの知るどんな作家のものよりも、生臭い。

 一般的には、瀬戸内寂聴は、文学界と仏教界の権威を帯びた文化の顧問的イメージ、おおらかさのシンボル、といったものではないだろうか。 

 現に昨日――6月16日付――の朝日新聞朝刊の文化欄にも、88歳になった寂聴が慎ましやかな表情で出ていた。以下は記事からの抜粋。

 携帯電話にはハート形のストラップも付け、若い作家との交流もある。「芸術は新しい世界をひらいていかないとダメです。こつを覚えれば小説は書けますが、それではつまらない。私もまだ書いていない、新しいものを書き続けていきたいと思っています」

 新しい世界とは何だろう? この生臭いお坊さんを悦ばせる小説とは、どんなものなのか? わたしは彼女が影の影響力を発散し続ける限り、わが国の純文学に新しい世界は拓けないだろうと思う。

 生臭くて内容に乏しい、変な技巧を凝らした作品でないと、賞がとれない純文学界の雰囲気は、一体誰がもたらしたものなのか?

 若い作家と交流があるということは、その作家たちが彼女の後押しでデビューしたということを意味するのではないだろうか。もしそうだとすれば、彼女の影響下でデビューの機会を奪われたその他大勢の作家の卵がいるということを意味する。

 わたしがそんな疑問を持ち出したのは、半年ほど前に、美容院で『婦人画報 1月号』(アシェット婦人画報社、2009年12月1日発売)の《寂聴先生、米寿のおしゃれ説法》を読んだときだった。

 寂聴のブランド趣味を披露した特集……。カルティエ、ティファニーの腕時計。シャネルのバッグは「清水の舞台」的に高かったそうだ。ロエベ、エルメスのバッグ。以下は、愛用品につけられた説明。

①数奇屋袋はブランドバッグと同様に大好きで、粋な意匠のものが好み。ちょっとした散歩などに持ち歩く。

②アンティークの籠バッグ。レザーバッグは耐久性に優れるが、和のやさしさも捨てがたいという。

③寂聴先生のお酒好きは有名で、猪口や片口のプレゼントも増えた。艶やかなガラス製は金沢のもの。

④時間ができると、愛用のピンクの携帯電話で自らのケータイ小説をのぞく。PV数が増えるのが楽しい。

⑤携帯電話に映えるキラキラストラップは、平野啓一郎夫人でモデルの春香さんからの贈り物。

⑥「平野啓一郎さんはプレゼント魔」と嬉しそうに話す寂聴先生。

⑦驚くなかれ、尼寺「寂庵」には秘密のバー「パープル」がある。仲良しの編集者たちと過ごす部屋。

⑧バー「パープル」のカクテルは、すべて紫色。祇園の芸妓さんがレシピをたくさん考案してくれた。

 尼寺にバーがある? ステーキとお酒とブランド品が好きな僧侶。わたしは、めまいを起こしそうになった。

 これではもはや、瀬戸内寂聴は、坊主のコスプレをした贅沢なマダ~ムにすぎない。プレゼントが多いようだが、それは彼女が僧侶兼作家という立場を利用した、巧妙な仲介業者でもあるということを意味しているのではないだろうか。

 宗教の本質は神秘主義である。神秘主義が禁酒、禁煙、菜食を勧めるのには、秘教科学的な理由があるからで、その一つは、肉体より精妙な体にダメージを与える可能性があるからだ。〔以下を参照されたい〕

 H・P・ブラブゥツキー著『実践的オカルティズム』(田中恵美子、ジェフ・クラーク訳、竜王文庫、1995年)の用語解説より、その七本質を紹介しておく。

神智学の教えによると、人間を含めて宇宙のあらゆる生命、また宇宙そのものも〈七本質〉という七つの要素からなっている。人間の七本質は、(1)アストラル体(2)プラーナ(3)カーマ(4)低級マナス(5)高級マナス(6)ブッディ(7)オーリック・エッグ

  アストラル体はサンスクリット語でいうリンガ・シャリーラで、肉体は本質というよりは媒体であり、アストラル体の濃密な面にすぎないといわれる。物質界に最も近い目に見えない世界をアストラル界というが、アストラル体はそのアストラル界の質料から構成されている。カーマ、マナス、ブッディはサンスクリット語で、それぞれ、動物魂、心、霊的魂の意。ブッディは高級自我ともいわれ、人間の輪廻する本質を指す。ブッディは全く非物質な本質で、サンスクリット語でマハットと呼ばれる神聖な観念構成(普遍的知性魂)の媒体といわれる。

 ブッディはマナスと結びつかなければ、人間の本質として働くことができない。マナスはブッディと合一すると神聖な意識となる。高級マナスはブッディにつながっており、低級マナスは動物魂即ち欲望につながっている。低級マナスには、意志などの高級マナスのあらゆる属性が与えられておりながら、カーマに惹かれる下向きのエネルギーも持っているので、人間の課題は、低級マナスの下向きになりやすいエネルギーを上向きの清浄なエネルギーに置き換えることだといえる。

 飲酒や肉食は、カーマに惹かれる下向きのエネルギーを強めるといわれる。他にも、いろいろな理由から、神秘主義は清浄な生活を勧めている。

 一般人には、一足飛びにそのような清浄な生活を送るのは難しいが、誓いを立てた僧侶はその難事業にチャレンジし、世の模範になろうとするわけである。彼女は僧侶とはいえないが、前掲の雑誌から以下に抜粋する彼女の意味をなさない言葉からすると、良識ある大人ともいえない。

「女子高生が援助交際なんかしちゃってブランドバッグを手に入れて喜んでいる一方で、ブランドものなんて虚飾!と言わんばかりに頭から否定してしまう大人がいる。いったい日本はどうなってしまったんでしょうね。戦時中の“贅沢は敵だ”じゃあるまいし、モノのもつ価値をきちんと理解できる大人が、大切に慈しんで使えば、それでいいではありませんか。ねぇ」

 わが国を覆う物欲と性欲。この風潮に彼女が一役買っていないとは思えない。

 世に出る手段の見い出せないわたしのような作家の卵にとって、サイト「作品発表広場」は変則的な、ちょっと面白い仲介業者に映る。ただし、まだ正体の掴めないところがあって、お試しで作家登録している――といったところ。

 わたしは文学革命を夢見ていた。しかし、価値観も作風も多様化した今のわが国で、物書きが足並みを揃えることは無理だとも感じていた。

 価格破壊という言葉がある。デジタル大辞泉の解説によると、価格破壊とは「ディスカウントショップの躍進、安い輸入品の増大などによって、それまでのメーカー主導型の価格体系が崩れ、消費財の価格が下落すること」をいう。

 物書きは決して安売りしてはならないが、「作品発表広場」のようなサイトに優秀な作家がどんどん登録して繁盛すれば、大手出版社主導型の純文学界の価値体系を崩すことが可能かもしれない。

memo 関連記事:
瀬戸内寂聴作『あしたの虹』を読んで
   ⇒http://elder.tea-nifty.com/blog/2008/11/post-0d65.html
芥川賞の公益性
   ⇒http://elder.tea-nifty.com/blog/2010/06/post-37d7.html

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1Q84 BOOK3(村上春樹著)の売り方、そして絵本作家の逆輸入現象から見えてくるもの

 ネットニュースでは、発売を待って長蛇の列が出来ていたそうだが、娘が勤務する書店は地方の郊外店(北海道から九州まであるチェーン型書店)だからか、昨日は10冊ほどの売れ行きだったという。

 娘の勤務する書店でも、平台に山積みだそうだ。

 娘が書店員なので、本に関してもたらされる情報は多い。出版社、取次店で今何が起きているか――といったことなど、一般人にはわからないことがわかったりする。

 例えば、本の絡んだ社会現象が、作られたものか、自然発生的なものか、といったようなことも、娘がもたらしてくれる情報から推測可能で、わが国の文化のある部分が見えてくるようで興味深い。

 村上春樹の『1Q84』シリーズは、福袋を売るような売り方で、ハリーポッターに倣った戦略かと思わせるが、新潮社も体質が変ったものだ。昔は洗練された純文学の新潮というイメージだったけれど、エンター系のイメージに変わりつつある。

 一方、エンター系のイメージだった某出版社からは、格調高い翻訳文学作品が次々と出始めた。

 時代と共に、出版社も変わって当然なのだろう。

 以下は、『増える「逆輸入」絵本作家』と題された2010年4月16日付、朝日新聞記事からの抜粋。

イタリアで毎年開かれる子供の本の見本市「ボローニャ児童図書展」。47回目を迎えた今年も大盛況だったが、同展で才能を見いだされ、海外で絵本作家として認められた後に日本で出版する“逆輸入”型の日本人アーティストが近年増えている。(ボローニャ〈伊北部〉=南島信也) 
〔略〕
ボローニャ児童図書展を毎年取材しているイタリア人ジャーナリストは、大手出版社の出す児童書の質の低下を指摘した。「大手は、翻訳などのコストのかかる外国人作家に目を向けない。イラストや話の内容も貧しくなった」
〔略〕
先月の会場には日本からも大手を含む20社以上の出版社が姿を見せた。彼らにとっても、海外で実績を積んだ作家をそこで“発見”すれば、育てるコストの節約にもなる。ボローニャ発、逆輸入作家の誕生は、今後も続きそうだ。

 かつては新人を育てる児童書専門の出版社として有名だった某出版社は、持込みを受け付けなくなった。その出版社に限らず、中小に属する児童書専門の出版社には、新人を育てる余裕がなくなったように見える。

 しかし、大手の場合は事情が違うと思われる。わたしはツイッターをするまでは(現在はしていない)、大手にも余裕がないからエンター系のものに力を入れている、と思い込んでいた。

 イタリア人ジャーナリストのいう大手というのが、日本の大手出版社を指すのか、世界的な大手の出版傾向を指すのかはわからないが、かつては豪華な世界の児童文学全集を編んでいたわが国の大手がそうした類のものを出さなくなって久しく、出版内容が貧しくなったことは確かだろう。

 その大手の一つからもエンター系の作品ばかりが出ているような気がして不審におもっていたところ、たまたまツイッターで、そこの――かなり責任があるはずの地位の――編集者の暮らしぶりがまる見えになっていたばかりか、担当している作家なのかそうでないのかはわからないが、とにかくその作家に向けて、実に馬鹿馬鹿しい感想を発信していて、愕然とさせられた。

 その人は、先人の業績に胡坐を組み、一流企業人としての生活をのうのうと楽しんでいるように見えた。それだけならわたしの側の貧乏人の僻みですむことなのだが、問題はその人にはエンター系の作品しか読む力がないのではないか、と勘繰りたくなるものがあったことだった。

 小泉不況の年に娘はその出版社を受験して途中まで進んだのだが、落ちてよかった、とわたしはそのとき初めて思った。

 ああなるよりは、大手の出すポルノさながらの少女コミックスを買う少女に胸を痛める書店人としての厳しい暮らしの方がまだしもまともで、人間的に損なわれずに済んでいるという気がしたのだ。

 娘は児童書志望だったが、大手はどこも週刊誌でしか新人を募集していなかった。当時娘が大手の受験対策としてとり組んでいた過去問を見たわたしは、軽薄、珍妙な出題傾向に驚かされたものだった。こんな問題を解いて合格するかコネで入ったかの人材が週刊誌で入り、文芸書や児童書に回っていくとすれば、どういうことになるのだろうとため息が出た。

 その状況は、大手の出版傾向を見る限り、変わっていないのではないだろうか。中小の経営事情の厳しさは、娘の話からも伝わってくる。突然、連絡のつかなくなる出版社も多いという。

 話は村上春樹に戻るが、わたしは『1Q84』シリーズの1と2を書店でざっと確認したくらいで、3はまだ見てもいないのだが、これまでに触れた村上春樹の諸作品には、読者を羊水にも似た混沌への退行に誘うところがあって、それはアルコールや眠剤がもたらす酔いや眠りにも似た子守唄であり、逃避願望、忘却願望を充たしてくれるところがあるように思われる。

 村上春樹は2010年4月11日付、朝日新聞の読書欄「ゼロ世代の50冊」という特集の中で、以下のようにいっている。

 小説を書いているときは、そこに今日的なテーマがあるかどうかというようなことはまず考えません。考えてもよくわからないし。

 ノーベル文学賞を期待されるような作家のこのような言葉を読むと、わたしは脳味噌が腐りそうな気がしてくる。

 このような書き方は何といえばいいのか、霊媒的に時代を映し出すのかもしれないが、靄がかかったようにしか映し出せないだろうし、作者自身も、このような書き方をしていると、時代に抱かれ……利用され……最高級の賛辞を浴びて時代の頂点にまで昇りつめるのかもしれないが、下手をすれば、いつか捨てられるのではないだろうか。『ノルウェイの森』の直子のように。

 わたしがノーベル文学賞という言葉から連想するのは、レオン・サーメリアンが『小説の技法』(西前孝監訳、旺史社、1989年)で書いたような以下のような作品だ。

 優れた物語はすべてその根底に発見あるいは認識(アルストテレスの言う「アナグノリシス」)がある。物語全体が一つの発見あるいは認識の過程となっている場合もあるし、また個々の場面とか更に小さな行動の単位の中に発見や認識があることもあるが、これが状況の中で決定的な変化を生み出したり転換点となっていたりするのである。また物語の流れが次から次へと発見や認識の連続を為していて、結末での最終的な発見へと導いていくという形で行動全体をまとめる場合もある。
 無知から認識へというのが物語の基本的な流れである。

 村上春樹の作品では、サーメリアンのいう物語の基本的な流れが逆流している。

 わたしは村上春樹について考えているとどうしても暗い、浮かばれない気持ちになってしまい、バランスをとるためにバルザックを読みたくなる。これを書いてきた今もそうで、たまたま書簡集を手にして本を開いたところ、以下のようなバルザックの言葉が目に飛び込んで来た。 

 今私達は、知性の時代にたどりついたのです。物質の王、野獣の力は消え去りつつあります。知性の世界があって、そこで、知性の世界のピサロやコルテスやコロンブスといった先覚者に出会えるのです。思想の包括的な王国ができ、そこにも君主が現われるでしょう。このような野心をもっていれば、無気力も、こせこせした心もありえないでしょう。こうしたおろかしいことほど、時をすり減らすものはありません。だから、私が無限と感じているこの円環に、外側から入りこんで行くには、何か偉大なものが必要なのです。それにはただ一つのものしかありません。それは、――無限に対する無限――広大無辺の愛です。

『バルザック全集 第二十六巻』(伊藤幸次・私市保彦訳、東京創元社、昭和51年)

 わたしはあの子供時代へと逆行したくはない。無知へと逆行するのはご免だ。ましてや混沌とした羊水へなぞ――。羊水の所有者が堕胎でもしたら、一巻の終わりなのだ。

 今日、帰宅した娘によると、平台に山積みにされた本の前で、中年女性と若い女性が以下のような会話をしていたという。

「これ、スゴイってね」
「あー、スゴイん?」
「うん、何がスゴイのかが、よくわからんのやけどなー」
「え? 何なんこれ?」
「え、本やろ?」
「あー」 

※ 申し訳ありませんが、当記事に関するメールは受け付けておりません。

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