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2010年5月 3日 (月)

中村紘子のピアノ・リサイタルで、フジ子・ヘミングを想う

 先月10日の中村紘子のピアノ・リサイタルから日が経ってしまったが、若干メモがあるので、過去記事と合わせて書いておくことにした。

 以下は、プログラム。1961年12月、東京文化会館での初リサイタルの再現プログラムとのこと。

  • スカルラッティ[タウジヒ編]
    パストラーとカプリス
  • ヘートーヴェン
    ピアノ・ソナタ第8番ハ短調「悲愴」Op.13(※作品13番の意)
  • シューマン
    謝肉祭Op.9
  • フォーレ
    ワルツ・カプリース第1番Op.30
  • ラフマニノフ
    10の前奏曲Op.23より〈変ホ長調〉Op.23-6、〈ト短調〉Op.23-5
  • ショパン
    バラード第1番ト短調 Op.23
    12の練習曲Op.10より第5番 変ト長調「黒鍵」、第12番ハ短調「革命」
    ポロネーズ変イ長調Op.53「英雄」

 20100410161249

 アンコール曲は以下。

  • ドビュッシー
    月の光
  • ラフマニノフ
  • ショパン
    ワルツ第2番
  • グラナトス
    アンダルーサ
  • ブラームス
    ハンガリー舞曲第1番

 光沢のある白地に、黒いラインと黒い花の模様の入ったドレス姿で紘子さん、登場。背中から、床に引き摺る長いリボンが垂れている。時折、宝石がきらめく。テレビで観る通りの華やかさで心が浮き立った。夫の双眼鏡を借りて行ったので、表情までよく見える。引き締まった顔つき。

 昔、教育テレビの『ピアノのおけいこ』をよく観ていた。エッセーも好きで、考えかた、感じかたに共感を覚えてきた。それで、かなりの期待と共に、耳を傾けたのだった。

 なめらかで上質、均整がとれているという当初の印象。要所で確認をとるかのように小さく頷く癖もお馴染のもので、楽しい。

 しかし、この時点から既にわたしはフジ子・へミングの演奏と比べていて、「フジ子のように、何が出て来るかわからない面白さはない」などとメモっている。

 劇的な曲になると、紘子さんとフジ子の違いが歴然としてくる。

 フジ子に比べて、表現が表面的で、曲想を掴みえていないのではないかと感じさせるが、紘子さんのエッセーなどからして頭でわかっていないとは思えないため、これは体験から滲み出るものの違いとしか思えなかった。テレビのコマーシャルで観ているほうがよかった、とまで思う。 

 後半近くから、わたしはもうフジ子のことしか考えていなかったので、メモにはフジ子のことしか書いていない。紘子さんには失礼な話だけれど、こんな事態は自分でも予想外だったのだ。

 あれは英雄だった――妙に紘子さんの演奏がガンガン乱暴に聴こえたのは。帰宅後に、同じ曲をCDで聴いたフジ子のほうは、重苦しかった。

 このことから、両奏者のタッチの質の違いと、彼女たちがいずれも楽譜に忠実な弾きかたをしていることが推測できた。

 楽譜に、強いタッチをするようにとの指示が連続して下されているに違いない。

 指が太くて重厚な音を出せるフジ子は重くなりすぎ、軽い音になりがちな紘子さんのほうはガンガンうるさく聴こえたのだった(声量の乏しい歌手が声を張り上げているような感じ)。

 紘子さんの場合、模範的な弾きかたという印象で、ピアノのレッスンの域を出ない。強いていえばサロン芸術という感じの演奏……。

 そうした見方からすると、フジ子のピアノは――服装までもがそうだが――ジプシー的、野生的。大自然と人間社会の香りがし、双方に対する並外れた理解力と彼女独自の哲学を感じさせる。また純然たる霊性の美の輝きわたる瞬間がある。フジ子の演奏には天から地までが含まれるのだ。バルザックの文学がそうであったように。

 フジ子のよさが改めてわかった、中村紘子のピアノリサイタルだった。

 芸術家とは、分野は違っても哲学家、そして神秘家でもあるのだ――と改めて、わたしは思った。そうでないピアニストは、職業としてピアノを選んだ職人にすぎない。職人的ピアニストが大勢を占めるなかで、フジ子はやはり芸術家としてのピアニストなのだ。

 風雪に耐えて弾いて来たフジ子。それは決して無駄ではなかった。叩き込まれた古き佳きヨーロッパのピアニズムが、彼女の感じかた、考え、思想を濾過し、純度の高いものにしている。

 そして、また、若い頃のフジ子の失敗――デビューコンサート前日に聴力を失い、当日の失敗を招くという彼女の苦い経験――は、偶然ではなかったのだと思った。

 彼女はプロにしてはミスをしがちだ。大ステージでの経験が不足していることが原因だろうか、と考えていたが、中村紘子と比較してみて、そうではないとはっきりとわかった。

 フジ子は神経が細すぎるのだ。若いとき、彼女はプレッシャーに勝てなかったのだ。それで、デビューの大舞台をふいにしてしまった。

 彼女はミスをすると、混乱状態となってミスを重ねたり、投げたような感じになることがある。そのナイーヴは生まれつきのもので、彼女の芸術家としての感性を研ぎ澄ませてきた反面、諸刃の剣となって、彼女自身を傷つけてきたのに違いない。

 彼女の求道性は、そんな切迫した感性のありかたがもたらした面もあるのかもしれない。一個の芸術家は、不思議な生まれかたをするものだと思う。彼女の遅いデビューは、多分悪魔がもたらした悪戯などではなく、必然だった……! 

 革命。フジ子の演奏では、左手がもっと重く、うねるように持続的に響いた。激動の革命の内部構造が見え、民衆の息遣いが聴こえてくるようだった。

 フジ子はペダルの使いかたが絶妙だと感じたが、それはドビュッシーのような抽象性の高い曲では、ひときわ生きていた。紘子さんのドビュッシーは味気ない。

 紘子さんがアンコールで弾いたラフマニノフの鐘(真央ちゃんが滑った曲)を、フジ子で聴いてみたいと思った。

 ただ、紘子さんは楽譜通りに狂いのない弾きかたができ、音に色がないだけに、平均的なオーケストラには合わせやすいのではないだろうか。フジ子は過度に敏感でミスする頻度も高いから、よほど熟練した、フジ子の芸術性を理解できるオケでないと、うまくいかないだろう。

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