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2010年2月 6日 (土)

文学仲間F氏から送られてきた個人誌とO氏からの電話

 F氏から個人誌が送られてきた。その個人誌にわたしは招いていただいたのだった。

 喫茶店で詰めた話をしたときに、バックナンバーと、それが新聞などに採り上げられた記事の保管されたファイルを見せていただいた。

 小学校の文集を連想されるお手製の冊子で、保育園のお子さんの挿絵がある。が、内容は一目見ただけで、しっかりした洗練されたものであることがわかる雰囲気を醸している。編集後記と冊子に添えられた挨拶状は極めて腰が低く、あっさりとしている。

 文学革命を、この可憐な個人誌で??? 爆弾の代わりに彼は雛菊を用いて、革命を起こすつもりらしいとわかった。

 面白い工夫だと思った。写真入りで新聞記事になったのも、なるほどだと思えた。しかし、これだけでは事態は何ら動かないだろうというのも推測できた。

 わたしが彼の個人誌に加わることで、雛菊がアザミに、あるいは礫に変容する虞れがありはしないか?  しかし雛菊のままでは可憐すぎる。このよさを消さずに有効活用できるのか?

 わたしにはわからないが、彼の個人誌は気に入ったので、とりあえず1号、ご一緒させていただきたいと考えている。それで雰囲気を壊すようであれば、以降はご遠慮することにして。

 喫茶店での話では年に2回の発行だということだったので、わたしは童話の目鼻がつく(完成といいたいが、夏までには無理かもしれない)予定の夏以降の号、すなわち後半の号に加わらせていただきたいと返事した。

 ところが今日の電話での話によると、次号は4月に出す計画だとおっしゃる。ムム……F氏のカレンダーでは1年は6ヶ月らしいとわかった。

 評論でご一緒させていただくつもりなのだが、今は童話を優先させたいので、4月までには書けない。それで、当ブログから生まれた作品である評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』は如何だろうかと打診してみた。

 それでもいいそうなので、4月までに新しい作品が書けそうになければ、それを載せていただこうと思う。

 新聞社以外にも、知っている編集者やコンタクトをとってみたい出版社などに送ってみたいと考えている。

 F氏の作品はペット葬祭業を題材にしたもので、キツネにつままれたような面白さがあった。舞台設定も、ストーリー展開も完璧といってよい出来栄えだと思う。彼の読書は日本文学専門らしいが、身辺雑記に陥らない、ストーリーテラーである彼の作品傾向は西欧的ではないだろうか。

 人物の描きかたに不足のあるところが惜しいといつも思う。あれこれ書かれてはいるけれど、誰それがあれしたこれしたで終わっていて、感情移入できるような登場人物が見つからない。

 わざとそうしているのかと思い、尋ねてみるのだが、わざとではないそうだ。人に会ったときに、わたしたちは相手の目を見、表情を捉え、声の響きに耳を傾ける。そうした描写は、人物に厚みを持たせるためには、どうしたって必要だ。

 くどく書く必要はない。ちょっとした表情を描くだけで、泥人形は呼吸し出すのだ。この点を改善して貰わなくては、文学革命ったって、お話にならない。プロの作品として書店に並んでいたとしても遜色ないF氏の作品であるからこそ、この点が何とかなればと思わずにいられない。

 F氏の次作を拝読して、個人誌に加えていただくかどうか決めるほうがいいかもしれない。酷な、あるいは独りよがりな注文かもしれないが、遊びでやるのではないから、この点を改めて彼にお便りで触れておきたい。 

 前日、O氏からもお電話があった。彼は16歳で家出して東京へ行き、ボクサーを目指したり喫茶店でアルバイトをしたりして糊口をしのいでいたが、経済ライターに拾われて、名のある同人誌にもぐりこんだりもしていたという。

 そのときに彼が耳にした文壇の裏話の中に、わたしが裏をとりたいと思っていたエピソードがあった。男女平等が進んだのに、それと反比例するかのように、女性作家の書くものから、なぜ誇り高さが失われたのかの原因をわたしは探っていた。

 そんな裏話を聴かなくても、表に出ている情報から原因の追究は可能だったし、論の組み立ても可能だと思うが、自身のために確証となるものがほしかったのだ。ただ、何にしても、これを作品のかたちにまとめるには、時期尚早だ。

 またO氏は、ある作家になら会わせてあげられるという。童話で出た作家だから、持ち込みを考えているわたしにとって、会って損はないかもしれない。うまくいけば、その作家のコネで児童文学関係の編集者に作品を見て貰えることだって考えられる。

 しかし、こうしたことで謝礼を弾まねばならなかったり、後々までそのために縛られるのであれば、こうした餌につられることは危険だ。その作家は何しろ、関アジ関サバを食べに来る人なのだから。

 それに、編集者とコンタクトでき、話が発展したとしても、賞を背景にデビューさせてあげるなどといわれたとしたら、お笑い種だ。ミイラとりがミイラではないか。わたしは何より、応募者を、賞を華やかなものにするための道具としか考えていない賞のありかたを告発したいのに(勿論、全ての賞がそうだといいたいわけではない)。

 そうだとしても、コネもなしに持ち込んだところで、ちゃんと見て貰える可能性は極めて低いようだ。で、この件については保留ということにし、O氏にもそう伝えた。

 自身を作家の卵と表明していたとき、人々は「ああ卵か」といって通りすぎるだけだったけれど、世に出たいと表明したとたん、あれこれ話が舞い込むようになった。どれもシャボン玉のような話ともいえるが、中には正当な手段で世に出るきっかけを作ってくれるよい話もあるかもしれない。注意深く対処したい。

 わたしのサイトを通して作品に惚れ、商業出版しましょうなんていってくれる出版人に出会えたら一番よいのだけれど。夢物語なのだろうか。

 この世のどこかにいらっしゃるはずの純白の糸で結ばれた編集者様、筋金入りのあなた様をわたしはお待ちしております。

落選続き、応答なし続きの作家の卵にとって、この上なく元気が出る本。ポパイのほうれん草(ちと古いかな)。頑張って卵を割ろう、世に出よう、飛翔しよう!

◆ミステリー作家ジョセフ・ハンセンの忠告

〔略〕
――1968年以来、わたしの長編・短編・詩で、断られてから出版されなかったものはただの一篇もない。もしきみが確固たる信念を持っていれば、そのうち確固たる信念を持った編集者とめぐりあうだろう。何年もかかるかもしれないが、決してあきらめるな。
 物書きというのは孤独な作業だ。部屋で一人、タイプを相手にすわり、毎日何時間も、何ヵ月も、何年も格闘しつづけなくてはならないばかりか、それだけ血と汗と涙を流して頑張ったあとで、なお、きみの書いたものに敬意を払い、そのまま出版してくれる人間を見つけなくてはならない。しかも、信じてほしい。これはその本がきみの最初の小説だろうと、31番目の小説だろうと、まったく同じことなのだ。

(『まことに残念ですが… 不朽の名作への「不採用通知」160選』編著者アンドレ・バーナード、監修者木原武一、訳者中原裕子、徳間文庫、2004年) 

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