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2009年11月 9日 (月)

自作小説「台風」

・ 第22回織田作之助賞最終候補作品。
  選考委員は川上弘美、杉山平一、辻村登の各氏。結果発表誌は「文学界」5月号(文藝春秋、平成18年)。
・ 同人誌「日田文学」53号(編集人・江川義人、発行人・河津武俊、平成18年7月)に収録。

・ HP「バルザックの女弟子になりたい!」でもお読みになれます。こちら牛飼いとアイコンの部屋様のキュートな素材をお借りして個性的な雰囲気を醸しています。

 雷雨はほぼ連日昼下がりに始まり、長々と続いた。寒暖の激しい盆地の気候が、このような雷雨を呼ぶのだろうか。雷の発生が唐突で、怖い。雷も雨も半端ではない。だからこそ、緑はみずみずしく、鳥たちの行動は活発なのかもしれない。だが、地元の人の話では、台風被害はめったにないという。さしもの台風も山々に遮られて、やってこられないというのだが――本当だろうか?
 山あいにある町――ここ日田市に引っ越してきたばかりの夏、長沢(ながさわ)央子(ひさこ)は雷雨に悩まされた。雷雨の中をママチャリで買い物に出るのは正気の沙汰とも思われなかったから、空がしずまり、青い空が見えてくるのを待った。雷が激しいと、ブレーカーを下げた。古びた大きな借家を、落雷で消失させるわけにはいかないからだ。雷は決まって激しかった。 

 借家の庭は、蛇の理想的な居住区らしかった。央子は三匹一度に見たこともあったし、二匹が絡まるのも見た。蛇たちの饗宴や生態を見たくて見たわけではなかった。第一、普通はこう豪勢に蛇が見られるものではないだろう。買い物に出るにも庭に蛇がいたのでは怖くて出られず、自ずと彼らの動向に注目せざるをえないのだ。
「褐色地に黒い縞模様があるのよ」
と教えると、娘の美亜(みあ)は興奮気味に口を尖らせて言う。
「わぁシマヘビだよ、それ! 日本全国どこにでもいるやつ。結構気が荒いの。あ、でも、咬まれたって、どうってことないよ。毒はないし、ホッチキスで空けたみたいな小さな咬み痕が二つ、残るくらいのものだから」
 観察して図鑑で調べることが好きな娘なのだ。兄の亘(わたる)のほうは淡々としていて、呑気で、人間全般にさりげなく関心を注ぐ。蛇など、さほど見たくはなさそうだ。
 あるとりわけ暑い真昼どきなど、買い物帰りの央子は蛇が塀を乗り越えてこちら側にくるのを見、かごに食品を満載したママチャリを引いたまま道で凍りついてしまった。が蛇の目的は塀を乗り越えた先の溝だったらしく、そのまま溝へ向かうとそこでひと泳ぎしたのち、再び塀を伝って庭に戻っていったのだ。
 そんな悠々たる蛇にも苦労はあって――、ある雨あがり、庭に面した洋室の窓から央子は地に蠢いている蛇を見ていた。蛇が低木の下に入り見えなくなったので窓の側を離れようとしたとき、再び樫の木を伝う蛇の姿が目にとまった。蛇は舌をちらちらさせながら枝の先の緑まで行き着いた。どう方向転換するのかと思って見ていると、蛇は一旦体を二つに折るようにしてぶらんと枝にぶら下がる。そして、きたときとは頭の向きを変え、戻っていく。苦労して地に降りた蛇は、今度は別の木にのぼった。舌をちらちらさせながら。央子の脳裏に、美亜の言葉がひらめいた。
「蛇が割れ目のある舌を出して、ちらちらさせるのはなぜだか知ってる? そうやってさ、空気中に漂っている獲物の匂いをキャッチしているんだよ」
 雨あがりの庭の木に蛇は蛙か何か、食料になるものを探しているのだと央子は知った。視力はあてにできないのに違いない。いちいち舌で匂いを嗅ぎながら、あちらの木からこちらの木へと探しまわらねばならないのだから。蛇は結局このような労働行為を三度、つまり木の三本分繰り返した。が、収穫には恵まれなかったようだった。
 借家は九部屋あった。一階に洋室一つと和室四つと板の間一つ、中二階に和室一つ、二階に和室二つ。三田村工業株式会社が民家を買いとって寮にしていたのをアパート型の寮を建てて不要になったので、一般人に賃貸することにしたものだった。夫功(いさお)の転勤で日田市にやってきた長沢一家は理想的な住まいを求めたが、自分たちの経済力ではこぢんまりとしすぎた息苦しいコーポか古くて広すぎる民家かのどちらかを借りるしか選択の余地がないとわかったとき、後者を選んだのだった。
 低いブロック塀がめぐらされた中に庭石が置かれ、樫、楓、クチナシ、ツツジ、椿、梅などが植えられていた。増改築を経た外観はそう古くも見えないが、中に入ると傷んでいることがわかる。寮であった歴史が家を傷めつけたのかもしれない。床板がところどころ腐り、雨漏りが台所と中二階の踊り場に見られた。二階にもあるトイレは壊れている。あちらこちらに日曜大工的な細工跡があった。隙間や小さな穴も沢山あって、そこから小さな侵入者が出入りする。
 家の中で出くわす相手がゴキブリ、蟻、ナメクジだと珍しくもないが、蛙、コオロギとなると少し珍しく、ムカデ、ゲジゲジ、鼠には閉口した。蛇がここの庭を居住区と決めこんだのも、餌に富んでいたからだろう。玄関の柱に齧りついて羽化する蝉が例年一匹か二匹はいて、央子はその羽化したばかりの蝉の翡翠色に盛夏の華やぎと終わりを感じ、やがて蛇が庭から姿を消す頃になると、寒さの訪れを意識するのだった。
 しかし、その時期に決まって、招かれざる客が台所を荒らしにきた。鼠だった。それも仔鼠で、仔鼠は用心することを充分には心得ていないから、お馬鹿さんな行動をとりがちだ。日中出てきて、大きな物音を立てる。兄弟らしい二匹の鼠が、床に置かれた箱の中の素麺で飢えをしのいでいたことがあった。二匹が連なって流しの隙間から素麺の箱めがけて走りこみ、素麺を齧って食事をすませると、もといた流しの隙間に逃げこむのだった。央子が組み立てた鼠捕りにかかった二匹は、長沢家で飼っているハムスターに似ていた。長沢家では、日田市に引っ越してくる少し前からハムスターを飼い出した。歴代のハムスターが庭の片隅に眠っている。ゴールデンハムスターのクッキーから始まって、ココア、コーヒー、ミルク、レモン、メイプル、メイプルとレモンの子供ポム、ノワールと続いたのち、小型のジャンガリアンハムスターを飼うようになった。そのジャンガリアンハムスターのショコラ、現在飼っているフレーズとなる。ショコラは明らかに神経症で、顔を洗ってばかりいた。洗い終えたかと思うと、それは第一楽章にすぎず、第二楽章、第三楽章……と続いた。愛撫を嫌がっているように見えたが、死ぬ前は抱かれたがり、小さな手を握ってやるとじっと央子の目を見つめてきた。ジャンガリアンハムスターはゴールデンハムスターより神経質かと思ったが、フレーズはそうでもない。フレーズは〈パールホワイト〉と商品名がついていた。白い背中に黒線がある。顔に手足がついて動いているかのようで、後ろから見ると綿の塊のようだ。捕らえられた鼠の大きさはフレーズくらいだった。一匹はやんちゃ、一匹はひ弱に見えた。ハムスターをペットとしながら鼠退治することほど嫌なものはなかった。

 こうした蛇や鼠や虫……といった生きものたちの楽園を崩壊させるもととなった事件が、その四年後に起きた。白蟻が発生したのだ。
 五月初旬のこと。午後二時すぎに央子が掃除をしようと思って浴室に行ったところ、羽蟻の大群がいた。浴室の木製の窓枠が腐れていたところへ、大量の羽蟻がたかっていたのだ。一大事、白蟻だわ、と慌てるばかりで何事も自分で決められない彼女は、大家である工場の担当者に電話を入れるより先に、夫の功の会社に電話をした。おぞましい光景を克明に描写してみせた妻に、夫はしずかに言った。
「カゲロウの一種だろう、ほっといて大丈夫だ」
央子はえっと驚き、抵抗するように言った。
「カゲロウ? 蟻にそっくりなのよ。カゲロウはトンボに似ているでしょう、あなた、理科が苦手だったんじゃない?」
 すると夫は、電話の向こうで笑った。
「理科は得意でしたよ。蟻とトンボの区別もつかないほど、僕が都会育ちだとでもいうの? とにかく、そいつはカゲロウさ。じゃ、切るよ」
と断言し、電話を切ってしまった。
 夫の言葉を幾度か反芻してみて、最終的に央子は首を振った。そして、浴室のことを心配するあまり、胸苦しさを覚えるほどになった。
(あれは間違いなく羽蟻よ。そう、羽蟻に違いない。カゲロウがあんなに沢山窓にたかるなんて、ありえない。カゲロウのあの透明感がない。羽蟻だとしたら、大家さんに電話をしてきてもらわなければ。それは繁殖期の白蟻だということなのだから。早く手をつくさなくては……ただでさえ老朽化したこの家は……一巻の終わりになりかねない。とはいえ大家さんの工場はいつもフル稼働で忙しそうだし、困ったわ……)
 央子は一時間のあいだに五回浴室を見にいき、五回戦慄して、五回ため息をついた。逡巡の揚げ句、ついに彼女は工場に電話をかけた。
 事務員らしい女性が取り次いでくれ、電話に出たのは初めて聴く男性の声だった。その声の主は早口ながら、飄々とした情趣を漂わせる。どこかで、水仙の花が香った気がした。
「ははあ、如何にもそいつは、奥さんがおっしゃるようにおそらく羽蟻、すなわち白蟻でしょう。駆除は専門家に任せますが、とりあえず、わたしが見に行きます。申し遅れましたが、わたし、新しく借家の担当になった内藤といいます」
 央子は、意外な思いで受話器を置いた。
 耳に残る内藤という男性の声に、水仙の香りを連想させた清々しさがあったのとは別に、関西を連想させるニュアンスのこくと柔らか味があった。これまでの担当者は如何にも土地の者らしい実直そうな、彩りには欠けるといったタイプだったのだ。
 内藤はちょっとせっかちな様子で、二時間後の午後四時半頃現れた。央子と同じくらいの年恰好に見える中年男性で、表情には若々しさがあった。
 彼は一旦力のこもった、鋭いまなざしで央子を見据え、話し出す前にやや間を置いた。そのワンクッション置いたあいだに男性は観察と分析とをすませたらしく、その結果だろう。おおどかな、とぼけたような、さわやかな……独特の雰囲気を漂わせて、親しげに話しかける。
「奥さんは土地のかたですか? わたしは日田の生まれではあるんですが、神戸大学を出まして 、長くあちらで勤めとったんです」
 内藤は、央子が彼の声から関西を連想した、そのことに共鳴したかのように自身について語り、アピールしたが、彼女の答えについては聞き過ごしたような感触があった。わたしは本当はこんな田舎にくすぶっているような男ではないんですが―とでも言いたげに子供じみた邪気のないプライドを目に浮かべて、彼は央子をちょっと探るように見る。その目はアーモンド型だ。
 内藤は、浴室に案内されて驚愕した様子をあらわに示した。窓枠にたかっていた羽蟻は二手に分かれて移動し、洗い場と浴槽にそれぞれの小山を形成していた。彼は沈黙したまま浴室のドアを閉め、そのまま廊下を通って帰りかけたが、玄関に降りる前にふと央子を振り返った。
「専門家に連絡がついたら、すぐに電話します。奥さん……驚かれたでしょうな」
 車に乗る間際に、彼はまた目に力をこめて央子を見、半ばつぶやくように早口で繰り返した。
「すぐに電話します」
 借家と工場を隔てる舗装された小道を、車は左へと去った。その小道に沿って工場の高いブロック塀が続き、ブロック塀の内側から伸びる何本もの桜の木は清々しい緑を宿している。力のこもった男性のまなざしというのは、快いものだった。夫の功は、央子がほしいと思った局面で、そのようなまなざしをくれたことはなかった。
 三十分ほどして、再び内藤から電話があった。翌日の九時に西部消毒さんが来てくれること……夜はあまり出ないので、殺虫剤をスプレーして入浴してよいこと……を几帳面な早口で告げ、電話は切れた。
 連絡を受けて次の日に訪れた西部消毒の男性は、洗面所の天井板をはがして天井裏にもぐった。そうやって被害状況を調べ、白蟻の種類を掴み、応急処置をほどこした。白蟻の駆除は来週末になるらしい。央子はあてがはずれた思いで口走った。
「すぐにやっていただけるんじゃ……」
「これがイエ白蟻だと、一刻を争うんです。ヤマト白蟻で幸いでした。昨日奥さんが目撃された彼らというのは、丁度、合コンで盛りあがっているような状態です。もう最高に、盛りあがっていたというわけですよ。内藤さんが、奥さんのご心配にひどく興奮して感動して、早く何とかしてやってくれとおっしゃいまして」
と、男性は丸顔を輝かせ、自分まで興奮したように語った。
 感動という男性の言葉の使いかたにおかしなものを感じ、央子は黙った。白蟻から引き起こされた自分の恐怖と不安に、内藤が共鳴してくれたという意味なのだろう。
 白蟻の駆除に次の週の金曜日が予定されたが、央子が通う病院の予約がその前日だった。よかったと思う。ここに引っ越す以前から通っている田川市の総合病院へはJRの日田彦山線で一時間半かかり、途中で県境を越え福岡県に入る。近くの病院に変わってはという医師のすすめを、彼女は渋ってきた。新しい医師に馴染むには、新しい家に馴染むのと同じくらい時間がかかる。医師が新しくなるたびに患者としての市民権を獲得し直さなければならない煩わしさを思うのだ。央子は医師にであれ誰にであれ、何かを主張したり、わかってもらったりするようなことは不得手だった。羽蟻のことを、夫の功に電話で説明することができなかったように。
 金曜日、西部消毒の作業員たちが朝の九時までにはやってきて、消毒に夕方の五時までたっぷりとかかった。玄関脇の土に根を張っている梅の老木も白蟻にやられていると丸顔の男性は言い、木の窪みに消毒液をかけた。老木は腰の曲がった老女そっくりで、それでも毎年花を咲かせ、絞り出すように実をつけるのだ。
 家の中の白蟻が出そうな要所要所に、乾くと白い跡が残る消毒液が撒かれた。天井裏にもぐった丸顔の男性はそこで消毒液の毒性をしたたかに吸い込んだのか、出てくるなり洗面所で長いこと嘔吐した。
「この仕事は命がけなんです。昔は今より強い薬が認可されていたので、十五年は大丈夫でした。その当時の薬は米国産で、本国では二十八年もちました。日本は湿気が多いですから、どうしても短くなるわけですよ。当時は、強い薬のせいで、自律神経をやられる人が相当いました。今の薬は五年の保証です。本当を言えば、この家のように、ここまでやられていれば、五年保証は難しいところなんですが、保証しないわけにはいかないところが我々のつらいところです。消毒後にまた羽蟻を見るようでしたら駆除に失敗したということですから、すぐにご連絡ください。奥さん、今の隣の座敷は危ないですから、あまり重いものは置かないようにしてください」
 嗄がれ声になった男性は、打ち明け話でもするように央子に語った。男性の丸顔は黄色い。この人には仕事が招いた疾病があるのかもしれない、と彼女は思う。
「もうこの家は手に負えないのよ」
と央子は、その夜帰宅した夫に真相を伝えた。
「手に負えないったって、僕たちの家じゃないんだからどうしようもないし、僕たちの家じゃないんだから。どうってことないだろう。今すぐ床が抜けるわけでもないだろうし。安心なさい奥さん、床が抜けるまでには転勤話がきますよ」
「でもね、あなた。白蟻だけじゃなくて、他の虫も死ぬんだそうよ。消毒液の効果で」
彼女の脳裏には、西部消毒の作業員の黄色い顔色が浮かんでいた。
「いいことじゃないか、ゴキブリもゲシゲジも出なくなるんだろう」
「この借家は、わたしには荷が重いのよ。ハムスターのケージに鼠が入りこんで、ハムスターと鼠の混血児が生れる夢を見たわ」
 すると夫の功は黙った。この借家で暮らす違和感を彼女は語ったのだが、彼のほうでは彼女の夢の話を文字通りにとらえたのだった。鼠だって消毒液の効果で出なくなるだろうに、ちぐはぐなことを言うやつだ――と言いたげな腑に落ちない顔つきをし、そして一分後にはテレビに目をやって笑っている。
 このままこの家に居続けることはわたしたち家族の衰運を招く気がすると彼女は心のうちで叫び、半ば苦悶するように半ば苦笑するようにつぶやいた。
「どこか別の借家へ移りたいわ。この広さだけは魅力だけど、広すぎる。でも、お金がない。教育にあとどれくらいお金がかかるのか……うちはだいたい引っ越し貧乏……。転勤族の悲哀ね」
 だが彼女は、テレビ番組にのめりこんだ夫が再び笑いを放つのを聴いた。
そんな夫と向かい合わせに座る彼女は夫のテレビ鑑賞の邪魔にならないよう腰を浮かせて、座る位置を変える。見についた習慣だった。空になった湯呑みを両手で弄ぶうち、央子はいつしか、ひたと自分を見据えた内藤の顔を思い浮かべていた。
 団塊の世代である夫。それより十近く若い自分と内藤が青春時代に、同じ高校で知り合っていたら、どうだったろう? 覇気のある内藤は、生徒会で活躍していそうだ。あこがれの対象というよりは、親昵しやすいクラスメートといった役柄が似合う。がすぐに、月並みな成績、図書室で本を読んでばかりいた地味な自分といったものを彼女は思い出す。神戸大学にパスしたほどの彼――エリート集団を形成していたに違いない彼ら――が、如何なる種類の興味であれ、自分に関心をもつなどありえなかったろう、と思い至り、苦笑する。
 こうした変に現実臭い空想癖が習い性となって自身の内的な拡がりや可能性を狭めてきたことに、央子は自分で薄々気づいてはいた。家のことにしてもそうなのだ。彼女は、自分に似あいの家を切望していた。買えないなら、借家でもいいのだ。両親の持ち家で暮らしていた頃も、借家暮らしの今も、本物でない暮らしをしているような心もとなさがあるのだった。快適な家、愛らしい家を望みながら、他方では早々とその夢を打ち消してしまう。夢を推進力に変える術を知らず、夢に溺れることをいたずらに恐れた。夢を喪失し、片翼をもがれた鳥のように時折残った翼をばたつかせる。だが……自分より力のある男性というもの――その種――を意識するようになる以前の彼女というのは、男の子のように並はずれて実行力に富んでいたはずだ。いずれにせよ、それはずっと――ずっと――昔の話だった。知っている大人の男にあるとき執拗に体を触られる以前の話で、そのとき彼女の抵抗は用をなさず、またそのことをどうしても両親に言えなかったのだった。人間はその気になれば、他の人間を安っぽく、布切れみたいに扱えるのだと知った。

 白蟻事件からさらに四年が過ぎ、そのあいだに子供たちは成長し、大人たちの波乱があった――バブル経済の崩壊による平成不況が長期化し、いよいよ深刻化してきたのだった。投機行為がうんだ悪酔いにも似たまやかしの好景気から日本全体がふいにさめたとき、企業が選んだ道は、幹を腐らせかねない枝葉の処理だった。典型的な中小企業に身を置く夫の功は、会社でリストラの作業に頭を悩ませるようになり(対象は非正規雇用者である)、家計はそんな社会事情に付き従うように逼迫し始めた。央子の快適な家、愛らしい家の夢も、もう大気に融けこみかけていた。このままこの日田市――上質の空気と水と文化とに恵まれた風情のある町――で老年を迎えたくなっていたけれど、この借家でとなると、やはり無理があるように感じるのだった。
 夫は、リストラ係としての苦悩が増すと、神経性の下痢を起こし、そして便座の裏側を汚した。それをトイレに差しこむあわい朝の光の中で見る央子は、軽い戦慄を覚えるのだ。深夜、夫が寝床を抜け出す物音で彼女は目がさめる。トイレから(ようやく)戻った彼がそのまま朝まで眠らず、新聞配達のバイクの音が遠ざかるや再び(短い時間)トイレに立ち、玄関に新聞をとりに行って居間に入るまでの行動を、彼女は枕に頭をつけたまま追うのだった。だから、なぜ下痢便の飛沫を見せて便座が上にあがっているのかを、誰がそうしたのかを、彼女は知っている……。つまり夫は夜中にトイレで下痢に苦しんだ結果として便座の裏側を汚したあと、部屋に戻って眠れないまま朝を迎え、朝刊をとりに行く前に今度は小用を足すためにトイレに立つのだ。夫は自分が便座を汚したことに気づいていながら、その染みを拭こうとはしない。夫の小さな粗相。公共のトイレで便器のどれかに決まって見られる汚れと同じものだが、央子には夫のそれが単なるマナーの欠如によるものとは思えない。それはリストラする夫のあえぎが刻印した染みだ。屈従の飛沫のような染みだ。同じ屈従を、家族にも強要するかのような染みだ。その染みを彼女は嫌悪し、そんな自分をもて余すようになった。幸い、そんな染みは時々見られるだけではあったのだが――。
 マイペースなようでもあり呑気なだけのようでもある息子の亘は、北九州市の法学部に入学し、大学に程近いワンルームマンションで独居生活を楽しんでいた。と長沢夫妻は思っていたのだが、実際には独り暮らしは息子の手に余っていたのだった。もともとアトピー体質ではあったのだが、たまに出るくらいだった湿疹が一気に吹き出し、目も当てられないさまになった。おそらくストレスからで、初めての家事、対人関係、学問……のいずれがストレスの原因になったのだろう、と夫婦で声をひそめて話していると、二人に背を向けてハムスターと遊んでいた娘の美亜が会話を聴きつけて言った。
「複合汚染に決まっているじゃない。お兄ちゃんがこうなることくらい、あたしは、わかってたわ。料理くらい仕込んでおくべきだったんじゃない。だけど、たぶん、仕込んでもだめだよ。あいつは、センスってものを先天的に欠いているからね」
「おいおい、お兄ちゃんに『あいつ』呼ばわりはないんじゃないか?」
「ごめんなさい」
とけろりとして言う娘に、夫がいくらか青ざめるのを央子は見た。
 頭の回転の速い、女の子にしてはシャープすぎる観のある美亜はもう亡くなった実家の父に似ている、と央子は思う。理系肌なところもそうだ。小さな頃はそうしたところが、こまっしゃくれた印象を与えていた。まるかった顔が顎のあたり、いくらか尖ってきた。つぶらだった目も、反抗的な色あいを浮かべて吊り加減に見える。が、美亜は長女にして末っ子で、母親の感情としてつい甘くなった。のっぽの亘に比べ、小柄で華奢なところも可愛らしい。生意気な口をきいても、微笑ましさの種がどこかしらに見つかるのだ。央子は、昭和三十年代の女性にしては長身のほうだ。  
「ねえ美亜。有吉佐和子の『複合汚染』を読んだの?」
「アリヨシ? 何、それ。知らないよ」
 あっさりと言い、美亜は左肩で動いているハムスターのフレーズを鷲摑みにして、ケージに戻す。
 娘は振り返ると、母親を目を見開くようにして見た。梅雨の晴れ間にも似た、思春期だけが所有するたぐいの綺麗なまなざしだ。
「あ、ママ。あたし、化学科を受験することに決めたから。それから、知ってる? 理系は大学院に行かなきゃ、就職口が狭まるってこと。修士まで行かないと、実用性が身につかないような講義の組み立てになっているからなんだよね」
 大学は理学部の化学科にすすみたいという意向を述べ、その先の大学院進学をも母親に懇願した美亜は今度は父親に向かい、何と小声で捨て台詞を吐いた。
「テメエの息子が、ちゃんと留年も退学もせず、きちんと大学を卒業するように監視しなよ! 高給とりじゃないんだから……」
 娘の顔は父親に向けられていたが、父親を見ようとはしなかった。そして、父親が虚をつかれた隙に、美亜は足音も高く階段を駆けのぼっていく。苦々しげに、夫は央子に言った。
「あいつ、何様かい? いつから、ああなったんだ? 僕があいつに何をしたって、え? あいつを部屋から引き釣り出して、尻を叩いてやったっていいんだからな」
 夫を怒らせると怖いと思い、彼女は言いたいことをためらってしまう。功は普段は穏やかだが、いわゆるキレやすいタイプといえた。
「大学に行かせてもらう相手に向かって、ひどいわね。反抗期なんでしょう、わかってやって」
 すると夫は、娘に狼藉を働かれた腹立ちを妻に向ける。
「わが子に甘い僕の奥さんは、ずいぶんと読書家ですね。そんなに本が好きなら、国語ぐらいは得意だったんだろ? アリヨシサワコにフクゴウオセンは、美亜には少々高度すぎますよ。あいつはいつだったか、ドストエフスキーのことを舞踊家だっけ、なんて言ったんだぞ。読んだことがなくったって、ドストエフスキーがロシアの作家であることぐらい常識だろうが。美亜は国立を受けるつもりなんだろう? いくら理科や数学がよくったって国語がパーではな、合格できんぞ。おまえが国語を教えてやればいいさ」
 怒ったときだけは、功は妻をひたと見据える。野生動物のような茶色い目だ。央子は同調するようにわずかに微笑してみせたが、胸のうちでは美亜の鋭い洞察を感じ、娘へのいじらしい思いでいっぱいになるのだった。
 長男の亘には教育資金の準備に郵便局の学資保険を利用したのだったが、下の美亜には民間のものを利用することにした。その民間の学資保険は、教育資金を最後にまとめて受けとることもできれば、毎年十万円ずつ引き出すこともできた。ところが、平成不況により生活が苦しくなり、また予想外に亘の大学進学に――学資よりも受験旅行や独り暮らしの支度に――こまごまと際限ないくらいお金が出ていったこともあって、美亜の教育資金は毎年のように引き出されてしまっていたのだ。美亜を大学に進学させるには、借金しなければならないことは必至だった。利子の小さい国民金融公庫から限度額の二百万円を借りるだけでは、足りないに違いない。奨学金も当てにしないわけにはいかないだろう。少し考えればわかりきったこのことを言うと、夫は眉をひそめる。借金を嫌う夫は、だが倹約に協力しようとはしない。
 敏感な美亜のことだから、そんな事情をかなり正確に察知しているのに違いなかった。自己管理が下手で要領をえない兄の亘が自分の運を食ってしまいそうな不安も、覚えているのだろう。幼い頃から知的好奇心の強い美亜にとっての大学受験が、亘とは意味あいが違っていても当然だろう。魂を挙げての大問題に違いなかった。妻の読書癖をからかいたがる夫に、美亜の気持ちはわからないのではないかと央子は疑う。美亜の賢さは母親の自分に精神性の高い驚きと喜びをもたらしてくれるが、夫の功はむしろそれに苛々させられてきたのではないだろうか。もし――平凡な主婦でしかない自分が童話を書き出したなんてことが知れたら、夫に笑われるだろうか、嫌味を言われるだろうか?
 央子は夫の功に背を向けるためにハムスターのケージに近寄った。しゃれた金縁の柱時計とカフェカーテンとジョージア・オキーフのカレンダーがまるで似あわない居間には、テレビとビデオ、冬場以外は布団を外して食卓として使う家具調炬燵、作り付けの神棚には大原八幡宮の家内安全のお札、ペットのケージ、それに居間を片づかない部屋にしている美亜の学校の道具があった。台所、廊下、和室――これら三方に向いた空間には障子がはめこまれていて、掘り炬燵を潰した床はでこぼこしているとあって、落ち着かない部屋ではあったけれど、台所には食卓テーブルを置くスペースがなかったため、台所に近いここが必然的に食堂件居間になったのだった。
 台所が西向きで、居間では一番光のとれるはずのこの方角は朝暗い。改築前――相当昔の話になるのだろうが――は土間だったらしいこの台所は冬は凍るように寒く、夏は熱射病になるかと思うほど蒸した。そのせいか冷蔵庫がよく故障した。西日をたっぷりとり入れる窓は雨もふんだんに吹きこませ、夏の夜にはヤモリたちに盛り場を提供した。白蟻駆除以降は虫も鼠もさほど出なくなったとはいえ、まこと野趣に富む台所といってよかった。
 そういえば春秋にあれほど庭を蠢いていた蛇はどこでどうなったのか、全く出なくなった。死なないまでも、餌が乏しくなったために移動したのかもしれないと央子は思う。蛇は天気雨が降る午前中などに好んで、庭の木陰に横たわっていたものだ。餌を狙うときの構えた様子はなく、シャワー浴を楽しんでいるように見えた。木の葉のあいだから零れる光と細かい雨に、褐色地に黒い縞模様のある蛇の肢体が華やいだ銀色に輝いて見えた。佐賀錦の工芸品を見るようで、央子は見とれたものだった。蛇は厭わしかったけれど、彼女の生活に緊張と美をもたらす存在でもあったことに、蛇を見なくなった今になって気づかされるのだった。
 夜になれば台所の窓は闇をとりこむ。居間にその闇がしのび寄り、夫婦ふたりの居間は寂しい。沙漠のような家、野営しているような家庭生活だと思う。
 央子は餌を食べに出てきたハムスターをそっと覆うようにしてとり出し、愛撫する。ハムスターの体積は小さく、体温は高い。ハムスターを愛撫しているのか、想いの中の美亜をそっと抱いてやっているのかわからなくなりながら、彼女はいつまでも夫に背を向けていた。ようやく振り返る気になり、そうしたとき、夫は美亜の参考書を数冊重ねて枕にし、のけぞるような格好ですやすやと眠っていた。
 央子は夫の頭の下から参考書を引きぬいて座布団を差し入れ、タオルケットを出して体にかけると、居間を出、洋室のドアを開けた。五つの書架と白いテーブル――前にいたアパートでは台所に置き、このテーブルについてごはんを食べていた――、もう一つ、やはり白い色をしたコーヒーテーブルもある広々としたこの部屋を央子と子供たちは気に入っていた。応接セットに買い替えるつもりで、買えないでいるうち、慣れてみると背の高い食卓テーブルと四脚のスマートな椅子がこの部屋を小さな図書室のように見せていた。
 彼女は、紺色のカーテンを少し開けて、闇の中にほのかに照らし出された庭の椿の木と物干しを眺める。この借家で長沢一家が暮らすようになって、八回の四季が訪れたことになる。もう八年が経ったのだった。この夏は、引っ越してきたばかりの夏にも匹敵するくらいに雷が鳴った。

 八月初旬のあの雷は凄かった、と央子は思い出す。バリバリ、ドンと聴こえたとたん、スイッチを切っていたはずの電灯があちこちでついたのだ。あとで彼女が家の中を仔細に調べ歩いたところ、ビデオと電話機は誤作動していた。電気機器を狂わせるほどの強い電気が流れたのだと思うと、ぞっとした。雷が落ちかけたのだ。下手をすれば、ショートして家事になっただろう。ブレーカーを下げる暇もなかったのだった。それは、もっと大きな災厄の予兆だったのかもしれない。
 そして、二○○四年九月七日の朝はいつものようにやってきた。台所から廊下にかけてコーヒーの香りが漂っていた。夫は中二階の自分の部屋から黒いカバンをもって下りてくると、カバンを床に置き、台所で立ったままコーヒーをのんだ。夕食が遅くて胃にもたれるせいか、朝はいつもコーヒーだけだった。
 八月三十日に台風十六号が来て、大分県下でも被害をもたらしていたが、既に鹿児島県に上陸している今度の台風十八号は大型だということだった。午前四時には大分県災害対策本部が設置されていた。
 央子は、出勤する夫を見送るために玄関に行こうとして廊下に出、セーラー服を着た美亜がそこに置かれた電話台の前にいるのを見た。この時期、制服は夏服、合い服のどちらでもよく、美亜は合い服を着ていた。膨らみのある長袖の上着は白、襟とリボンと襞スカートは涼しげな色――ほのかに黄みのある明るいグレーだ。
「電話を待っているの?」
「うん、そう。たぶん休校だとは思うんだけど」
 美亜は、高校からの伝言がクラスの電話連絡網を使って届くのを待っているのだった。
夫の功がカバンを手に引き締まった顔つきをして廊下を歩いてくると、ゆったりとした動作で玄関へ下りた。靴を履く前に反抗的な扱いにくい娘を一瞥した。夫のまなざしに反抗期の少年のように一途で頑なな、癇症の気質がこもる。気質という点で、一卵性双生児みたいな父と娘だと央子は思う。
「おい。高校はおそらく休校だろうが、登校するのなら、気をつけろよな。自転車が強風であおられでもしたら、危険だから」
 夫は心配のほうが勝ったと見え、まな娘に声をかけた。
 すると美亜のほうも、半ばそっぽを向いたままではあったけれど、背中の線をやわらげてそれに応えた。
「わかったわ、パパ。パパも運転には気をつけて……」
 幼い頃のような、甘い声だった。
 父と娘が仲良くなると、央子はほっとするようでもあり、美亜の融和―妥協―それこそが、美亜自身にとって危険なものであるようにも思えた。パパを信頼しすぎないで、と言いたくなる。まだ子供なのだ。
 夫の手が玄関のガラス戸を開けると、庭の景色が常よりくっきりとしているように見える。風はまだ出ていないけれど、大気にはまぎれもない台風の匂いが混じっていた。湿った、不穏な、それでいて新奇な心惹かれる匂い――央子が少女の頃にかいで胸をときめかせた、外国航路の船員をしていた叔父の匂いだ――海の匂いだろうか、知らない世界の匂いだろうか――息をひそめているような自然界のしずまり。これを嵐の前のしずけさというのだろう。すぐに庭の左脇から車のエンジン音がした。次いで電話が鳴った。
 台風に備えたくとも、雨戸もない大きな古い借家では、どうしようもない。風雨が強まれば窓ガラスが割れないか心配だが、この八年のあいだにそういうことは一度もなかった。瓦は何枚か飛ぶかもしれない。そうなれば、雨漏りの箇所が増えるだろうが、前もってできるのはそれの常連箇所である一階の台所と中二階の踊り場にバケツを置くことだ。物干し竿をはずして土に横たえ、ローズゼラニウムの鉢を中に入れた。それから、台風に備えて高校が休みになった美亜と遅い朝食をとる。
「パン。もう一枚焼こうか?」
「あたしが焼くわ。ママもどう?」
「そうねえ、食べておこうかしら。台風で停電したら、電子レンジも炊飯器も使えなくなるから。水とチョコレートがあればしばらくは生きられるでしょう、だからペットの水と板チョコだけは切らさないようにしているのよ」
と、央子は半ば本気、半ば冗談で言う。
「登山のときにチョコをもっていく話はよく聞くけれど。今日は儲けた。風雨の中を自転車こぐと、スカートがぐしょぐしょになって襞がなくなるんだよ」
「わかるわ。ママにも制服を着て学校に通っていた時代があったから」
「そうだね。今はおばさんでもかつては――。ところでママ、童話はすすんだ?」
 央子はコーヒーのお代りを二杯分淹れようと、トーストの芳ばしい香りが漂う台所へ立っていった。
「あんまり。むずかしいわ。主人公を小学生に設定しているんだけれど、一学年違えば、生きていく力も見えてくるものも格段に違うでしょう? あなたたちが小学生だった頃に、もっと沢山日記をつけておけばよかったと後悔しているのよ」
「うーん、自分の小さかった頃の記憶を参考にしたほうが、案外正確なんじゃない?」
「そうね、感覚的にはね。美亜のお友達はどう、やっぱり小説家を目指すの?」
「あ、パン焼けたよ。なりたいみたいだよ、小説家に。大学受験が近いから、書いてはいないようだけれど。国立には文学部が少ないし、そもそも文学部に行くべきかどうかで急に迷い出したみたい。創作科なんかには行きたくないって言っている。技術的なことよりも、総合的な教養の土台を身につけたいんだって。文学音痴のあたしにはよくはわからないんだけれど、経済学部なんかはどうかってアドバイスしてみた。経済って、数学に歴史に政治に哲学に……広範な教養がないとできない学問だよね」
「法学部もいいかもしれない。判例なんか読むと、社会の断面図を見るみたいに感じられるものよ。バルザックも法律を学んだわ」
「バルザックって、どこの国の作家?」
「フランス、フランスの偉大な作家よ。ママみたいに三流どころの私大に行けば時間もたっぷりあって、授業も教養と割り切って聞けるけれど、あなたのお友達は頭がいいから、そんなわけにもいかないでしょうね」
 美亜は文系の友人を大切にしていた。受験生の娘と久しぶりに心楽しく語りあううち、央子は台風のことなど忘れてしまっていた。居間のガラス窓が強い風に音を立てたときも、それほど気にならず、おしゃべりを続けた。しかし、まだ午前中にも拘らず、あたりが暗くなり、風が強まって、冷気が漂い出した。母子は沈黙し、顔を見あわせた。ガラス窓は、今では持続的にがたがた鳴っていた。やがて、圧倒的な風の手が家をひと撫でした――それは台風という単なる自然現象が、この家に住む人間たちにとって、人格を獲得した瞬間だった。
 風圧の異常な高まりの中で、家が震え耐えていた。強弱入り乱れて吹き荒れる風の音が、母子にとって耐えがたいものになっていく。パリーンというガラス窓の割れる音がした。ひとたび静寂が戻り、ザアーッという強い雨音が聴こえる。無意識的に顔を覆い、一瞬家で起きた信じがたい出来事を拒絶した央子は、はっとなって上のほうを見た。この部屋の小窓が割れたかと思ったのだ。が、そうではなかった。二階のどこかの窓が割れたらしい。ともかく、守りは破られてしまった。割れた窓から豹のように風が躍りこんでくる音は、競演のようにうなり声をあげあう別の風たちの音に交じってしまう。動くのが危険な気がして、割れた窓を見に行くこともできず、母子は居間で寄り添っていた。すくみあがるたびに力が抜けていき、体が乾燥していく気がする。台所で、立てつけの悪い窓から容赦なく雨が吹きこみ、ポタポタと連続的な雨漏りの音がバケツを置いた以外の箇所でもしていたけれど、バケツや雑巾のある洗面所までの道のりが遠く感じられ、もうそんなものは無意味にも思われた。揺すられ、圧迫されて、老朽化した家は悲鳴をあげながらも歯を食いしばって耐えている。
 今や風はゴォーゴォーと轟き、物にあたって砕け散っていた。そこかしこで物を蹴散らし、哄笑しながら宙に放り投げ、泳がし、地面に叩きつけ、なぶるようにまた浮かした。風たちは連動し、触発しあい、四方から押し寄せて、この家をつけ狙っていた。母子は、風の監視の目を逃れることも自由に息をつくことも、もはやできない。央子が一番怖かったのは、耳の中まで鋭い風の音でいっぱいになり、ものを考えることのできない瞬間が繰り返し訪れることだった。何という自然の恐ろしさ、いとわしさだろう!
 もの凄い風圧に家と共に耐えるだけで、母子が何も考えられなくなってほどなく、爆音――としか思えない音――が轟いた。家が回転するように大きく揺らいだ。
 午前十一時四十八分。このとき日田で、大分地方気象台が観測史上最大となる最大瞬間風速五○・二メートルを記録していた。
 母子の上に、バラバラバラと埃と壁土が降ってきた。
 央子は青ざめて娘を見た。
「もう……この家はだめ……。ただでさえ、白蟻に食い散らされた家だし。とにかく、この家はやられたわ。もしかすると倒壊して、わたしたちは圧死する。この部屋は危険よ。窓が多すぎる。いつガラスの雨が降りそそぐかもしれない。でも、外へ出るなんて無理ね。二人とも吹き飛んでしまう。でもああ、どの部屋へ行けばいいの? 隣の和室は白蟻でやられているって西部消毒の人が言っていたのよ、その先の和室へ行きましょう。あなたのヘルメットはどこ? ほら、中学生のときに自転車通学でかぶった――」
「板の間じゃない、ママ」
「とってくる。携帯も忘れないで」
「フレーズも移動させなきゃ」
 そんな会話を交わす短いあいだ、家は静寂につつまれていた。こうしたとき以外には味わえない神秘的な静寂――が反面、それはただの気まぐれな静寂だった。
 央子は脈の乱れが続いているためか、めまいがして、少しでも気を抜くと失神してしまいそうだった。自分に鞭を打って、体を動かす。母子は、鏡台だけがぽつんと置かれた、床の間のある八畳の和室へ移動した。
 避難した和室に、美亜は居間に置いていた高校の教科書をもってきた。子供たちの部屋はいずれも二階にあったが、美亜は居間か洋室で勉強をすることが多く、学校の教科書や参考書はおおかた居間に置いていたのだ。今はこのことが幸いしたかもしれない。二階はどうなっているのかわからないからだ。央子は頭の保護のために娘にヘルメットをかぶせ、ありったけの布団を押入れから出して、その中にもぐるよう言った。
「さすがに暑いよ、ママ。それに、この一番下になっている布団さ、パパの古い布団じゃない ? わあ、パパ臭い! フレーズもさすがに――」
と言いかけた美亜の声が、ゴォーという風のうなり声にかき消された。
 家が軋み、揺れる。家がボートになって、誰かがそれを漕いでいるかのようだ。ハムスターの白い体が、しきりにケージの中で跳ねている。普段はのどかに寝ているか餌を食べに出てくるかなのに、外に出たがって跳ねているのだ。そんなハムスターを見て央子は恐怖を募らせた。さらに風がうなったため、娘と抱きあって布団の防空壕にもぐった。
(あら、本当にあの人の匂いだわ……)
 夫の体臭につつまれる安心感と困惑とがあった。
 それにしても、この長期戦を強いられる攻防はいつまで続くのだろうか。恐怖は肉体的な虚脱感と乾きに置き換えられていて、自分というものが自分らしさを伴って実感できず、皮膜を通して見、感じているかのようだった。風雨の音で他の音が消えてしまい、まるで水中にいるような気がした。娘を抱き締めていても、感覚が麻痺しているのか、丸太を抱いているようだった。ハムスターが怖がっているのもわかるのだが、情緒が欠落でもしたかのように何の感慨も湧かないのだ。家が倒壊して下敷きになったら痛いだろう……脳が破壊されるのは嫌だ……真昼のはずなのに、こんな変な暗さの中で……。肉体のけだるさの中で央子はそんなことばかりを考え、無為に時間をやり過ごしていた。
 そのとき、娘の携帯電話が軽快な着信音を響かせた。
「あ、パパ。ママ? 側にいるよ。大丈夫だけれど、気持ち的にはあんまり大丈夫じゃない。凄い音がして、たぶん二階が壊れたんだと思う。雨が窓枠の隙間から吹きこんだり天井から漏ったりで、台所はもう大きな水溜まりだよ。廊下にも、階段にも、たぶんガラスが散乱していると思う。もう少し台風がおさまらなきゃ危なくて、二階を見にも行けないの。それじゃママに替わるよ」
 美亜の声は甲高いが、しゃべりかたはしっかりとしたもので、央子は娘の平静さに驚いた。が、その娘が話を終えたあとで何度も唾をのみこむのを見た。やはり普通の精神状態ではないのだ。母子共、恐怖に犯されていた。 
 美亜に渡された赤い携帯電話を、央子はもどかしげに持ち直し、夫に訴えかけた。
「……この家はもうだめよ。もう一度ひどい風が吹きつけたら、きっと倒壊するわ。ねえ、帰ってこられない? ……暴風雨のさなかに帰られるはずないわね。あとどれくらい、これは続くのかしら?」
 夫の功は、携帯電話から聴こえてきた妻の無残な声に驚いた様子だった。
「ねえ、あとどれくらい続くの、これは」
 妻は、あえぐように繰り返した。
「ああ。もうしばらくは続きそうだよ。時間的にどれくらいとはっきりとしたことは言えないが、ラジオの情報ではピークは過ぎたみたいだ。そりゃ今帰るのは無理だ。しかし、変だな、家が壊れたって? それほどまでの風じゃないはずなんだが」
 家の損壊が腑に落ちないらしく、夫はぼやいた。その言葉に央子は怒り、失望する。
(白蟻をカゲロウと言う人だもの。強風をそよ風と言いかねない。緊急事態を見ても、すべて世は事もなし――なんて思うんでしょうよ)
 互いの安全を情熱なく―他方は戸惑いのために、他方は嫌悪感のために―祈りあい、携帯電話での夫婦の短い会話は終わった。だが、それからほどなく暴風雨は弱まり、ついに台風は町から去った。雨がしずかに降り続いていた。
 その雨がすっかりやみ、辺りが明るんでようやく、母子は眠りからさめたように布団から出た。この家はどうなったのだろう、外の世界は――おぼろげな好奇心が湧く。熱に浮かされたような軽い興奮状態が持続していて、その病的な心理が子供のような好奇心を呼ぶのだろう。このように生き延びた今、央子の目は心理は、むしろ甚大な被害状況を、その映像を求めているのかもしれなかった。ひどいめに遭ったことを外の人々に知ってもらいたかったし、共感もしてもらいたかった。新しい医師に替わったばかりのときに、自分の症状を医師の関心事にするために、そのときばかりは体調がよくないことを望むように――。
 台風の恐怖も、外の人々にわかってもらうには、その恐怖に見あうだけのなまなましい証拠がなければならない気がする。が興奮がうんだこんな子供じみた期待は、先の煩わしさの予感の前にはあえなく潰えてしまい――肉体は、休息を切に求めていて、何も起こらなかったかのような家の中で、布団に倒れこみたがっていた。だが央子は、家の中をめぐることにした。美亜も後ろからついてきた。
 ひとまず、居間を含む和室四つと板の間は大丈夫だった。何より、箪笥を置いた普段は物置き場にすぎない和室の無事はありがたかった。貴重品は全て、その箪笥に納まっていた。その中には、ダイヤの婚約指輪が含まれている。
 央子は、サファイアのほうが好きだと夫になる男に言った。祈りが凝結したかのようなブルーの美しさは、比類がないと思ったのだ。しかしサファイアは老けて見えるという姑となる人の言葉が彼女の好みを封じた。
 家が衝撃を受けたときに降ってきたらしい黒い埃が四つの和室、板の間、いずれにも落ちていた。もう雨は降っていなかった。だが、玄関脇の天井からは雨漏りがしている。
 洋室は浅い池になっていた。天井が破れ、直に流れこんだ雨水が溜まったらしい。天井には他におねしょのような大小の染みがいくつもできていたが、五つの書架の中身は大丈夫なようだった。右側に三つの書架があり、左側に二つの書架があった。岩波書店の「鏡花小説・戯曲選」と完全には揃っていない「新潮世界文学」は、夫の功が独身の頃に買ったものだった。央子は恋人時代のデート中に、功が予約したそれらの本を書店にとりに行くのにつきあったことがあって、そのことでぼうっとなったものだった。文学青年と勘違いしたためだったが、実際には彼には収集癖があっただけで、そのあとコレクションは文学から音楽へ、ゴルフ用具からゲームソフトへ、パソコングッズから写真へ……と分野を移した。
 ふと不安になって、央子が視線をあげたのは、この二つの書架の上だった。そこにはダンボール箱を本箱代わりにして、講談社の「おはなし絵本館」「おはなし童話館」と岩波書店の「ファージョン作品集」「ケストナー少年文学全集」が並んでいた。天井の破れに近いので心配になったが、今のところは大丈夫なようだ。洋室の窓からは、物干し台が倒れ、電線が垂れているのが見えた。
 庭には葉っぱの緑と茶、あるいは枝もろとも、飛んできた看板、家から剥がれ落ちたらしい白い板状のもの、瓦、剥き出しの木片、板、大小の石、どこからか飛んできた新聞紙、白い紙、空き缶などが散乱していて、訳がわからなくなっている。歴代のハムスターが眠る墓地がどうなったかは、洋室の窓からは見えない。形と色の違う石を小さな土饅頭にませて墓石代わりにし、どのハムスターの墓かを区別するようにしていたのだ。庭のこの有り様では、そんなものもどうなったかわからない。この家や庭で生活していた小さな生き物たちは、台風をそれぞれの巣で乗り切ったのだろう。白蟻の駆除以降は姿を見なくなった蛇たちも、この庭ではないどこかで生きているに違いない。彼らが安全な巣で台風をそよ風と思い、まどろんでいるところを央子は想像した。
 トイレではタイル壁が一部落ち、洗面台の前は水溜まりになっていて、まだ盛んに水音を立てている状態。浴室は雨が吹きこんでいるだけだ。台所は雨漏りだらけで、脂じみた黒い汚水が台所用品や朝食の食器の上に滴り、床は水浸しだ。幸運にもパソコンのある中二回の夫の部屋は無傷で、今のところ雨漏りも見られず、閉じた窓から吹きこんだ雨でグレーのカーテンが濡れているくらいだった。踊り場は、ガラスの破片と水溜まりで滑る。階段にも壁土や黒い塵やガラスの破片などが散乱していて、スリッパを履いていても危ない。「美亜、今使っている学校の教科書と参考書は下にあるわよね」
と少しうわずった声で、央子は念を押す。
「うん」
と、気のなさそうな返事があったが、動揺しているときの美亜はこんなふうなのだ。
 二階は、右手前にトイレがあり、左手前が廊下の窓で、右奥が美亜の部屋、左奥が亘の部屋だった。破損した廊下の窓から、台風の去ったあとの光がいっぱいにそそいでいる。洗われたような青空が、砕け散ったガラス窓の向こう側にひろがっていた。優しい色調を湛えた、澄んだ、明るいその空を見ると、こちら側の無残な光景が何か非現実的な、夢の中の光景のように央子には思われてくるのだった。
 障子を開けたままの亘の部屋は、階段からも見えた。正面奥の壁につけて置かれていた書架が半分前に倒れ、そこから落ちたらしい本が散乱している。ほとんどがコミックスだ。美亜の部屋は障子が閉まっている。
 湿気ったためか容易に開かない障子を央子は両手を使って開けたが、彼女は固唾をのんで、そこに繰りひろげられている光景を見た。娘の美亜は母親を押しのけて、中に身をのりだした。が、部屋に入ろうとはしない。入ることがためらわれたほどの有り様なのだった……。
 部屋は半壊していた。
 天井には大きな穴が開き、青空が見えている。電灯が落下寸前といった面持ちでかしいで、揺れている。正面奥の窓は飛んでいる。天井板が何枚も、畳に突き刺さらんばかりに垂れている。学習机にも壊れた椅子にも濡れそぼったベッドにも、ガラスやら小石に見える何かのかけらやら木片やらが散乱している。
 小物と本が置かれていたラックはうつぶせになっていた。畳には元からあった物や部屋が衝撃を受けた際に生じたさまざまな物が散乱していて、黒ずんだ灰色だ。天井裏に残った雨水がその上に滴り落ちている。冬場以外はベッドの上に置いてサイドテーブル代わりにしている炬燵とファンシーケース――制服はあの中だ――がどうにか被害を免れていた。
 央子が口ごもりながら、
「これは……ひどい……美亜、ここにいなくてよかったわねえ。靴……を、もってきましょうか。スリッパじゃ危なくて」
と言ったが、娘は黙っている。
 そして、いきなり、
「いいよ、もう!」
と怒ったように言い放ち、足早によろめきながら、階段を下りてしまった。
 あとに残された央子は呆然となって、部屋の中をながめていた。どうしてこの部屋だけがこうも潰れたのか、不可解だった。この部屋めがけて、爆弾でも飛んできたようだ。ひどい音がして、家が激しく震動したあのとき、彼女はそう思った。今思えば、あれが暴風雨のクライマックスだった。人間を標的にするわけではない自然の脅威――それですら、これほど恐ろしいのに、戦争はどれほどの恐ろしさだろう、と思う。
 央子は用心して中へ入った。大事なものが入っているに違いない机の中が大丈夫かどうか、確かめたかった。それは娘のプライバシーを侵すことになるのだろうか。緊張して、全ての引き出しの中身の安否をすばやく確かめる。ベッドは傷み、マットレスまで汚水漬けだ。小石がいくつも転がっていると見えたものは、壁のかけらだった。ガラスのかけらが危ない。ここにあの子が眠っていたとしたら、あるいは座っていたとしたら……ぞっとする! いいえ、この部屋のどこにあの子がいたとしても危なかった……どうなっていたかわからない! 心のうちに鋭く叫び、央子は身震いした。
 畳がブヨブヨする不安定な部屋の中を恐る恐る歩きまわるうち、彼女はふと炬燵の上の紙の束を手にとった。模試の結果だった。一年からのものをリングで綴じたものだ。美亜は成績を隠しはしないが、じっくりと見たことはなかった。第一志望は北大、第二志望が岡山大だ。ときどき九大、千葉大、熊大が混じっている。私立では上智大、立教大、立命館大といったところを志望している。
 第一志望の北大は、おおむねAからボーダーをあらわすCまでを行ったりきたり……だ。現国と古文の出来次第で、こうなるのだろうか。第二志望の岡山大は、幸い一貫してAだ。否、Bがあった。入試直前にはもっと厳しい事態となるに違いない。受験生の大事な時期にこんな目に――と娘が不憫になる。台風に対して恨みがましい気持ちが起き、なぜこの秋でなければならなかったのか。央子はやりきれなく思い、我に返って階段を下りた。
「美亜……机の上はひどいけれど、引き出しの中はそうでもないと思うわ。一番上の右側の引き出しのペンケースに水が溜まっているけれど、他の引き出しの中は湿っている程度じゃないかしら……。あんまり見ちゃ悪いから、よくは確かめてはいないわ。もし学校関係のもので、いるものがだめになっている場合は、先生に事情を話して指示を仰ぐしかないわね。ファンシーケースは大丈夫、制服は綺麗なままよ。押入れはまだ見ていない。部屋の中のものをなるべく早く下に移す必要があるけれど、とにかく、あの部屋は危ないわ。一人では入らないようにしてね」
 床の間のある和室に出したままだった布団に美亜はもぐってしまっていたが、央子は声をかけ、外に出た。
 家の前の舗装された小道に、近所の人たちが五、六人かたまって立っていた。彼らは半壊した長沢家の二階部分を指さしたり、何事か囁きあったりしている。そちらのほうへ行こうとした央子を、後ろから歩いてきた老人が呼びとめた。
「お宅さんの家ですか、ここは。ひどかったですな。わたしはこの辺一帯見て歩いとりますが、お宅さんとこほど被害を受けた家は今のところ見あたりません。角の建材店から物が飛んできたようですな」
「ああ、そうですか……」
と、央子は曖昧につぶやいただけだった。
 確かに、少し歩いて家の脇道に立ち、周囲を見渡した限りでは、どの家もしっかりとしていて、潰れたり潰れかけたりした家などなかった。ただ車庫が潰れた家があり、瓦はどの家も結構飛んでいる。また道路沿いの電柱は倒れたり傾いたりして電線が垂れ、さまざまな物が散乱した地面、倒れたり折れたりした木々……といった光景は、台風一過を印象づけるものだった。
 少し離れて正面からながめてみると、長沢家は二階の左側が潰れ、一階部分の瓦がごっそり落ちたり一方に手繰り寄せられたりしていた。テレビのアンテナは逆さになって宙にぶら下がっている。
 外から見ると家ははでな壊れかたをし、如何にもむき出しの感じで、央子は何となく恥ずかしさを覚えたが、彫刻作品の群像のようにかたまった人々のところへ情報を求めに行った。裏手にあるマンションに住む、若い二人の奥さんの顔がある。二人は央子が近寄ると、黙ってしまった。
「こんにちは。マンションに被害はありませんでした? うちはご覧の通り。雨の日には、家の中で傘がいるでしょうね」
と朗らかさを装い、声をかけてみる。
「長沢さん。お宅に工場から物が飛んできたんでしょ? お宅が盾になってくれたおかげで、うちのマンションにあたらずにすんで助かったわ。ところで、うちの駐車場にも工場から大きな鉄板みたいなものが飛んできて、困っているんですよ。工場は、長沢さんのお宅の大家さんでしたよね。長沢さんから鉄板、とりにくるように言ってもらえません?」
 冷静というより冷血なその言葉に、央子は軽い悪寒を覚えた。
「建材店から物が飛んできてうちを壊したと、先ほど通りがかりの人から教えられたんですけれど?」
と念のために、言ってみた。
「あら長沢さん。建材店からだなんて、そんなことありませんよ。だってご覧なさいな、田圃の中を――。何のために工場の人たちがクレーンなんぞ持ち出して、あんなことをやっているんです?」
 言われてみると、家の裏手にひろがる田圃に巨大な鉄の三脚のように見える塊が落ちている。それを数人の男たちがとり巻いて、クリーン車の運転手に指示を出したり、見守ったりしているのだった。田圃の稲はなぎ倒されていた。田圃の持ち主は隣の住人で、戦後の農地改革までは工場の敷地を含めたこの辺一帯の地主だったという。心身共老衰した主人は入院中で、田圃は親戚の人がやっていた。
「あれは一体何なのかしら? うちにぶつかったあれは」
 央子が呆然とつぶやくと、マンションの別の奥さんの顔から端的に答えが返ってきた。
「工場の棟と棟をつなぐ連結部っていう話よ。連結部が強風ではずれて飛んできて、お宅の一階部分の屋根をかすめてから二階にまともにぶつかって、そのあと、もんどりうって田圃に落下したんじゃない?」
 小さな子供を抱えた時期の女性は総じて、非情なまでに実利的で、率直すぎる嫌いがある。そのうえに、陰にこもった物言いが特徴的ではあるが、観察にかけては実に巧みで正確であることが多い。そして彼女たちは一見暇そうに見えていても、極端に自由時間をきりつめた生活をしているものだ。央子も辿った道だった。
 マンションの二人の奥さんがたはひとしきりおしゃべりをして台風の話に飽きたのか、また黙って、今度は央子をじろじろと見始めた。どうしてこうもあからさまに他人を観察できるのか、不思議なくらいだったが、布団にもぐったために服が皺くちゃで、体も汗臭いことに気づいて、央子は顔を赤らめた。それにノーメークだった。
(この人たちにはかなわない。でも、情報をもたらしてくれてありがたい)と彼女は思う。
「忘れていた! うちの子がおなか空かしているに違いないわ。プリンが余分にあるんだけれど、どうですか?」
「いる、いる! じゃさ、一緒に遅いおやつしよっか!」
などと言いながら、今は完全に二人の世界を形成した二人の奥さんがたがマンションへ帰っていくと、他の見物人たちも急に何かを思い出したように散っていった。
 工場から飛んできた塊が家の損壊の原因にせよ、そうでないにせよ、大家さんに家が壊れた報告をしなければならない。田圃で作業中の人たちには、声がかけにくかった。工場に電話しようと思うが、通じるだろうか。家の固定電話は通じないだろう。携帯電話でかけよう、そう思った央子が家の門にさしかかったとき、道の端からクレーン車が姿をあらわした。それは九州電力のもので、クレーン車は道路に横倒しになった電柱をもちあげにかかった。
 家に入り、娘の美亜に声をかけるが、返事がない。布団は押し入れに仕舞われていた。二階から物音がしたので、階段をあがると、廊下にプリント類、本、雑誌、小物、服……が積みあげられている。考古学の発掘現場のようだ。廊下に散ったガラスや壁土はあらかじめ箒で掃いて片寄せられていて、半壊した部屋では、ヘルメットをかぶり、スニーカーを履いた美亜がせっせと働いていた。
「美亜! 一人では入らないようにって、言ったのに――」 
と咎めながらも、娘の果敢なヘルメット姿をまぶしい思いでながめずにはいられない。
「メットかぶっているし、用心しながらやっているから大丈夫だよ。部屋がいかれていて、だめになったものも多いけれど、救い出せるものは救い出しておきたいと思うの。受験生は、こんなことでめげてられないんだ」
 自分が外に出ていた短時間のうちに、この子は感情の闘いをすませてしまったのだろうか。央子は驚きながら、うずたかい三つの小山の真ん中にのっかっている花柄のハンカチでつつんだ弁当箱のようなものを、手にとった。
「お弁当箱? 宝物でも入っているの、ん?」と微笑を含んでからかうと、美亜はあっというような顔をして振り返ったが、すぐに何でもないような素振りを示し、言う。
「うん……宝物だよ。中を見てもいいよ」
 娘の言葉に少女のように胸をときめかせ、央子はハンカチの結びめを解いた。桃色をしたポリエチレン製の容器があらわれた。美亜が小学生のときに地区のクリスマス会でもらったものだ。中には泥だんごが鎮座していた。
「立派なおだんごねえ……。こういったものは赤土でつくるとよく固まって、磨けば光るものだけれど、これは赤土でつくったようには見えないわね。美亜がつくったの、いくつのときに?」
と訊くと、
「それをこしらえたのは、あたしじゃなくてお兄ちゃんなんだけれど。勿論、昔の話だよ。まだ田川市にいたとき」
と答えが返る。
 兄弟仲はいいほうだとは感じてきたが、思春期に入ってから兄に対する美亜の態度に高飛車なところがあり、この仲が変質しはしないかと心配していた央子だった。それだけに、普段は日常という霧がかかって見えない兄妹の絆を見たような感慨があった。夫と自分のあいだにはないたぐいの純朴な絆が、子供たちにはある気がした。押しつけられた絆でも、意図的につくった絆でもない。自然の恵みのような絆。肉親だからといって、それがあるとは限らない。自分にそんな絆があったことはなかったと彼女は思う。両親とのあいだにさえも! 血のつながりが美しいと思えたことはついぞなかったので、兄弟の絆は羨ましい話であり、これこそ日なたの香りのする掘り出し物だった。心臓が健康とはいいがたい央子には、いつ子供たちを残して死ぬことになるかもしれないという不安が十年前からあった。二人が成長するごとにその不安は軽いものになっていったが、不安の底には彼女自身の人間不信が澱のように溜まっているのだ。その澱が優しい手で掻きまわされた気がする。
「お兄ちゃんが大好きなのね?」
と、彼女は馬鹿なことを訊いてしまう。
 すると、
「別にィ」
とクールな、だが子供っぽい、チャーミングな調子の答えが娘から返ってきた。
 母子は半壊した部屋から出した物を一時間で一階へ、奥の床の間のある和室へと運んだ。そのあと央子が美亜の携帯電話を借りて工場に電話をかけたが、不通だった。美亜は整理のために奥の和室へ、央子は洋室に入って箒と塵とりを使って水を掻き出し、雑巾で拭いていた。玄関の戸を叩く音がした。
 玄関に神妙な、がどこか油断のならない顔つきをした二人の男性が立っている。一人は恰幅のいい、もう一人は痩せた――。部品工場の制服を着ている。見たことのない顔だった。差し出された二枚の名刺を見ると、工場の管理職にあたる人たちのようだ。
 恰幅のいいほうが――どう見てもはっきりとした物言いをしそうな堂々たる風貌の持ち主なのだったが――聞きとりにくい声で台風に関する一般的な見解とでもいったことを述べ、痩せたほうが、
「びっくりさせ賃に。これをどうぞ、奥さん」
と言い、清酒券を差し出した。
 客たちの用向きがわかりにくかったので、「幸い二階の娘の部屋に物が飛んできたときには、わたしどもは下にいました。でも、怖かったですよ。爆弾が落ちてきたかと思いましたもの」
と、央子は台風被害に関する私的な感想を述べてみせ、二人に微笑みかけた。
 彼女の微笑は不思議にも客たちに水でも浴びせたような効果をもたらしたようだ。彼らは過度の緊張を醸して、叱られた子供のような、気難しいような、表現しがたい表情を沈黙のうちに浮かべた。彼らは央子を正面から見ず、視線を逸らした態度でありながら、盗み見をするかのように時折央子を見る――それには言い知れぬ不快なものがあって、彼女は家のことが不安になり、せわしなく訴えた。
「もし今夜が雨ですと、直に家の中に降りこんできます。これだけは、早急に何とかしていただきませんと――」
 すると、恰幅のいいほうが急にくつろいだふうに歯切れよく言った。
「風が出ておったので、うちの者を屋根にあがらせるのもどうかと様子を見ておりました。よく台風被害の修繕で屋根にのぼっていて風に吹き飛ばされ骨を折った……などということも話に聞きますからな。しかし、うん、そうですな。夕方までにはうちの者をお宅に行かせましょう。応急処置が必要でしょうから。本格的な修繕には……前もって見積もりなどしてもらわねばなりませんので……明日にでも、専門家をお宅に伺わせることになると思います」
 その言葉に、央子は今夜ここで安心して眠ることができるのだという期待が湧き、安堵の色を浮かべて二人を見つめ、快くうなずいた。家も直るのだ――と、泡立てたクリームにほのかに薔薇色を浮かべたような幸福感を覚えていた。ほのぼのとしたその表情を見逃さぬとばかりに、どことなく怪しげな客たちは鋭い一瞥を世間知らずな主婦に与え、
「それでは、これで――」
と二人してこもごも暇を告げ、お辞儀をして帰っていった。
 玄関には客たちが残していった謙虚なような高圧的なような、不可解な雰囲気がまだ立ちこめている。借家の担当は内藤のはずなのに、なぜ彼がこなかったのだろうと央子は思った。工場も被害がどうも大きかったようだから、そちらのほうの緊急な用事に忙殺されているのだろうか。
 それでも約束通りに夕方には工場の人たちがきて、屋根の損壊した主立った箇所に青いビニールシートをかぶせてくれた。ビニールシートが風で飛ばないように重しを入れた土嚢袋がシートの端にいくつも結わえられ、ぶら下げられた。二階の美亜の部屋はビニールシートに覆いつくされて暗くなり、一階の洋室の天井の穴からもビニールシートの青い色が見える。工場の人たちの一人が、家にあがって、被害に遭ったあちらこちらの写真を細かく撮っていった。
 幸い電気はついた。がその夜は台所を使うどころではなかったから、夫の功が会社から帰宅するのを待ち、車でファミリーレストレンへ出かけた。
「今うちに泥棒が入ろうと思えばいくらでも入れるわね、穴開きの家ですもの。盗む前に怪我をするのが落ちでしょうけれど」
 用心のため、央子は貴重品をボストンバッグに入れてもってきた。
 レストランの駐車場にも枝や紙屑が落ちていて、台風のあとの水の匂いがする。荒涼とした家の中の光景は気を滅入らせたので、肉を焼いた芳ばしい匂いやソースの匂い、バニラやコーヒーの香りといったものが交じりながら漂い、笑いさざめく声がするレストランの空気の中で母子はくつろいだ。だが、夫は家の損壊を見たあとで何か考えこんでいるふうで、あまり話さない。大きな出来事が起きたとき、そこにいない人のようになるのが夫の癖だった。
 レストランを出たところで、美亜の携帯電話が鳴った。
「おおこれは、耳に覚えがあるような、ないようなお声よの。どちらさんでござるかな。ん、もう、遅いじゃない今頃になってさ。あのね……お兄ちゃん……うち、壊れたんだよ。あたしの部屋なんて最悪さぁ! とりあえず、おまえの部屋をよこせ!」
 長男の亘が、小倉のアパートからかけてきているのだった。昼間から電話をしていたが、今になってようやく通じたという。家が壊れたという話に驚いているふうだった。驚いていても穏やかなその声は、レストランのあたたかな空気にも似て央子の気持ちをなごませる。しばらく話して夫に携帯を渡すと、夫も楽しげに話している。その様子をながめながら央子は、自分たち家族は四人あわせてはじめて一人前になるのだという気がしていた。足りない知力、足りない精神力が充たされるのだ。
 家に帰って、美亜がテレビをつけた。アンテナが宙で逆さになっていても映るのだが、「わたしの郷里も風速五十で……」とこの日田市のことを話す声で、筑紫哲也のニュース番組だと正しくわかるくらいのひどい映りかたなのだった。
 美亜の部屋は使えないから、居間の隣の和室に央子が娘と寝、夫の功は二階の自室で寝ることにした。赤ん坊の頃を思い出させる両手を上にあげた恰好で、娘は眠っている。
 央子は雨漏りの音を聴きながら、眠れなかった。バケツがいっぱいになると、浴室にあけに行かなければならなかったからだ。洗面所と台所の雨漏りがとまらないのだった。雨漏りの寝ずの番をしていると、実家の父が死んだ日、祖母と二人で夜通し代わり番こに起きて、一本の線香の煙を絶やさないようにしたときのことを思い出す。あのとき、どうしてああも眠かったのだろう。いっそ殺してほしいくらいに、眠かった。父とのことは全てまぼろしのようだ。単身赴任の期間が長かったせいだろうか。男という種を知るために、もっと父を知りたかった。夫には父にあった何かがない。夜霧のように偏在的で、冷たい、神秘的な何か――。美亜にとってはそれがあるのだろうか。でも、どこか不吉で威容を感じさせる存在だった父もあるいは……よく観察しさえすれば、ここへ引っ越してきた頃に庭で見た、食料の獲得にけなげな、あの蛇のようであったのかもしれない。
 うとうとしたり目ざめたりしながら何度バケツを空けに行ったかは覚えていない。もう動くのが嫌になっていた。横になろうとするが、苦しくて眠れない。胸も腹部も中で風船をふくらませたみたいに張って苦しくて、頻脈に乱れが加わって咳が出、それがとまらなくなった。洗面所に痰を吐きに行くと、血が混じっている。いくら痰を吐いても喉が塞がった感じがして苦しい。なおも吐くと、じゅっと音がする感じで喉の奥から少しだが血が出た。洗面所から戻るときにバケツから外れて滴る水で足を滑らせかけ、一層脈拍が速まった。娘を起こさないように居間に行き、じっと座って苦しさをやりすごす。央子は、頻脈を抑えるためにインデラルという製品名のβ遮断剤を常用していた。また狭心症の発作時にはニトロ舌下錠を使うのだったが、それは切らしてしまっていた。あえいだり、ペーハーに痰を吐いたり、うとうとしたりしているうちに朝が来た。

 朝早くから工場の人たちがやってきて、台風が庭に散らした物を片づけたり、屋根にのぼったりしていた。夫と娘が出かけて一人になった央子は、頼もしい思いでその物音を聴いていた。昼前にその音がしなくなり、お昼休みかと思ったが、午後になっても誰も来なかった。彼女は一日ごろごろしていた。体を動かすのが大儀で、まだ胸のあたりに不穏な感じが残っていた。夕飯は弁当を買おうと思う。雨漏りは減ったにせよ、天井裏経由の汚水を受けた台所用品を拭いたり、洗ったりして、清めなくてはならない。台所の天井が早くも黴だらけだった。台所が使えないということ――それは主婦にとって、何と致命的なことなのだろう!
 夜七時になって、内藤が訪れた。何げないふうに玄関に立ち、が、くすんだ顔で、
「台風の……あのときは驚かれたでしょう」とつぶやいた。
 そして、寝ていたために身だしなみが乱れて窶れたような央子を見、驚いた顔をした。
「お嬢さんは?」
「まだ帰りません。そろそろ帰る頃だとは思いますけれど。受験生でね、結構大変な時期なんですよ」
「ああ受験ですか。ところで奥さん。お隣のご主人がお亡くなりになったようですが、手伝いに行かれなくていいんですか?」
 家の修繕のことについて尋ねようとした矢先の内藤の言葉に、央子はぼんやりとなった。
「え、亡くなった? どなたが?」
「お隣のご主人が、ですよ。奥さんは手伝いには行かれないんですか?」
 内藤は繰り返した。彼は自分と同年輩の女性を見つめ、じっと観察し始めた。
 何かしら冷酷に自分を見定めようとしているように思えた。自分がこの男を見定め、裁く立場であったはずだったのが、逆転現象が起きたのだと悟った。内藤からは、まぎれもない他人の匂いが強く香ってくる。それは、初めて彼と電話で話したときにどこからか香ったように感じた水仙の花の匂いとは、まるで異なる匂いだ。あわい失意と気弱さが、央子の疲れた容貌に漂った。言い訳がましい印象を与えようと――と彼女は思う――訊きたいことがあった。
「いえ、手伝いにはわたしは――。うちとは班が違いますから。お通夜は……今夜?」
「ええ、玉川斎場という話ですな」
 結局、通夜に行くかどうかを内藤は訊かず、帰っていった。明白な謝罪の言葉も発しないまま。
 隣のご主人は、奥さんが入院中に惚けてきて人恋しさが増した様子だった。互いの庭と庭を隔てる低いフェンス越しに、央子はえんえんと続くかと思える辻褄のあわない話の相手をつとめたものだった。謹厳な老人がこうもなるのかと思うくらい身なりに構わなくなり、目脂をつけたまま、幼児のように顔を輝かせて一心に話しかけるのだ。ふいに摑みどころのない様子となり、うつけたようであるかと思うと、遠く記憶を求めているように見えることがあった。こういうときの老人は、燻し銀のような知性の名残を感じさせた。今はこう惚けてきていても頭のいい人だったに違いないと思わせた。牧歌的といってもいい、不思議な季節だった。いつか姿を見なくなり、入院したと知ったのだった。
 通夜には行きたかった。その自然な気持ちが、内藤に傷つけられた気がする。もし内藤が通夜に向かう自分を見たとしたら偽善ととるだろう、と彼女は思った。
 夫の帰宅を待ち、車で斎場に向かった。喪主と親族以外に残っていなかったおかげで、弱り、痩せて窪んだ目をした奥さんを抱くことができた。喪服の生地の手にざらつく感触、か細い背中。故人が写真の中からこちらを見ていた。その顔はあの不思議な季節の中の老人の顔ではなく謹厳な、社会の構成をなす一員としての顔だった。
 央子は、九月九日の木曜日は田川市の総合病院で診察を受けることになっていた。夫の功が休みで、車で送ってくれるという。

 山々は台風のせいで窶れていた。道路に根こそぎになった木が倒れている。央子が助手席の窓を開けると、車の中に苔臭いような、朽ちたような匂いが流れこんできた。かしいだ樹木の膚の匂いだ。そういえば、と夫が言った。
「台風十八号は、北上して、北大のシンボルのポプラ並木にもかなりの被害を与えたらしいよ」
 央子は夫を見た。その声に、どこか他人の不幸を鑑賞するような軽快な響きがあったからだった。夫は続けて言う。
「美亜は、何だって北大など受けたがっているんだ? 九大でいいよ。親父と御袋も電話でそう言っていた。滑りどめには、福大を受ければいいさ。近場がいいってことはないよ。うちは金がないんだし……」
 呼吸を奪うような、夫の言葉だった。
 婚約指輪にサファイアではなくダイヤを選ばされた、あのときと同じことが起ころうとしているのだった。美亜の高校では、もう十日のうちにAO入試希望者はプリントでその旨を届け出ることになっていた。美亜が受けたいに違いないと思い、朝、央子がそのことに触れると、
「それもいいね。でも、いい、AOは受けない。AOは準備に時間がかかるんだ。自己推薦文を書いて、面接の練習をして……、それで合格できればいいけれど、落ちた場合はセンター対策に遅れが出がちになるから。でも私大はどこか一校だけでいいから受けたいの。北大一本は自信がなくて。甲子園初出場校が初戦で大敗するみたいなことになりそうで。いくらかでも、大舞台での経験を積んでおきたいんだよね」
 娘はそう言ったのだ。
「あの子が、九大だの福大だのと言ったの?それが希望なら、わたしたちには好都合かもしれない。でも、だめよ。受けたい大学を受けさせてあげましょうよ」
「僕はね、央子。家のことを考えていたんだ。果たして修繕がきくのだろうか――とね。出ていってくれと言われたら、困るし。何しろ、ただでさえ金がないんだから」
 秘かに懼れていたことに触れられ、彼女は身を震わせた。
「あなたのご両親は、お金持ちじゃないでしょうか。これまでに、あなたのことでは二度用立てていただいて、そしてお返ししたわね。受験に必要なお金なんて大きいといえば大きいけれど、家を買うだの、車を買うだのに比べたら、小さいものよ。それにこれは、美亜にとっては、一生に一度のことなのよ。浪人なんて、それこれ無理でしょう? ねえ、あなた。ご両親からまた借りられない?」
 前を向いたまま夫は子供のような口調で、嫌だ、と言った。
「僕の両親はもう年金暮らしだからね」
 途中、土砂崩れのために迂回しなければならなかったが、予約した診察の時間には何とか間にあった。央子が台風の夜の体調の悪さを話すと、息子と変わらないくらい若く見える医師は時間をかけて脈をみ、足のむくみを調べ、胸のレントゲンを撮ってくるように言った。医師はミミズが這ったような字をカルテに綴り、鬱血性心不全の症状が出たのでしょう、と言った。
「この場合には、ニトロを使っても意味がありません。息苦しい症状が出ているあいだは上体を起こしてじっとし、嵐が過ぎ去るのを待つしかありませんね。とにかく、過労を避けるようにしてください。そうしないとね、入院しなければならなくなりますよ」
 最後のフレーズを、医師はおばあさんにでも言うように優しく言った。
 台風の後片づけが残っている状態で、過労を避けるのはむずかしい。まして引っ越しなど、考えただけでぞっとした。あれほど引っ越したいと願っていたのに、皮肉にも今は考えたくないのだった。
 医師の言葉を知らない夫は、帰宅後、昼下がりの荒廃した湿った家の中で求めてきた。しかし体調の悪いときのセックスはなぜか歓迎で、央子は夫の下で身をよじり、あえぎ、うめいた。燃えたのか苦しんだのかわからない状況が、歓迎させたのかもしれない。それにしても変なセックスで、夫に悪かった心地がし、馬鹿なことをしてしまったと思った。

 工場は専門家を修繕の見積もりによこしたが、修繕自体は延び延びになっていた。台風の日から二週間も経った九月二十一日になって、夫の会社に家をとり壊すことに決定したと電話があった。先方は敷金を返してくれるという。それだけでこの借家を出ていかなければならないのだ。夫は、先方も被害者なんだから、何たって台風が――などという。美亜に贅沢を言わさず、近場を受験させればいい、そうすれば何とか引っ越し費用が捻出できるだろう――とも言った。
 その夜、央子は夢を見た。捕らえられた鼠の兄弟があらわれ、名乗り出たのだ。「僕はワタル!」「あたしはミア!」
 一匹は妹だった。兄妹は央子が組み立てた鼠捕りにつかまり、手だけゴリラになった夫がそれを運び去ろうとする。「やめて!」夢の中で叫んで、彼女は目ざめた。
 夫のやすらかな寝息が、夜のしじまの通奏低音のように聴こえていた。彼の額が水たまりのように光って見える。悪い条件下での引越しという事態に、夫は手段をこうじる必要を感じていなかった。家族を守るより、家族に犠牲を強いることを選ぶ無能な夫なのだ。しかしまた、彼女はこうも思った。彼に頼ってばかりの自分もまた主婦として、否一人の人間として無能なのだ。家族――この小さな共同体。それぞれの力を出しきってあわせれば、なんとかなるのではないだろうか?
 福岡大学で四年間も法律を学んだのだ。あの知識を無駄にすることはないのだ。央子は洋室へ行き、書架から小六法をとった。頭の中が錆びついているというより、彼女は小六法の使いかたにさえ習熟しなかったのだから、引いてみても心もとない。あやふやな混乱した考えで頭の中を満たしたまま、レポート用紙にともかくも損害賠償の請求を下書きし出した。
 洋室で朝を迎えた央子は、起きてきた夫に輝くように笑いかけ、彼を驚かせた。彼にとってはなつかしい、忘れがたい笑いかただったからだ。恋愛が始まったばかりの頃の笑いかただ。
「ねえ、あなた。大家さんに損害賠償の請求をしましょうよ。これは当然の権利よ」
と、央子は夫に言った。
 夫は別に反対もしなかった。美亜には、引っ越すことになったこと、大家さんとのあいだに納得のできる条件で引っ越しができる示談を成立させたいと思っていること――を伝えた。父娘が出かけたあとで、法律を学んでいる――はずの――息子に電話をかけようと思った。自分よりは息子のほうが少しはましだろう。大学は夏休みで、集中講義の中休みのはずだった。臨時バイトを探すといっていたから出かけているかもしれない、と思いながら、かけてみた。
「バイト? 今日はないよ。昨日は花を束ねるバイトをしたんだ。いや花屋でじゃない、工場でね、流れ作業さ。引っ越しだなんて、大変だなあ。体は平気なの、ママ。美亜は受験が近いしなあ。損害賠償の請求? うんうん、それはやってみるべきだ。先生に、どの程度の損害賠償の請求が可能かをメールで質問してみようか? それじゃ僕のパソコンに請求の下書きを送ってよ。僕がそれを手直しして、先生にメールするから。民法専門の先生――一人は専任の教授で、一人は他大学の専任で講師できている先生。それと民法専門じゃないけれどゼミの先生に送ろうと思う」
 息子がこれほど頼りがいがあると思えたことは、これまでになかった。おっとりとしていて、だがそういえば、小さな頃から良識といえるようなものをもっている子だった。思いがけない勇気が備わっている面もあるようにも思う。ただ息子の申し出はありがたいが、どんなものだろうと不安になる。
「先生がたにそんなお願いができるの? ずうずうしいんじゃない?」
「うん、そうだね。ずうずうしいかもね。だけど、先生たちは、学生たちから民法がらみの相談をよく受けるみたいだよ。あ、それから僕、来年から自宅通学に切り替えるから」
「えっ、なぜ? JRの日田彦山線で? 日田から小倉までだと片道二時間はかかるわ」
「城野までだよ。二時間ちょっとかな。定期で往復月に三万円。一限目と六限目の授業が選択できなくなるのには、つらいものがあるけど、何とかなる。バイトも時間的にできなくなるけど、奨学金を願い出て通れば賄えるし、美亜のために金を浮かすには、それが一番の手だと思うんだ。仮に国立大に合格できたとしても、アパート住まいだと金がかかるから。それに理系だとバイトしにくいみたいだよ。美亜に雪の北海道は似あうと思うなあ。もっとも美亜は、岡山大のほうが現実的とも言っていたっけか。岡山もいいだろうね。日本のプロヴァンスなんだってね。それじゃメール忘れないで」
 息子の電話が切れたとき、母親の目に涙が伝っていた。妹に比べれば何かと不足な点が目につく兄の亘を、これまで自分はないがしろにしてきたような気がしたのだった。息子に感謝しながら、央子は一所懸命に損害賠償請求の下書きをし、娘が帰宅するのを待って、夫のパソコンからメールを送信してもらった。
 先生たちの返信からすると、央子が考えた損害賠償の請求は可能なようだった。
「工場主には、台風で予想される程度の強風に耐えられるような措置をほどこしておく必要があり、そのような措置を怠っていた場合には注意義務違反や設置管理の瑕疵が認められる。免責の理由は義務違反者の側が立証しなければならない(民法四一五、民七〇九、民七一七)。家主は約束の期限まで、借り主に借家を使用収益させる義務がある(民六〇一)、
もし借家に欠陥が生じた場合には、適切に使用できるよう修繕しなければならない(民六〇六)。非常に不便な住宅になった場合、その分だけ家賃は減額しなければならない(民六一一)。……この場合は家主が退去するよう要求されるのだから、次の交換条件を承諾してもらいたい。①敷金は当然返還すべきものであるから、その返還を交換条件にすることはできない。②本来、退去する義務がないにも拘らず、家主の都合によって退去するのであるから、退去に伴う費用を要求する。また家主が修繕しないことにより早期に退去せざるをえないので、その点を十分考慮してもらう。具体的には、新しく家を借りるための費用と引っ越し費用を請求する。駄目になった家財道具の損害賠償、費用については、工場建物管理に不注意があれば、家具の被害の賠償と処分費用の両方を請求できる。不注意がなければ、これを理由として請求はできない。この場合は退去の条件として請求してはどうか。」
 こうした意見を参考にして、央子は次のような損害賠償の請求書を作成した。どの請求も通るとは限らないと思い、請求可能と思えるものは思いつくだけ並べることにした。
「今回の件で生じた種々の損害のうち、特に以下に限っては損害賠償の請求を致します。
一、新しく家を借りるための費用。
一、引っ越し費用(らくらくパック。私は仕事、家内は心臓疾患で通院中、息子は家を離れて大学生活、娘は受験生であるため、荷造りが困難です。ここに引っ越してくる際にも、会社かららくらくパック代が出ました)。
一、台風で破損した家具等、引っ越しの際に破棄する物品の処分。
一、台風の被害を受けた月から退去月までの家賃の減額。
一、工場から飛んできた物により使用できなくなった家具などの賠償。
  ※敷金の返還についても、法定通りなされるものと考えています。
《付記》
 添付の資料(**大学で民法を専門とされている**先生のご意見)を参考にしておりますので、三田村工場株式会社様もお読みください。

平成十六年九月二十七日
                                         長沢功

三田村工業株式会社様                                」

 こんなものでいいのかどうか不安だったが、央子は夫に見せた。
 夫が工場に電話をし、損害賠償の請求書を受けとってもらいたいと言うと、事務員らしい女性は、しばらくお待ちくださいと言い、再び電話に出て、この件の仲介者として不動産屋を指定してきた。そこへ出向き、夫は請求書を託した。
 翌日、内藤から電話があった。
 彼は時間がとれず、訪ねられない侘びを央子に言い、何げない風に請求書の件に触れた。
「あの文書をお書きになったのは、奥さんですね……」
 穏やかながら、責めるような調子があった。
 内藤になぜそのことがわかったのだろう、と央子は意外に思った。夫が請求書を仲介者に託しに行ったときに、それと匂わせる会話が交わされ、内藤に伝わったのだろうか。
 央子は用心し、はぐらかすように答えた。
「さあ、どうでしょうか――。内藤さんのご想像にお任せします」
 十月に入ってから仲介者を通じて大家から返事があり、それに夫が承諾して、示談が成立した。新しく家を借りるための費用、家具等の賠償については出ないが、長沢夫妻はそれで充分だと思ったのだった。
 長沢家は十月十四日に日田駅裏の借家に引っ越した。しかし新しい家は手狭だった。子供たちがのびやかに成長するには、部屋数が九つもあるこれまでの借家は理想的な住まいだった。今度の住まいには庭と呼ぶような空間はない。草とりや溝掃除の面倒がなくてありがたかったが、香る草木、蠢く蛇たち、羽音をさせて飛び回る蜜蜂、工場の人に叩き落してもらった足長蜂の巣、脅威的なスズメ蜂の飛来、軒下につくった巣に花びらを敷いて子育てしていたツバメ、さまざまな蝶、脱皮したばかりの翡翠色の蝉、溝にくる蛍、庭石に昼寝にきた白と灰色の縞の大柄の猫、雨の日に迷いこんでミャーミャー鳴いていた真っ白な碧眼の仔猫、合コンで盛りあがった羽蟻たち、悲痛な思いを誘った鼠の兄弟……自然界の縮図ともいえるような環境を与えてくれた庭つきの古い借家が、央子には早くも郷愁をおびて思い出された。
 そういえば玄関前のツツジの木に赤紫の花が、三輪ずつほど春から秋の引っ越しをするその日までずっと咲き続けていた。庭にある他のツツジの木はとっくに咲かせ終わっていた。自然的な根拠のあることなのだろうが、彼女の感傷的になった心理にはそのツツジが別れを惜しんでいるように思われたのだった。
 引っ越すまでに、小さな悲哀が生じた。天井の破れに近い書架の上にダンボールに入れて置いていた児童書が台風の被害をこうむっていたことがわかったのだった。ちょっと目には綺麗だったので、引っ越しの準備で本の整理にとりかかるまで点検を怠っていた。そのことが災いした。
 講談社の絵本は二十冊以上がだめになっていた。本の頁と頁が生えた黴でくっついている。「ファージョン作品集」「ケストナー少年文学全集」も湿っていたので、捨てるのがためらわれた絵本と一緒に、洋室の窓際の床に新聞紙を敷いた上に並べ、乾かした。
 その光景を見、美亜は言った。
「まるで野戦病院だね」
 乾かして三日目、引っ越し前日の昼になっても、退院できた本は少なかった。乾いても、色鮮やかな黴の色は容易にはとれない。児童文学書だけがこうもやられた。そのことが彼女に痛手を与え、そのとき間が悪く、内藤から電話があった。
「台風のせいで、天井に穴が開いたせいで、本が沢山だめになったんです……乾かしても、乾かしても、元に戻らないんですよ」
 示談成立のために陰で働いた中年女性の悲痛な訴え――声の響き――は、何かしらの用件で電話をかけてきた内藤を狼狽させた。
 仲介者によると、内藤の尽力がなければ、らくらくパック代は出なかっただろうという。央子は内藤に会ったらその礼を言うつもりだったのだが、心ならずも嘆き節を聴かせてしまったのだった。示談成立のために工場と、否内藤と一戦を交えたという感慨が央子にはあり、そのことがどういうわけか清々しくて――が、まだきちんとした謝罪の言葉を聞かせてもらってはいないという彼の人間性に対する不満が心のうちに漂っていた。彼はあくまで台風を口実にしていた。
 その内藤が心を乱し、つぶやくような早口で何度となく謝罪の言葉を口にした。
「すみません……すみません……すみません」
 央子はこんな場面で内藤の謝罪の言葉を欲していたわけではなかったので、唖然とした。彼の言葉は心からのものに思えた。彼女は何かしら澄んだ思いに駆られ、また困惑して、適当な言葉を探そうとつとめながら、投げ出すかのように不器用に言葉を口にした。
「ごめんなさい、そんなつもりでは――。内藤さんのおかげで安心して引っ越しをすることができます。本当にありがとうございました。借家には、長いことお世話になりました」
 内藤は黙ったまま何も言わなかった。そのとき央子は、またどこからか、水仙の花が香った気がした。
 ハムスターに異変があったのは、引っ越した翌日だった。ふと見ると、口の端から肉片のようなものが垂れている。頬袋脱で、餌を出した拍子に頬袋が反転して外に飛び出る病気というか事故だという。ジャンガリアンハムスターはなりやすいのだそうだ。長沢家の歴代ハムスターを診てきた動物病院の医師は露出した頬袋を根元で縛り、切除した。頬袋がなくなっても問題はないそうだが、もう左頬に餌を入れることはできなくなった。もらった薬袋には「フレーズちゃん」と書かれている。抗生剤が一週間分出された。甘く味つけしてあるのか喜んで嘗める。
 フレーズは、「どうしてわたしは痛いめに遭ったの?」というような目で央子をじっと見つめてくる。あるいは、「どうしてわたしを痛いめに遭わせたの?」かもしれなかった。
 美亜はハムスターに頬ずりし、言った。
「治療代一万五百円なりかあ。おまえの値段より高いんだねえ。おまえには、もう頬袋は一つしか残っていないんだよ。ママがママチャリの買い物カゴをいっぱいにするみたいにして、ヒマワリの種やフードなんかをそのほっぺにパンパンに詰めこむんじゃないよ」
 次のごみ出し日の早朝、央子は膨らんだごみ袋を両手に外に出た。ハムスターが頬袋脱の日の朝に出し損なったごみもあるから、二往復しなければならない。燃やせるごみの収集日が前にいたところとは違うので、うっかりしてしまったのだった。
 央子が家の前の道路に立つと、正面の建物のあいだから、空が陣痛でも起こしているように脈打つ光を投げかけていて、薔薇色やオレンジ色や純白や黄金色が水色を背景に漣のようにひろがっている。そのような色彩の乱舞がいよいよ澄んだ強い光に晒される頃になって、ようやく坊や――太陽――がそっと空にうみ落とされた。太陽というとダイナミックなイメージがあるが、日の出の頃の太陽はまた何と初々しい、かよわい感じがあるのだろう。
                

 〔了〕                                                           

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