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2009年9月22日 (火)

中原中也を久しぶりに

 木曜日に泊まる湯田温泉の宿の近くに中原中也記念館があると知り、行ってみたいと思っている。

 ネット検索してみて驚いたが、中也は今の若者にも人気があるらしい。

 わたしは学生時代、歌謡曲を好む感じで、中也の詩を愛読した。口ずさみやすい。

 文芸部の同学年の間で、先輩の一人を顧問のような立場に据え、『土曜会』という文学研究会のようなものを結成していたのだが、その会では作家や詩人の中から月に一人選び、集中的に研究することにしていた。

 中原中也はそれに選ばれ、そのせいで、わたしが持っている中原中也詩集にはあちこちに書き込みがあり、読みすぎて嫌になったほどだ。

 そもそも、わたしは中原中也の変なヴェルレーヌ臭さが嫌いだった。中也が影響を受けたとされるヴェルレーヌの透徹した詩の性質と、体臭や市井がプンで匂ってくる気がする中也の詩の性質が似ているとは到底、思えなかったのである。

 ヴェルレーヌの詩で悪酔いすることはないが(ヴェルレーヌ自身の人生は悪酔い人生だったのかもしれないが)、中也の詩では悪酔いする。芸術性という点からいえば、幾分純度が低いからなのだろうが、ただ中也の場合は、自分であらかじめ、純度を低く設定して詩作に挑んでいるようなところがあり、それが彼のスタイルといってよいのだろう。

 中也には、対象の本質、構造を見抜いてしまう鋭い観察眼があり、日本人には珍しい哲学性を秘めてもいる。それを形而上的に結晶させるよりは、センチメンタリズムや日常性に溶かし込む道を選んだのだ。日本に、前者の土壌がなかったからだと思う(今もない)。

 そこに、中也の芸術家としての不幸があったのではないだろうか。

 わたしが読むたびにいつも一種の衝撃を与えられる作品を「中原中也詩集」(河上徹太郎編、角川文庫、昭和43年)から、以下にご紹介しておきたい。

 一編は、『春と赤ン坊』というよく知られた詩。もう一編は、編者の解説によってわたしの注意が向き、以来忘れられなくなった『曇つた秋』という作品のうちの2である。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。

   春と赤ン坊

菜の花畑で眠つてゐるのは……
菜の花畑で吹かれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

走つてゆくのは、自転車々々々
向ふの道を、走つてゆくのは
薄桃色の、風を切つて……

薄桃色の、風を切つて……
走つてゆくのは菜の花畑や空や白雲(しろくも)
――赤ン坊を畑に置いて

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

   曇つた秋

   

猫が鳴いてゐた、みんなが寝静まると、
隣の空地で、そこの暗がりで、
まことに緊密でゆつたりと細い声で、
ゆつたりと細い声で闇(やみ)の中で鳴ゐていた。

あのやうにゆつたりと今宵一夜(こよひひとよ)を
鳴いて明(あか)さうといふのであれば
さぞや緊密な心を抱いて
猫は生存してゐるのであろう……

あのやうに悲しげに憧(あこが)れに充(み)ちて
今宵ああして鳴いてゐるのであれば
なんだか私の生きてゐるといふことも
まんざら無意味ではなささうに思へる……

猫は空地の雑草の蔭で、
多分は石ころを足に感じ
その冷たさを足に感じ
霧の降る夜を鳴いてゐた……

※9月24日から25日にかけて、中也の街を訪ねました。以下は、そのときの記事。

2009年9月24日
湯田温泉街
http://elder.tea-nifty.com/blog/2009/09/post-31f6.html

2009年9月24日
中也も見たカイズカイブキ
http://elder.tea-nifty.com/blog/2009/09/post-f28c.html

2009年9月25日
既視感のある通り
http://elder.tea-nifty.com/blog/2009/09/post-763c.html

2009年9月26日
中也関係のメモ
http://elder.tea-nifty.com/blog/2009/09/post-63bc.html

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