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2009年7月 9日 (木)

私的シネマブームの最後を飾る『マリア・カラスの真実』を夕方から

 ワタクシ的映画ブームの最後を飾る『マリア・カラスの真実』を、夕方から観る予定です。

 今回、これまでに観た中では、映画としてはどうかなと思いますが、『子供の情景』が最も印象に残っています。

 芸術性という点では、圧倒的に『懺悔』。

 『フロスト×ニクソン』『ダウト~あるカトリック学校で~』『リリィ、はちみつ色の秘密』は、中途半端な感じを受けました。どれもそれなりの見応えはありましたが、食い足りなさが残ったのです。

 『フロスト×ニクソン』のニクソンはニクソンらしくなく(あれはブッシュですね。ニクソンを描くと見せてブッシュを炙り出すのが意図だったのかもしれませんが)、フロストの突っ込みがそれほど鋭いとは感じられませんでした。

 『ダウト』のフリン神父は説教時の真剣な顔と夕食時のどんちゃん騒ぎ? が相容れず、ストリープ演ずるシスター・アロイシス校長が何だか甲斐性のない夫に泣かされる主婦に見えてしまいました。

 アロイシス校長がかつては既婚者だったという設定は、何を意味していたのでしょう? 彼女は宗教的閉鎖社会しか知らない女性ではなく、歓楽やセックスや異性について熟知しているわけです。臭いで、フリン神父の享楽気質を嗅ぎとり、黒人生徒を誘惑したに違いないと感じていたのかもしれません。

 あるいは、学校を明るい開放的なものにし、人種差別をなくしたいというフリン神父の清廉な熱意は本物でありながら、人間的に危ういところのある――本当の悪漢とか変態ではないにしても――癖のある人物として描かれていたのかもしれませんが、そうだとすれば、がっしりした普通のおじさんにしか見えないフリップ・シーモア・ホフマンは演技派ではあっても、役柄的には合っていなかったように思えます。 

 学校の経営状態、組織のピラミッド構造における問題点に興味が逸らされました。学校の閉鎖性をテーマにしていたのだとすれば、アロイシス校長は苦労させられすぎていました。もう少し従業員、いやシスターや下働きの人数が多い学校の校長として描かなかったのは、なぜなのでしょうか? 

 フリン神父が誘惑したかもしれない黒人生徒の母親は、アロイシス校長との対話で、黒人が白人社会の中で生き抜く厳しさを表現して見せましたが、自分の子が生まれつきホモであると確信し、黒人でホモであるということは業病とでも考えているかのような様子は、生徒がまだ小学生くらいの年齢であって、またそうしたことに興味を抱く麻疹のような一時期が大方の人間にはあるだろうことを考えれば、行きすぎにも思えました。

 伏線だらけに思える映画で、伏線が伏線に終わっていたため、すっきりしない感じが残ったばかりか、何かごまかされたような気さえしました。疑惑を描き出すことが目的だったとしても、隠れた真のテーマはあるはずで、それがもう少しこちらに伝わるのでなければ、物足りなさは否めません。

 『リリィ、はちみつ色の秘密』のリリィを演じたダコタ・ファニングは、可愛らしい少女でした。父親と確執のあるリリィを受け入れる黒人三姉妹もそれぞれ魅力的でしたが、彼女たちがどうやってあの成功を手に入れることができたのか、そのあたりのことが描かれていたらよかったのにと残念でした。

 芸術性が高く、徹底度という点でも、『懺悔』は群を抜いていました。グルジア映画の凄さを改めて思い知らされた気がします。それでもわたしは、『子供の情景』に出てきた子供たちが忘れられません。

 さて、今日観る『マリア・カラスの真実』はどうでしょうか? オペラ演出家・映画監督として著名なフランコ・ゼッフィレッリ著『ゼッフィレッリ自伝』(木村博江訳、創元ライブラリ、1998年)には、シャネルの姿が印象的に描かれていましたが、カラスもそうでした。楽しみです。

 話は変わりますが、昨夜、娘が息子と電話で話していて、息子は夏休みが20日とれるらしく、秋芳洞旅行に誘っていました。二人の休みをうまく重ねられればいいなあと思います。息子を伴えば、百科事典を携帯していくようなもので、取材には便利なことこの上もないのですが。

 映画や旅行のことを考えていると、病気のことなど忘れたくなりますが、旅行を楽しくするためにも、体の中で気になるところは、内科受診の際に話してしまえればと思います。そうすると、また検査が増えるでしょうか? U先生も、左なら心配ないとおっしゃるかしらね。自分からお願いした癖に、月曜日の造影CTがもう今から憂鬱です。

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