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2009年5月24日 (日)

シネマ『天使と悪魔』を観て

 以下、とりとめない書きかただが、ネタバレあり。

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 カトリック教は、それ以前の貴重な歴史的資料を焚書にしたり禁書にしたりした。神秘主義者のわたしが『天使と悪魔』のような映画を見ると、どうしてもカトリック教によって損なわれた人類の知的遺産に思いを馳せずにはいられなかった。

 さすがに時代の要請からか、1966年にローマカトリックの禁書目録は廃止された。その目録には(ウィキペディアによれば)デカルトもカントも、わたしの大好きなバルザックも入っていた。エラスムス、キボン、コペルニクスもそう。尤も、カトリック教徒でない者の著作は、審査以前の問題とされたとか。

 時間が中世で止まったままであれば、まだしもだろうが、禁書にすべき書物は増える一方だっただろうから、対応が追いつかなくなったのだろう。

 映画に出て来たヴァチカン市国やローマは、何か壮大な骨董市のように見え、美しいのか不気味なのかわからないぐらいだったが、そうした景観を楽しませてくれるだけでも映画の価値はあると思った。

 イルミナティは、フリーメーソンと関係のあるラジカルな一派だと思っていた。モーツァルトがイルミナティではなかったか。イルミナティはフランス革命に関係したともいわれている。拾い読みしただけだが、映画の原作ダン・ブラウンの『天使と悪魔』(角川文庫、越前敏弥訳)には、わたしの知らなかったことがいろいろと書かれているようだ。

 『科学の祭壇』に生贄を捧げるという、映画では猟奇的に描かれた、あまりに非科学的で大時代がかった発想には気が萎えた。カトリック教の力が衰えた今、あのイルミナティであれば、そこまでしなければならない理由がどこにあるのだろう? イルミナティを使って科学に迎合する司祭たちを血祭りにあげた前教皇侍従カメルレンゴは、キリスト教の問題点を戯画化したような人物ではあった。原作の彼が前教皇の試験管ベビーというのは、ちょっと作りすぎでは……。

 カバラも、バラ十字も、フリーメーソンも、そして神智学も、同じカラーに彩られ、同じようなことをいっているように思えるのは、それが科学だからであり、地下に潜ったり潜らなかったりして(必要でなければモグラじゃあるまいし、潜ったりしないだろうが、時代によっては火あぶりだから)連綿と血脈を保ってきたのも、やはりいわゆる科学的な体質ゆえだろう。 実験結果は引継がれるものだから。

 そして、納得の行くまで実験が繰り返される中で正しさが確かめられては、新たな発見がなされてゆく。『天使と悪魔』に出てくるあのイルミナティのような悪い動機からだけ地下を生き抜くとは限らないのだ。名前を替えたりしながら、神秘主義の本質が科学である限り、人類と同じ長さだけ続いて行くのではないだろうか。

 映画からは話題が逸れるかもしれないが、火は古代から神秘主義者たちにとっては神聖な概念で、彼らは火について語ることを好んだようだ。そして、異端と断じられた彼らは、火によって処刑されたりした。神秘主義者は基本的に折衷主義者で合理主義者のはずだから、殉教と喜びはしなかったに違いない……。

 わたしを魅了する神智学の本にも、そうした犠牲を経て伝えられたものが散りばめられているのだろうと思う。

 古代、色の表現は数が少なかったように、火も、多くの意味を含んだ言葉だった。近代神智学の創始者ブラヴァツキーが書いた『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(田中恵美子&ジャフ・クラーク訳、神智学協会ニッポン・ロッジ、平成元年)では古代よりは現代のわたしたちにも理解しやすい類の語彙が豊富となり、本編の後に議事録が収められている。その――一太陽プララヤ(※休息期)後の地球惑星体系とそのまわりの目に見えるものの(宇宙発生論)だけが扱われた――論文に関する集会での質疑応答から、火に関係した断片を以下にご紹介してみたい。

 様々なコスモスの階層に於ける“火”という用語の色々な意味を教えてください。
 火は五大元素の最も神秘的で、最も神聖なものです。〔略〕オカルト的な意味の火はアイテルであり、アイテルは運動から生じ、運動は永遠の目に見えない暗い火です。光は最高の根源的なアイテルから空間の中の最小の原子に到るまで、自然の中のすべての原動力となり、すべてを支配します。運動自体は永遠であり、顕現世界ではそれは、この世界での電気、直流電気、磁気、肉体的及び精神的な感覚、想念、生命のアルファであり、オメガです。だから私達の世界に於いて、火は単に運動又は生命の現れにしかすぎません。
 バラ十字団のメンバーはあらゆる宇宙的な現象を“生きている幾何学”と呼びました。すべての極性のある作用は元素の極性の繰り返しにすぎないと中世の火の哲学者たちは言いました。というのは、運動は熱を生み出し、運動中のアイテルは熱です。それは速度が減じると寒気が生じます。なぜなら、“寒気とは潜在状態のアイテルである”からです。こうして自然の根本的な状態は三つの陽性のものと三つの陰性のものであり、その六つは原初の光によって総合されます。三つの陰性の状態は〔1〕暗黒と〔2〕寒気と〔3〕真空あるいは虚空です。三つの陽性の状態は〔1〕光(私達の世界の)と〔2〕熱と〔3〕全自然です。こうして火は宇宙の統一体と言えます。いわば燃料のない純粋で宇宙的な火はその普遍性において神です。なぜなら宇宙的な火、あるいはそれを呼び起こす熱は、顕現した自然の物質の各原子にあります。潜在的な火を含まない物、あるいは粒子は宇宙の中に一つもありません。

 〔略〕電気はどういう意味で“実在”と呼ぶことができるでしょうか?
 電気をその原初の力であるフォーハットと呼ぶ時だけです。実際は一つの力しかありませんが、顕現世界では、それは何億もの形で私達の前に現れます。先に言った通り、すべては一つの原初の普遍的な火から発しており、私達の世界では電気はこの火の最も広範な局面の一つです。人を刺すアザミから、人を殺す稲妻にいたるまで、小石の中の火花から体内の血にいたるまで、すべては電気を含み、すべては電気です。しかし、たとえば電燈の中に見られる電気はフォーハットと全く違うものです。電気は物質宇宙の分子的な運動の原因であり、地上界でもその役割を果たします。電気は物質の“本質”の一つです。というのは、ものの均衡が乱れる毎に電気が生じるので、そのものの中のカーマ(欲望)的な要素となります。だから何億もの相で現れる力の元々の原因として、またあまねく及ぶ宇宙的な電気の総計として、フォーハットは一つの“実在”です。
 しかし、実在という用語で何を示しておられるのですか? 電気も一つの実在ではないのですか?
 私は電気を実在とは言いません。実在(entity)という言葉はラテン語のesse“存在する”の語源である“存在”から来ています。だから、一粒の砂から一柱の神に到るまで、他のものから独立したものは何でも実在です。しかし普通の科学的な意味の“電気”は相対的な意味しかありませんので、この場合、フォーハットだけが実在と言えます。

 この集会は、1889年のロンドンで持たれたものだ。日本はこのとき明治時代で、帝国憲法が発布された年。もしブラヴァツキーが現代『シークレット・ドクトリン』を書くとすれば、クオークや反物質といった新しい科学用語も適切な箇所で用いたに違いない。

 健全な? 神秘主義者同士であれば、中世にもこのような会話を、古代の言葉に当時の最新? の用語を交えながら穏やかに、また熱心に話していたに違いない。しかし、そんな楽しいひとときを持つことは異端行為とされ、発覚すれば、魔法使いや魔女として火あぶりにされたりしたのだろう。

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