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2009年3月23日 (月)

同人雑誌の主幹からお電話

 一昨日、同人雑誌の主幹からお電話をいただいた。提出作品の件。

 エッセーを考えているとお話しすると、「いやー、あなたには小説を出してほしかったんだけどなあ」とおっしゃる。

 わたしも小説を出したかったが、準備ができていないことをお話しし(さすがに裁判で予定が狂ったことまでは話せない)、何枚くらいまでならオーケーなのかを伺った。

「ああそれは、何枚でもいいですよ」と、主幹は太っ腹。ありがたい。

 村上春樹に関するエッセーに、最近のノーベル文学賞作家の作品に関する雑感も加えてまとめよう。長くてもいいというのは、この上ない恵みだ。

 ただ、いろいろとお話しするなかで、主幹(そして発行人)との文学観を含めた価値観の違いを改めて感じた。普通のおつきあいであれば、それもまた妙味ともなるが、ある文学観をカラーとして打ち出していく同人雑誌では、この違いは微妙な問題を生む。

 主幹はわたしの作風を異色としながらも、好意的に掲載してくださった(といっても、結構シビアなやりとりもあった)。ありがたいと思いつつも、カラーの違いで苦しんだ、同人雑誌体験だった。

 休刊になるのは残念だが、休刊にならなければ自ら離れた可能性もある。物を書くとは、所詮は孤独な作業だ。そこへ帰るだけ。こんなときに、いつも思い出されるのは坂口安吾の『文学のふるさと』。

 有名な結びの部分を以下にご紹介しておきたい。安吾は、これに先立つ部分で、三つの物語をアモラルな物語として紹介している。

 この三つの物語が私たちに伝えてくれる宝石の冷たさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか。

 この三つの物語には、どうにも、救いがなく、慰めようがありません。鬼瓦を見て泣いている大名に、あなたの奥さんばかりじゃないのだからと言って慰めても石を空中に浮かそうとしているように空しい努力にすぎないでしょうし、また、皆さんの奥さんが美人であるにしても、そのためにこの狂言が理解できないという性質のものでもありません。

 それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期することすらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。

 私は文学のふるさと、あるいは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。

 アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごであるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……

 だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。

 ―『文学のふるさと』(坂口安吾著「堕落論」集英社文庫、1990年)― 

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