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2008年11月13日 (木)

瀬戸内寂聴作『あしたの虹』を読んで

 瀬戸内寂聴がケータイ小説サイト「野いちご」に発表した、『あしたの虹』を完読。

 携帯小説であろうが、単行本小説であろうが、媒体が異なるだけで、本質のどこに違いがあろうか。読みやすさの工夫に違いが出てくるだけだ。
 
 『あしたの虹』を一言でいえば、変則型のシンデレラ物語(王子様は二人!)。イモねえちゃんのハーレークイン・ロマンスといったらわかりやすい。あるいは、エッチと出産のすすめ(周囲が何とかしてくれるから~)というべきか。

 以下、ネタバレあり。

 小説にはヒカルという、翳のある美貌の青年が出てくる。ヒロインは彼と恋をして子供を孕む。ヒカルはいつのまにか墨絵を天職とする芸術家ということになり、同じ道の大御所クラスの老婦人がパトロンとなる。そのパトロンは、作者をほのかに連想させる。

 丁寧に見ていこう。

 ヒロイン・ユーリは、愛嬌のある健康的な容貌・雰囲気の持ち主。

 両親の離婚で、心を痛めている。彼女の目下のテーマは、彼女自身の次の言葉に要約されていよう。
「あたしはセックスなんて好きでもないのに、それがどうして、男と女になくてはならないのか、知りたくて、そのことへの好奇心がつのる一方だった」。

 といっても初体験は中2のときに《軽いノリ》で終わっていて、相手はお笑い芸人を目指す同じ学年の男子。彼は、離れてからもずっとユーリを慕い続け、折に触れて連絡してくる。ユーリは他に、2人の男子と《エッチ》しているから、今更前掲のテーマでもないという気もするが、まあ簡単にいえば、あまり感じなかったということで、彼女は、もっと感じさせてくれる男を探している、早くもとうの立った若い女性といえるだろう。

 ユーリは家計を助けるために(それにしては切実さが感じられないので、単なる小遣い稼ぎ?)、2,800円の日給で、うなぎ屋に雇われる。そこで働いている《イケメン》青年ヒカルに、ユーリは即座に恋。ヒカルもユーリを憎からず思う。

 だが、ヒカルには秘密があり、罪の意識を抱いている。その罪の意識のために、自らストーブで左顔面にケロイドの烙印を押して、イケメンすぎる自分から女性たちを遠ざける工夫をしたほどだ。

 秘密というのは、父親の再婚相手ルナとの密通であった。うっかり再婚と書いてしまったが、なぜか入籍はまだだったことになっていて、事業に失敗し、脱税までした父親が莫大な借金を残して亡くなるものの、ルナがそれまでに貰った大金は無事。

 ルナの孕んだヒカルの胤かもしれない子供は流れ、ルナはヒカルの父親に懺悔する気持ちから修道女となる。修道女になったり坊主になったりするのにはお金が要るようだから、ヒカルの父親がルナにくれたお金がそのための資金となったのだろう。そんな事情のわからない閲覧者の中には、ルナのしっかり掴んだ金銭の描きかたが変に露骨な印象を与えるかもしれない。

 失意のヒカルだったが、ユーリとの新しい恋愛に活路を見出し、ユーリのおなかは膨らむ。それに対する、離婚したユーリの両親はじめ周囲の祝福も得られる幸運に、墨絵画家を目指すことにしたヒカルにパトロンが現れるという幸運が続く。そのパトロンは、ユーリがバイトを始めた頃、うなぎ屋に客として現れた《スイセンさん》。

 この人がどのような人物かというと、次のように書かれている。
「おばあちゃま。おとうさんを産んだ人。そして四つのおとうさんを捨てて恋に走り、家を飛びだしていった、いずみという女。今では雅号翠泉(すいせん)と名乗り、墨絵を描いて芸術家になっている。外国でも有名なんだそうだ。いつでも忙しくて日本じゅうを展覧会や講演で飛び回ってる。外国へもしょっちゅう出かけている。めったに逢うこともない。ひとりでマンションに住んでいる」

 こうした幸福、というより棚ボタ式幸運の絶頂の最中、ヒカルは事故に遭いそうになった子供をかばい、トラックの下敷きとなって死ぬ。それでも、ユーリは孤独のうちに放置されることはない。初体験の相手トオルが今はお笑い芸人として成功しており、ユーリと子供を見守りたいというのだ。その他大勢の登場人物全員もまるく治まり、それなりにハッピーとなって、めでたし、めでたし。

 しかしながら、わたしはハッーピーな気分にはなれなかった。芸術家であり、僧侶である作者に対する疑問が湧いた。

 修道女となるルナにも、墨絵画家となるヒカルにも、それらしさは何も備わっていないにも拘らず(それらしい繊細な伏線が張られていないにも拘らず)、如何にも唐突に、ルナは修道女になることができ、ヒカルは芸術家として簡単に大成できて死後の名声まで勝ちとる。わたしは、芸術と宗教に対する軽薄な扱いが感じられて不快だった。この世はコネとお金よ、要は要領のよさよ、といわれている気がした。

 携帯向きの軽い小説にしたから? それとも、この軽いノリで宗教、芸術に関わってきたのがこの人なのか? 意外にもこんな小品に、物書きの本音や本質が表れるものなのかもしれない、との新鮮な感慨をわたしは抱いた。

 大御所が秘かに絵文字など使って携帯小説を書けば、話題作りにもってこいで、それがすぐに本となりお金となって、社会を循環する血液にどろりとした血液がそそがれる。

 同じ源氏物語の訳者といっても、オリジナル作品で見てみれば、例えば、円地文子に屈折した深刻な性表現、男女の確執を感じさせるものが多いのとは対照的に、瀬戸内寂聴には、あっけらかんとした性バイタリティーを感じさせる作品が多い(といえるほど、読んではいないのだが、どの作品からも同じ匂いがする)。

 そして両者の求めるものの違いからか、同じ源氏物語を読んでも、円地訳で読むと高雅、神妙、瀬戸内訳で読むと濃い、それでいて、どこか平板な感じがする。

 わたしは以前から思っていたのだが、彼女は出家なぞ、するべきではなかったのではあるまいか。世俗に生きて、肉欲の枯れるまで男性遍歴を重ねるべきだった。そうすれば、少なくとも今の生臭い境地を突き抜けた、傑作が書けたかもしれないではないか。それだけの濃厚、タフな資質が彼女にはあっただろう。彼女自身に光源氏を生きてほしかったと残念に思う。

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