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2008年7月13日 (日)

映画『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』を観て

 わたしは『インディ・ジョーンズ』シリーズが大好なので、20年もの歳月を経たあとに公開された『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』も勿論観に行った。

 映画を楽しく観ながら、一方では色々なことを考えていた。

 そして、11日に観てすぐに記事にすればよかったのだが、13日になった今日には早くも、何をそんなに色々考えていたのか、ほぼ忘れてしまった。

 で、覚えていることだけで、何とか記事にしてみたい。

 映画というジャンルを超えた意味で一番衝撃的だったのは、娯楽映画だから……では済まされない、核実験シーンのあまりの軽さである。

 これが意図的に軽く描かれたとは思えないだけに(パンフレットの中に視覚効果スーパーバイザーであるヘルマンの「とても深刻な題材なので、軽々と扱うことはできなかった」という言葉がある)、原爆とはそのようなものだと一般アメリカ人に認識されていると感じられ、深刻にならざるをえなかった。

 原爆を作った側の人々を真摯に描いた重厚なパール・バック著『神の火を防御せよ』でさえ、わたしには被爆の描かれ方が甘いと感じられた(関連記事:http://elder.tea-nifty.com/blog/2007/09/post_4ac2.html)。

 もうだいぶん前になるが、テレビで、アメリカの核実験下で訓練をした米兵の被爆問題を扱ったドキュメンタリー番組があり、その中で核爆発の被害を防ぐための兵士用マニュアルが公開されていた。

 それに書かれていたことは、目が損傷するから核爆発を直視するなとか、放射能被害を防ぐために体を洗えだとかいった、我々日本人からすれば子供騙しとしか思えない内容だった。インディが鉛の冷蔵庫に入って命拾いしたあとで、しきりに体を洗われていたのも頷けよう。

 被爆国に生まれたというだけで、我々は原爆の怖ろしさを何とはなしに実感できる。何とはなしに、といったが、勿論これは、それを身を持って教えてくれた人々のお蔭であることはいうまでもない。

 1959年にパール・バックの『神の火を防御せよ』が出版されてから、この『インディ』が製作されるまでに、50年もの歳月が流れ、反核運動が行われ続けてきたにも拘らず、『インディ』における核実験のシーンは一般アメリカ人の核に対する認識の甘さが一向に変わっていないということの例証になっている。

 一気に、映画の話はエンディングに飛ぶが、それはインディとマリオンの結婚式というハッピーエンドで、わたしはこれには感激して涙が出るほどだった。

 なぜなら、この脳天気ともいえるロマンティシズムがアメリカの魅力だと思ってきたからだ。このアメリカが生きていればこそ、アメリカはわたしにとって、気は優しくて力持ちの国という幻想を誘うのだ。

 ずいぶん荒み、国力も衰えてきているように見えるアメリカであっても、こんなエンディングのある映画が作られている限りは、かつてのよきアメリカの復活が可能だとの期待を抱かせてくれる。

 内容からいえば、今回のスターリン下のKGBよりヒトラー下のナチスのほうがオカルト色を出すには使えたに決まっているから、最初から過去の作品に対しては、今回の作品の負けが決まっていたようなものだと思う。

 でもスターリンの秘蔵っ子でサイキック研究計画の中心人物であるイリーナ・スパルコ大佐は、「鉄のカーテン」という古い言葉を象徴したような女性に仕上がっていて、なかなかよかった。

 肝心のインディの考古学的探究・冒険が宇宙人に辿り着く物語の結末部は、描き方が漫画的すぎてもう一つも二つもだった。

 このちゃちさと、核に対する認識の甘さは、どこかでつながっている気がする。娯楽物であればこそ、宇宙人を出したら出したで、もっと壮麗な描き方をしてほしいものだ。

 尤も、『インディ・ジョーンズ』シリーズの魅力の一つは、かつて別の映画のどこかで見たシーンがキルトのように綴り合わさっているというところにある。

 今回の映画では特に『アメリカン・グラフティ』と『未知との遭遇』を、かつてそれらの映画を観た者であれば、思い出さずにはいられないだろう。

 ところで、パンフレットにはインディ(本名ヘンリー・ジョーンズ・ジュニア)の履歴書が載っている。

 それによると1899年生まれのインディは、1910年に「広場でクリケットをしている少年たちと遊ぶが、その中の1人が、神智学協会会長アニー・ベサントらが救世主と崇める宗教的哲人のクリシュナムルティだった。インディはクリシュナムルティ少年と友人になり、神と愛について考え」たそうだ。

 神智学協会の会員であるわたしは、こんなところにアニー・ベサントやクリシュナムルティが出てきて、びっくりした。

 ベサントが、相棒リードビーターと共に、オーラのこよなく美しいクリシュナムルティを発見して救世主に仕立てようとした出来事は、神智学協会にとっては過去の汚点ともいうべき事件といってよい。

 というのも、神智学協会のモットーは「真理に勝る宗教なし」であるというのに、ベサントは協会を教会に、すなわち宗教組織に変えようという対極的行動を起こしたから(勿論クリシュナムルティはそれを拒否し、神智学協会から離れた)。

 邦訳されているベサントの著作を昔読み、わたしには、ベサントがブラブァツキーの著作を部分的にしか理解できていないとしか思えなかった。ブラヴァツキーの著作に関しては邦訳されているものの中で読みやすいものを読むのが精一杯のわたしでさえ、それらに一貫して流れている金科玉条は自ずから伝わってくる。

 頭が悪かったとは思えないベサントがなぜ? と思わざるをえないが、これは核実験のシーンの軽い描かれ方にどこか通じるものがある気がする。

 それでも、わたしは清すぎて魚も住まないようなクリシュナムルティの哲学よりは、間違いも多かったけれど、神智学協会やインド独立運動に懸命に取り組んだ情熱家ベサントのほうに惹かれる。

 話が逸れてしまった。

 ハリソン・フォード、わたしはかなり好き。アクション・シーンではいくらか体が重たげだったが、頑張っていた。

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