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2008年6月 4日 (水)

ポール・モラン著「シャネル―人生を語る」を読む

 過去記事で、化粧品は口紅を除けば、全て無添加のファンケルを愛用している、口紅だけは華やぎたい気分からシャネルにしていると書いたが、今そのシャネルの語りを読んでいる。

 ポール・モラン著「シャネル――人生を語る」(山田登世子、中公文庫、2007年)。

 カヴァには、シャネルの写真が載っている。写真の若きシャネルは、ダンディといっていいようなムードを湛えている。

 ソファにもたれた後姿でこちらを振り向き、右腕を左肩近くに回してソファにちょっと手をかけた格好で、人差し指と中指の間に煙草を挟んでいる。その瞳が曰くありげだ。

 品のよさと挑発的な青臭さ、そしてどこかしら庶民らしさを感じさせる。

 シンプルなデザインらしい服の色はわからないが、黒だろうか。胸元から背中かけて、6連もの――一連一連微妙に粒の大きさの違う――真珠のネックレスが蔦が這うように蔽っている。

 引き締まった痩せた顔。狭い額。パーマのかかった黒色の髪は耳の下まであるが、その髪は硬めに撫でつけられている。 

 上がり加減に緩やかなカーヴを描く細い眉。やや鼻翼は開くが、すんなりした鼻。閉じられた口元は、いくらか受け口に見える。

 世の因襲に挑戦し続けたシャネルの姿だ。

 シャネルが巻き起こしたモード革命は、当然ながらファッション界の出来事にとどまらない。

 女性の体を自由にしてやって、理智的にさっそうと働く女性を増やし、男性に対するアクションのとりかたに改変を加えさせた。

 シャネルの登場する以前に女性がどんなものを身につけていたかを知れば、その前後の違いに唖然とさせられる。衣装とは、生きかたを物語るものでもあるのだった。

 シャネルは語る。

一つの時代が終ろうとしていた。素晴しい時代ではあったが、退廃的で、バロック様式の最後の残光ともいうべき時代、装飾過剰が女たちのからだのラインを殺し、まるで熱帯雨林の寄生生物が樹木を殺すみたいに、ゴテゴテした飾りが体を押しつぶしていた。女はもはや金を使うための口実にすぎず、レースやら黒テンやらチンチラやら、ひどく高価な素材の口実になってしまっていた。あまりにもこみいった模様や、レース、刺繍、紗、裾飾り、縫い飾りなどを使いすぎて、女のファッションは時代遅れのフランボワイヤン様式の芸術みたいになっていた。引き裾は埃払いになっていたし、ありとあらゆるパステルカラーが使われすぎて、虹を描くどころか、微妙な色使いが色調を弱めていた。いたるところに日よけがかかって、庭も鳥カゴも温室も、そこらじゅう日よけだらけ、珍しいはずのものがありふれたものになり下がり、豊かさが何の変哲もない浪費になりさがっていた。

 訳者あとがきによると、母を亡くした6歳のココ・シャネルは姉と共に、オーヴェルニュの修道院が経営する孤児院に預けられた。彼女はそうした子供時代を隠蔽したという。

 彼女のモードに禁欲的なムードが、ある独特の魅惑を放ちながら溶け込んでいるように感じられるのは、彼女自身がふと洩らすように修道服の影響といっていいのだろうか。シャネルのモードは、シンプルでありながら、ひじょうに複雑な要素を秘めているといってよい。

 彼女はごく若い頃に、石炭の輸送業で財産を築いた教養のあるイギリス人の男性と結びつき、彼のサポートで帽子店から出発した。

 シャネルが芸術家たちと交流があっただろうことは容易に想像できたが、彼女が読書家だったことは、わたしには意外だった。

 それだけではない、彼女はバルザックを引用するのだ。バルザック好きのわたしが興奮してしまうほどに。

「インテリアは魂の自然な発露であって、衣服と同じくらいインテリアを重視したバルザックは正しいわ」「バルザックの『あら皮』に出てくるような」「幸いなことに、『女は決して雄にたいする雌ではないから、これほどちがった存在がひとつの家庭には共存できる』とバルザックが言っている」

 という具合……。シャネルはいう。

書物はわたしの最上の友だった。ラジオがどれも嘘をつく箱だとしたら、1冊の本はすなわち1つの宝だった。どんなにつまらない本でも必ず何か言いたいことがあり、何かしらの真実がある。くだらない小説であっても、人生的経験のモニュメントにはちがいない。インテリや教養の高い人たちにもたくさん会ってきたが、みなわたしの知識に驚いていた。小説を読んで人生を学んだのだと言ったら、もっと驚いたでしょうね。もし娘がいたとしたら、小説を読ませて教育したいわ。小説には、人間を動かす書かれざる法則が描かれている。

 シャネルは、上流階級の厭らしさも語る。皆殺しの天使――。不自然、不合理、俗っぽさに類する旧弊な物の考えかたに死の宣告を下したシャネルを、著者モランは「皆殺しの天使」と呼んだ。

 シャネルの新しいモードは、彼女が因襲の中で勝ちとったものなのだ。

 勿論、モードについてはたっぷりと語られており、それは存在感のある一個の思想だから、本を読んでいただくのが一番よいと思う。

 わたしはこの本を読む以前に、オペラ演出家・映画監督として著名なフランコ・ゼッフィレッリ著『ゼッフィレッリ自伝』(木村博江訳、創元ライブラリ、1998年)を読んでいた。

 そこにシャネルの印象的な姿が描かれていたので、二重の興味深さがあった。

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