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2008年6月27日 (金)

Diary 08.6.27

今日はニトロ舌下錠は、まだ使っていない。心臓の調子がまあまあだと、喘息が出る(なぜ?)。 午前中、咳だけの軽めの症状だっが、なかなか止まらず、気管支拡張剤の使用を迷った。午後になってからは、落ち着いている。

実はこのところ、三つの憂鬱なことがある。一つ目は結構古い事柄だが、解決しようもない事柄。癒えない古傷のように。死者にまつわることなので。

二つ目は、姪に関する事柄。当初、喜びをもたらされた事柄が、難問に変わった。憂鬱で仕方がない。

三つ目は純粋に生活上の事柄で、これは頭を働かせて解決に導くしかない。

で、気持ちと思考の整理をつけたいということもあって、午前中、一つ目と二つ目の事柄をエッセーにしようとしたが、うまく文章にできなかった。

娘が今夜は残業で、帰宅は11時近くなり、夫も帰宅は早くはないから、夕飯作りはゆっくりでよい(だいたい、うちはいつも遅いけれど)。だからエッセーのための時間はたっぷりとれる。頑張ってみよう。

話は変わるが、一昨日だったか、ニュースで大手日雇い派遣グッドウィル廃業の件が流れ、その中で、息子が入ることになる会社(シンクタンク)の(と思われる)人が映り、訊かれて意見を述べていた。飄々とした穏やかな感じの人に見えた。

お顔をまじまじと見つめていたため、肝心の意見は聴き損なった。

丁度その日、息子の内々定した会社の懇親会が大阪であったそうで、雰囲気はやはり、ざっくばらんな、穏やかな雰囲気だったとか。

息子がこれまでに関わってきた組織(といっても、これまでのところでは学校くらいしか思いつかないが)は、だいたいそんな雰囲気が多かった。学校の先生方はあまり形式ばらない、全体に飄々とした雰囲気があり、連絡などは大雑把だったり、あまりなかったりしたが、親としては割合楽だった。

娘の関わる組織は、だいたい全体主義的だ。先生方には統率力があり、目配り、気配りを感じさせる方が多く、全体に一致団結という雰囲気があった。目標を掲げて、それに邁進するという感じがあるのだ。

息子の大学では、親が関わるようなことは入学式くらいで、あとは何もなかった。一度だけ、このブログにも書いたと思うが、マスターに進んでから、研究室の先生(教授)が息子が腹痛を訴えた翌日に欠席したということで、心配してうちに電話をくださった。

一方、娘の大学では就職説明会その他、親も参加できる行事への案内が何度もあり、1年次の成績表取りなどは、全員親が呼ばれた。そして、1人10~30分先生から注意を受けたり、逆に親のほうから質問したりしながら、成績表が渡されたのだ。

その二者面談の前に教室から逃げ出す親がいて、たまたま夫と出席していたわたしは夫に「わたしたちも逃げましょうよ」といったが、夫は金縛りにあったかのように動けず、結局、わたしたち親は法学部の主任の先生(教授)からお小言を頂戴するはめになったのだった。

びびったわたしは、「取れている単位が少なすぎるそうよ。留年しようっていうわけ? 一体、どうしたっていうのよ? しっかりしなさい」と、先生にいわれた通りに単位のことを注意した。

娘はアパートでの新生活が軌道に乗らない上に、サークル活動やバイトに比重がかかりすぎていたこともあり、寝坊して講義や試験を受けそびれたりしていたらしかった。小言の甲斐あって、娘は単位を取りすぎるくらいに余分にとって卒業した。

そんな具合に万事において熱心な市立大学で、希望すれば面接の練習もして貰えたから、まさか娘が就職に失敗するとは、わたしは思わなかったのだ。エントリーシートの段階で落とされることがほとんどで、せっかくの面接の練習が生かされずに終ったのだった。

可笑しなことに、娘が契約社員として働いている全国展開型の書店では、評価表があり、それは珍しくないだろうけれど、それが小学校の通信簿にそっくりなのだ。

娘は昔からの習慣で、わたしにそれを見せる。わたしはどこに○がついているかを見たり、社長の印鑑を眺めたり、自筆で書かれた店長の言葉を読んだりしなければならない。

そのうち娘が結婚するとしたら、パートナーからわたしたち親宛に、娘の主婦や妻としての成績表が送られてくるのではないだろうか。

話が脱線してしまった。

このあと、少し家事をして、上に書いた二つの憂鬱を分析するエッセーに取り組みたいと思う。

一つ目は死者が原因の憂鬱だと書いたが、これをエッセーにしたいと思った動機は、午前中、『アーネスト・ダウスン作品集』(南條竹則訳、岩波文庫、2007年)所収の掌編『フランシス・ドンの死に方』を読んだからで、そこに表現された死生観があまりにも物足りなかったため、稚拙でも、わたし独自の死者にまつわる雑感を表現したいと思ったのだ。

端正緻密な表現ながらも馥郁とした死生観の薫るローデンバックなどとは、えらい違いだ。

あの世のことにはあえて触れないローデンバック。あの世の可能性を切断せざるえないダウスンのバランスを欠いた表現からは、彼の霊的経験、内的経験の乏しさが浮かび上がざるをえない。そのどうしようもない物足りなさ、じれったさ。

人間の死後のことにはあえて触れず、それでいてあの世の芳香が感じとれるローデンバックのような技法は最上のものに思えるが、ローデンバックに憧れながらも、そんな小説はおろか、わたしにはたどたどしいエッセーを書くのが精々だ。いつもながらレアな表現になりそうだが、エッセーというかたちで、とにかく記録しておきたい。

姪が原因の憂鬱をエッセーにしたいと思った動機は、単純に自分の気持ち、思考に整理をつけるためだ。が、問題は単純ではない。これを書くことは、自身の芸術観を確認する作業になるだろう。

こんな風に予告すると、なぜか、それは大抵不発に終る。予告だけして記事にできなかった事柄がこれまでにずいぶんあると思う。

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