« 「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第85回 | トップページ | 一昨日の夕飯(刺身、中華風冷やっこ) »

2007年6月29日 (金)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第86回

 ヤエミ様がお亡くなりになり、御子がお生まれになった237年は、中国の遼東(りょうとう)半島から朝鮮半島にかけて、眼の離せない政情にありました。

 この一帯は、50年の長きにわたって中国系の軍閥である公孫氏の支配下にありました。遼東は、倭と中国を結ぶ交通ルートの北の拠点として、南の拠点である会稽と共に重要です。

 公孫氏のあり方によっては倭国の交易、さらには倭国の存続自体が脅かされることになったでしょうが、幸い、そのようなタイプの政権ではありませんでした。

 公孫氏政権は、後漢時代に公孫氏が遼東太守(※10)に任命されたことからスタートしました。公孫氏政権はいつしか持ち場を我が物とするようになり、やがて、三代にわたって、朝鮮半島北部にまで権勢を及ぼすようになりました。

 楽浪郡の南半分を分割して帯方郡を設置してからは、我が国を含む東夷(とうい)(※11)の国々をも睥睨(へいげい)する存在になったのですけれども、内実は東方経営に熱中している小さな勢力にすぎませんでした。

 我が国にとっては脅威ではなく、むしろ交易に都合のよい政権と言えました。反面、公孫氏は、形式上は未だ魏の地方長官でありながら、蝙蝠(コウモリ)さながらに、魏と呉の間を飛び巡って自律を画策している所詮は権威なき存在です。

 通商関係は持てても正式な国交はひらけませんから、中国から『倭王』と認められることによって、倭国における女王の地位と女王連合国のあり方をゆるぎないものとしたい女王連合国上層部にとり、公孫氏政権は、それを阻む存在としてもやもやした影を落として来たと言えました。

 そしてこの年、公孫氏が魏に公然と背いたというニュースが速やかに宮殿にもたらされました。

 公孫氏との接触を陰で謀って来た呉の皇帝孫権は、高句麗とも接触して、南北から魏を挟み撃ちにしようとしました。それに敏感に反応した魏はこうした動きを封じようとしましたが、公孫氏はこの時、魏からの自立を宣言したのでした。〔

 註
 
10 郡の長官。
 
11 東方の異民族を指す中国の語。

|

« 「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第85回 | トップページ | 一昨日の夕飯(刺身、中華風冷やっこ) »

自作小説「あけぼの―邪馬台国物語―」」カテゴリの記事