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2006年10月 7日 (土)

非正規雇用者の問題。わたしと子供たちのホロスコープ。

 ここ数日体調がよく、まさに爽快な気分です。天気もよくて清々しいこと、このうえもありません。

 不調の日が続くと、自分でも好きで病人をやっているのではないかと疑いたくなるのですが、こんな快調の日に、そうではないということがわかります。

 テキパキと家事も片づき、半ば書きあげた記事の題材ガブリエラ・ミストラルのことで気にかかっていたところも、わたしなりの解釈を見い出すことができまして、さて一服しようと、熱いコーヒーを淹れかけたところでした。

 息子からの電話。

 息子からの電話はいつも、嬉しさとある戦慄を伴います。というのも、息子がわたしに電話してくるときというのは、その内容によって嬉しさをそそられるケースと問題を背負い込まされるケースとが半々ぐらいだからです。

 おしゃべりしたいときの無邪気な電話、母親を事典代わりにするときの電話、メイドとして使いたいときの電話くらいまでは、嬉しい。

 が、親知らずを大学病院で抜くとか、テストの成績が思わしくないとか、中学時代からの親友と仲たがいしたとか、家庭教師の斡旋業者が夜逃げした、などという電話は軽い戦慄の部類に入ります。

 今日あった電話も最初の頃は楽しい、卒業論文にとりかかった話で、ギャンブラーも利用するというモンテカルロ方式という特殊な計算方法(簡単にいえば、サイコロを振るようなものと息子はいいました)ですることにした、などという話をしていました。

 そのうち就職の話になり、息子の場合、まだこれから大学を卒業して、その先の修士課程の2年間があるわけですが、2年なんてあっという間ですし、心配症のわたしの話や、姉の失敗を見ているということもあって、早くも準備に入ったようでした。

 娘は就職に失敗し、現在は書店勤めですが、契約社員という不安定な立場です。求人がとにかく冷え込んだ年の就職活動でした。娘の高校時代の友人、大学時代の友人のうち、女性でまともに就職できた人は1人もいません。

 卒業した大学はいろいろなのですよ。国立もいれば公立も私立もいて、以前であれば当然就職できただろうと思われるような大学ばかり。互いにメール交換をして、情報を与え合ったり、励まし合ったりしていました。

 こうした冷え込みが小泉元首相の政策と無関係でないことが実感としてわかるだけに、彼に対しては未だに恨みがましい気持ちが消えません。

 娘は現在、正社員と全く同じ仕事をこなしているようですが、立場の違いは歴然としており、傍から見ていても、この違いは不当に思われてなりません。

 わたしの場合は、就職が決まっていたにも拘らず、母の看病という理由から就職できませんでした。一時も気のぬけない意識不明の重態が続き、完全看護といっても付き添いが必要な時代に、わたししか側にいられる人間はいなかったのです。娘にはわたしのようなことになってほしくないと思っていただけに、浮かばれない気持ちです。

 新卒で就職できるかどうかということは一生響くというのが、母娘2代の経験からいえることです。どうかしたら、生きる気力まで損なわれてしまうのです。自分を低く、低く見る癖がつきます。ひいては、結婚したいという希望に満ちた若々しい意欲すら刹那的なもの、希望を小さく見積もるものへと変質してしまいます。

 自分が社会の正当な一員に加えられていない気がして、倦怠感につき纏われるのですね。幸い、わたしには文学がありました。娘が英語などに力を入れだしたのも、ただの気晴らしではないだろうと思っています。

 非正規雇用者を大量に生み出すということ――どう言い訳しようが、このことは政府の無能ぶりを示しているとわたしは考えています。

 フランスの女性哲学者シモーヌ・ヴェイユ(1909-43)は、こうした根こぎにされた人間、それをつくり出す社会について次のように分析しています。昔書かれたものですが、現在でも充分通用する分析内容ではないでしょうか。以下は、『シモーヌ・ヴェーユ著作集5 根をもつこと』(春秋社、1967年)からの抜粋です。

 世界から隔離されたきわめて狭い社会のなかで、閉じこもった雰囲気のうちに、一つの文化が発達することになった。それは、いちじるしく技術の方向をめざし、技術によって影響を受け、きわめてプラグマティズムの色彩が強く、専門化によって極度に細分され、彼岸の世界との接触も、彼岸の世界へと通じる道もまったく有しないという文化だった。

 根づくということは、おそらく人間のもっとも重要な要求であると同時に、もっとも無視されている要求である。これはまた、定義することがもっとも困難な要求の一つである。人間は、過去のある種の富や未来への予感を生き生きと保持している集団の存在に、現実的に、積極的に、かつ自然なかたちで参加することを通じて根をおろすのである。自然なかたちの参加とは、場所、出生、職業、境遇によって、自動的に行われた参加をさす。人間は誰でも、いくつもの根をおろす要求をいだいている。つまり、道徳的、知的、霊的生活のほとんどすべてを、彼が自然なかたちで参加している環境を介して受け取ろうとする欲求をいだいているのである。

 同じ一国内部における社会関係が、根こぎのきわめて危険な要因となる場合もある。今日、わが国の諸地方においては、征服を別にしても、二つの毒が存在して、この病をひろめている。その一つは、金銭である。金銭は、その進入するところ、いっさいの原動力を駆逐して金銭の欲望をのさばらせ、もろもろの根を破壊する。この欲望は、いとも容易に他のすべての原動力を打ち負かしてしまう。なぜならそれは、他の原動力にくらべて、きわめて小さな注意力しか要求しないからである。数学より明瞭かつ単純なものは存在しない。

 一生涯、完全に金銭にしばられている社会階級がある。それは賃金労働者である。とりわけ、出来高払いの賃金が、労働者めいめいにたいして、注意力をつねに金銭勘定に集中させるようになってから以後の彼らである。根こぎの病がもっとも悲痛なものになるのは、この階級においてである。

 失業は根こぎの二乗である。

 正規雇用であろうと、非正規雇用であろうと、能力給の割合が高まれば、それだけ〈注意力をつねに金銭勘定に集中〉させられることになり、根こぎの病にかからずにはすまされません。

 小泉政権下で一気に日本の隅々にまで浸透した新自由主義は、市場原理を重視する経済思想ですから、それは金銭欲の正当化を伴っていて、弱肉強食の風潮をうんだり、こうした社会の王者として、極めて注意力の小さな人間――つまりオツムの軽い人間をヒーローに祭り上げたりするようになるのも当然の成り行きだったわけです。

 このままでいいのでしょうか、日本は。先日の国会の雰囲気は、小泉時代の軽薄な国会とは打って変わって、物静かなものでした。ずっとテレビの前に座っていることはできませんでしたが(幸いネットで見ることができますが、まだ見ていません)、安倍時代の国会を国民の1人として、できるだけ注意深く見守っていきたいと思っています。

 そこで、息子の電話に話は戻ります。息子が入った研究室の教授は専門分野における国際的な権威で、研究室の資金も潤沢なようです。が、いわゆる基礎研究であるため、企業との提携などということはない様子で、就職するにも、教授のコネでどこかの企業へというわけにはいかないらしいのです。

 少人数のその研究室に、大学生は息子だけ。教授は今から息子の就職を心配してくださり、それはとてもありがたいのですが、とりあえず受けといては、と国家公務員の受験をすすめられたとか。それも1種。

「そっれは難しいんじゃないの、先生は先生の頭脳のレベルで物をいってらっしゃるんじゃない?」「うん、そうかも」

 幸い、所属している研究室はコンピュータを使ったシュミレーション実験を行っていて、試験管を使ってする実験に比べると時間があるとか。

 研究室の性質上、コンピューターには詳しくならざるをえず、IT関係の企業に就職していく先輩もいるようです。

 息子が修士課程に進む頃、現在修士課程にいる先輩は卒業していくため、息子を除いては博士課程の先輩ばかりになります。息子も博士課程に進みたいのでしょうが、何しろ息子は大学に入ってから奨学金のお世話になっています。修士課程でも頼りにさぜるを得ず、それが博士課程までとなると、返済のことを考えたら、こちらの気が遠くなってしまって……。息子もそれは避けたいようです。

 それに博士課程まで進むとなると、かえって就職が難しくなるようで、教授を目指すのはわたしが作家を目指すのと同じかもっと大変な茨の道であるようですし、博士課程を出て確実に企業に就職したいと思えば、アメリカへ渡るほうがいいようです。先輩の1人はそれを考えているといいます。その先輩は見るからにつましい暮らしをしているとか。

 1種合格はとても無理だろうから、就職活動には力をそそぐつもりでいるようですが、どこかぬけていたり、要領が悪かったりする息子。わたしの心配は続きそうです。

 息子が公務員試験の一般教養の問題集をやってみて、知識として一番ぬけていたのは芸術関係だったとか。そうだろうなと思います。絵本を読んでやっても、ストーリーより、こまかな雑学的なところにばかり興味を示し、絵本も事典として読む癖がついにぬけきれませんでした。

 が、わたしの教育ばかりが悪かったとはいいきれません! なぜって、息子のホロスコープを見てみると、なるほどと思わせるものがあるのですね。

 松村潔著『最新占星術入門』(学習研究社、1996年)に「第4ハウスから第6ハウスまでは、エモーショナルで人間的な面の発達を表します。人間的な感情などにはまったく関係しない計算能力やリズム感などの才能は、第1ハウスから第3ハウスまでで考えてみましょう」とありますが、息子は第1ハウスから第3ハウスまでに6つの惑星があるのに、第4ハウスから第6ハウスまではゼロなのです。

 純粋といえば純粋、幼いといえば幼い傾向は息子の場合、一生続くのではないでしょうか。芸術も、楽器の演奏などはともかく、文学書を味わうといった姿は望めないのかもしれません。

 わたしの母のホロスコープは生まれた時間がわからないので作成していませんが、息子にそっくりなところがありました。とにかく頭の体操のような、ゲームがかった数学や物理の問題ばかり楽しんでいて、今思えば、変な親でした。そして、どこか無垢なところがあり、精神的にはわたしが親のようなもので、目が離せないといったところがあったのです。息子は、亡きおばあちゃん似に違いありません。

 娘のホロスコープは息子とは対照的で、それからすると、娘はエモーションと人間性だけで生きている生き物であるようです。それも創造、恋愛、子供といった人生の楽しみを意味する室だけに、何と9つもの惑星が集中。いや、このうちの1つは惑星ではなくなりましたっけ。

 ここまで楽しみの室に惑星が多すぎると、楽しむことを期待しすぎて逆に楽しめないかもしれません。ちなみに夫のホロスコープは、どんな女性と結婚したとしても、相手を悪妻にしてしまうような星の配置です。

 でも、夫の妻像を表す月とわたしの天職を表す土星は重なっていて、サビアン占星術では同じシンボル「玩具の馬に乗っている小太りの少年」を持っています。

 このシンボルは創造活動を意味しているといわれ、小説家などに頻出する度数であるようですが、わたしの場合、見かけだけがそうなりつつあるのかもしれません。今のところはどうにか腹部だけにとどまっていますが、その腹部は明らかに小太りで、それが他の部分にまで及ぶとなると、まさに小太りの……(絶句)。  

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