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2006年10月20日 (金)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第67回

 わたしは峠を下りながら、うずくようにイサエガとのことを回想しました。それは、今なお、何という荒廃した甘美さであったことでしょう……!

 締まっては解ける、解けては締まる筋肉の律動や、吐息や愛撫や、さざめくようなロマンティシズムが織り成すイサエガの魔術によって、官能の悦びが、わたしの肉体の、感覚の、穴という穴を軸として旋回し、渦巻き、霧を放ちました。

 けれども、敬虔な光は、その悦びの半ばまでしか達せません。

 貴い諸力に結ばれたその光こそわたしそのものと感じるものでしたから、イサエガと名づけうる甘美な現象は、官能、感情、思考の領域へと拡大してゆく異常な感化力の下でわたしの芯を撹拌しながら茫然自失状態へ、さらには自家中毒を経て虚無への没入へと誘う気配ゆえにわたしを怯えさせたのでした。

 それは痺れるような感覚と、浮遊するようでありながら重たげな雰囲気を伴っていました。真実の両性の結合がこのようなものであるはずがありません。

 崇高なヒューマニズムに半ば染まりつつも、女王連合国があこがれ、受容しようと努めてきた大いなるものの消息まで消し去ってしまおうとするイサエガの急進的思想と俊敏な知性が纏うほのかな腐敗臭は、彼があれほどみずみずしく生存していながらも、その内部では既に死に絶えてしまっていることを証し立てているのでしょうか?

 そのような状態で生きることができるのは、憑かれた人間だけではないかとわたしはおののきながら考えます。

 益生曰祥(※7)、心使気曰強、物荘則老、謂之不道、不道早巳、
 生命に何かをつけ加えようとすることは「不吉」と呼ばれる。心を激しく使うのを「強」(粗暴)とよぶ。活気にあふれたもの(生物)には、その衰えのときがある。これ(粗暴)が「道」に反することと呼ばれる。「道」に反することは、すぐに終ってしまう。

 
 
7 〈祥〉はふつう吉祥・吉兆の意に用いるが、古くはその反対の凶事の前兆の意にも用いられた。(『老子』(小川環樹訳、中公文庫、1973年)107頁) 

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