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2006年10月14日 (土)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第66回

 眼から鱗が落ちるとは、このようなことを言うのでしょうか?

 帰途にあって峠にありしな、アザミの咲く崖に足を踏み入れ、下方にクニを望みました。クニは相変わらず山々に抱かれています。そして空には、乳色の雲が浮かんでいました。

 あの雲の華(かがや)かしい白さの向こうに、わたしの死んだみどりごの国があるように想えてなりません。わたしは、あの雲の深々として敬虔な、薫りやかな白色に女王を感じ、みどりごを感じ、ヤエミ様を感じ、亡き母を感じました。

 我獨異於人、而貴食母、
 (だが)私には他人と違っているところがある。それは「母」(なる「道」)の乳房に養われ、それをとおといとすることである。(※6

 『老子』の中のフレーズが浮かんで、ああ、あれは、『老子』はおかあさんについて書かれたもの。母性原理の奥深さ、否、より正確には、存在原理の奥深さについて書かれたものだったんだ――と、わたしはほとばしるように思いました。

 有物混成、先天土生、寂兮寥兮、独立不改、周行而不殆、可以為天下母、吾不知来其名、宇之曰道、強為之名曰大、大曰逝、逝曰遠、遠曰反、
 形はないが、完全な何ものかがあって、天と地より先に生まれた。それは音もなく、がらんどうで、ただひとりで立ち、不変であり、あらゆるところをめぐりあるき、疲れることがない。それは天下(万物)の母だといってよい。

 その真の名を、われわれは知らない。(仮に)「道」という字(あざな)をつける。真の名をしいてつけるならば、「大」というべきであろう。「大」とは逝()ってしまうことであり、「逝く」とは遠ざかることであり、「遠ざかる」とは「反(かえ)ってくる」ことである。

 
  6 原文・口語訳共に、『老子』(小川環樹訳、中公文庫、1973年)による。以下、同。 

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