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2006年10月28日 (土)

パムク『わたしの名は紅』を読み始める

 今年度のノーベル文学賞に決定したオルハン・パムクの著書『わたしの名は紅』を読み始めた。

 娘が、パムクの別の本『雪』のぶんの本代を支払ってもいいといっていたのだが、そうはならなかった。娘も買うという。現在、自分が勤める書店から注文中。でも、これは嬉しいことだった。同じ本を読み、感想を話せる相手が身近にいると思うと楽しい。

 『わたしの名は紅』はなかなか面白い。読むのに豊富な知識があったほうがいいと思わされる作品だが、物語を辿るために必要な知識はそれとなく織り込まれているので、スムーズに読めないということはない。

 学生時代に『コーラン』をざっと読み、イスラム教の神秘主義者・詩人であるルーミーの語録を読んでその典雅さに圧倒された覚えがあるが、何かしらイスラム教の世界は異世界という先入観があった。

 『わたしの名は紅』は証言集のスタイルをとった小説で、証人として登場するのは人間だけでない。屍も犬も、そしてまだそこまで読み進めてはいないのだが、おそらく紅という色も証人として登場するのだろう。

 証言を通してくっきりと人間のかたちが、生活が、生き様が描かれていく。屍の投げ込まれた井戸が匂い、犬のいるコーヒーハウスが匂い、街並みや部屋部屋が匂う。自分もそこに紛れ込んだような不安な気持ちになる。作品の世界がわたしにとって、すでに異世界ではないからだろう。

 村上春樹の嗜好品のような作品を読みながら、主人公や自分の気分にさえ酔っていればいいといった、そんないい加減さが『わたしの名は紅』にはないぶん、読むのにきついということはいえるかもしれない(村上春樹の作品は嗜好品というより、精神を眠り込ませる麻薬に近いとさえいえるかもしれない)。

 パムクの作品ではその世界に生きざるをえなくなり、その世界を知らないわけにはいかなくなるのだ。生きるとはそういうことだと改めて認識させてくれるような作品なのだ。だが文章にも話の進めかたにも文学作品らしい気品があるので、心地よい。そうした意味ではこちらも嗜好品の性質を兼ね備えている。優れて上質の……。

  ところで、12日に狭心症の発作が起きて以後はずっと調子がよかったのが、昨日あたりからおかしい。寝ても、疲れ果てて目が覚め、体を動かすのが億劫だ。パソコンの前に座っているほうが楽なので、ついここへ来てしまう。左腕が朝から痺れっぱなしだ。

 買い物日なのだけれど、どうにも億劫。どうしよう? 今日はシフォンケーキを作って買い物へ行くつもりだったのだが、ケーキという気分になれない。ああ糞、左腕が痺れる! 五十肩からきているのか、単なる寝違えなのか、狭心症の発作の前兆なのか、わかりゃしない!

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