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2006年6月の45件の記事

2006年6月30日 (金)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第18回

 そういうと、男は命じて輿の帳(とばり)をあげさせました。

 山々が見えました。優美な山容は、紫色にかすんで見えます。よく整備された稲田が広がっていました。高床倉庫群を過ぎると、咲き満ちた花野が見えます。

「きれい……」
「女王の園だ。ここで、染料や薬用となる草木を栽培している。生える草木、また水質、水量の点でも、この倭の国はかの大国――、中国南部に引けをとらぬ。女王は染色品を連合国の特産品にしようとして、研究班を組織しておいでなのだよ」

「あ……、それでは、ここはもう女王様の都なのですか?」
「如何にも。ここは連合国の女王が居するクニ、ヤマトの都だ。わたしは女王の側近の1人で、名をイサエガという。おとめ――、そなたを譲り受けるために、わたしはしばしばあの地に赴いた。そなたの病がわたしの処置で癒えた朝、叔母上の承諾を賜ったのだ」

 頭が混乱してきて、「わたしは何処に住むのでしょう?」と、イサエガと名乗る男に問えば、
「神殿に」と男。

 わたしの眼はまんまるとなり、「そこで、あなたと結婚生活を送るのですか?」と問いました。

 すると、彼は、家畜にしたウリボウを見るようにわたしを見たのでした。

「そなたはわたしに嫁ぐのではない。神殿で暮らし、おとめよ。それはただ、至聖所の雰囲気にそなたが身を染めんがため」〔

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2006年6月29日 (木)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第17回

 ここは、ツクシ(※筑紫は九州の古名)を縦横に結ぶ交通の要衝でした。

 大雑把にいえば、ツクシを横に真っ二つにしたとして、上半分が女王連合国にあたり、女王国であるヤマトのクニはその東部に位置します。そして、ここに南から合流してきている川を遡れば、女王連合国に敵対している恐るべきクナ国に達しました。

 また女王連合国から海を隔てた東の方には、女王連合国と友好的なクニグニがあり、そのさらに東の方には、窺い知れないクニグニがありました。

 ところで、わたしの里から女王国の玄関口へは、この時にわたしたち一行がとった道とは別の、南へ迂回しない楽な陸路があったはずでした。

 なぜ、わたしたちは深い山を二つも越えてまで、あの水郷のクニを経由しなければならなかったのでしょう? 一行がクナ国との国境域を視察する任務を帯びていたとでもいうのなら、話は別ですけれど。この時の不自然な旅程のことは、後になって度々思い出されたものでした。

 わたしはまた輿に乗せられ、一行は水郷の地を出発しました。そして北へと流れる川に沿って、いよいよ女王連合国のハートへ、中枢へと向かったのでした。

 やがて、郷愁をくすぐる風がわたしの鼻孔をかすめました。
「この風は……」と思わずつぶやくと、わたしの乗る輿の近くにいた馬上の男がいいました。

「そなたが嗅いでいる風は海の香りを含んでいる。それを潮の香というのだよ」
 あっと、わたしは魂の砕けたような声をあげました。

「海――、海の近くに女王様の都はあるのですか?」
「如何にも。尤も、ここからは海は見えないが――、さあ見るがよい」〔 

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怒りのひとりごと

 昨夜、テレビの地方ニュースでいっていた。

 大分県内の郵便局90局あるうち、民営化に伴い、経済効率を考え、16局で集配をやめることにしたのだという。

 ほーら、やっぱりこんなことじゃないか。国会で小泉首相も竹中大臣も、耳にたこができるほど、こんなことには絶対にならない、なるはずがない、といっていた癖に! しょっぱなからこれじゃないか。嘘つき! ちくしょう!

 こうなることは予測の範囲内だったとはいえ、いざこんな決定を聞かされると目から火が出そうになり、思わず息子に電話した。息子の政治予測はよく当たる。

 わたしは安部に怯えている。国会をよく視聴していない人間には、決して、決して、彼の何とも脳天気なタカ派ぶりはわかるまい。どうして、おじいちゃん(岸信介)から頭のよさも一緒に受け継がなかったんだ? 

 息子は大学にいる様子。化学の研究室の人たちと一緒で、草取りのあとで歓談中だという。

 話題を切り替え、「ちょっとね。邪馬台国物語を書いていて、田川市から日田市まで、徒歩でどれくらいで行けるか訊きたいと思ったものだから……でも、学校なんでしょ、また電話する」
「別に電話切らなくてもいいよ。皆でおしゃべりしているだけだから」
「水の先生も、そこにいらっしゃるんでしょう?」研究室の教官は水の研究の権威。
「うん」
「じゃ、やっぱり切る。携帯でご挨拶というのも何だし、邪魔しちゃ悪いから」
「えーとね、徒歩の場合だと、1日に普通の人が歩ける距離はね……」

 屈託なく話を続ける息子。楽しそうだ。コンピュータを使ったシュミレーション実験にも、興味が尽きない様子。いい研究室に入れてよかったと思う。第1志望の大学を受験できていて、仮にパスできたとしても、こんな風にぴったりくる研究室に入れたとは限らないと思うと慰められる。

 息子が大学受験にさしかかろうとする頃、国会で小泉首相が言った言葉は決して忘れられない。「こっんなに、国立大学はいらんでしょう!」

 国公立にしか子供たちを進学させてやれそうにない人間にとって、その言葉がどれほど残酷に響いたか、彼には決してわかるまい。

 息子が大学受験の準備に入る頃から、経済に大きな変動が起き始めた。わが家は、青息吐息だった。独身の頃にわたしが公文教室で働いていた関係もあって、子供たちを公文にはやっていたが、お金がかかる進学塾にはやれなかった。高校の先生にお任せするだけでなく、大学の情報集めはわたしも必死になってやった。公文も続けられそうになくなったが、教室の先生が好意で安くしてくださった。

 東京と京都の私大に合格したが、とてもやれそうになかった。娘も似たような事情から近場の公立大に進んだが、まだしも娘が受験する頃は経済的に安定していたから、彼女自らの選択でそこへ行ったといえる。息子の場合、浪人などさせてやれないことははっきりしていたので、下手をすれば高卒になると思い、わたしは夜も眠れなかった。

 センター試験は、第1志望校はポーダーの結果に終った。失敗だった。本人が安全策をとるといって、前期出願は第2志望校で出した。息子の友人で経済的に余裕のある子は、ポーダーでも、第1志望校にチャレンジした。

 息子は合格発表の日、自宅で発表を気にもとめなかった。どうせ合格しているから、という。第1志望校にチャレンジできなかった無念さが滲んでいた。果たして第2志望校に行っても、満足できる大学生活が送れるだろうかと心配だった。

 ただ、その大学はわたしがリサーチした中で、息子にお勧めの大学だった。そこでフランス文学の教官をされていた方がそれこそご親切から、わたしが大学時代から文通してくださっていて、その方がその大学にいらした頃に最も充実した研究をされたことをわたしは実感していた。

 畑が違っても、たぶんその大学には研究にいい環境があるに違いないと思ったのだ(といってもドクターコースまではとてもやれないが)。ところで、大学院の受験では、案外自由にどこでも受験可能であることをわたしは知らなかった(勿論合格を前提とした受験という意味だ)。大学の知名度やランクに血眼になるのは、ちょっと馬鹿馬鹿しかったと思ったが、そのときはわからなかった。

 息子は、大学院の受験で、かつての第1志望だった大学を選択することもできるのだった。が、息子はもうすっかり今の大学が気に入っている。息子は今の大学に行って、結果的にはよかったのかもしれない。が、小泉政権の下で、大学受験に大きな不安を覚えさせられたことは忘れられるものではない。これを単なる庶民の僻みととる人はとるだろう。

 息子の世代は、子供時代はゲーム漬け、大学受験期には上に述べたような経済的変動と、すこやかといえる環境に恵まれたとはいえない。この上、戦争に行かせるようなことにでもなれば、それはもうわたしたち世代の責任となる。わたしは息子を戦争には絶対にやりたくない。化学兵器を作るような真似も、絶対にさせたくない。 

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2006年6月28日 (水)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第16回

「嬢様、ゆたかな川を見なさらんかな」

 船頭の声にわたしは眼を覚まし、あっと驚きの声をあげました。いつのまに、輿から舟に乗り換えさせられていたのでしょう?

 わたしたち10人から成る一行は、1晩野宿して2つの山を越えました。鬱蒼とした山中にあって、わたしはただただ疲れを覚えていました。それで、うとうとと眠るばかりだったのでした。

 今、三方から川が流れ込む大きな泉のように見える美しい川に、わたしの乗る舟は浮かんでいます。光の遊ぶ水面を分けて、舟はゆるやかに岸へ向かっているところでした。

 イサエガと馬は陸を行っているのでしょう、姿が見えませんでした。

 水脈ほど、なめらかな道があるかしら……とわたしはつぶやきました。

 別天地に来たような、くっきりとした雰囲気のある土地でした。陰影深い樹木、穏やかな風、真っ白な雲は湧くようでした。

 極上のアユのとれるこの水郷のクニは、女王国の西の入り口でした。わたしたちはこのクニに逗留しました。〔

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野生返り

 中高校生くらいの年頃の男性の凶悪犯罪が多発している。しばしば家庭がその現場となっている。

 思春期くらいの男の子は、爆発物を抱えているかのように敏感なところがあって、扱いが難しい。わたしには男の兄弟がいないこともあって、参考となるような事例が記憶のどこを探しても見当たらず、息子の中高校時代には本当に困惑することが多かった。

 その時期を過ぎれば憑き物がとれたみたいに穏やかさや本人らしさを取り戻すなどとは、その渦中では想像がつかなかった。

 丸味を帯びた可愛らしい男の子が脱皮を始めた様子は、生々しく伝わってきた。ホルモンの偉大な力を借りて、大変化が起こりかけていた。

 思春期とは、人間が一旦野生返りする時期といってもいいとすらわたしは思う。その時期の息子はぴりぴりしていて、うっかり手を差し出そうものなら喰いちぎられそうな恐ろしさがあった。

 その癖助けを求めている風でもあり、その対象はわたしではなく父親であることが感じられた。

 ところが、その頃の夫はいわゆる家庭を顧みない夫であり、彼自身がどこか思春期の問題を引き摺ったままであるかのような青臭い、生硬なところを残している男でもある。

 それでも、なるべく息子が父親と一緒になれるような時間をつくったことはよかったと思う。ふたりがバーベキューや魚釣りができるキャンプ場へ行く機会を無理にでも設定し、娘は行きたければ一緒に行かせたが、わたしは遠慮した。

 行くときは面倒臭そうにふて腐れている夫も、まんざらでもない様子で帰ってくる。「ほーら、行ってみれば案外、楽しかったでしょ?」とからかうと、「別にィ」といいながらも、キャンプ場でのエピソードをあれこれ話したりする。息子は勿論、晴れ晴れとしている。

 息子は、父親の職場の話を聴くことを好む。どこか息子に敵対意識をもっている風な他人行儀風な夫も(娘に対するときは極めてリラックスしているのに、なぜ?)、家族が職場の話に耳を傾けることに悪い気はしないらしく、楽しげな長話となる。息子も日頃の反抗を忘れて喜ぶ。

 が、これも夫が仕事の問題を抱えていないときに限った。……とこう書いていけば、息子というよりむしろ夫のほうが思春期みたいだ。

 そう、息子は幼い頃から常に父親とのスキンシップに飢えていて、その鬱積感があり、それをわたしに伝えてほしくて反抗していたと今にしてみれば思える。勿論、他にも反抗の種は色々あっただろうが、根っこにあったものはそれだったような気がする。

 まだ大リーグに行く前の松井秀樹選手、戦後の混乱期を粋な白足袋姿と類稀なリーダーシップで支えた政治家吉田茂……思春期の男性にはあこがれうる男性像が必要だが、息子がそんな対象を見つけたとき、思春期の関門を通り抜けたという実感をわたしはもった。

 夫はどこか未だに思春期を漂っている。白髪は増えたのにね。

 明日彼と映画「ダ・ヴィンチコード」を観に行くが、彼が50歳過ぎているので、夫婦ペア券で安く観られる。ところで、「ダ・ヴィンチコード」って、面白いの? 

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2006年6月27日 (火)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第15回

 おとめらしい肉(しし)置きもげっそりと削げて、わたしは輿中(よちゅう)にありました。

 唇は干からび、舌はひび割れ、物もうまくいえないままに、わたしは故郷に別れを告げようとしているのです。親類の人たち、近所の人たちが、遠巻きにしてわたしの旅立ちを見守っていました。

 面窶(やつ)れした叔母は無理な笑顔づくりをしているのですけれど、唇の震えまでは隠し果(おお)せない様子です。

 ここの山でウリボウたちを追いかけることはもうないのかしら、わたしは何処のクニへ嫁ぐのだろう――、空にはふっくり、乳色の雲が浮かんでいました。

 おや、風にいちゃんではありませんか。土手に立ち、肩をいからせているあの姿は。

 わたしはほほえみました。相変わらず、イノシシそっくりです。手を振ろうとしたのですが、急な疲労に襲われ、眼を閉じました。

 こうして、わたしは銅山のあるクニを後にしたのでした。

 前を男が馬に乗って、わたしの乗る輿を先導して行きます。

 大人(たいじん)にもあまり所有されることはない貴重な馬。男が乗る馬は、一目でいい馬だとわかる、手入れの行き届いた馬でした。

 新居に着く前に、彼に訊いてみたいことがありました。

――奥さんは他にもいらっしゃいますか?
 平均的な大人は、4人か5人の妻があるものなのです。

――腕の文身をよく見せてもらえませんか?
 意匠をこらした文身は、蛇の文様のように見えました。蛇の文様であるならば、それは水の力のシンボライズ、水は航海や農耕の明暗を司ります。

 訊いてみるつもりでしたけれど、わたしの命の恩人であり、これから夫となろうとしているわたしの前を行く男、眼の覚めるような美貌の男は冷ややかで、終始無言なのでした。

 仕方なく、わたしは得意の空想に浸ることにしました。

 新居では、火を跨いで夫とまみえる婚礼の儀式があるはずです。奥さんが総計5人だとしたら、1人が房事の時、あぶれた4人の奥さんはどんな気持ちで過ごすというのでしょう?

 集いを持ち、月夜ならば、共に琴を奏して、ツルバミの粉でこしらえたお団子(だんご)でも食べましょうか。〔

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れくいえむ ~その4~1995.4

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          死者は、
          彼の世へと赴くまでの一時を、しばしばわたしの家で過ごした。          
          肉の装いを捨てた、内的姿で――

          あなたは招かれざる客のように、
          不具合に感じられた。
          この世の様式をなくしているのに、
          彼の世の様式は、まだ使い慣れず……。
          電話台と食器棚の間や、散らかったテーブルと天井の間で、
          ふいにあなたの感じを見い出すのは、
          まことに奇妙なことだった。

          肉の装いを捨てたあなたは、元気な様子で、
          (死者の晩年を病気が傷めつけた!)
          変わりない気韻、知力、
          鋭敏で、
          好奇心と必要とから教え子の飾らぬ姿を見定めようとし、
          そのうち、
          自らの生涯の仕事についてのわたしの理解度に、
          懸念を覚えた様子で、
          遂には、その無理解ぶりを激しく怒り、
          行ってしまった――
          (瞬間、室内に干した洗濯物がみな落ちた)

          あなたの短気も、わたしの独善も、
          相変わらずだったけれと゜、
          思いやりの芳香は、
          さゆらぐ心と、なおも不滅の心の、
          察しあいから薫った。
          (なつかしい乳色の光が、いくたびかわたしを包んだ)

          後日、
          死者は彼の世から、便りを送ってよこした。
          無際限のうちとけにも似た、微笑に代えた便り。
          さしもの、
          わたしの硬い眠りをも、花ひらかせる便りを。
                              

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2006年6月26日 (月)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第14回

 変な味のする飲みにくい湯を何回も戻しつつ飲まされて、わたしはまた眠りに陥りました。生死の境の灼熱の眠りの中で、夢を見ました。……

 わたしは闇の中に不安な思いで立っています。

 ふと斜め後方を見あげると、何か黒々とした、どろどろとしたものが見えます。

 それは円い、奥深い、摩訶不思議なものに見えていますが、見ているうちにみるみる形をつくってゆき、わたしにはそれが、わたしに向かって差し出された1本の褐色の腕であることがわかります。

 わたしは戦慄を覚えますが、その腕が一条の光なのかもしれないと思い、その腕に向かって、叫ぶように自らの手を伸ばします。

 腕は、あっという間にわたしを引きあげ、小脇に抱えると、洞窟の中をずんずん走ります。

 黒々とした髪を靡かせた、精悍な若者です。

 わたしは不安なままに、ある種の甘美さを覚えています。

 随分走ったところで若者は上方を見あげるのですが、岩の割れ目からは別世界が見えています。

 割れ目に手をかける前に若者は、わたしの顔の方に身を屈めて素早い口づけをします。

 その唇がわたしの唇に醸した、芳香――〕     

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れくいえむ ~その3~1995.4

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          先生、とあなたに呼びかけたわたしの声には、
          輪廻がくれ、風と感性とが紡いだ響きがあったろう。

          あなたの死すら、
          教えの確かめとなる、ほろ苦いよろこび。

          見える体の秘密、見えない体の秘密を、
          あなたは教えてくださった。
          カーリル・ギブランの詩、
          沈黙、敬虔を、
          あなたは教えてくださった。

          光と遊ぶ雲たちに、あなたの内的光の、
          たぐいまれだった微妙な色合いを探す。
          青、乳色、真珠色、金色……。
          あなたの内的光に抱擁され、分かちあった、
          えもいわれぬ感じも探す。

          そして、
          あなたとわたしのいくたびかの齟齬の記憶は、
          巻き起こる風の中で、蘇るのだろう。
                                〕 
          

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2006年6月25日 (日)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第13回

 その秋のこと――

 じゃじゃ馬のわたしにして、生まれて初めての大患を経験しました。高熱のために譫妄(せんもう)状態にあったわたしは、訳のわからぬ声をあげたり、衣を剥ぎ取ってしまったりしたようです。

 臥して幾日目のことか、おぼろげな記憶の中に、客人の姿がありました。

 その姿は、わたしが病気になってから詰めていた祈祷師の姿とは異なる、もっと若々しい、長身の男で、腕に美しい文身(ぶんしん)(※刺青)のある手でわたしの体に触れました。

「一の峯でも、二の峯でも、三の峯でもよい。しかし、二の峯――ツゲの木の生える銅山の峯へ行くがよい。そして竜骨(たつのほね)(※を採って来なさい。竜骨は、道教で、仙薬と称される本草薬、石薬のうち、石薬の一つだ」と客人は家の中にいる者たちに告げました。

 そして今度は、褥(じゅく)中のわたしにやわらかに諭(さと)すのでした。
「わたしが持参した本草薬に合わせてそれを服すれば、おとめよ。病は癒えよう」

 もはや、わたしは危篤に陥っていたらしく、誰も彼も詰めていたようでした。竜骨は、その場に居合わせた従兄の風にいちゃんが、暴風雨の中を命がけで採りに行ってくれたということです。〔


1 竜骨は哺乳動物の骨の化石。現在の漢方では、これと粉末状にした牡蠣の貝殻を混ぜ、鎮静の目的で用いる。 

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れくいえむ ~その2~1995.4

     承前
          散らばる桜色の骨は、炉から出たばかり。
          まだあたたかい。

          八十の春夏秋冬のめぐりが完了。
          バースデー・カードの裏側に、死が貼りついていた。
          
          虚空に放たれた、
          人生のくさぐさの諧調よ、ありあまる重みよ。
          頭蓋骨のなだらかなスロープの内側で、
          白熱していた知性。
          眼窩に、アーモンドのかたちの、
          やさしい眼があった。

          マーガレットの花と共に燃え立った、
          肉の装い、心臓、アーモンドのかたちの眼も。

          だが、死者は肉体をなくしただけ。
          霊感は、死者を悼むわたしの自己陶酔を破り、
          生命の連続性を、野暮ったく叩き込む。
                                  

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2006年6月24日 (土)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第12回

 時折、わたしは叔母に急な用事を言いつかって外に出されることがありました。

 それは決まって来客のあるときでしたが、わたしはあらかじめ離れた場所へ行かされるために、そのお客を見知る機会はありませんでした。

 家に戻ると、叔母はすぐれない顔色をし、気分を害した様子となっているのが常で、わたしに当り散らしたかと思うと、今度は発作的に抱き締めたりしました。

 そうした日の晩は、歯噛みしてすすり泣く叔母をなだめる叔父のささやき声が、離れたねやから聴こえてくるのでした。

 そうして、いつの間にか、3年が過ぎ去ろうとしていました。

 初潮を迎えたわたしは髪をあげ、いつお嫁に行っても不思議でない女人として暮らし始めました。大人(たいじん)に生まれついたおとめの輿入れ先は、クニ内とは限りませんでした。

 どうしても嫁に行かねばならないものなら、わたしは底知れず碧いという海が見たかったので、海路を使っていくような遠いクニへ、いえ、わたしの無邪気な冒険心は、異国へ嫁ぐことさえも夢想するのでした。

 相変わらず、機織りは下手、琴のしらべはつっかえひっかえでしたけれど……。〔

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れくいえむ ~その1~1995.4

             81歳で没したわたしの心の師であった女性のために

          大気が冷え、桜が開いた。
          死が満ちた。
          閉じた瞼の下で、唇の間にも、
          死が満ちた。

          白木蓮の色をした死者の顔は、見覚えがない。
          むしろいつか想像した気がする顔は、
          封印している。
          はかりしれない困難、おびただしい吐息を。

          完結した死者の鼻孔、晒された面差し。
          マーガレットの花にまもられて。

          雨が棺をぬらした。
          やわらいだ土を踏み、車を駆って、
          人々は置きにいった。
          炉は燠り、炎 炎 炎、
          死者の難儀がやんだ。

          骨を、かまびすしい女たちが囲む。
          きれいな骨に見惚れて。
          男たちはふるえ、エレガントに控えた。〔

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2006年6月23日 (金)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第11回

 お師匠さんは、そうか、と答えたきりでした。そして、屋根を打つ雨音を聴く風情でしたが、口を開きました。

「かの大国人は、この国のわしたちのことを倭人(わじん)と呼びよる。小さい人という意味なんだそうじゃ。小さくとも、気概は一流じゃ。わしたちのしらべには格調の高き、独自のものがあるはずじゃの。あの方も、そう思うとりなさる」

 あの方とは誰だろう、とわたしは口をぽかんと開けました。 お師匠さんは、盲目の顔をしずかにわたしに向けました。「女王様じゃよ」

「女王様?」
「年に1度、ヤマトのクニから迎えがきての、わしの琴は神殿の至聖所で鳴るんじゃよ。そのあとで謁見があってな」

「女王様は、どのようなお方なのでしょう?」と、昂ぶりのあまりの気の抜けたような声で、わたしは問うのでした。

「声の響くお方での――、鋭敏な感じのするお方じゃな。貝紫染めのお召し物を身につけておいでじゃあるまいか。お傍で、潮の香がしたで」

 父も女王様に謁見していたはずですが、どういう訳か、女王様のことを父から聞いた覚えはありませんでした。〔

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2006年6月22日 (木)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第10回

 わたしの機織に愛想をつかした叔母は、叔父の伝手で、わたしのために琴(※弥生琴)のお師匠さんを見つけました。

 お師匠さんは、お祭りで奉納される歌舞の演奏を勤めることもある名奏者でしたが、見た眼には、小造りのおじいさんでした。

 お師匠さんの演奏には、人がおよそ想像しえなかったもの――それでいて、それこそが自らの求めていたものだった……と恍惚とさせられるきらめくような内省に導く何かがありました。

 けれど、残念なことには、弟子としてのわたしはすぐに見放されてしまったようなのです。

「あんたには、他に向いとる道があるようじゃな。あんたの頭の中には何があるんかの」と、お師匠さんが叔母と同じことを尋ねるので、わたしはクックと笑ってしまいました。

「空想が――。お師匠様」〔

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2006年6月21日 (水)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第9回

 わたしは叔母の腹立ちを納得しながらも、好奇心を抑えることができなくなりました。

「叔母さん。女王様の宮殿は、神殿でもあるのでしょう? そこには子供もいるって、お父さんが話してくれたことがあるの。それは、どんな子? どうしたら、神殿に入ることができるのかしら……」

 とたんに叔母の眼はぽっかりと見開かれ、顔色ときたら翡翠のように青ざめてしまい、薄い唇も開かれて――と、叔母の顔色が尋常でない様を呈したので、わたしは恐くなりました。

 ややあって、叔母は震える瞼を閉じ、低い、怒りを帯びた声で断言するのでした。「そういう窺い知れないことに興味を抱く時期は、誰にでもあります」

「怒ることないじゃないの、叔母さん。わたしはただ……」とうろたえ、取り繕おうとしました。「お母さんの納棺の日に、風にいちゃんと話したの。女王様が蒐集なさっている知識(おしえ)のことや何か……。それで、ちょっと、興味が湧いただけなんです」

 叔母は顔をわずかに傾げて、真っ直ぐにわたしを見ていましたが、ふとグミを摘み、1つ食べました。

 そして、「あの縁者のいうことをまともにしちゃ、いけませんよ。食べてしまったら、花を摘んできてくれない? このあいだの市(いち)で手に入れた壷に活けようと思うの。

 ああ、ついでにツルバミ(※ドングリの古名)も集めてくれたら、なおいいわ。ツルバミは滋養があるし、保存食にはもってこいですからね」と、打って変わってサバサバした口調で、叔母はわたしにいいつけたのでした。〔

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小さきものたち、そして罪深き思い出

 夏になると思い出すのは、小さきものたちのこと――さらに甦るのは、自身の彼らに対する罪深い行いである。

 その小さきものたちとは、アリとカエル。カエルはアマガエル。
 そうするつもりでそうしたわけではない。だが結果的に、多くの小さきものたちをわたしは殺してしまった。

 アリに関しては、夏休みのラジオ体操の思い出と重なる。庭では桃の木が鬱蒼と茂り、獲りきれない桃の実が熟しきって落ち、犬小屋のまわりに点々と転がっていた。潰れた桃の実は甘い芳香を放つ。犬は果物を食べない。

 小学生のわたしは、興味に駆られてアリを観察していた。アリは獲物を見つけては、獲物を削って自分が運べる分量の荷物とし、仲間と示し合わせて巣へと運んでいった。

 見事なまでに統一された集団行動であった。驚くほど大きな荷物を運んでいくものもある。獲物は死んだ昆虫、時にはまだ完全には死んでいないセミだったりする。桃の実が沢山落ちていたわりには、それにはアリはあまりたかっていなかった。

  わたしはアリの巣の近くに、潰れた桃の実を持って行った。アリの主食は、甘い物だと思い込んでいたのだった。甘い物がごはんで、昆虫のような生々しい「お肉」はおかずに違いない。。。

 わたしは、ごはんが大好きである。ときどき醤油ごはんをしては、母に叱られた。それに比べて肉はミンチにしたものでないと、好きでなかった。魚もそれほど好きではなかった。残すほど嫌いではなかったが、どちらかというと仕方なく食べていた。

 アリもそうに違いない、とわたしは思ったのだ。が、わざわざ近づけてやった桃には案外興味を示さない。そこで砂糖をやってみることにした。キッチンから砂糖壷を持ち出して、巣の近くにこんもりと砂糖を置いてみた。

 アリは警戒したのか、最初は無視した。そのうち運び始めたが、やはり昆虫を運ぶときほどには、熱心さが見られない気がした。わたしは思った。昆虫に気をとられて、砂糖の貴重さに気づかないのだろうと。

 まるごと砂糖が降ってくることなど、めったにないというのに、彼らはいつでもそれが起きると思い込んでいる。そして夏のあいだはいつだって、どこにだって転がっていそうな昆虫の死骸なんぞに気をとられているのだ――と。

 わたしは砂糖をアリの巣に注ぎ込んだ。そして、意気揚々と家に入った。

 ウィキペディア・フリー百科に「アリの基本は肉食で、それに活動のエネルギー源として花の蜜や果実、アブラムシなどの甘露から糖分を節食するという様式が多数派を占める」とあるから、アリが昆虫により精力的にたかっていたのは当然だったろう。

 翌日のことである。わたしは家族の中で一番に目が覚めた。父がいれば父が一番なのだが、航海中だったから、一番に起き、下へ降りていった。

 そして、そこで信じられない光景を目にしたのだった。キッチンのテーブルが黒くなっている! それは黒く厚ぼったく蠢いていて、そこから黒い線が、キッチンからタンポポ色のカーペットを敷いた廊下、さらにはいくらか光沢のある苔色のカーペットを敷いた洋室をほぼ一直線に横切り、ガラス戸の下へと折れていた。

 黒いもの、それはアリたちだった。とんでもない数のアリたち。彼らはテーブルの上の砂糖壷を目的としていた。蓋が開いていたのか、彼らが開けたのかは謎である。のちに借家にシロアリが出て駆除騒ぎとなったことがあったが、このときのおぞましい光景に比べたら、ものの数ではなかった。

 そのあとのことは、怒涛のように襲ってきた畏怖の念と罪悪感とで、よく覚えていない。覚えているのは、めったにヒステリックになることのない母が金切り声を出してわたしを叱りつけたこと、それから「あなたがここにいたからといって、何になるの!」と怒鳴られ、ラジオ体操へと追い出されたことだった。

 ラジオ体操のあとにドッジボールの練習があった。うわの空でそれらを終え、戦きながら帰宅すると、感心したことに母はアリ退治の液体噴射器をフルに使ったらしく、膨大な数のアリを処理してしまっていた。

 あたかも「戦闘」の名残のように、テーブルに何匹かのアリの戦死者が横たわっていた。よく見ると、カーペットにはまだアリの生存者たちがいたが、さしもの彼らも観念した様子に見えた。迷子のような、頼りない動きだった。

 母はキッチンにいなかった。勇者を褒め称えようと、2階に上がると、母は寝室にぐったりと横たわり、目を閉じていた。心持ち、顔色が蒼かった。
 目を閉じたまま母は、もうアリを構うのはやめなさい――といった。

 今でもわたしには謎である。あの物凄い数のアリたち。一つの巣にあれほどの数のアリたちが棲んでいるものだろうか? 庭全体が、アリの連合国だったとでもいうのだろうか?

 わたしには、あれが巣を砂糖攻めにされたアリたちの復讐だったように空想されてならないのだ。

 ああアリのことを書いたら、力尽きてしまった。やはり庭に壮観な光景を繰り広げた――尤も、その原因をつくったのはまたしてもわたしだったが――アマガエルたちについては、また今度。気がむいたら……。 

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2006年6月20日 (火)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第8回

「叔母さん。女の人は誰でも、お嫁に行って、旦那様に仕え、子を産んで、顔に皺を増やして、目脂(やに)を溜めた老婆になって、そして死んでゆかなきゃならない?  どうしたって、お嫁に行かなきゃならない?」

「マナちゃん」と叔母は、痩せた顔の中の笑いを知らない、しかし理解力を秘めた2つの小さな眼をわたしに据え、「あなたをきちんと嫁がせることができなくて、どうして死んだ姉さんに言い訳がたつの?」と、問い返すのでした。

「海の彼方の大国では――ああ、あなたはまだ海を見たことがないんだったわねえ――あの漢(※後漢)王朝が2年前に滅んでしまうということに相成ったことだけれど、その漢王朝がまだ続いていた頃の、桓(かん)帝、霊帝の御代(みよ)に、あたしどもの国ではね、クニグニのあいだでそれは恐ろしい戦が続いたそうなの。

 そんな中で、クニグニの首長たちは、ただ1人のおとめを頭(かしら)として共に立て、以来、おとめは頭の中の頭、あたしどもの国が誇る女王様なのです。

 15歳の若さで女王様になるなんてことは、容易なことではなかったでしょうよ。あなたぐらいの年の頃には、既にそれなりの実績がおありだったっていいますからね。ふわふわしたことで、どうしますか」〔

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2006年6月19日 (月)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第7回

 二親を亡くしたわたしは叔母の家にひきとられ、花嫁修業に入ることになりました。あまやかしの中で、わたしはいささか野放図に育ちすぎたと叔母は思っていたようです。

 大人、下戸の身分に関わらず、女人(にょにん)に生まれついたからには、機織ができなければなりませんでした。ところが、わたしはこの世で機織ほど苦手なものはなかったのです。

 女たちは繭(まゆ)や草皮からとれる繊維を糸にし、その糸で絹や麻を織りました。定まった工程を確実に繰り返してゆきさえすれば、誰にでも、布を織りあげることができるはずなのですけれども……。

 不揃いな布目は、注意力の乱れを表現していました。思い……わたしの思いは、糸や機(はた)やちびちび出来あがりつつある布、といったものからすぐに遊離して、あの大空の、ふんわりとあまい雲のように、ぽっかりと空(くう)に浮かんでしまうのでした。

叔母の織りあげた布からは調べが、清涼な光が、そして、わたしの布からは雑音が聴こえ、ぼうとした光が見えました。

 叔母はため息をつき、向こうへ行ってしまいました。やがて、わたしを呼び、叔母とわたしは雑炊と鉢に盛ったグミで、お昼にしました。

「何を考えているんだか、あたしにはわからない。あなたの頭の中にあることは何なんですか?」

 叔母は頭痛を堪えているような顔をグミのすっぱさでさらにしかめ、深刻な口調でこうわたしに尋ねました。〔〕 

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精神安定剤の思い出

 鬱病・パニック障害・境界型人格障害をセットとした診断名を持つ患者のブログが多いことに驚く。眠剤を常用している人のブログが多いことにも驚く。 

 わたしが少女の頃だから、もう32年も昔の話になるが、その頃は神経症・精神病を扱う病院やクリニックは数が少なく、受診することにもかなりの抵抗がある時代だった。

 あれは確か高校1年のときだったと思うが、わたしは中学1年時から悩んできたトイレが近い症状に我慢ができなくなり、鈍行列車で片道1時間半もかけて小都市のクリニックを受診した。

 授業中ずっと今にも漏れそうな切迫感が続き、勉強に集中するどころではなかった。膀胱炎ではないから痛みも何もないのだが、精神的には地獄だった。何とか合格した高校は進学校だったから、このままでは落第すると思ったのだ。

 わたしの住む町には、古色然とした陰鬱な外観の精神病院しかなかった。電話帳で調べたのだったかどうかは記憶にないが、ようやく見つけたそこは現在多いオフィス型のクリニックで、そのような気軽に行けそうなモダンなクリニックといえば小都市の街中ではそこくらいだった。

 こっそり行くつもりだったのがばれ、いやだといったのに、初回だけだったが、母がついてきた。

 強迫神経症(観念が強く迫ってくるこの病気には多彩な症状が属するが、わたしの場合は主として神経性膀胱)と診断を受け、膀胱の絵など見せて貰い、「膀胱にはこんなに沢山尿が貯められるんだよ。だから、トイレに行きたくなったからといってめったに漏れはしないから、安心していいよ」と励まされ、精神安定剤をもらった。

 発病に性的なことが絡んでいないか医師は疑い、カウンセリングを受けた。実際にわたしは小学生のときに性的悪戯を受けたことがあって、医師の疑いからそれが原因だとずっと思い続けていたが、果たしてそうなのか、現在のわたしはそのことにいささか懐疑的だ(このことについては以前、文藝春秋の雑誌「諸君」の読者欄に投稿して掲載された短文があるので、いずれこのブログで紹介したい)。

 自己暗示をかける催眠療法というのがあるがどうするか、尤もそれを受けて一旦治ったようでもぶり返すことが多いが――と、医師は訊いてきた。黙り込んだのだったか何か答えたのだったかは忘れたが、催眠療法は受けなかった。結局そのクリニックには何回通っただろう、数えるほどだったと思う。

 その頃の医師は精神安定剤をあまり処方したがらなかったが、理由をいえば薬局は売ってくれた。飲めば体に作用するが、肝心の患部というか弱みには全く効果が感じられない――従って飲んでも無意味に近いその薬を、わたしは母に内緒で買い漁るようになった。

 「試験のとき、極端にあがってしまうので」といえば、薬局のほうではしぶしぶ売ってくれた。同じ手はなかなか使えない。それにどういうわけか、町中にある薬局のうちの数軒に母の同級生やら友人やらがいて、母にばれたら困るという思いがあった。とうとう町中の薬局には行き尽くし、精神科のクリニックのある繁華街でまで買い漁るようになった。まるで麻薬中毒患者のようだ、とわれながら思った。

 ある日一大決心をして、悪癖を断つことにした。遠くまで行って精神安定剤を買い漁るには旅費が必要で、小遣いからはその費用が捻出できなくなったというのが、直接的な理由だった。もっと深いところで、このままではいずれ廃人のようになってしまうのではないかという恐怖が働いていた。

 かといって症状は強まるばかりだった。全校集会のときなどは、冷や汗が出、体が燃えるように熱くなったり顔が青くなったりしながら堪え、緊張が極まるとふいに自分がどこにいるのか何をしているのかもわからなくなる瞬間があるほどだった。

 朝夕のジョギング、バレー部への入部、読書へののめり込み……と症状を軽減させたい思いで必死だった。当然成績はひどく、高校1年次には赤点を頻繁にとり、職員会議によるお情けで落第するところを救って貰った。そんな劣等性が何人かいて、保護者共々校長室で説教された。母は曇った顔をしていた。

 わたしは号泣したが、成績のことで泣いたわけではなく、自分の危うい将来を案じて泣いたのだった。症状は変らぬまま、3年次までいったけれど、2年次にはコツを覚え、ほとんど赤点をとらなくなった。試験のときは最初の10分間で死に物狂いで、超スピードで問題を解いた。それで何とか赤点は免れたのだ。無事に卒業もできた。

  ブログを読んでいると、薬物に頼りすぎている人が多すぎるように思え、心配になる。勿論必要な場合もあるだろうが、基本的に神経症に関する限り、薬はあまりいらないのではないだろうか。素人判断にすぎないかもしれないけれど。

 ただわたしと症状は違うが、同じ神経症という当初の診断から、精神安定剤や眠剤を服用するようになり、服用の度合いが強まると共に症状も変化したのだろうか、鬱病・パニック障害・境界型人格障害がセットの診断を受けた友人がいる。同じ診断名の人のブログが多いことに驚いたこともあって、少し疑問を覚えたのだった。

 近代神智学の創始者ブラヴァツキーは、まだニューヨークにあまり高い建物がなかった時代の人だが、眠りの重要性を神秘主義の立場から解説している。確かどこかで、飲酒や薬物による眠りからは本物の眠りが得られないとして警告している。

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2006年6月18日 (日)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第6回

 山の神様のお祭りは、このクニの父を含む数名の官吏の他、ヤマト国始め女王連合国に属する各クニの代表官吏、といったお歴々で厳かに執り行われる特別のものでしたけれど、農耕祭典の場合、祭場は社交の場でもありました。

 お祭りの日、母は舶来のやわらかな衣に白珠のネックレスをして、緑髪を美しく結い、朱で顔面に化粧をしているのでしたが、正装したその姿は、わが母ながらあでやかな貴婦人でした。

 春は豊作祈願、夏は虫送りと雨乞い、秋は収穫儀礼、冬は予祝(よしゅく)儀礼(模擬儀礼)といった祭典がありました。虫送りは虫の姿をとってあらわれた悪霊を鎮め送る儀式、予祝儀礼は来る年の豊作を祈願して農作の真似事をする儀式です。

 祭場は神韻の気の漂う森の中にあり、そこにはご神木がありました。神様がこの世にお下りになる時の目印となる木ですので、特別に選ばれた神聖な木なのです。

 わたしは神木に選ばれたオガタマの木を見上げるとき、木自体が深緑色に純白の粒々を混じえた霧状の清々しい精気を発散しているのが見えました。ただわたしには、このオガタマの木に限らず、どの木々も精気を発散しているように見えます。

 ところで、儀式が終ってから、しばしば歌劇が上演されました。歌劇の始まるのを待つあいだ、わたしの胸はぱちんと弾けそうにふくらんでしまいます。そして、歌劇の幕が開くと、わたしの体は陰って、虹色の光を放つことになるのでした。〔

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2006年6月17日 (土)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第5回

 わたしは周りを山々に囲まれたクニに生まれました。その山の一つは、父の管轄していた銅の採れる鉱山です。クニには、鉱山のことをよく知っている朝鮮半島からの渡来人が沢山住んでいました。

 生前、父は採掘場で見つけた小さな鉱石を、「この石はね、山の女神様がくださったのだ。お守りにするように」といって、わたしにくれました。石の反対側はすべすべし、光っていて、わたしの顔が映るのでした。

 この石と、不思議な女の人のくれた木の実が、今ではわたしの宝物なのでした。木の実はわたしの見たことのないものでしたが、後にクルミと知りました。

 父は大人(たいじん)と呼ばれる身分でした。クニに住む者は、大人と下戸(げこ)という身分に分かれていて、下戸は一般の人々、大人は下戸を統制する人々から成っていました。

 大人は特権階級とみなされ、その家に生まれたわたしはちやほやされて育ちました。こうしてあまやかされて育ったわたしは驕慢な子でしたが、子供ながらも平衡感覚は備わっていたのでしょう。年端もゆかぬ自分に贈られた贅沢な装身具をつけるのが後ろめたく、こっそり壊してしまったことがありました。

 また、両親はわたしが下戸の子供たちと遊ぶのを好みませんでしたが、泡のような歓喜は、下戸の子たち――、それも男の子たちに混じって遊ぶときに湧き起こるのでした。

 ウリボウを生け捕りにする、あるいは猿を追って木の枝から枝へと飛び移らんとする、そんな興奮極まる刹那、ふいに世界は原初の沈黙に還るかのようでした。

 こうした霊妙の体験をもたらす下戸の子たちとの交際に比べ、大人の子女との交際は、見かけのしとやかさとはあべこべの神経戦に似たところがありました。顔面がぴくぴくし出して、困ることがありました。〔

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庶民の苦しい受験事情

 高校の同窓会新聞が送られてきた。卒業生の進路状況を見て、思わずため息が出る。

 地方の県立高校とあって、元々国公立大指向だったのが(ちなみにわたしは私大出身)、これまでになく強まっている。

 難関国立大、有名私大合格者が減り(受験自体を差し控えたのだろう)、その人数がそっくり近場で中堅どころの国公立大に移動したといった感じがある。

 親の苦しい台所事情、危うい政治状況が反映されているとしか思えない。

 進路指導主事はわたしと同学年だった男性で、校長先生は2年生のときに担任だった。彼らの苦労が想像できる。

 校長先生の写真を見ると、ハンサムだった顔をそのまま萎ませたかのよう……。が先生が新聞に書いていることは、昔と変らず若々しい。先生は書いている(勝手な引用ごめんなさい)。

「しっかり頑張らんといかん、知・徳・体を備えた当たり前のことが当たり前にできる生徒を育てるという当たり前の教育活動をせんといかん、『来て良かった学校、やって良かった学校、勤めてよかった学校』にせんとこの環境が泣くだろう」

「たった一人の自分がたった一回生きてそれでおしまいという単純明快な事実があります。だからこそ、生き甲斐のある人生を送って欲しいし、なりたい自分の実現に向かって努力して欲しいと思うのです」

「盥(たらい)と一緒に赤ん坊まで流してしまった感のある現代の風潮の中で、『親孝行』も『恩返し』も死語にまでは至らずとも半死半生語にはなってしまったのではないか……(略)人生は基本的に自分で切り拓いていくわけですが、同時に数え切れないほど多くの人たちに支えられてもいる……」

「学校は今、本当の意味で不易の部分と流行の部分とを見分ける眼を持つことが求められています」

「『燃える者のみが燃える生徒を創ることができる』という言葉を全職員で共有し頑張ろうと思います」

 この先生には現代国語と古文を習った。いつか作家になったら手紙を出そうと思いながら、意を遂げられぬまま、そのままになっていた。同人誌が出たら、先生にお送りしようと思う。

 それというのも、中学時代の恩師(1、3年次の担任で、地理と国語を習った)にやはり作家になったら会いに行こうと思っているうちに死なれた苦い経験があるからだ。校長在職半ばでの死だった。この先生については、このブログでまた書くことがあるだろう。

 この2人の先生の影響は大きい。何しろ文芸創作に直に影響する国語を習ったのだ。その人生哲学から受けた影響も半端ではなかった。尤も、現在のわたしがそれを生かしきれているとはとてもいえないけれど。

 どちらもハンサムで、人間味に溢れ、清新の気に満ち、それでいて苦悩型・思索型でもあり、大好きだった。どちらも水瓶座だ。

 ところで、今度同人誌に掲載されるわたしの小説は、庶民の苦しい受験事情を台風被害に絡めて克明に描いた作品だ。そしてその全体を大自然の息吹で抱擁させた(つもりの作品)。

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2006年6月16日 (金)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第4回

「ふむ。俺にはお前さんが見るようなものは見えないからよ、答えようがないんだが――そいつこそ、和魂から出ていた光や色ではないか? だとすると、それは輝きながら天に昇ったんだな」

「お母さんに、逢い、たい……」と、わたしは乱れた小さな声でいい、思い余った眼で従兄を見ました。

 ところが、従兄はわたしの肩に再び両手を置くのでした。「さあて」とつぶやき、彼はふっくり浮かんだ雲を見あげます。

「放浪するうちにすっかり大きくなっちまった俺の耳が聴いたことだが――、女王連合国の女王様はな、神秘のお方であるうえに、異国の法外な知識(おしえ)を蒐集しておいでだそうだ。あのお方ならば、和魂のお母さんに逢える術をご存知かもよ。

 しかしな、マナ。和魂になったら、そいつは他の沢山の和魂と一緒になるっていうがな。ほい、あの雲みたいにくっつき合って、お母さんの和魂は溶けてしまったのだ」

 たった今の従兄の説明に、どうしたことか、わたしの中の何かが激しく抵抗しました。女王様ならば、ご存知かしら、とわたしは考えました。

 しかし、この時のわたしにとって、女王連合国の女王様居するヤマト(※邪馬台)国はあまりに遠く、そこにおられるという女王様は幻じみて思われたのでした。〔

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2006年6月15日 (木)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第3回

 墓地は丘です。掘ると、白い地肌があらわれる丘――

 母のお棺が埋められるのを、わたしは離れた場所からじっと立って見ていました。ふと、背後からわたしの肩に厚い手が置かれ、「お母さん、これで安心だぞ」という従兄の声がしました。

 親類の者たちは彼を風、と呼びました。とどまるところを知らない人物だからです。皆の間で、従兄は居れば出来損ないの爪弾き、居なければ待たれる人なのでした。

 体はイノシシのようにがっちりしていて、眼は愛嬌を湛えてい、身のこなしはおっとりとしていました。わたしはこの従兄が、明るい乳色の雲と同じくらいに好きでした。

「どうして、安心?」
「人間は死ぬとな、魂が和魂(にぎみたま)と荒魂(あらみたま)に分離するんだ。和魂は天に帰還し、荒魂はお墓にとどまる。マナのお母さんも、あそこにとどまり処ができた。俺がいうのは、それぞれが落ち着き処を得て、よかったってこと」

 わたしは沈黙して、和魂と荒魂について考えてみましたが、よくは呑み込めませんでした。

「わたしね、風にいちゃん。考えずにはいられないの。お母さんが生きていたときにお母さんから出ていた様々な色合いや、お母さんの胸の奥からの真珠のような輝きは、何処へ行ったのかしら、って」

 従兄は上からわたしをごつく見、瞳の色を分かとうとでもいうように、わたしを見つめました。〔

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自作俳句「夏の思ひ出」

屋根近く舞つてやさしき子燕ら

身仕舞を正さで柔し燕の子

まな板や飛魚とびし海の果て

八幡に行く 二句

相歩く帆柱山(ほばしら)のもと夏深し

籐椅子に座つて語りぬ息近く

妹産科へ緊急入院、点滴続く 一句

生まれきて伯母が立ちたる夏野見よ

姪誕生 三句

夏雲のふつくり浮かんで姪うまる

日盛りの子となり初めし産湯かな

いのち今うまれしばかり夏の赤子(やや

ベビー・ベッドの傍らで 三句 

まほらから落ちし疲れか夏布団

夏布団いのち定まる刻々と

ほのかなるいのち豪華に夏布団

祐徳稲荷神社 三句

緑陰に尼となりにし万子姫

岩壁に貫きし死や岩清水

夕涼や社(やしろ)を伝ふ裾さばき

薔薇しげく薔薇の限りを散りにけり

白薔薇の音階の如く崩れけり

                 

 下手な俳句の公開、第三弾です。昔作ったものの中から、夏にちなんだものを選んでみました。流産の危機を乗り越えて誕生した姪は、ギターとバレーボールの好きなお洒落な少女に成長しました。妹にいわせると、性格がわたしにそっくりなのだそうです。そうかなあ? ところでそれ、嬉しいってことなの、嬉しくないってことなの? 

 こもらへもどうぞ:自作俳句「百合の花」、自作俳句「子供たち」、自作俳句「熟るる歓び」。          

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2006年6月14日 (水)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第2回

「何処へ行ったのかと思ったじゃないの。お母さんについていてあげなくては」

 叔母にいわれ、また棺の処へ座りに行きましたが、わたしは母の傍へ行くのが恐かったのです。

 帰らぬ人となった母は厳粛で、遠い人のように思われました。それでいて、その母は、わたしの琴線に触れる母そのものを保ってもいました。緑変した面で、母はしずかに横たわっているばかりなのでした。もう、わたしの名を呼ぶこともなく……。

 人々は、わたしをマナちゃんと呼びます。でも、亡くなった母以外の誰が、マァナというあれほどのこぼれるような響きで、わたしの名を呼んでくれるでしょうか。

 涙を拭こうとして、わたしは握りこぶしの中の木の実を思い出しました。母の鎮魂のために歌い踊ってくれている人々の中に、あの女の人が混じっていはしないかと、わたしは眼をこらしました。お酒を注いで回っている人々の中には?

 しかし、そのような女の人は見あたりませんでした。

 夕闇がしのび寄り、やがては人々から射していた光も見えなくなりました。わたしは叔母に抱かれて、重苦しい眠りを眠りました。そして、あけぼのの空気の冷たさにぶるっとなって眼覚めました。

 10日間はこのようにして暮れてゆきました。〔

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ハムスター列伝①クッキー~長老の風格があった☆その二

 そうこうするうちにハムスターの姿が見えなくなりました。慌てて捜すと、ソファの陰にいました。綿玉のようになってうずくまり、しきりに顔を洗っています。

 身の周囲に10粒ほどの糞を撒き散らしており、心底驚いたような顔でわたしを見上げました。ソファの陰で心細かったのでしょうか、先ほどまでの尖った目つきとは異なる普通の目をしていました。

  ハムスターとわたしは見つめ合いました。目は口ほどに物をいう、という言葉がありますけれど、本当でした。わたしたちはこのときから、切っても切れない仲となったのです。

 何時間も一緒に昼寝ができたのは、クッキーと名づけられたこのハムスターとだけでした。わたしはその頃から病気で、雑事をこなす合間に暇さえあれば横になっていましたが、同じ座布団にわたしの頭とクッキーをのせて、眠りました。

 どれだけ寝ても、いつも、わたしのほうが先に目覚めました。先に目覚めたクッキーが、二度寝することがあったのかもしれません。

 話は戻りますが、クッキーがわが家の一員となった数日後にクリスマスがやってきました。

 クリスマスケーキとスモークダックを注文した店に受け取りに行き、大皿にご馳走を飾りつけているうちに、クッキーの肉食の度合い――パーセンテージが気になってきました。

 ハムスターは雑食といいますから、何パーセントかは肉食なわけです。ネズミに足を齧られたという子供の頃に聞いた家政婦さんの話やハムスターは共食いするという話が、気になって、不安で、仕方がありませんでした。

 家政婦さんの足はまさか食べられかけたわけではなく、驚いたクッキーが息子を咬んだような具合だったのではないかと推測はしたものの、いや、本当のところはわからないとわたしは思うのでした。

 もしネズミが家政婦さんの足をちょっといただこうとして近づいたのだとすれば、ハムスターだって……などという疑いが、空想が、ホラーじみて膨れ上がってしまうのです。

 わたしはスモークダックの切れ端で実験してみることにしました。〔続〕

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2006年6月13日 (火)

「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第1回

  第一部 洛陽へ

  第一章

 父は鉱山を視察中、そこで生じた事故で負傷し、それがもとで死にましたが、母までも看取り疲れから病を得、帰らぬ人となりました。わたしはその時、9つでした。

 泣いているわたしの掌に、誰かが木の実を握らせてくれました。顔をあげて見ると、わたしの知らない、背の高い女の人でした。

 その人の上品さに、心を打たれ、わたしはお礼をいうのも忘れました。

「すぐに迎えに来ますから、待っていてくださいね」とその人はいい、くっきりと美しいまなざしで、じっとわたしを見ました。「お嬢ちゃんには、わたしの心の色合いが見えるでしょう? わたしはどんな色合いなんでしょうね……」

 女の人は面白そうに尋ねましたが、あけぼの色の衣で身をかがめると、さっとわたしを抱きあげました。あまやかな薫りがわたしを包みました。

 すると、わたしはすすりあげてしまったのです。色のことを尋ねるなんて不思議に思いましたが、なぜか、説明のつかない幸福感でいっぱいになったからでした。

「おやおや、泣きべそさん。異国の薫りのする男の子が、待っていますよ」と謎のようなことを清(すず)しくささやき、女の人はわたしをおろしました。

 その時、「マナ。マナちゃん……!」と、木陰から叔母のわたしを捜す声がして、振り返りました。気づいたとき、女の人はどこにもいませんでした。〔

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「あけぼの―邪馬台国物語―」を連載するにあたって

 現在48歳のわたしが30代に書いた未完の小説「曙」。少女小説風のあまい語り口をもつ、テーマ的にもストーリィ的にも多分に粗い部分のあるこの作品を、なぜか忘れることができませんでした。

 これとは別に、邪馬台国を舞台とした歴史推理小説とも神秘主義小説ともいえる本格的な作品をいつか書きたいと思ってきましたが、それにはまだまだ取材と勉強が必要ですし、それらは実に苛酷に金銭と体力(知力)を要求してきます。

 書きたいと思いながら、書けないまま人生を終えるのではないか……という不安が日々募っていきました。

 そんなとき、ブログを開設し、思いがけなくも書く楽しさが甦ってくると同時に、「曙」の登場人物たちがブログ・デビューを主張し出したのです。

 まあまあ、もう少しあとでいいじゃないの――とたしなめようとしたのですが、ききわけのない連中で……。こうして連載をスタートさせないわけにはいかなくなりました。連載中、何か文句や注文がおありでしたら、連中にいってください(わたしは知りません。当方、お気楽アマチュアですから)。

 若干の補足説明ですが、未完の小説「曙」は、個人誌「ハーモニー」に平成4年から平成5年にかけて3回にわたり、連載されました。全体が3部からなる――第1部「洛陽へ」、第2部「動乱」、第3部「吸収併合」――うちの第1部にあたります。なお今回のブログでの連載にあたって、「曙」を「あけぼの」と改題いたしました。参考文献一覧は、連載終了時点で付するようにしています。

 ブログで連載しながら続きが書ければ理想的ですが、それが可能かどうかはミューズのみぞ知る、です。このようなものでよろしければ、どうぞご味読ください。〔 「あけぼの――邪馬台国物語――」連載第1回」へ〕

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2006年6月12日 (月)

映画「ヒトラー最期の12日間」を観て―2005.10―(Ⅸ)

 ナチス支配下における普通の人々の日常を明らかにした、デートレフ・ポイカート著「ナチス・ドイツ――ある近代の社会史」は次のようにいう。

「ナチ運動を支持したり、少なくともやむをえずこの運動をうけいれた多数のドイツ人が信じたのは、彼らを近代化に伴う混乱や、経済不況による窮迫などという異常な事態から救い出してくれるという『総統』の約束であった。

 彼らが夢みたのは、ナチ指導部がユートピアとして漠然と考えていたような、人々をたえず闘争にかりたてる民族共同体ではまったくなかった。

 多くのドイツ人が夢みたのは、正常な事態にもどること、安定した職に復帰すること、安心して生活設計ができ、社会のなかで自分がしめる位置に確信がもてるような状況をとりもどすことであった」

 ドイツ系ユダヤ人アンネ・フランクは、ナチスの迫害の手を逃れて移り住んだオランダのアムステルダム市の隠れ家で1944年8月4日、密告によりゲシュタポに連行され、アウシュヴィッツ次いでベルゲン・ベルゼンの収容所に送られた。

 そこでは女性収容所が未完成だった。冬になって環境が悪化していたが、アンネは姉マルゴットと共にそこに入れられていた。彼女たちは1945年3月に、相次いでチフスで死亡した。アンネの最後の言葉は、「ドアをしめて、ドアをしめて」だったという。15歳だった。

 アンネは1942年6月12日の誕生日に、贈り物の包みを開ける。最初に出てきた贈り物が日記帳で、そこに書かれた「アンネの日記」はユダヤ人迫害を立証するものとして、また生命の尊さを物語る光として、世界的に有名になった。〔了〕

 引用・参考文献

 ヨアヒム・フェスト「ヒトラー」鈴木直訳、岩波書店、2005年。

 トラウデル・ユンゲ「私はヒトラーの秘書だった」高島市子・足立ラーベ加代訳、草思社、2004年。

 デートレフ・ポイカート「(改装版)ナチス・ドイツ――ある近代の社会史」木村靖二・山本秀行訳、三元社、2005年。

 ウィリー・リントヴェル「アンネ・フランク 最後の七カ月」酒井府・酒井明子訳、徳間書店、1991年。

 アンネ・フランク「アンネの日記 完全版」深町眞理子訳、文藝春秋、1994年。

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2006年6月11日 (日)

映画「ヒトラー最期の12日間」を観て―2005.10―(Ⅷ)

 パーキンソン病に冒されていたヒトラーは、足を引きずるようにして将校たちのところへ行き、「諸君、何もかもおしまいです。私はこのベルリンに残り、ときが来ればピストルで自殺します。行きたい人は行ってよろしい。全員自由です」という。

 最良の死ぬ方法について話し合う女性たちにヒトラーは、「お別れにもっとよい贈り物ができなくて残念です」といいながら、青酸カリ入りのアンプルを一つずつ手ずから渡した――とユンゲは手記に書いている。

 ヒトラーとエーファ・ブラウンが心中したあとで、ゲッベルス一家はヒトラーに殉死する。

 映画のゲッベルス夫人は、薬で眠らせた6人の子供たち一人一人に青酸カリ入りのアンプルを噛ませて殺害する(アンプルが子供たちの歯に当ってカチッと音を立てる。それが6回)。ドアの外で、彼女を慰めるために抱こうとする夫ゲッベルスを突き放す。

 自殺に赴く前に、驚くほど巧みな手捌きでトランプを手繰り、無感情な表情で占いをする。このトランプの場面はメリメの小説「カルメン」の中でカルメンが激しい雰囲気を醸して占いをする描写を連想させるが、カルメンにはない重厚さがゲッベルス夫人にはあった。

 複雑な母性を、人間存在の絶対的な孤独を、ゲッベルス夫人を演じた女優は恐ろしいまでに映画を観る者に印象づける。感情を極力排除しながらも情感を描ききる、ドイツ映画の神髄に触れた思いがする。このゲッベルス夫人は、彼女一人で一篇の作品を形成していた。

 彼女こそ、映画「ヒトラー最期の12日間」の白眉だと私は思う。

 ロマン主義的帝国の夢に溺れて破れ錯乱しているとはいえ、内輪の人間には最期まで温かな情感を見せるヒトラーは一面あまりにも人間的だったが、そのただの人間を信仰してしまった人間の苦悩を彼女は際立たせたのだ。〔

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ひとりごと

 このブログのことは、3人にしか話していない。

 というのも以前、手製の個人誌を30~50部発行し、知り合いに発送していたことがあって、喜んでくれた人もいたとは思うのだが、負担に感じた人もいたのではないか。。。という反省があったからだ。

 また、文学賞応募に熱くなっていた頃、仲間が沢山できた。自分では文学仲間だと思っていたのだが、賞仲間にすぎなかったと今では思う。賞に熱くなれなくなった今、当時の仲間は幻であったかのように消えてしまった。

 知り合いからも賞仲間からも離れたところでわたしはブログを開設し、パン屋さんがパンを店に出すように記事を出す。

 勿論知り合いが、かつての賞仲間が、純粋に来たくて来てくれるのであれば、大歓迎だ。

 読んでくださる方の心の綾が伝わってくるとき、わたしは金銭以上のものを手にしている。それを栄養とし、エネルギーに変えて、また新しい記事を書く。

 ただ開設したその日、まぎらわしいブログ名からこれをポルノ的なものと勘違いして来た人が結構いたようで(期待させて申し訳ない。ただのオバサンブログで。。。)、その人々の思いに、わたしは安酒に酔ったように酔っ払って、フラフラになってしまった。

 ところで、開設当初から、ずっと来続けてくださっている方が2人いらっしゃるのではないかと感じている。

 〈綾〉の感じからすれば、男性1人女性1人。落ち着いた几帳面な感じの男性と、バルザックの「谷間の百合」に登場するモルソフ夫人のように優しい心根の女性。

 美しい思いには個性があって、顔も何もわからなくても、かけがえのないその人のものとして伝わってくる。

 そのお2人に、それ以後に来てくださっている方々にも、せめていいたい。「ありがとう、本当にありがとう」と。

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2006年6月10日 (土)

映画「ヒトラー最期の12日間」を観て―2005.10―(Ⅶ)

 地下要塞でヒトラーは、「われわれは戦争をするよう運命づけられていたのだ」と論じた。

 われわれが手にしていた可能性を考えてもみよ――と彼はいった。もし自分が破滅を運命づけられているとすれば、その原因は自分のラディカリズムにあるのではなく、中途半端な態度、最後まで自分を貫き通す能力の欠如にあった――と彼はいった。

 不安定で影響を受けやすく、飛躍を好み、まれにみる無神経さで一方の極端から一方の極端へと転んできたドイツ人民のような国民を統率していかなければならないことを個人的な不幸と感じるようになった――と彼はいった。

 自分でもよくやったと思えることはただ一つ、ユダヤ人を正々堂々と撲滅し、ドイツの生活空間からユダヤ人の毒を排除したことだけである――と彼はいった。

 地下要塞で、人々はやけっぱちのらんちきパーティーを繰り広げる。この段になるともう身分の差もなく、あるのは共通の運命だけだった――とユンゲは手記に書いている。ゲッベルス夫人は私たちの中で最も苦悩が大きかった――とも。

 ゲッベルス夫人にはもう子供たちと平静に向き合う気力がなく、エーファ・ブラウンやユンゲが子供たちに童話を読んでやったり罰遊びをしたりして、恐怖から遠ざけておいてやろうと心を砕いていた。〔

 ※引用・参考文献は、連載の終わりに付するようにしています。

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「ハムスター列伝」予告編

 「ハムスター列伝」の連載をスタートさせたところですが、なかなか続きを書く時間がとれず、申し訳ありません。そこで、タイトルのみですが、先にお知らせしておきます(※あとで変更になることもあります)。

クッキー~長老の風格があった ②ココア~やんちゃな子供時代、タフガイの青・壮年期、詩情ある死 ③コーヒー~夭折の ④アーモンド~悲劇の冒険家 ⑤ミルク~貴婦人みたいだった ⑥レモン~男生一本 ⑦メイプル~ニュージーランド生まれの大和撫子 ⑧ポム~わが道を行く女 ⑨ノワール~ジャニーズ系の ⑩ショコラ~神経症に生きた ⑪フレーズ~台風を体験した ⑫〈特別篇〉ネズミの兄弟~助け合って生き、殺された

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2006年6月 9日 (金)

映画「ヒトラー最期の12日間」を観て―2005.10―(Ⅵ)

 1933年のドイツで、国際連盟脱退の是非を問う国民投票が行われた。このとき、4500万人の有権者の95パーセントが脱退に賛成した。

 国民は自由投票によって隷属の政治を捨て、果敢な挑戦の政治を選ぶ決断をした――が、その挑戦が今や挫折したのだと、地下要塞の執務質でゲッベルスはいった。さらに彼は、次のことをつけ加える。

「確かにこのことは少なからぬ人々にとって驚きだろう。しかし思い違いをしないでもらいたい。われわれはドイツ国民に無理強いしてきたわけではない。同じように私はいかなる人間に対しても、自分の部下になるよう無理強いした覚えはない。国民が自分のほうからわれわれに委任したのだ。つまりは自業自得ということだ」

 映画「ヒトラー最期の12日間」を観た日本人の中で、このゲッベルスの言葉に、国民の選択を繰り返し強調する小泉首相の言葉が重ならなかった人がいるだろうか? 彼があれほど、国民の選択を強調しなければならないのは、やましさ、自信のなさがあるからではないだろうか。

 首都ベルリンが陥落する間際、組織が混乱し、何もかも不足する中で、ヒトラーは16歳の少年――ヒトラー・ユーゲントの隊員――にまで、もはや存在しない武器をとるように命じた。至るところに抑鬱感が蔓延し、どうしたら一番確実に死ねるかという会話がまるで伝染病のように拡がっている――と国防軍の状況報告は伝えていた。

 繰り返し襲いかかる生活の危機に疲れ果てていたベルリン庶民だったが、生来の冗談好き、辛辣さを忘れずにいて、「それで世界が終わるじゃなし」という歌を、口笛で互いに吹きあった。〔

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同人誌に提出した作品の話

 今住んでいる市には一昨年の12月に引っ越してきたが、その引っ越してきたばかりの頃、前に住んでいた山あいの町――筑紫哲也の故郷である町――に拠点を置く同人誌の主幹から誘われ、同人となった。

 誘いを断るのは、ほぼ不可能だった。なぜなら、わたしが知る以前の段階で既にわたしの作品は印刷にまわされていたからだ。

 その作品はわたしが地方のK文学賞に応募した作品であり、地区選考の段階で落選してしまっていた作品だった。同人誌の主幹は欠員が生じたため急遽穴埋めの必要が生じた地区選考委員になられたばかりだったが、落選したわたしの作品にある魅力を覚えられ、また地元に根づいた伝統ある同人誌が高齢化するのを食い止める必要から、強引ともいえるこんなやり方で、誘いをかけてこられたというわけだった。

 この同人誌は発行ごとに文藝春秋の文芸雑誌「文學界」の同人雑誌評欄宛に送られ、そしてほぼそれごとに同人の誰かの作品が採りあげられるという実績を上げてきた。それだけに極めて同人誌的な安定したカラーというものがあった。わたしの作品にはしばしば常識外れなところがあり、作風は明らかに変人カラーといえる。

 誘われて同人誌に入ったものの、同人誌のカラーを意識せざるをえず、そのカラーが長い時間をかけてつくり出されたことを思えば思うほど、変な作品は提出できないという強迫観念に駆られる。一方では、わたしのカラーにしても、自分なりに時間をかけてつくり出してきたカラーなのだという自負がある。この二つの意識のあいだには、当然ながら葛藤があった。

 正直いって、わたしはもう商業雑誌、地方のなにがし主催、いずれの文学賞にも、そしてそれら文学賞に絡む利害と付かず離れずでありながらも冷や飯を食わされ続けてきた観のある、同人誌活動というものにもうんざりしていた。

 わたしは自分の作品が芸術的にも技術的にも未熟であることを自覚せざるをえないが、その未熟な作品以上に未熟といおうか稚拙といおうか俗っぽいといおうか壊れているといおうか、とにかくそういったおかしな、つまり現在のこの国の文学傾向に媚びるという点において徹底した作品が賞の栄冠に輝くのを見、賞に応募を続ける以上はそのような作品を目標とせざるをえないという、はらわたの腐るような思いを長年続けてきた。

 いずれも地方の賞ではあるが、入賞できれば文芸雑誌「文學界」に掲載されるK文学賞の中央選考に2度、O賞の最終選考に2度行けたときは選考委員の評を受ける栄光に浴することができたのだが、残念ながらあまり参考にも励ましにもならなかった。文学観が違いすぎるからで、技術的なことにしてもその文学観を母胎としているものだからだ。彼らの助言を受け容れるということは、彼らの作品に似てくるということなのだ。わたしは似たくなかった。

 わたしには彼らの助言が、かつて日本のピアノ界で勢力を張ったという一種誤った日本的奏法――中村紘子さんによって命名されたハイ・フィンガー奏法――に等しいものに思えてならないのだ。そこに真の芸術の歓びも信頼に足る技術もあるとは思えなかった。

 そんな不穏なことを思いながらもなぜ応募を繰り返してきたかといえば、純文学に関する限り、文芸雑誌を持つ大手出版社が投稿も持ち込みも禁止しているからだった(コネがある場合は話が別だろう)。貧乏人には自費出版は無理な話であり、その貧乏人が作家になりたいと思えば、賞への応募を続けるしかなかったのだ。

 不本意な応募を続けた結果、わたしは小説が書けないというスランプ状態に陥ってしまっていた。そんなところへ同人誌への加入、さらには親しくしてきたある編集者から地方の文学賞O賞応募への誘いを受けた。彼女が体を張って維持し続けてきたその賞が今回が最後となるか、別物となってしまうかもしれないからだという。

 彼女に励まされながら100枚の作品を書き上げた。賞を意識したため、作風は硬直気味であり、受賞も逃してしまったけれど、彼女に話を持ちかけられなければ生まれえなかったという点で、この作品は彼女とわたしの子供といえる。女性同志であっても、精神的、霊的な子供をつくることはできるのだ。

 そして、子供をつくった男女がしばしば離婚に至るように、わたしと彼女は音信不通となった。根本原因は、文学観の微妙な違い、物書きの卵と編集者という立場の違い、この世の生きにくさに対する対処法の違い……といった互いのあいだにある様々な違いの調整を図り合うことに、どちらも疲れたといったところだろうか。

 このある種記念碑的な作品を同人誌に提出し、掲載可となったことは嬉しい。活字になることで、この世に小さな場が与えられ、この子供はそこで生きることができるのだ。ハーボットのウッフやビーボンが、一ブログ「マダムNの覚書」の中で生きているように……。 

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2006年6月 8日 (木)

映画「ヒトラー最期の12日間」を観て―2005.10―(Ⅴ)

 過日、総務統計局から夫宛に、家計調査に協力してほしい旨の依頼状が届いた。昭和21年から行われている伝統的調査らしい。ところが国会で野党がこの統計を掲げて国民の家計が落ち込んでいることを示したとき、竹中大臣は、それは物の見方の一つにすぎないといった。

 この言葉は、小泉政権のブレーンの中心人物である彼が、政治家というよりは経済学者であることを思い出させる。

 国会での答弁が、小泉政権になってから、あまりにも観念的になってきているのだ。不良債権処理、予算削減、人員削減、税負担といったもう馴染みになってしまった言葉が何かしら流行語のようにも化学用語のようにも聴こえてしまう。

 生殺与奪の権さえ握ることのあるその言葉の裏側では、沢山の人々の悲鳴が起きているはずなのだが――

 私人としてのヒトラーは、優しい人物だった。人間らしい情感を失ってはいない彼が大量の人間を殺害できたのは、彼にはそれが観念上の処理にすぎず、直接に手を下したのが組織の末端の人間だったからだろう。〔〕 

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2006年6月 7日 (水)

映画「ヒトラー最期の12日間」を観て―2005.10―(Ⅳ)

 ヒトラーは、当時の先端科学の偏った信仰者で、純血をのぞみ、古代建築にあこがれ、絵に描いた餅のような第三帝国の夢を見た。一方、小泉首相のビジョンはどのようなものなのだろうか?

 彼が新自由主義と呼ばれる経済思想の持ち主であることは間違いないとしても、その思想を突きつめた先に、どのような未来像が見えるというのか。私にはさっぱり見えない。小泉政権になってから、日本は何て変わってしまったことだろう。犯罪が百花繚乱のさまを呈し、今や夜警国家的にならざるをえなくなってしまった。

 市場原理を重視して、政府機能を縮小し、大幅な緩和規制を行おうとする新自由主義はまずイギリスの首相サッチャー、アメリカの大統領レーガンによって実施され、日本では中曽根政権のもとでその路線が敷かれた。

 だが、新自由主義の元祖イギリスにおいてさえも、この思想の欠陥が明らかとなって、福祉型への切り替えが行われたのではなかったか?

 10月1日衆院の予算委員会における志位委員長によれば、小泉内閣の4年間で決定した庶民への増税は、年間約3兆5千億円になるという。それに対して、大企業・大資産家への減税は2兆2億円になるそうだ。

 小泉首相は国際競争力を口にし、IT立国を目指しているというのだが、このままいけば日本はアメリカに似るというよりは、インドに似てくるだろう。インドはIT関係に優れていることで有名で、一握りの富者と大勢の貧者がいることでも知られている。〔

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ハムスター列伝①クッキー~長老の風格があった☆その一

P1000010_1  クリスマスを数日後に控えた、ある冬の日のこと。夫と子供たちはペットショップへ出かけました。

 その頃、ゴールデンハムスターが人気を集めていて、子供たちは飼いたがっていたのです。わたしは嫌でした、ネズミを飼うなんて。

 子供の頃に家政婦さんから、彼女が寝ているときに足を齧られたという話を聞いて以来、ネズミは嫌でした。子供たちは「ネズミじゃないよ、ハムスターだよ」といいましたけれど。世話だって、そのうちわたしにまわってくるに決まっています。

 ペットショップにいつもハムスターがいるとは限らないと聞いていたので、そのことに望みを賭け、家で待っていました。寒い日でした。やがて3人が帰ってきました。

 あーあ、ハムスターが一緒に帰ってきた……とわたしはがっかりしました。娘と息子は興奮気味、夫は気の毒そうな顔をしてわたしを見、いいました。

「一匹だけ、いたんだよ。リンゴの側に、ムスッとした顔で。それでいいんですか、とペットショップのおばさんにいわれたんだけれど、せっかくだから買ってきたよ」

 わたしもムスッとして、ハムスターを見ました。わあネズミ……と思いながら。でも、ネズミのような長い撓うような尻尾は見えません。ネズミの体の中で一番苦手だったのが尻尾だったので、少し気が和らぎました。

 ところが次の瞬間、触ろうとした息子の指をハムスターが咬んだのです。したたかな咬みかたで、息子がハムスターを手から振り落とそうとしても、咬みついたままです。血がポタポタと落ちました。

 何てケダモノが来てしまったんだろう、と思いました。今思えばハムスターは恐怖で死に物狂いだったに違いありません。どのハムスターも、ペットショップからうちに連れ帰ったばかりのときには鳴きました。

 鳴くのは、そのときぐらいでした。チューチューというのは、聴いたことがありません。鳴き声はそれぞれ違いました。蝉みたいにジーというのもあれば、ゲゲッというのもありました。そして、うちにやって来た初代のハムスターは、鳴く代わりに咬みついたのでした。

 そのうち、床を歩き始めたハムスターから、コトコトという音が聴こえてきました。夫が確かめてみると、右脚が途中からありませんでした。毛の中から白い丸い骨の先が見えます。

 それが先天的なものか後天的なものかはわかりませんでした。が少なくとも、つい最近脚を齧りとられたようには見えませんでした。歩くのにも不自由はなさそうでした。

「あー、だからペットショップのおばさん、それでいいんですか、っていったんだ。片脚がなかったんだな、こいつには」「とり替えてきて! いいえ、返してきてよ!」「そんなことできないよ、今更」

 そう、夫がいうように、返品するというわけにはいかないことはわかっていました。生き物を、いらないからといって返せるわけがありません。〔続〕

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2006年6月 6日 (火)

映画「ヒトラー最期の12日間」を観て―2005.10―(Ⅲ)

 また、私に映画がなまなましく感じられた理由の一つに、映画鑑賞から遡ること一月前の9月11日にわが国で行われた第44回総選挙のことがあった。

 小泉首相は、参院での郵政法案の否決を認めず、強引に衆院解散・総選挙にもっていった上、内容の極めて不安なその法案に反対した議員に、メディアが「刺客」と呼ぶ対立候補を立てて再選を阻もうとまでした。

 そして大衆は、民主主義から明らかに逸脱した奇怪としかいいようがないこの選挙劇「小泉劇場」を面白がり、喝采を送った。ワイドショーで小泉首相をセクシーといったコメンテーターがいたが、彼はヒトラーが女性たちにセクシーといわれていたことを知っていただろうか。この類似性は私をぞっとさせた。

 勿論セクシーだとかそうでないとかが問題なのではなく、政治家であるにも拘らず、理性に訴えかけるより生理に訴えかけ、あたかも芸能人であるかのように大衆の目に映るという異様さが問題なのだ。

 このことは、彼が大衆に人気を博していればいるほど、ある不安を感じさせる。

 だが今や小泉政権は独裁体制に近い。郵政民営化法案もあっさりと成立した。国会で、日本政府がこの法案をめぐってアメリカ政府筋と週に一度の会合を重ねていると野党が追及していたことがあったが、首相はこの件をうやむやにした。

 野党はそれまでにも、郵政法案へのアメリカ政府の過剰な関与を指摘していたのだった。日本の法案にアメリカが何の用があるのかと、質問した議員は怒りをあらわしていた。

 あるニュース番組では、民営化法案が成立した夜になって、郵政民営化の成功例として日本政府が挙げてきたドイツポストの実態を現地取材して報道した。郵便料金は値上がりし、リストラによる職員不足でサービスは低下、ネットワークに寸断の兆しが見えるという。

 なぜ選挙前に、このような報道が丁寧になされなかったのかと疑問がわく。郵政民営化に反対して罪人さながら自民党を追われ、国民新党を立ち上げた綿貫代表のホームページでは、民営化した海外の国々の現状とアメリカ側からの要求が詳細に報告されていたのだが――

 わが国の大衆は、正しい情報をもたらしてくれる人物に石を投げて厄介払いしようとし、嘲笑さえするのだ。〔

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2006年6月 5日 (月)

映画「ヒトラー最期の12日間」を観て―2005.10―(Ⅱ)

 衝撃的だったのは、当時のドイツ人と現代日本人があまりに似て見えたことだった。戦後日本人が如何に欧米化されたかが、よくわかる。生活習慣、食べ物、衣服、物の考え方。

 ナチズム狂いの筆頭に挙げられてもおかしくないゲッベルス夫人のような人物さえもが、現代日本人と変わらないか、もっと洗練された教養と日常感覚という基本があって、その上にナチズムというラディカルな思想がいささか分厚く載っている感じがあるのだ。

 ヒトラーは現代日本人のどの男性も未だ到達していないほどに紳士的で、フェミニストであって、身近な人々には最期のときまで濃やかな心遣いを示す。彼の中では、独裁と徹底した個人主義・民主主義・教養主義といったものが奇妙な混淆を見せている。

 ナチスの時代を歴史的に検証できる立場にいる現在のわれわれからすれば、ヒトラーという人物が思想的には当然、日常的にも相当に異常で低レベルであったとみなせるほうが都合がよい。特殊な例に分類でき、あまり自分のこととして考えずにすむからだ。

 しかしながら事実はおそらく、そうではなかったのだろう。

 なぜなら映画は、2冊の著書をもとにして製作されている。一冊は、映画と同名の歴史ドキュメンタリーだ。著者は1926年にベルリンに生まれた歴史家・ジャーナリストのヨアヒム・フェスト。もう一冊は、ヒトラーの個人秘書として地下要塞で過ごし、2002年まで生き延びたトラウデル・ユンゲが自らの体験を終戦直後に書きとめておいた手記だ。

 邦訳されている2冊を購入し、目を通したところでは、映画はこれらを忠実に再現しているように思えた。〔

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2006年6月 4日 (日)

映画「ヒトラー最期の12日間」を観て―2005.10―(Ⅰ)

 ヒトラーが君臨する第三帝国が崩壊するまでの日々をドイツ人の手で描いた映画「ヒトラー最期の12日間」を観た。原題はDer Untergangで、滅亡、破滅、陥落、没落といった意味があるという。

 155分という長い時間が、ものの30分くらいにしか感じられなかった。その間集中が全く途切れることがなく、それなのに少しの疲れも覚えなかった。不思議だった。製作者の高潔な霊気に抱擁されていたからだろうか?

 映画を観ている間、まるで自分が映画の舞台となった「狼の巣」と呼ばれる地下要塞にいるような心地がしていた。登場人物――主要人物から名もないベルリン市民に至るまで――が鋭く、また丁寧に描かれていて、ひとりひとりが人間らしい自然な厚みを感じさせた。

 第二次大戦後、ナチスをテーマにした映画はドイツ以外の国々でさまざま製作され、ナチズムを倒錯的愛欲的側面から描いたリリアーナ・カブァーニ監督「愛の嵐」のごとき映画まで製作されるに及んだ。

 表現は自由であるべきなのだろうし、ナチズムの実態がどうであったかは計りしれない部分があるにしても(カヴァーニ監督は映画製作に当たり、ナチスの被害者の女性たちを取材したという)、「ヒトラー最期の12日間」の脚本・製作を手がけたベルント・アイヒンガーが「私はドイツ語を使い、ドイツ人俳優とドイツ人監督でこの映画を撮影したかった」というこのような映画を観た後では、それまでの映画が何か不謹慎であったかのように感じられてしまう。〔〕 

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2006年6月 3日 (土)

自作俳句「子供たち」

窓麗(うら)らランチの子らの皿ひかる

道草の少女うららか頬澄めり

勝鬨(かちどき)の面の艶なる武者人形

大粒の瞳(め)でソフト食ぶ子供の日

鯉のぼり挑むがごとく泳ぎをり

神経の細さ似る子よ夏帽子

梅雨冷や迎への子らの頬白く

爪噛んで夜店の玩具見つむる子

叱られ児飯の豌豆(えんどう)ほじりけり

そばかすがキツスを待つや麦藁帽

通信簿閉じて眉寄せ団扇(うちわ)とす

通信簿閉じてまばゆい夏斜面(なぞへ)

朝顔のいろ報せ合ふ四人の子

汗ぐめる頭(つむ)寄せ合つて子の世界

白昼をこもつて遊びぬゼリーすずし

スプーン立てクスクス笑ひや子の素足

婚家(か)の香沁みし夏着やグリム読む

木のぼりの娘(こ)落ちて泣いて夏は果つ

ゆで卵おほきく食べぬ日焼けの子

休暇果て胸そらし刺す名札かな

赤子背に泣く子と踏みし秋道よ

満月に子の肌寄せて道歩き

風邪の子に蜜柑を焼きし夜寒かな

きのふ石けふ団栗(どんぐり)や子のポケット

(ぬか)の髪あまく馨る娘(こ)赤のまま

息子の手小さかりけり赤のまま

この世にて抱く間も惜しみ赤のまま

いそしんで何故か哀しや赤のまま

炊き出しの意気極まらば山車(だし)近し

神輿待ち野宴なれば土匂ひ

一念にもがいて駆くる運動会

こゑの中ほろと転んで運動会

あの靴が少し重きか運動会

吹き鳴らす笛師の胸に運動会

風吹くや薄日に了る運動会

運動会家路を辿る埃(ほこり)の子

                                        

 下手な俳句の公開、第2弾です。ここでは昔作ったものの中から子供を題材としたものを選んでみました。ここにうたったうちの子たちもよく遊びにきた近所の子2人も、今は全員成人しています。

 こちらへもどうぞ:自作俳句「百合の花」、自作俳句「夏の思ひ出」、自作俳句「熟るる歓び」。

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2006年6月 2日 (金)

整形外科受診 - 左の肩関節周囲炎(五十肩)

 昨日6月1日は、大変な一日となった。というとオーバーになるが、軽い気持ちで日赤に出かけたわたしにとっては、宿題を出された子供にも似た一日となった。痛い一日ともなった。

 結論からいえば、左肩の不調は夫が推測したように「五十肩」だった。正式には「肩関節周囲炎」というらしい。自然に治ることもあるようだが、わたしの場合は治療が必要なようだ。

 ところで、整形外科の待合室で順番が来るのを待っていると、後ろに座った女性2人が深刻な会話をしていた。

「もう死にちぇーわ。もう死んだがええ思うとる」これは大分弁なのだろうか?  わたしはまだよく大分弁がわからない。死にたいと言ったのは見るからに高齢の、弱った女性だ。頭髪は部分的な黒色を残して、真っ白だ。鳥の羽にありそうな白色の髪。

 死にたいという言葉は重く鋭く響き、淀んだ待合室の空気を震わせた。すると、付き添いの貫禄のある中年女性はそれに対してゆったりと応じた。「人間は死にたいときに死ねるというわけじゃねーわ。まだ生きてーのに死ぬ人もあるわな」

 その言葉は生真面目で、やはり重く響いた。天の戒めのようにも、世間話のようにも聴こえた。それに対しては、高齢の女性はしばらく黙っていた。そして、「あのな、夕飯の買い物……」と、流れるように日常的な会話に入った。

 2人の女性はおそらく、日常的にこのような会話を繰り返してきたのだろうとわたしは思った。深刻であると同時にのどかさを感じさせられる、不思議な会話だった。深い信頼関係があるのでなければ、このような会話は交わせるものではない。この調子で2人の女性は長い風雪に耐えてきたのだろう。

 このあと「五十肩」といわれてみると、わたしは自分がもうどう考えても若さを失いつつあることを意識せざるをえず、2人の女性の会話がこれからの自分の後半生のプロローグであるような気さえしてくる。耐久レースのような後半生の予感。考えただけで尻込みしたくなるのだが、人生に燻し銀のような味わいをもたらすのは、このような耐久レースの体験だけだろうと想わされもする。

 「五十肩」を侮ってはいけないようだ。わたしの左肩はかたまりつつあり、放置しておけばそのままかたまって、服の脱ぎ着さえ自分ではできなくなるだろうとのこと。一口に「五十肩」といっても原因は様々で、病態も多彩であるようだ。

 リハビリのメニューが示され、家でトイレに行くごとにそれを行うよう言われた。検査だけでも痛くて涙が出たのに、リハビリの練習も痛かった。いつのまにここまで左腕が動かせなくなっていたのかと、愕然とした。

 まだ痛みが強いので、このメニューを6週間家で繰り返し、そして診察を受け、それで回復の兆しが見えれば本格的なリハビリを行うことになるそうだ。うまくいけば2ケ月半で機能が回復するという。が、長引くことも多いらしく、場合によっては手術をすることもあるようだ。

 問題は、痛みと炎症を抑える薬の服用だ。喘息によくないらしく、軽いもので試すことになった。本当は1日に3回飲んだほうがいいそうだが、喘息が出た場合を考え、担当の医師が病院にいる時間帯に合わせて2回飲むことになった。変ったことがあればすぐに連絡するようにとのこと。

 慰めは、レントゲン写真やリハビリ指導も含めた診察費が1,420円と安かったことだ。消化器科にかかったことがあり(忘れていたがこれも一応経過観察中だった)、再診だったとはいえ、安い。痛みや炎症を抑える薬と胃薬7日分、湿布薬48枚で1,050円と薬代も安かった。治療が長引く可能性を考えると、診察費も薬代も馬鹿にならない。湿布薬が無臭なのも嬉しい。

 病院で酷使(?)した左肩が疼き、気も重くて、家に帰りついたとたん、どっと寝込んでしまった。でも、今日から、真剣にリハビリに取り組もうと思っている。左腕がこのまま動かせなくなったりしたら大変だから。パソコンを打つのにいい角度も教えて貰ったので、パソコン台に合わせて椅子の高さを調節したら、ぐんと楽になった。本日のメインの記事の更新も大丈夫なはず……。

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